へブル書12:1020         2014.10.26

 

 

 

12:10なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

 

 

 

肉の父の訓練は、父親は良かれと思って訓練しているのだけども、しかし、人間なので、必ずしも正しい訓練をしているとは思えない。

 

霊の父による訓練には間違いは無い。

 

我々が、聖さに与るために訓練する。

 

我々が、聖くない道、罪の道に入って行く時、天の父すなわち霊の父から、色々と厳しい懲らしめが来る。  霊の父は必要な鞭を加えられる。

 

ポイントは、我々がそれに気づかないという事。色々訓練は来ている。

 

人を通して来たり、仕事上のトラブルが来たりする。

 

一人びとりが神の子ならば、例外なく、聖くならせるため、我々が反対の道を歩んでいる時に、

 

厳しい鞭が来る。これは原則。

 

我々が、それに気づいていない事が多いので、気づくようにしていきたい。

 

 

 

12:11すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 

 

 

誰であっても、懲らしめは嬉しくはない。かえって悲しく思われる。

 

いやな目に遭わないと懲らしめにならない。

 

懲らしめを受けた時に、これによって訓練された人々は、平安の実を結ぶ。

 

しかし、何度懲らしめを受けても、訓練しない人がいる。歩みを糺そうとしない。

 

そのように、頑なにならずに、訓練をして行くならば、主によって、歩みを糺したり、方向を転換される。  これが非常に大事。その時に、義の平安を結ばせる。

 

訓練するか、しないかで、我々のクリスチャン生活は全然違って来る。

 

神が鞭打ちを加えた事を理解し、歩んでいる方向が正しくない事を理解し、方向を変えるといったことを心がけて行った時に、歩みは大いに進歩し、義の実を結ばせるようになる。

 

しかし、鞭打たれても、歩みを変えようとしなければ、何の進歩もない。

 

これによって訓練するかしないかで、大きな違いが出て来る。

 

何か問題があった時に、人間しか見えないといったタイプの人がいる。

 

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」

 

苦しくいやな事というのは、場合によってはサタンが仕掛けて来るが、全ての事の背後に神がおられて、神が懲らしめとして、そういうところを通している可能性がある。

 

懲らしめというのは、子供の身にしみないと、懲らしめにならない。

 

厳しい事というのは、神の懲らしめから来ている事がある。

 

我々は、悟りの無い動物のような歩みをして行ってはならない。

 

人間として神の子として、悟りがあり、主の御言葉を正しく聞ける者として歩むべき。

 

クリスチャンが、間違った方向を糺そうとしない時には、同じ懲らしめが何度も来る。

 

 

 

12:12ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。

 

12:13また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。

 

 

 

まっすぐな道を歩む。

 

まっすぐな道を作るという事にポイントがある。

 

「道」というのは大事。 聖書の中には度々「道」という言葉が出て来る。

 

イエス様も「私は道である」と言われた。

 

キリスト教会の大きな問題というのは、道がまがっていたり、真理に至るまっすぐな道でなかったりなどの問題が出て来る。

 

道がまっすぐでないときに、我々が真理に至るまっすぐな道にないときに、いくら一生懸命歩んでいても、入るべき所に入れない。  曲がった道だったりする時に、そこから落ちてしまう事がある。

 

我々クリスチャンも、まっすぐな道を歩んで、用意していく事が大事。

 

今のキリスト教会の問題点は、クリスチャンの目の前に用意されている道が、全然違う曲がった道だという事。    艱難前携挙説など。

 

我々がどんなに一生懸命走っていても、違った道だと入るべき所に入れない。

 

今は、残念ながら、クリスチャンが、みんな一緒に歩んでいるが、その先には、真の意味での、

 

これから受ける艱難時代を正しく通過するという道は、備えられておらず、逆にインチキな道が備えられている。

 

「艱難の前に皆挙げられる、クリスチャンは何の備えもしなくていい」というインチキな道が備えられているので、その道を通って行ったならば、糺さなければならない。

 

幸いレムナントでは、真理を教えられている。

 

艱難時代は明らかに来るので、その為の備えていこうとしている。

 

これは、まっすぐな正しい道。  まっすぐな道を備えるというのは非常に大事。

 

只々クリスチャン生活を送り、毎週礼拝に行っていれば、それだけでよいというわけではない。

 

正しい道を備えるかによって、我々が入るべき所が違う。

 

「備えよ」と書いてあるから、各自(我々一人びとり)がする事。

 

今のクリスチャンは、他の手紙に書いてある通りに、自分のために、耳触りのいい話を聞くために、教師たちを呼び集める。気楽な、曲がった、聖書から、真理から外れているような、気楽な道を自分のために用意している。  それは滅びに至る広い道。

