へブル書6110    2014.6.15

 

 

 

6:1ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、

 

6:2きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。

 

 

 

ここに書いてある事は、キリスト教の中心教理。教会の中で非常に大事な事。

 

へブル書がここで言っている事は、基礎であり、キリスト教の教えの初歩。

 

基礎に留まらずに、もっと先の方へ進んでいく。

 

教えに関連しても、前の章では、柔らかい食物=ミルクなど。  固い食物=ステーキなど。

 

今のキリスト教会では、殆どミルク、柔らかい教えで終始している。

 

それは良い事ではない。

 

学校においても、例えば中学に入ったら小学校では習わないものを習う。

 

キリストの教えの中で、大事な教えが書いてあるが、こればかりに終わるべきではない。

 

「初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

 

それが正しい。

 

固い食物にチャレンジしてみるべき。

 

固い食物を食べていれば歯は強くなる。   霊的な意味でも同じ。

 

 

 

6:3神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。

 

6:4一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、

 

6:5神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、

 

6:6しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

 

 

 

ここに、厳しい言葉が書いてある。恐れを持って捉えていきたい。

 

イエス・キリストの十字架は2000年前にあったが、それで終わりではない。

 

 

 

黙示録

 

11:8彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

 

 

旧約の時代の神の民も、最後はイエス・キリストを十字架につけ、神の怒りを買い、ローマに滅ぼされた。

 

同じように、新約の教会の終わりに、この事は再現される。

 

先の黙示録のみ言葉は、新約の教会の終わりに関する預言。

 

終わりの時代の新約の民による冒涜の極み。

 

今の教会は、次第にソドム化している。アメリカでは同性愛は合法化されて来ている。

 

逆に同性愛に反対している人達は、違法。

 

オバマ大統領は、同性婚を容認した。

 

やがて、聖書に書かれた「イエス・キリストは救い主ではない」と、かつてそうだった様に、再度言われるのではないだろうか。

 

また、「イエス・キリストのみが救い主ではない」など。

 

これは、イエス・キリストを再度十字架につけること。

 

我々は間違ってもこのような罪(赦されない罪)に加担してはいけない。

 

 

 

6:7土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。

 

6:8しかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。

 

 

 

土地はクリスチャンの事。

 

雨は霊的な事に関する喩え。聖霊の恵みを受けて、有用な作物を生じる(御霊の実を結ぶ)なら

 

神の祝福を得る。

 

逆に、聖霊の恵みを受けながら、いばらやあざみなどを生えさせるなら、もはや無用なものであって、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまう。

 

だから、我々クリスチャンが気をつけなければならない事は、神の恵みを、無駄に受けない事。

 

いばらを生じさせるクリスチャンとは、ちょうど、イエス様にいばらの冠をかぶせる類の者たち。  やがて神のすさまじい怒りを受ける。かつてエルサレムは神ののろいを受け、ローマ軍によって、火に焼かれてしまった。 これは御言葉通りの出来事。

 

だから、我々は、省みて、有用な作物が出てるか、それともいばらやあざみが出ているか、よくよく吟味しなければならない。

 

 

 

6:9だが、愛する人たち。私たちはこのように言いますが、あなたがたについては、もっと良いことを確信しています。それは救いにつながることです。

 

6:10神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。 

 

 

 

主はお忘れにならないお方。

 

我々は、人に親切にしても忘れたかのような扱いを受ける事があるが、逆に義理堅い人もいる。主はさらに義理堅いお方。