へブル1章8~14                      2014.4.13

 

 

 

1:8御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。

 

 

 

御子イエス・キリストに関して。 一つは神と言われていること。

 

また、御名は、世々限りないという事。

 

もう一つは、あなたの御国の杖こそまっすぐな杖という事。

 

聖書の色々な言葉には喩えが使われている。

 

主イエス・キリストご自身も、喩えの理解という事をはっきりと弟子達にすすめている。

 

逆に喩えを理解できないと怒られたりする。「この喩えを理解出来ないのか」

 

 

 

「杖」というものに関しては度々聖書の中に出てくる。

 

モーセが紅海の水を割る時も杖を用いた。

 

杖は、喩えの理解としては、人の歩みを助ける物として、「教師」を喩えているのではないか。

 

杖はまっすぐな物もあるが、曲がった杖という物がある。

 

杖すなわち教師が曲がっている時に、我々は、曲がった結論に入って行く。

 

教師がどうかという事は、非常に大事な事。

 

かつて、律法学者やパリサイ人達に、主イエス様は、「自分も天の御国に入らないばかりか、従って来る人たちをも御国に入らせないゲヘナの子らよ」と言った。

 

彼らは一人の改宗者(今で言うクリスチャン)を、自分の倍勝るゲヘナの子にすると言った。

 

ゲヘナとは地獄の事。

 

今で言うなら教会へ行って、洗礼などを受けようとも、教師自身がおかしいと、教師自身もゲヘナに行ってしまうし、その信者までもゲヘナに行く、という事を言っている。

 

曲がった教師は大変な者・・・曲がった杖は大変なものである。

 

今の時代は曲がった教師が多い。

 

信徒が耳触りの好い話を聞くために教師を集めるから。

 

例えば「キリストは復活してない」とか、「聖書はおかしい」などと言う教師もいる。(東神大出身)もいる。

 

教師は大事。 しかし、人間の教師には限界がある。

 

イエス様は「地上の誰をも先生と呼んではいけない」「父」と呼んではいけないと言われた。

 

真の教師はイエス・キリストだけ! 

 

 

 

「あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」 

 

イエス・キリストこの方だけが、唯一曲がっていない杖。

 

命にいたる門は狭いし、見出す者は稀であるけれども、まっすぐな杖、すなわちキリストを唯一の教師として歩んでいく時に、わりと、すんなり見えてくる。

 

そして、入るべき御国が見えてくる。 主に従っていくというのがベスト。

 

 

 

1:9あなたは義を愛し、不正を憎まれます。それゆえ、神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたとともに立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました。」

 

 

 

聖霊の油注ぎは、他の人に勝って受けた方がよい。

 

クリスチャン生活の歩みの成功とか、惑わされないとか、主の御心を行うとか、神の前にも人の前にも残る働きをなすなど、あらゆることに関連して、我々が最も求めなければならないのは、簡単に言うならば、聖霊の油注ぎ。

 

残念ながらクリスチャンであっても、このポイントを間違えてしまう人が多い。

 

この世の人と同じような概念が強調されてしまうことが多い。

 

クリスチャン生活の真の意味での成功というのは、我々が油注ぎを受けるか、大いに受けるかという事が関係してくる。

 

他の者に勝って、油注ぎを受けるかが、大いに大事。

 

ただ、油注ぎを受けるかというポイントは、「祈り」

 

間違っても、ベニーヒンだとかビルハモンの按手を受けてはならない。

 

何故なら変な霊を受けて、大変なことになったりするから。

 

祈って行く人は、油注ぎを受けるが、祈らない人は、この世やいろんな事に惑わされたりする。

 

神様にえこひいきは無い。

 

聖書の中では、我々がどういう霊を受けているか、我々自身の歩みを大いに変えるという事が

 

実は、あまりはっきり書いてないかもしれないが、結構強調されている。

 

 

 

 

 

ダニエル書

 

5:12王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、優れた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば彼がその解き明かしをいたしましょう。

 

 

 

ダニエルの成功の秘訣は、優れた霊があるから。

 

霊であっても、神によって、他の人に勝る霊が与えられる、と、いうのが、まさに、彼の働きの大きなポイント。

 

我々は祈りの中で自分の霊が強められたり、徐々に油注ぎを受ける。

 

油注ぎを求めていけば、優れた理解力と、霊が与えられる。

 

そうすると、自分が生まれつき持っていないような事柄だとか、奉仕とか、悟りだとかが身につく。

 

これは霊である。  聖書は霊に関して非常に強調している。

 

祈りとは霊に関する事柄であり、そうするとポイントが見えてくる。(宮の崩壊、教会の方向性)などが、はっきりしてくる。             

 

 

 

我々がどのような霊を受けるかという事は、我々のクリスチャン生活の根本的な部分を変えてしまう。 これには不公平は無い。

 

求めている人はちゃんと与えられ。さぼってる人はそれなりである。

 

