へブル書8:18:13              2014.7.20

 

 

 

8:1以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、

 

8:2人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

 

8:3すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。

 

8:4もしキリストが地上におられるのであったら、決して祭司とはなられないでしょう。律法に従ってささげ物をする人たちがいるからです。

 

8:5その人たちは、天にあるものの写しと影とに仕えているのであって、それらはモーセが幕屋を建てようとしたとき、神から御告げを受けたとおりのものです。神はこう言われたのです。「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

 

 

 

ユダヤ人にとって、モーセの律法とは大変なものであり、アロンに連なる大祭司の役目は、絶対的なものである。

 

そして、他でもない大祭司が、イエス・キリストに対して有罪判決を出し、「死刑に値する」と言って、結局、十字架につけて殺してしまったのだが、ここで聖書が言わんとしている事は、その当時のユダヤ人、旧約の民の思惑と違って、本来あるものの映しと、天にあるものの映し

 

に仕えているのであって、必ずしも本物ではない。

 

別の言葉で言うならば、コピー品みたいなもの。

 

「よく注意しなさい。山であなたに示された型に従って、すべてのものを作りなさい。」

 

と、あるので、どこまで行っても、アロンの働きにしてもモーセの働きにしても、写しと影にすぎないのであって、本物とは違う。本当の意味合いでの大祭司というのは、キリストが天においてなされたこと。

 

 

 

出エジプト記

 

25:40よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。

 

 

 

このような考え方は聖書の中でよく出て来るので覚えていきたい。

 

神様の一つの方法として、我々に見えるような形とか、影とか、映しというものを示す。

 

例えば、イエスキリストは王なのだが、そのことを示すために、ダビデが王として、イエス・キリストの型として、王の模範、あるべき形を、ダビデの王の歩みの中に示されている。

 

これは一つのパターン。

 

律法を与える者としてはモーセがそうである。

 

たとえ不完全な人であっても、それぞれの人を通して、主は、完全なもの、天にあるもののパターンや型を示すというのが、聖書の方法。

 

たとえばルツ記のボアズは、畑の恵みを与える者としての一つの型。

 

聖書の中にはいろいろな形で、型が示されている。

 

パターンや型、模型が示されているが、それを通して、本物を理解していく。

 

ソロモンは聖霊の型。シェバの女王とソロモンの知恵の事が出て来る。

 

ソロモンが聖霊を表すならば、聖霊の知恵に関しての型。

 

その型を通して、我々は逆に、聖霊の知恵に関して、聖書がどう語っているか。

 

 

 

第二歴代誌

 

9:3シェバの女王は、ソロモンの知恵と、彼が建てた宮殿と、

 

9:4その食卓の料理、列席の家来たち従者たちが仕えている態度とその服装、彼の献酌官たちとその服装、主の宮に上る階段を見て、息も止まるばかりであった。

 

9:5彼女は王に言った。「私が国であなたの事績とあなたの知恵とについて聞き及んでおりましたことはほんとうでした。

 

9:6実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。

 

9:7なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは。なんとしあわせなことでしょう。いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来たちは。

 

 

 

聖霊の知恵は、我々の噂を上回るものであり、期待を上回るものだという事をまさに語っている。これを通して、ソロモンを表面的に見てばかりいると、我々は何も読んでなかったことになってしまう。

 

聖書は、キリスト、キリストの霊、聖霊に関して色々な形で語っている。

 

「聖書は私について証をするものである」との通り。

 

人の知恵に頼っていく事には幸せな事はない。

 

聖霊の前にいつも求めていく人が幸せ。

 

たいていのクリスチャンはこのパターンを持っていない。

 

すぐに、自分の本質に頼ってしまう。

 

付け焼刃で、「主に、聖霊に聞きましょう。」などという人は、いざパニックになった時に、人に聞いてしまったり、「あの本」「この本」「あっちの先生」「こっちの先生」など、そればかりの人が多い。

 

結局それは、良い事をもたらさない。

 

「いつもあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くことのできるこの、あなたの家来」というように、いつも祈って行くべき。

 

サタンは、色々脅かして来るが、聖霊に聞く人は、恵みを受ける。

 

こういう事は、我々の歩みの中に、体質として、習慣として、問題がある時こそ、祈りに力を費やし、主に聞くという事に力を費やすという習慣をつけていかなければ、殆ど無意味なクリスチャン生活を送ってしまう。 挙句の果ては、実を結ばない、ただ人間的な煩い思い煩いの実を結び、刈り取られない。

 

聖書の中にはあらゆる種の形で、キリストは啓示されている。

 

どの人もある意味ではキリストの型。ボアズはボアズで、ある面キリストの型。ヨシュアはヨシュアでキリストの型。  そういった型を通して、天にある本物を、本物の働き、キリストの働き、天にある働きを、我々がキリストを通して理解していく時に、我々を通して大きな力となり、また、大きな啓示になって行く。

 

 

 

へブル書

 

8:6しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。

 

8:7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

 

8:8しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

 

 

 

新しい契約、これが新約。

 

我々は、新契約の中を歩んでいる。

 

