へブル書9:19:10               2014.7.27

 

 

 

9:1初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

 

 

 

KJVでは、初めの契約=旧約(天的な礼拝と、世的な礼拝)

 

聖所と至聖所の違いは、聖所は聖いところ。至聖所は、聖なる中の聖、最も聖い。

 

旧約は世的。

 

我々には、2種類の礼拝がある。

 

天的な礼拝を求めていくべき。

 

世的な礼拝、この世についた礼拝、そして神に喜ばれるような天的な礼拝がある。

 

 

 

ヨハネ

 

4:20私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。

 

 

 

サマリヤの山、現在のカトリック。 エルサレムはユダでプロテスタント。

 

 

 

4:21イエスは彼女に言われた。「私のいうことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

 

 

 

ここでイエス様が言われている事は、「カトリックだとか、プロテスタントだとかをこだわらない日が来る。」

 

 

 

4:22救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 

4:23しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。

 

父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

 

4:24神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 

 

 

ここでも真の礼拝者という言葉が出て来る。

 

真の礼拝者がいるという事は、偽りの礼拝者がいるという事。

 

本物の礼拝でない偽りの礼拝もある。

 

世的な礼拝と、天的な礼拝がある。

 

我々は天的な礼拝を求めていくべき。

 

天的な礼拝を父なる神は求めている。

 

 

 

ローマ書

 

12:1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

 

それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

 

 

 

日曜礼拝だけが礼拝ではない。  自分のからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげるのが、霊的な礼拝。   これは奉仕のこと。

 

具体的には、

 

 

 

12:6私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

 

 

 

生きた供え物に従って預言をして行く。この際、きちんと祈ること。

 

我々に預言の賜物が与えられているのなら、これに関して真剣に奉仕をし、祈り、預言の賜物を求め、主の前に正しく預言をなしていく時に、これは生きた供え物となる。

 

礼拝は、英語で「サービス」

 

サービスをされる側ではなくする方向に自分を持って行くなら、主にある恵みを受けるようになる。

 

荷物を運んだりするのも奉仕。

 

教える人であるなら、教える事も奉仕。勧める必要があれば勧めるのも奉仕。

 

分け与える人は惜しまずに分け与える。献金とか、捧げもの。

 

指導する人は熱心に指導する。慈善を行なう人は、喜んでそれをする。

 

これらはみんなサービス。

 

キリストの名によって、恵まれない人を助けるのもサービス。

 

我々が、主の前に成長し、健全なクリスチャン生活を送るという時に、奉仕に与って行くというのが、大事な事柄。

 

逆にそういう事に目をとめないと、ただ批判的なクリスチャンになって、不健全になったりする。

 

 

 

へブル書

 

9:2幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

 

 

 

「前部」というのが聖所の事。パンもある。 燭台もある。

 

世的な礼拝にもこの様な物はある。

 

 

 

9:3また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、

 

 

 

こちらが本当の礼拝、天的な礼拝。

 

 

 

9:4そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金のつぼ、芽を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。

 

 

 

マナ、金の香壇、契約の箱など。

 

我々は、至聖所の中がどのようになっているか、至聖所の中に置かれている物に注目をすべき。

 

その中には真の礼拝の一つとして、金の香壇、これは信仰の祈り。金は信仰を、香は祈りを喩えている。

 

鉄の香壇、銅の香壇もあるが、ポイントは金の香壇。

 

信仰を持った祈りが望ましい。

 

金の香壇の祈りが出来るよう求めていく。

 

マナの入った金の壺。

 

至聖所にはマナがある。   聖所。この世的な礼拝にはパンがある。

 

この二つは似て非なるもの。

 

パンは地上のパン屋に行けば売っている。しかし、マナは、天から下って来る。天は神に通じる。

 

「人はパンによってのみ生きるに非ず、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者」

 

パンは聖書。  マナは神の口から出る一つ一つの言葉。それは、それぞれの時々に応じて神様が特別に語られる言葉。それが一人一人を生かす。

 

それは、真の礼拝の中で与えられてくる。

 

困った時とか、本当にトラブった時には、主の前にマナを求めていくのが正しい。

 

求めていく人はそれを与えられる。

 

 

 

9:5また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。しかしこれらについては、今いちいち述べることができません。

 

9:6さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行なうのですが、

 

9:7第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

 

9:8これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。

 

 

 

前の幕屋とは聖所のこと。  まことの聖所とは「至聖所」。 この道はまだ明らかにされていない。

 

聖所は廃止され、まことの聖所への道が開かれて行く。

 

 

 

9:9この幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。

 

 

 

「その当時」とは今の時代をさす比喩。

 

 

 

9:10それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。

 

 

 

この聖所は、この世的な礼拝であり、良心は完全にならない。

 

世的な礼拝に携わっているならば、我々はその礼拝に只々行っているだけであって、形だけのものであり、罪から解放されなかったり、そのようなもの。

 

今現在の礼拝においても、そういった類の礼拝がある。 そうでない礼拝もある。

 

我々は真の礼拝を求めて行かなければならない。

 

 

 

良心を清める。

 

 

 

9:14まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

 

 

キリストの血が我々の良心を清める。死んだ行いから清める。

 

これは、聖餐式における葡萄酒であり、それは、聖霊に通じる。

 

聖霊に触れる者は良心が清められる。

 

具体的には、時間を割いて祈る事。