我々が、他の人に勝って油注ぎを受けられるかどうかという事は、大きなポイント。

 

これが殆ど、クリスチャン生活の最も大切か部分に関係する。

 

イエス様の時代の律法学者やパリサイ人などは、勘違いで的外れな事を求めた。

 

この世の人が言うのと同じような事ばかり言っていた。

 

最期はゲヘナに行ってしまう。

 

霊が違うし、彼らは優れた霊や油注ぎなど全く求めていなかった。

 

根本的に的外れな事を言っていた。  

 

律法学者やパリサイ人だけでなく、今の時代のクリスチャンもそのようになってきている。

 

:艱難前携挙説などを信じる。彼らも、霊が違う。

 

優れた霊ではなく、惑わしの霊しか与えられていない。

 

霊的な事柄にポイントがある。

 

へブル

 

1:10またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。

 

 

 

地も天も、キリストの業。

 

地と天とは、喩えが使われている。  これは、教会の喩え。

 

旧約の時代の神の民はイスラエルであり、イスラエルは、アブラハムの子孫。

 

アブラハムの子孫に関して聖書は、「天の星、地の砂の様になる」と言っている。

 

星があるのが天。星はみなアブラハムの子孫。

 

天はアブラハムの子孫を含む所として、旧約の教会。

 

我々は、新約の教会。  新約のイスラエルであり、その意味でアブラハムの子孫。

 

そういう意味で言うと、天は、新約の教会。

 

地も、地の砂というように、アブラハムの子孫なので、イスラエルというのは砂。

 

地は、砂を含む場所としての教会。  新約の教会も、地の砂、クリスチャンも地の砂に喩えられるが、砂を含む場所として、教会の喩え。

 

だから、御手のわざとして、キリストによって教会が建て上げられたと言っている。

 

そういう意味では、これは喩えを通して言われている。

 

 

 

1:11これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。

 

 

 

しかし、ここでは恐ろしいことが書かれている。

 

「滅びる」は、ギリシャ語の原語では、「滅びる」「破壊される」「破滅する」

 

旧約の会衆は背教によって滅びた。  教会は滅びると書いてある。

 

旧約のイスラエルの会衆は、新約の教会に該当する。

 

旧約時代の教会は、不従順を繰り返し、最後には、神の御子であるイエス・キリストをも殺してしまった。  結果、西暦70年にイエス様の預言通り、宮は崩壊し、エルサレムは軍隊に囲まれ、ローマによって最後の1人まで殺されてしまった。そして、石の一つさえ他の石の上に

 

残らなかった。これは教会の徹底的な滅びであり、崩壊である。

 

これは、マタイ24章によれば、世の終わりの事。

 

世の終わりに、新約の教会が滅びるという事の預言でもある。

 

主の言われた喩えを理解するのが正しい。

 

宮は教会の喩え。石は使徒や預言者、そして隅のかしら石イエス・キリスト。

 

イエス・キリストの教えも、使徒パウロの教えも、ペテロの教えも含めて、教会が崩壊するという日が来るという預言。

 

教会が変わってしまう。 でもキリストは変わらない。

 

教会を着物のように喩えている。   旧約のイスラエルの会衆は外套に喩えられている。

 

「すべてのものは着物のように古びる」これは教会が古びるという事を言っている。

 

洋服も最初は真新しいけれども、10年も毎日着てて古びてしまい、やがて着れなくなってしまう。  教会に関しても同じ事が言われている。

 

 

 

1:12あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」

 

 

 

教会は取り換えられる。

 

黙示録の中にある、「古い天と地は過ぎ去った。」「新しい天と地が来た。」とは、まさにこのことを言っている。   教会が変わることの喩え。

 

 

 

黙示録

 

6:14天は、巻物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。

 

 

 

天は、教会を喩えている。教会は、滅んでしまったり、変えられてしまうという事は、聖書がまさに語っていること。

 

: 同性愛を受け入れたり、など。

 

 

 

黙示録

 

20:11また私は、大きな白い御座とそこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

 

 

 

ここでも地も天も滅んだ、存在しなくなったという事なので、その意味でも教会は滅んでしまう、という事が終末に起きる。

 

また、新しい天と新しい地ということも黙示録に書いてあるので、そういう意味で、世の終わりの時に、今の既存の教会が滅び、しかし尚且つ、新しい天、新しい地とあるべき教会が出てくる。

 

へブル

 

1:13神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

 

 

 

イエス様は御使いよりも優れた方とされた。

 

 

 

1:14御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

 

 

 

御使いの働きの一つは、仕える霊である。

 

霊なので、肉体など、物質的なものは持っていない。

 

救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされた。

 

 

 

我々が救いの相続者となる歩みをしていくならば、助けに来る。

 

御使いは、我々が喜ぶ事ばかりするとは限らない。

 

例えばバラク、バラム時など。

 

不本意な事が起こるのは、実は御使いに助けられているという事がある。