モーセ五書の様に紙に書かれた文字の上に、紙に書かれた文字に従って、それを行なっていく事によって神の前に義とされて歩むという生き方が、旧約の生き方。

 

紙に書かれた文字に従って、それを行なっていく事は、新約の物事に関してもそうかも知れない。しかし、新しい契約に関しても我々は、学ばなければならない。

 

我々は、新約に生きる者だから。

 

新約の歩み方、すなわちクリスチャンの歩み方に関しても、はっきりと知らなければならない。

 

 

 

8:9それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。

 

 

 

書かれた文字に従って歩むというのは、守り通さないし、また、守り通せない。

 

新約においても同じ。しかし、別の事が新約に示されている。

 

 

 

8:10それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 

 

 

これが新約の歩み。

 

新約のクリスチャンとして歩んでいく時に、この事を徹底して理解しなければいけない。

 

旧約の歩みというのは、紙に書かれた文字を行なう歩み。

 

新約の歩みというのは、心に書かれた律法を行なう歩み。

 

この事をしっかりと理解し、行なわなければならない。

 

心に書かれている以上、そのまま受け入れて、「そうなんだ。」という風に歩んでいく。

 

「そうなんだ。」という我々の思いの中に主は、律法とか、なすべき事を書き込んで下さる。

 

律法というのはあらゆる事柄に関して、主が心の中に書かれるので、例外は無い。

 

問題は、実行しているか、否か。

 

主が、我々の心の中に、何をすべきか、適時、その時々に応じて、主がなすべきことを教えて下さる事を信じて行く時に、それは、実際にそうなる。

 

不信仰になってはいけない。不信仰になれば、その事も実現してしまう。

 

御言葉は信仰。 明確には、「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。」・・・そうなんだ、と思う事。そうすれば、ある意味で鬼に金棒。

 

主がそう書いてあるなら「そう」である。

 

その時々において、主がなすべきことを与えて下さる。

 

しかし、ある人達はこれを信じない。  故に全く違う所へ行ったり、全然違う人の声を聞き出したり、違うものを追って行ったり、それで自滅してしまったり、混乱してしまったりする。

 

しかし、単純にこれを受け入れれば、非常に簡単なクリスチャン生活を送れ、実りがあり、恵みに入り、間違いのないクリスチャン生活に入って行く。

 

これは、理想ではなく、「こうあったらいいな」という言葉だけのものでもない。

 

主がこのように言われたなら、これは実現する。

 

「わたしはわたしの律法を彼らの思いの中に入れる。彼らの心に書きつける。」と言われた以上、それは実現する。  しかしそれは見えない。「信仰は見えるところによらない。」と、聖書にある。

 

 

 

8:11また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。

 

 

 

そのように、ここに書かれている律法という事を本当の事として、それに歩んでいく時に、またそれと共に、「主を知れ」。 神ご自身に対して我々は、誰から教えてもらわなくても自然にわかるようになる。

 

 

 

8:12なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

 

8:13神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。

 

 

 

聖書というのは、古びたものは消えて行き、新しいものをもちいるというパターンがある。

 

ぶどう酒に関しても、新しいぶどう酒、古いぶどう酒の事が書かれている。

 

古いぶどう酒はダメ。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたらダメ。

 

古いぶどう酒 = 古い霊    

 

教会に関しても同じことが言える。

 

古いものは、去って行ったり、古びて使いものにならなくなったり、そして、新しいものに変わって行くというのが聖書の語っている事。

 

旧約の教会に関してもそう。  「教会」とは新約だけに対する用語ではない。

 

教会とは「集会」のこと。また、「会衆」のこと。

 

旧約の教会も古びて、イエス・キリストを追い出してしまった。そして最後は捨てられた。

 

残念ながら、新約の教会に関しても、この事は繰り返される。

 

聖書はそれを暗示している事が所々に書かれている。

 

世の終わりの時には、教会も2000年も経って、古びたものとなった。

 

そして、いろいろ問題が出て来るという事をも聖書は暗示している。

 

 

 

黙示録

 

21:1また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 

 

 

世の終わりの時に、再度、この事は実現する。

 

「天と地」とは、教会の喩え。

 

クリスチャンはアブラハムの子孫に喩えられる。

 

アブラハムの子孫とは何かというと、「あなたの子孫は天の星、地の砂の様になる」

 

星は天に住む、クリスチャンは天に住むので、これは教会の喩え。

 

砂は地にあるので、地というのは、クリスチャンの住む所として、これも教会の喩え。

 

古い天と地は過ぎ去る。

 

残念ながら今は教会時代の終わりの時。

 

どんなに若い恰好をしても、歳は取るのと同じ。

 

今の時代の教会は、新しい天と地に対し、逆に古い天と地になってしまっている。

 

その為、大いに問題が出て来ている。

 

教会は女に喩えられる。

 

「俗悪な年寄女」とか、ひどい表現だが、これも教会に関しての喩え。

 

人間も年を取ると、頑固になったり、身体に不自由が出てきたりするが、教会も同じように、年月を経るにしたがって、背教になったり、全く神に従わなくなったり、色々と問題が出て来る。それと共に、新しい天と地に変わってしまって行くというのも事実。

 

そういう意味では我々は過渡期にいる。