へブル書61120    2014.6.22

 

 

 

6:11そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。

 

6:12それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。

 

 

 

弱冠、抽象的な書き方なので分かりずらいかも知れないが、ここでは、我々が、「怠けてはいけない」とある。

 

11節には「同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。」と書いてある。

 

裏返すと、途中で怠けて、散らかしたり、手を抜いたりすると、約束のものを得られない可能性がある。

 

そういう意味では、聖書は、所々親切な本ではない。

 

全部は書かれず、半分だけ書いてある。

 

「約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となれ」と書いてある。

 

アブラハムは、約束通り、100歳にしてイサクを得た。

 

これは我々に関係ある約束に関しての事。

 

 

 

ローマ書

 

4:16そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。

 

4:17このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

 

4:18彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

 

4:19アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

 

4:20彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

 

4:21神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

 

4:22だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

 

4:23しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、

 

4:24また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

 

 

 

アブラハムが100歳で子供を得たという事に関しての意味合いとか、喩えがここで説明されている。

 

死者。「自分のからだが死んだも同然である」

 

イサクは命。これは、アブラハムがイサクを生んだという事は、ローマ書を見る限り、「死んだような者に新しい命が生まれる。」という事。

 

それは、他でもないすべてのクリスチャンが経験すべきことである、「死んだような者」「死者」、我々は誰も、罪によって「死んだような者」「死者」であり、そこに主イエスキリストの命、「新しい命」が湧き上がってくる。

 

この事が聖書に書かれている。

 

つまり、我々の誰もがアブラハムと同じような経験をすべきだと聖書は語っている。

 

我々は誰もアダム伝来の罪があって、死んだような者。

 

しかし、そこから、アブラハムからイサクが生まれたように、我々の内に新しいキリストの命が復活して来る、キリストの命が現われてくる。 これを「復活」という。

 

その為には、イサクを生むまで大分苦労したように、忍耐を持っていたように、我々もクリスチャン生活において、忍耐を通してイエスキリストの復活の命を受けていくと聖書は言っている。時間も手間もかかるし、忍耐が必要。

 

言うのは簡単「私には復活の命がある。」と言いながら、全く復活の命が無かったり、ただ肉の命があるだけというクリスチャンは多い。

 

本当の意味で、我々の中に、イエスキリストの復活の命が現われるのは、ずっと信じ求めて行く人には、リアリティである。現実に成就する。

 

その為には、聖書が語っている事は、アブラハムが、イサクを生むまで、忍耐と信仰の日々が

 

続いたように、我々も、忍耐と信仰の日々を通して、まさに、我々の身体の中に、復活を経験していくと聖書は語っている。

 

同じような事をパウロは別のところで語っている。

 

 

 

ピリピ書

 

3:10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

 

3:11どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

 

3:12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

 

3:13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

 

3:14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

3:15ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。

 

 

 

ここで書いてある事柄は大事な事。

 

「どうにかして、死者の中からの復活に達したい」と言っている。

 

まだ、「得てない」という言い方をしている。

 

「成人である者はみな、このような考え方をしましょう。」とも書いてある。

 

「もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら」それは違うという事。

 

パウロは「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。」と聖書の中で言っている。

 

何を捕えようとしているか、それは「死者からの復活」

 

本当はこうあるべき。

 

このようなクリスチャン生活が、ノーマルな、あるべきクリスチャン生活。

 

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。」これは、死者からの復活の事。「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

 

一心に走って(座っていたり歩いているわけでもない)行く。

 

それで何とかゲット出来そうだとパウロは言っている。

 

「死者からの復活」というのは、あまりイメージとしては分からない。

 

しかしパウロはこのように復活の命を求めていくべきだとピリピの手紙を書いている時にはそう思っていた。

 

「すでに得た」「すでに捕えた」という考え方は間違い。

 

日々、死者からの復活を求めていく。

 

なぜそうなのか。

 

それは、死者からの復活というのは、抽象的な概念かも知れないが、何がともあれ、我々が、肉体の命がある時にパウロはそういうクリスチャン生活を送っていた。ひたすら前のものを目指すように。

 

そしてパウロは、「我々に倣うように」と言っているので、我々もパウロに倣うべき。

 

我々も「走らなければ」ならない。

 

そして、死者からの復活を何とか得るようにと、肉体の命があるクリスチャン生活の中で、これを求めていくべき。

 

もしそうしなければ、今、求めなければ、後の世に入った時に、永遠の命が危ない。

 

永遠の命を得るという事はそういうもの。それが聖書的。

 

 

 

へブル

 

6:13神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、

 

6:14こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

 

6:15こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。

 

 

 

なので、パウロの言っている事、また、へブル書の言っている事、アブラハムの生涯の語っている事は一つ。

 

死んだような命から新しい復活の命が生まれたという事、これは死者からの復活。

 

