へブル2章1~9                   2014.4.20

 

 

 

2:1ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。

 

 

 

クリスチャンに対し、色々な方法で、狭い道、狭い門から外すような働き、事柄がある。

 

その一つは聞いたことを心に「留めない」こと。

 

すると、押し流されてしまう。

 

「押し流されてしまう」とは、ギリシャ語で「パラレオ」、これは、「離れていく」という意味合い。

 

ろくに聞いていない、どんどん心から離れていく。

 

これは、クリスチャンが「広い道」「広い門」から入って行く原因。

 

今のキリスト教会を見ると、見事に御言葉から離れて行っている。

 

同性愛容認や、イレズミをしたゴスペル歌手など。  今は、そういう時代。

 

しかし、我々に関してはそうであってはいけない。

 

聖書はきちんと読むべき。必ず主の働きを優先する。

 

主からの恵みというのは、ちゃんと御言葉にとどまって、真に神の言葉を実行していく人に現れていく。

 

経済的な面やその他の事でも守られて行くようになる。

 

 

 

2:2もし、御使いたちを通して語られたみことばでさえ、堅く立てられて動くことがなく、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたとすれば、

 

2:3私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。この救いは最初主によって語られ、それを聞いた人たちが、確かなものとしてこれを私たちに示し、

 

 

 

御使いたちを通して語られた御言葉、律法。

 

旧約の律法(モーセの律法)というのは、御使いを通して与えられた。

 

御使いを通してという事は、一段低いという意味合い。

 

神ご自身、イエス様ご自身から与えられたのではないという事。

 

しかし、新約の律法は、主ご自身から与えられたという事が強調されている。

 

旧約の律法よりも、新約の律法の方がレベルが高い。

 

 

 

出エジプト記

 

3:2すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は燃え尽きなかった。

 

3:3モーセは言った。「なぜ柴が燃えて行かないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」

 

 

 

モーセに主の使いが現われて語った。

 

旧約の律法が御使いを通して現われたというのが一つのポイント。

 

しかし、この律法は有効である。   従わない者には当然の報いや罰が来、守る人には祝福が来る。旧約の御使いからの律法ですらこのように厳然と実行されるならば、どうして新約の、イエス様が直接言われた事をないがしろにして罰が来ないだろうか。

 

 

 

第二列王記

 

17:13主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」

 

律法全体、この律法こそが、まさに御使いを通して与えられた教え、律法。

 

 

 

17:14しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。

 

 

 

注意して、御言葉に聞かなかった。そして、流されて行ってしまった。

 

どんどん離されて行った。

 

 

 

7:15彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。

 

 

 

まさに今のクリスチャンがやっている事。 イレズミ、同性愛など。

 

 

 

17:16また、彼らの神、主のすべての命令を捨て、自分たちのために、鋳物の像、二頭の子牛の像を造り、さらに、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、バアルに仕えた。

 

 

 

これは喩えの意味合いで、偶像崇拝。

 

今のクリスチャンでも。器を崇拝してしまっている。

 

カトリックで言うなら、ローマ法王、マザーテレサに聞いてしまって、ヒンズー教徒も天国へ行けるなどと言い出す。

 

 

 

17:17また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。

 

 

 

「火の中をくぐらせ」 火は霊を喩えている。

 

ベニーヒンの悪霊リバイバルなどに、息子、娘を連れて行き、集会に参加させるのは、まさに、火の中をくぐらせること。  それは、主の怒りを引き起こす。

 

 

 

17:18そこで、主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らを御前から取り除いた。ただユダの部族だけしか残されなかった。

 

17:19ユダもまた、彼らの神、主の命令を守らず、イスラエルが取り入れた風習に従って歩んだ。

 

17:20そこで、主はイスラエルのすべての子孫をさげすみ、彼らを苦しめ、略奪者たちの手に渡し、ついに彼らを御前から投げ捨てられた。

 

 

 

結果として、北のイスラエルも、南のユダも、他の国へ連れて行かれた。

 

