へブル書72028    2014.7.13

 

 

 

7:20また、そのためには、はっきりと誓いがなされています。 

 

7:21――彼らの場合は、誓いなしに祭司となるのですが、主の場合には、主に対して次のように言われた方の誓いがあります。「主は誓ってこう言われ、みこころを変えられることはない。『あなたはとこしえに祭司である。』」――

 

 

 

ここで言われている事は、レビの祭司とか、アロンとかモーセの祭司とか、あとは、メルキゼデクである祭司、これで例えられている祭司の比較。

 

この箇所で言われているのは、聖書で言う、誓いという事。

 

レビは、誓い無し。  しかし、メルキゼデク、イエス・キリストは誓いあり。

 

どちらが価値があり、どちらが尊いのか。

 

神が、誓っているかそうでないかは、聖書的に違う。

 

聖書の中で、誓いがある約束と、誓いの無い約束とは、価値が違う。

 

これには重要な意味合いがある。

 

                                          

 

創世記

 

22:15それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、

 

22:16仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、

 

22:17わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。

 

22:18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 

 

 

神がご自身にかけて誓われた。 この誓いは実現している。

 

 

 

22:18あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。

 

 

 

ここにある子孫とは、一人の子孫、イエス・キリストによって敵の門を勝ち取る。

 

神が誓われた事は、大事な事。  実現していく。

 

 

 

良くない例だが、

 

創世記

 

25:31するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい」と言った。

 

25:32エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう」と言った。

 

25:33それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。

 

 

 

この時、エサウは、自分の長子の権利を取られてしまった。

 

これは、後の日に、再現される可能性がある。

 

サルデス= 終末の7つの教会のひとつ =   赤いもの。

 

長子の特権を売り払ってしまうことが再現されてしまう可能性がある。

 

「誓う」という事が、世の終わりの時に、我々が永遠の命、むくいを得ることに関連して「誓う」ということが鍵になる。

 

 

 

マタイ

 

5:33さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 

5:34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。

 

5:35地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。

 

5:36あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。

 

 

 

聖書で言う誓いという言葉の重さを理解しないと、「決して誓ってはいけません。」という言葉の重みが理解できない。

 

天をさして誓う、地をさして誓う、これは教会に関する事柄。

 

天や地は、教会に喩えられる。何故なら、クリスチャンは皆、アブラハムの子孫だが、アブラハムの子孫は、天の星、地の砂と喩えられる。

 

砂があるところは地(教会の喩え)であり、星があるところは天(教会の喩え)

 

なのでこれから教会をさして誓う人々が、災いに入る日が来るのではないか。

 

誓う事がおそらく自分の永遠の命に関係する事柄になって行く。

 

これからの時代、下手に誓って、永遠の命を失うことの無いように。

 

エサウは長子の特権を売り払う事を「誓った。」  そして、彼の長子の特権、相続の特権を売り払ってしまった。    サルデスがまさにそのような事になって行く。

 

同じような事柄が、どのように世の終わりの時代に、どんな時に、どんな形で具体的に教会の中に誓いや偽りが入って来るかはわからない。ただ、何かこの言葉にひっかかるものがある。

 

クリスチャンに対し、うまい言葉で誓わせて、永遠の命を奪って行く罠が仕掛けられるのかも知れない。  なので、主が言われた言葉、「決して誓ってはいけません」という言葉が、度々繰り返し警告されている。   「天をさして誓うな、地をさして誓うな、エルサレムをさして誓うな、あなたの頭をさして誓うな」

 

 

 

へブル書

 

7:22そのようにして、イエスは、さらにすぐれた契約の保証となられたのです。 

 

7:23また、彼らの場合は、死ということがあるため、務めにいつまでもとどまることができず、大ぜいの者が祭司となりました。 

 

7:24しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

 

 

 

なので、ある意味では、レビの祭司は型にすぎない。

 

本当のあるべき祭司というのはイエス・キリスト。

 

レビの祭司には、寿命があるので、次から次へと代わって行く。

 

これは、本来のあるべき祭司ではなく、永遠にかわることの無い神の子の祭司が、本来のありかた。

 

 

 

7:25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 

 

 

イエス・キリストは、とりなしをしておられる。

 

いつも生きておられ、イエス・キリストのとりなしによって我々は、本来なら滅びに入って行くのであるが、完全な救いに入って行くことが出来る。

 

イエス・キリストは我々にいろんな事をして下さるが、とりなしをして下さるというポイントはよく覚えておくべき。

 

とりなしとは、神と人との間に入ってくださるという事。  これは必須。

 

: 我々が罪を犯し、告発された時、弁護士がつく。  弁護士は、良い人だけを弁護するのではなく、罪のある人をも弁護する。

 

とりなしをして下さるとは、今日も明日も、また次の日以降も、とりなして下さるということ。

 

だから尊い。

 

我々は、とりなしが無ければやっていけないということを、はっきり覚えておくべき。

 

神はあまりに聖く、直接我々が出てはいけないご存在。

 

とりなし無しではやっていけない。

 

 

 

出エジプト記

 

32:31そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。

 

32:32今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。」

 

32:33すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。

 

32:34しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。」

 

 

 

ここでモーセがやっている事がまさに、とりなし。  神と人との間に立つ。

 

これも、イエス・キリストの型。  主も、このように、我々の罪をとりなして下さる。

 

良くない事だが、我々にはどうしても、罪がある。

 

しかし、我々と神との間に立って、命がけでとりなして下さる方がおられる。

 

 

 

へブル書

 

7:25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 

 

 

イエス様はご自分に頼って行く人々を、見捨てずに、完全に救う事が出来るお方。

 

主に聞き従って行くなら、我々の救いは、完全に成し遂げられる。

 

しかし、ひとつ我々の方で気を付けなければいけない事は、主の言われたことをきちんと行うということ。

 

行なわないなら、救いは危ない。

 

 

 

7:26また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。

 

 

 

 大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方。       神と人との間に立つ方。

 

 

 

7:27ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

 

 

 

キリストは自分自身を捧げる。   その意味合いは重い。

 

決して忘れてはいけない恩である。

 

イエスキリストは、我々のために、文字通り、命を捧げられた。

 

 

 

7:28律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。

 

 

 

旧約のレビ、またアロンの大祭司の役目は、やはり、真の大祭司であるイエスキリストの型にすぎない。

 

この、キリストの大祭司の働きこそ、あるべき型であり、ここが、最も大事なポイント。