 

正しいまっすぐな道を用意していく。  真理の道を歩んで行く。

 

レムナントは、みんなが喜んで来る教会ではない。

 

自分でそれを選び、歩んで行くという事は、まさにまっすぐな道を自分のために用意するという事。これは尊い事。入るべき所に入って行く。

 

 

 

12:14すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

 

 

 

「すべての人との平和を追い求め、」とはどのような事か、なるべくみんなとケンカしないという事。

 

この世で暮らしていれば、いろんな事が起きる。

 

証のため、クリスチャンとして、平和を求めて行く。

 

「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

 

聖いとは、分離とか、他と違うという意味。

 

何と分離するかというと、罪や、汚れや、神が嫌われるようなことから離れていくということ。

 

クリスチャン生活であるべき事は、サタンが我々を誘うかもしれないが、罪から離れていく事を追い求めて行くのが正しい。

 

クリスチャン生活をすればするほど、罪に入り込んでいくのは、全く聖い事を全く求めていない。聖い事を求めて行かないときに、「聖くなければ、誰も主を見る事が出来ない」と書いてある通り、主を見る事が出来ない。また、神の語っている事を正しく理解することが出来ない。

 

逆に、惑わしや、インチキや、滅びの方に引っ張られて行く可能性がある。

 

聖さを求め、罪から離れて行くというのが、非常に大事だという事。

 

「心の聖い人は幸いです。その人は神を見るからです。」

 

神を見るとはどういう事か、

 

 

 

ヨハネ

 

9:24そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

 

9:25彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

 

9:26そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたのか。どのようにしてその目をあけたのか。」

 

9:27彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」

 

9:28彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。

 

9:29私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

 

 

 

ここは、盲人が見えるようになった箇所。

 

これは、まさに、聖くなって神を見る人と、そうでなく神を見ない人の違いについて書いてある箇所だと理解する。

 

具体的に言うならば、神のひとり子であるイエス・キリスト。 キリストは神のかたち。

 

キリストをキリストであると理解し、見る事が出来るというのは、その人自身が聖くなって神を見た、という事に通じる。

 

パリサイ人たちは、知識はあったが見ていない。 ナザレのイエスを通して、神が現われたという事を見ていない。  彼らは知識はあったが、それが仇になって、キリストをキリストと見ていない。逆に、異端者、罪人である、などと見ていた。

 

ここで2種類の人々を見る。

 

ある人は神を見、ある人は神を見ていない。

 

この違いはここだけ見ても分からない。 しかし、へブル書にある通り、聖くなければ、神を見ることは出来ない。ここに区分がある。

 

神の御前に罪があったり、隠れた罪があったりする人たちの方が、ずっと宗教者であったり、けんいがあったり、人を教えていたりする。そういった人たちは、見ていない。

 

 

 

ヨハネ

 

9:39そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。

 

 

 

見えない人が、生まれつき盲目の人が、イエス・キリストを見た。

 

「心のきよい者は幸いです」

 

また、「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」

 

生まれつき盲目だった人は、目は確かに盲目であったのだけれども、心は聖かった。だから、

 

ナザレのイエスを確かに救い主だと理解して、イエスを知り、イエスに従って行った。

 

逆に、世の中の人達には、聖書の専門家であると言われ、教師であり、自分たちも自負していたパリサイ人は、神ご自身であるイエス・キリストを見る事は出来なかった。

 

何故かというと、「心の聖い人は幸いです。その人は神を見るからです。」

 

つまり、パリサイ人らは、心が聖くなかった。

 

隠れた罪が、彼らの目を曇らせたという事。

 

 

 

ヨハネ

 

9:39そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

 

                                

 

こういう区分を主はなされた。

 

知識的な専門家ほど、この区分にひっかかる。

 

それは、その人の、真の状態が現われるため。

 

その人が、形だけは聖書を知っていたり、形だけは、宗教家であるけれども、その真の心は、罪の中に入っていて、聖くなかった。

 

神から離れた歩みをしている人々は、神を見ることが出来ない。 イエス・キリストを正しく見る事が出来ずに、さばきに入るため、イエス・キリストはそのような形で来られた。

 

イエス・キリストはある意味、どんでん返しとかひっかけ問題。

 

人間的な常識を持ってするなら、みんなひっくり返される。

 

これが、神の方法。

 

「わたしはさばきのためにこの世に来ました。」というのが、まさにそう。

 

今の時代も同じ。

 

かつてイエス・キリストの時も、ひっかけ問題、聖書の常識を知っている人をひっくり返すような方法で来られたが、再臨の近い今も、やはり同じようなパターンが来る。

 

