へブル書13:11~25         2014.11.16

 

13:11動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。

 

体のいらない部分は、宿営の外で焼かれる。

 

出エジプト記

29:14ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。

 

牛など、捧げられる動物に関連して、脂肪等は祭壇の上で焼かれるが、それ以外の部分は、

すなわち肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。

宿営の外という言葉がポイント。

旧約聖書に書いてある、動物の捧げもの、雄牛の捧げものは、本当の成就というのは、イエス・キリストが、我々のために、贖いとしてご自分の身体を捧げられた。

皮だとか、肉の部分は、みんな宿営の外へ出されてしまっている。

しかし、これに関しても、喩えであり、意味合いがある。

それは、同じように、イエス・キリストも同じように、都の外で苦しみを受けた。

イエス・キリストの十字架は、都の外。

これがまさに、動物の肉や皮が、宿営の外で焼かれたという部分の喩え。

 

へブル書

13:12ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

 

まさにその事を語っている。  カルバリの十字架とは都の外。

キリストは、ご自分の血をささげて、それをもって都の人達を聖なる者としたが、あろうことか、ご自分の身体は、外で苦しみを受けた。

良い事をしたのだけれど、その報いとして、苦しみを受けてしまう。

これが真の奉仕者だと聖書は言っている。

なので、13節にはこう書いてある。

 

13:13ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 

外で、エルサレムの都の外のカルバリで、キリストが十字架にかかった。

言わんとしている事は、外は、人間的な言い方だと、仲間外れ。

イエス・キリストはそのような目に遭った。

しかし、この事は奨励されている。

ここで言っている事の結論は、イエス・キリストに本当に従って行く時には、我々もキリストと似た運命になる。  一生懸命奉仕をして、民のためになると思ってやっていても、結果として受けるのは、皆から仲間外れにされたり、門の外に追い出されてしまう。

受けるのは辱めであって、誉れではない。

我々は、聖書の常識を持たなければならない。

今読んでいるところが、大体聖書の常識と思うべき。

そうでないと、躓いてしまう。

イエス様は、辱めを受けた。私たちも例外ではない。

我々が、普通に、本当に、聖書的な標準でキリストに従って行く時には、こうなるという事を頭に入れておくべき。   ある意味、仲間外れは聖書的。

ただし、悪い事をして仲間外れにされるのは別。

そういう意味合いでは、イエス・キリストの歩みというのは、キリストのみの例外的な歩みだと思ってはいけない。

聖書にあるように、信仰の導き手であり、完成者であるイエス様を仰ぎ見なさいということは、

イエス・キリストは模範という事。

 

13:14私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

 

「永遠の都を持っているのではなく」と書いてある。

この言葉のギリシャ語のニュアンスは、「とどまらない都」

言わんとしている事は、猫とか犬とかが、目の前にいたと思ったら、もう向こうの方へ歩いて行ってた、そういう意味合いで、留まらないという事。

ずっと、永遠に存在してとどまらないというものではなく、ひょこひょこと動いてしまう。

これは、イエス・キリストがエルサレムの都で十字架にかけられたという事。

エルサレムの都というのは、ある意味、とどまらない都。

変質してしまう、とか、神の教えに留まらないというニュアンス。

そういう意味合いでは、イエス・キリストが十字架につけられたその問題点は、キリストは変わらないが、エルサレムの方がどんどん変質してしまったために、彼らはイエス・キリストを受け入れられなかったという事。

これは型である。

都は、今のエルサレムは、教会をさす。  なので、この事は繰り返す。

都である教会も、どんどん変質していくという事が、聖書の教え。

 

黙示録

21:1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 

天と地は、教会の喩え。 何故なら、イスラエルはアブラハムの子孫であり、アブラハムの子孫というのは、天の星、地の砂と言われている。 星が住むのは天。アブラハムの子孫であるクリスチャンが住む所は、天、すなわち教会。地も教会をさす。しかし、「天地は過ぎ去る」と書いてあるように、どんどん動いて、変質して行ってしまうという事。

 

黙示録

6:14天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島が、その場所から移された。

 

「すべての山や島が、その場所から移された。」・・これも教会を喩えている。

山や島は、動かない者として書かれている。

言わんとしている事は、動くはずの無い山とか島が動くというのは、動くはずの無い教会が動くという事。

実際、教会は変わっている。

そして、世の中も変わって行く。

このように聖書に書いてあるので、そういう時は必ず来る。

「あなたがたは私の名のゆえにすべての人から憎まれる」という時が来る。

なぜ、イエス・キリストを信じただけで憎まれるようになるのか。

御霊が語っておられるのは、今の時代のトレンド。背教がずっと進んでる中で、これからどんどんキリスト教会がひっくり返されるような、地震、揺り動かしが許されるという事。

今までは、キリスト教の根本部分が揺り動かされることは無かったが、その根本的な部分が揺り動かされている。

宮の根本的な部分、礎の部分である、土台石である、使徒、預言者、パウロの教え。「キリスト以外に救いは無い」という教えもひっくり返されるし、隅の親石であるイエス・キリストまでも取り除かれてしまう。