死んだようなアブラハムの身体から、新しい命が生まれたという形で、聖書は、喩えで語っている。  ここを理解しなければ、我々は、アブラハムの物語から何も学んではいない。

 

そして、アブラハムが約束のもの、新しい命、イサクを得るために、我々が創世記を読む時に、やはり、結構アブラハムは苦労した。途中不信仰になり、奴隷の女の子共を得たりしたが、

 

しかし、忍耐の末に、イサクをゲットした。  我々は、そうやって自分のクリスチャン生活の中で、復活の命を得て行くものだと聖書は語っている。

 

それを読まないなら、このへブル書から何も読んだ事にはならない。

 

いくら聖書に創世記があっても、アブラハムの物語から何も読んだ事にならない。

 

我々は忍耐から復活の命を得る。   忍耐の内に徐々にクリスチャン生活を歩んでいくようになる。

 

霊の命が我々の肉体の中に生き返って来るときに、それまで聞こえなかった神様の声が段々聞こえてくるようになる。また、見えなかった神様の御心が見えるようになる。

 

 

 

6:16確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます。

 

6:17そこで、神は約束の相続者たちに、ご計画の変わらないことをさらにはっきり示そうと思い、誓いをもって保証されたのです。

 

 

 

神様はアブラハムに誓った。  誓いという特別な言葉がここで使われている。

 

神様が、誓おうと誓うまいと、声をかけて下さるだけでもすごい事。

 

神様が誓うということは、非常に大事な事。

 

 

 

創世記

 

22:16仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

 

22:17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

 

22:18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

 

 

こにある「子孫」というのは単数。 したがって、イエスキリストの事。

 

ここで神が祝福の約束をアブラハムに誓われた。

 

そして、その通りに、アブラハムの子孫としてイエスキリストが生まれ、この方を通して地の多くの人々は、大いに祝福を受けている。

 

なので、神様の誓いは大いに成就した。

 

その時のポイントは、

 

 

 

22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」

 

 

 

と、あるように、アブラハムはイサク、自分のたった一人の子さえ神に捧げた。

 

それで、神様は、アブラハムに特別な誓いを与えた。

 

神様が誓うとはよほどの事。

 

アブラハムがしたことは、非常に特殊な事。

 

一つは自分の一人子を捧げた。   他でもない父なる神がひとり子であるイエスキリストを捧げた。

 

クリスチャンの歩みというのは、「神は愛」であるが、我々の方も同じように犠牲を払うという事を神は求めておられる。

 

神は、アブラハムにただ一人の子イサクを捧げるように命じた。

 

この事は、アブラハムだけではない。

 

クリスチャン生活を送ってわかる事は、我々は、アブラハムの子孫なので、アブラハムの行いは型であり、模範なので、我々が本当の意味でクリスチャン生活を送って行こうという時に、誰も彼も、良くも悪くも、アブラハムの経験をしていく。

 

神は、ひとり子イエスキリストを捧げられた。

 

我々も、アブラハムがイサクを捧げたように、どこかで「捧げる」という事を要求されている。

 

それを捧げていく時に、特別な誓いがあるような恵みがある。

 

 

 

へブル書

 

6:18それは、変えることのできない二つの事がらによって、――神は、これらの事がらのゆえに、偽ることができません――前に置かれている望みを捕らえるためにのがれて来た私たちが、力強い励ましを受けるためです。

 

 

 

得るべき永遠の命を得る。

 

 

 

6:19この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。

 

 

 

そういう意味では、文節を見ていくとアブラハムみたいにイサクを捧げた様な人はポイントが高い。

 

捧げるべきものを捧げず、意固地に歩む人は、ポイントが危ない。

 

 

 

6:20イエスは私たちの先駆けとしてそこに入り、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。

 

 

 

我々は幕の内側に入るように召されている。

 

聖所の構造。聖所と至聖所。その間に幕がある。 

 

至聖所の中というのは、普通の祭司は入れない。

 

年に一回、大祭司が入るだけ。   滅多には入れない。

 

しかしその、滅多に入れない幕の内側に本当の祝福がある。

 

そこに我々が入って行く、という約束がある。

 

幕の内側は、英語ではベール。

 

黙示録は、リベールレイション・・・ベールをはがすという意味がある。

 

幕の内側に入って行く時に、いろんな啓示が開かれるという事。

 

また、特別な、御言葉の恵みに入る。

 

聖所では、パンの捧げものがある。

 

至聖所に入ると、マナがある。

 

バンとマナの違い。   パンはパン屋に行けば買える。 

 

マナは天で神から直接降りてくるもの。  パンと似ていて、パンの様に食べるのだが、特別なパン。これは、主の言われた通り、「人はパンによってのみ生きるにあらず。神の口から出る一つ一つの言葉(これがマナ)によって生きる。とあるように、そのような神からの親しい恵み、また、直接の啓示、教えに入って行く。それが至聖所。

 

幕の内側、ベールの内側の恵みに入って行く。