北のイスラエルはアッシリヤに、南ののユダはバビロンへ、それぞれ、先祖たちの約束の地から引き離されてしまった。

 

これが何を言っているかとは、御使いを通して与えられた律法だが、それを守らなかった時に、正確に、その災いは成就した。

 

神様は、たとえ御使いを通して与えられたものであっても、神の言葉に関しては、そのおきて通り、実行されるという事。

 

新約の律法は、御使いからでなく、主ご自身から与えられたものなので、さらにはっきりした形でこれらの御言葉を守らないクリスチャンに対しては災いが下る。

 

これらの事は、成就しつつあるが、多くのクリスチャンは見ていない。

 

 

 

バビロン捕囚はかつての日に終わったのではなく、終末の日をあらわす黙示録の中にバビロンという言葉が書いてあるように、バビロン捕囚が本当の意味で実現するのは、新約の終わりであり、キリスト教会の終わりの時。  今それは実現しつつあるが、みんな盲目になっていて見えない。

 

 

 

我々が聖書を学ぶのは、こういう事を学ぶため。

 

かつての日に起きた、旧約の民が、律法を守らないでどの様な運命をたどったか、我々の教訓のため。

 

何故なら、同じ神様が、新約の民のクリスチャンを導いておられるから。

 

旧約聖書をスキップするクリスチャンが多い。

 

 

 

へブル

 

2:3私たちがこんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、どうしてのがれることができましょう。

 

 

 

これが結論。

 

旧約の民に起こった神の裁きは、新約の民に対する警告!

 

旧約の神は恐ろしいが、新約の神は優しいという大間違いが蔓延している。

 

 

 

へブル

 

2:4そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

 

 

 

新約の時代になって、パウロ、ペテロ、ヨハネを通して現われた色々なしるしや不思議や、ペンテコステの日の不思議などを通して、神様が証したり証言してくださっているという事。

 

 

 

2:5神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。

 

 

 

後の世は現実にある。

 

聖書を読んでいてわかる事は、明らかに後の世が本番。

 

後の世は永遠。

 

今の世での我々の寿命は長生きしても100歳くらい。どんなに長生きしても120止まり。

 

明らかに聖書は後の世にポイントを置いている。

 

イエス様ご自身がそうである。

 

今の世では最悪であった。一生懸命奉仕して、山上の垂訓もしたのに、最後はカルト扱いされ、逮捕され、十字架につけられ、あらゆる物を奪われ、上着、下着まで取られてしまった。

 

今の世では、何も受けなかった。

 

後の世と今の世では、明らかに後の世のポイントが高い。

 

後の世に重点を置いて歩むのが、クリスチャンとして賢い。

 

両方良い、という事はない。

 

パウロやヨハネもこの世で言うと「世捨て人」

 

イエス様の歩みこそが我々の模範的な歩み。

 

 

 

2:6むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

 

人間は、比べるなら、身分が低い、能力が低い、価値が低いという事。

 

価値が低いはずなのにどうして神様が、御心に留められるか。

 

今の世では人間は、御使いより価値が低いが、後の世では、逆転する。

 

 

 

2:7あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、{彼をあなたの御手のわざの上に置かれました。}

 

2:8万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。

 

2:9ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 

 

 

我々は、御使いよりずっと下の者であり、これまでは、立場が逆転することはあり得なかったりするが、主イエスキリストの行いによって、我々の立場が逆転した。

 

イエス様が御使いよりも低くなったとは、人間になったこと自体が低いという事。

 

御使いよりもずっと有限であった。

 

しかしあえてイエス様は人間になられた。 それは何故かというと、人の位置を逆転させるためという意味合いもある。

 

実際にそれによって、9節では、「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。」これによって我々も逆転したという事。

 

知らなければいけないことは、主の方法は、「死の苦しみのゆえに」

 

主は艱難を通って、そのあと栄光と誉の冠を受けたという事。

 

こういう流れは、覚えておくべき。

 

我々も艱難を覚悟しなければならない。