「キリストには妻子がいた」などというニュースは、その兆し。

小さなニュースだが、それで世の中は動かされて行く。

本当の意味でキリストを信じていない人達は、世の中が変わって行けば、どんどん変わって行く。  聖書を純粋に信じていない人が結構多い。

世の終わりというのは、それがより分けの時。

黙示録に書いてあるように、全ての人が試みられる時。

イエス・キリストの名自体が、忌み嫌われるような時代が来る。

それと関連して、我々は、都の外へ追い出される。

つまり、教会の外に追い出される。

教会が変質するので、正しい人々は、都の外に追い出されたり、恥を受けたりする。

 

へブル書

13:15ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

 

だから、賛美は、推奨される。

 

13:16善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。

 

持ち物を人に分けたり、善を行なう事。

「善」とは何か。  1タラントや1ミナの喩えで、善という言葉が出て来る。

 

マタイ

25:21その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 

「良い忠実なしもべだ。」・・ここが「善」という言葉。

日本語の聖書だけ読んでいると全然分からない。

こういう類の喩えの中に「良い」という言葉がよく出て来る。

ここで言われている事は、「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」  我々の人生というのは、持ち物は少ない。人間は、人生も短い。

御使いは永い。

人間は、出来る事も限られている。寿命もしかり。

しかし、忠実に行っていく時に、それは増える。 主はそれを喜んで下さる。

「たくさんの物を任せよう。」

今の小さな働き、出来る事はわずかかも知れないが、誰でも一タラントは与えられている。

こういう事に、我々は力を尽くしていきたい。

具体的にはレムナントは未信者向けの月刊バイブルを出しているが、これも忠実にやって行くならどこかで実を結ぶ。

書くべき内容も、主から教えられる。

神の前の「善」を行なっていきたい。

 

へブル書

13:17あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。

 

教会には指導者がいる。

信者の中には、全然いう事を聞かない信者もいる。それは良くない。

教会の中で、ある人に、問題がありそうなとき、危ない時は、言うのが見張り役。

そういう時に、素直に言う事を聞くことが一人一人の益となる。

 

13:18私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。

 

ここでは、「正しい良心」という事が書いてある。

正しい良心と、正しい行動は、密接に関係している。

良心という言葉は、日本語では「良い心」だが、「良心」の原語の意味合いとしては、「見る」とか「知る」という意味合いがある。

我々は、正しい行動をする時に、まず、正しく見なければならない。

また、正しく理解しなければならない。そうでないと次の行動を間違えてしまう。

見る事とか理解することにおいて、目が濁っていたり、目に問題があったりする時に、全然間違えた行動をしてしまう事がある。

「良心」 見るとか、知るとか、こういう器官が間違える時に、次の行動を本人が正しいと思っても、間違えてしまう。

律法学者、パリサイ人。彼らは自分が正しいと思っていたけれども、彼らの良心が間違っていた。

逆に生まれつきの盲人は肉の目は見えなかったが、霊の目は見えていた。

彼の良心は正しかった。だからこそ、イエス様を「この方こそ、神からの人だ」と判断できた。

しかし、律法学者、パリサイ人は、形はどうあっても、良心に問題があった。

その為に、目の前で、肉の目は開いていたが、霊において、目の前にいるイエス様を救い主かどうか分からなかった。逆に全く勘違いして、罪人だと理解してしまった。

これは、良心の問題。  彼らは、一生懸命行動したが、全く間違えた行動をした。

キリストを捕まえて殺してしまおうとするなど、全く勘違いな行動をした。

問題は、良心にある。

そういう意味合いでは、我々は、良心を正しく保つことは非常に大事。

律法学者、パリサイ人の問題は、良心が曇る、結局、罪があるという事。

主は彼らをさして、「白く塗られた墓、外側はきれいでも、内側はあらゆる汚れたものに満ちている」と言われた。

我々がどれ程人前で化粧をしても、内側に問題がある時に、良心に問題が出て来て、良心が狂ってしまう。

その為に、あらゆる信仰的な行い、判断、奉仕、みんな狂っていく。

多くのクリスチャンは間違えている。

この世の学校や仕事のことと、神の奉仕を似たようなレベルだと思っている。

この世の学校や仕事は心の中に罪があっても無くてもだいたい出来る。

良心に問題がある時に、霊的な事柄に関してはそうはいかない。

この事は、正しくとらえて行かなければならない。

その為に、多くのクリスチャンは、一生懸命やるが、頓珍漢な奉仕な奉仕に入ってしまったりすることがある。

 

13:19また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。

13:20永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、

13:21イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

13:22兄弟たち。このような勧めのことばを受けてください。私はただ手短に書きました。

13:23私たちの兄弟テモテが釈放されたことをお知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼といっしょにあなたがたに会えるでしょう。

13:24すべてのあなたがたの指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく言ってください。イタリヤから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13:25恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。