さばきのために、主は、今の世の終わりのキリスト教会に来られる。

 

そこで、形だけクリスチャンとしての歩みをしている人はみんな引っかかる。

 

その人の、真の歩みが、必ず露わになるという方法で、主は来られる。

 

イエス様の初降臨の時もそうだったが、再臨の時も同じ。

 

我々も、自分の経験を通して、うすうす感じている事。

 

レムナントの歩みを通して、終末に関して、神は、実は、とんでもない多くのクリスチャンの常識をひっくり返すような教理を教えられている。

 

レムナントは、それを啓示として受けているけれども、残念ながらすべてのクリスチャンがこれを受け入れるわけではない。

 

ニュースレターを毎月送っているけれども、ある人達は、「バカにするな」とか、冗談半分に受け取って、怒って送り返して来る人もいるし、「二度と送るな」という人もいる。

 

しかし、共感する人もいる。

 

これは何かというと、御言葉によるならば、結局その人が、神を見るか、ということ。

 

神の業、神の教えというのは、裁きのために来る。

 

なので、皆が皆、正しく理解するという形ではない。

 

区分は、形がどうあっても、神の前に聖くない歩みだったり、この世の汚れとか、罪に、くっついているような歩みである時に、真理を見る事が出来ない。

 

逆に、この世から認められようと、そうでなかろうとも、神の前に正しく歩めば、生まれつきの盲目な人がイエス・キリストを知る事が出来たように、今の時代にも、真理を知る事が出来る。  その人の心の状態が反映してくる。神を見るというのは、こういう形で神を見る。

 

イエス・キリストを、神として理解できるかどうかは、結局その人の歩みにかかっている。

 

 

 

へブル書

 

12:15そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、

 

12:16また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。

 

 

 

よく監督して、神の恵みから落ちる人、苦い根を出す人が教会に来たりするのは良くない。

 

不品行 = ギリシャ語で、ポルノ。  人間にはいろんな欲望があるが、これは、聖書的な見解を持たなければならない。

 

不品行な者は、エサウのような者。 御国を継がないパターン。

 

エサウは、ヤコブの兄。  ヤコブは、後のイスラエルであり、神に選ばれた部族であり、やがて天の御国に入って行く。エサウは、本来は、生まれつき、長子の特権とか、父親のイサクのあらゆる財産だとか、長子の特権をもらえる位置にいた。彼は、長子の特権を売り、これは事実になった。 これは一つの喩えであり、パターンであり、未来に関しての預言。

 

長子の特権は、生まれつきの権利。それは、我々クリスチャンが新生した時に、誰でも持っている権利。天の御国を受け継ぐ権利。御国を受け継ぐ。入るべき所に入って行く。神の財産を受け継ぐという権利。

 

長子の権利を、エサウは一杯の食物と引き換えに売り払ったが、ポイントは、このような人が、後の日に出て来る。これは、クリスチャンに関しての警告。新生した時に、天の御国に入るとか、天の父の財産を受け継ぐという権利。これからエサウのようなクリスチャンが出て来るということ。一つは、不品行 = ポルノ。 もう一つはこの世についている者。

 

一杯の食物。 食物は、パンとか水に関係してくる。すなわち教理とか、霊的な事柄。

 

そういう教理が、キリスト教会に出て来る。  具体的に言うと、昨日までは、「イエス・キリスト以外に救いは無いと信じていたけれども、そんな排他的な教理はやめて、他の宗教(仏教など)でも救われる。マザーテレサがよい例である。ヒンズー教徒でもそのままで救われる、そういう教理にしましょう。」などという教えが、ここでいう一杯の食物。

 

こんなものを受け入れた時に、エサウのようになる。

 

それと引き換えに、生まれつきの権利を失ってしまう。

 

今はまだ、エサウが食べたような、一杯の食物は、はっきりした形ではまだ出ていないかもしれないが、よくよく注意すべき。それらしい兆候は出て来ている。カトリックなどは特に顕著。

 

これから、もっと出て来る。しかし、我々がそれを掴んで受けてしまうか、そういう教理、パンを食べてしまうか、そういう教理を受けるか受けないかで、結局、クリスチャンとしての生まれつきの権利を全て根こそぎ奪われてしまう。よくよく覚えておくべき。

 

 

 

12:17あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

 

 

 

こういう事が我々に書いてあるという事は、こういうクリスチャンが、必ず出るという事。

 

他人事と思わない事。

 

涙を流して求めても、天の御国を相続できないクリスチャンが、必ず出て来るという事。

 

 

 

12:18あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、

 

12:19ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。

 

12:20彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない。」というその命令に耐えることができなかったのです。

 

 

 

そういう山に近づいているわけではない。