エステル記5章 2012.5.13

 

5:1 さて、三日目にエステルは王妃の衣装を着て、王室の正面にある王宮の内庭に立った。王は王室の入口の正面にある王宮の玉座にすわっていた。

5:2 王が、庭に立っている王妃エステルを見たとき、彼女は王の好意を受けたので、王は手に持っていた金の笏をエステルに差し伸ばした。そこで、エステルは近寄って、その笏の先にさわった。

5:3 王は彼女に言った。「どうしたのだ。王妃エステル。何がほしいのか。王国の半分でも、あなたにやれるのだが。」

エステルは、キリストに嫁ぐクリスチャンや教会の型

神の前に語り、祈りを告げる

「内庭」にポイントがある→祭司、神の前にレビ人の歩みをしている人が内庭に立つ

危険を冒しても、神の前に出ていき、必要な祈りをささげていく

 

参照 ルカ18:1-8

18:1 いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

18:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

18:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

18:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

18:5 どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

18:6 主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

18:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

18:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

ここに登場するやもめは、エステルに相当する

要は、艱難時代のことを言われている、なぜかと言うと、8節に、「人の子来たとき~」と書かれていて、このことは、再臨のことを指す、そのように考えていくと、7節以前に書かれていることは、艱難時代であることが理解できる

3節の『私の相手をさばいて、私を守ってください。』とは、迫害のときにささげられている祈りのことを言われている

このことは、艱難時代に祈れということを言っている、黙ってじっとしていろとは言っていない

なぜかというと、ここに書かれているように、祈りの中でさばきが行なわれるから

7「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」と、書かれているように、夜に昼に、神様に、さばきを求める!!

艱難時代は失望しやすいから、わざわざ、こういうことが書かれている

ポイントは選民にあるので、失望することなく、祈り求めていく

夢も希望も無い!!という思いになったり、右や左に倒れていくクリスチャンを目の当たりにしたりするので、祈り求める

それによって、永遠の行き先が変わる

実行しないなら、反キリストを拝んだりして、永遠のいのちのゲットをぽしゃってしまう可能性がある

 

参照 黙示録8:2-5

8:2 それから私は、神の御前に立つ七人の御使いを見た。彼らに七つのラッパが与えられた。

8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。

8:4 香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

8:5 それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

祈りの香がもとで、さばきが行なわれていく、祈りが大いに用いられる

ゆえに、不信仰にならずに、神のさばきを祈り求める

そうしていくときに、なされるべき解決やさばきがなされる

 

5:4 エステルは答えた。「もしも、王さまがよろしければ、きょう、私が王さまのために設ける宴会にハマンとごいっしょにお越しください。」

5:5 すると、王は、「ハマンをせきたてて、エステルの言ったようにしよう。」と言った。王とハマンはエステルが設けた宴会に出た。

5:6 その酒宴の席上、王はエステルに尋ねた。「あなたは何を願っているのか。それを授けてやろう。何を望んでいるのか。王国の半分でも、それをかなえてやろう。」

5:7 エステルは答えて言った。「私が願い、望んでいることは、

5:8 もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」

エステルが立ったことが報いられた

王は祈りを聞き、答える気があった

祈ったから結論が変わった

祈ったから、形勢が逆転した

表面だけをみるとダメと思いがち、でも、祈りに立つことで形勢が逆転する

神がサタンを庇護したり、ひいきしたり、権力を与えたりしていても(ハマンもそうだった)、祈りの中で形勢が逆転していく

ゆえに、引いてはダメ、立っていく、そのときに、ひっくり返されていく

庭に立つか、立たないかで、結論が大きく変わってくる、立っていくときに、あっさりと、ひっくり返されていく

サタンが権力を持っているのも事実、しかし、ひっくり返されるのも事実、ゆえに、立ち上がって求めていく

Ex:出版→この世の壁が厚い、だから、祈っていく

エステルは、いのちの危険を冒して内庭に立った

祈って求めていくときに何かがある

脅しがきたり、危険があったりする、しかし、祈っていくことによって、大事なポイントが開かれる

エステルが宴会を開いたことに語りかけがある

なぜ、宴会を2回開くのか?

たとえば、カナの婚姻では、ぶどう酒が2出てきた

具体的には、このようなことではないか?と、思われる

一度目:ペンテコステのとき→ぶどう酒に酔っている

二度目:世の終わりに、もう一度、宴会がある→息子、娘は預言をしたり、青年は幻を見たり、老人は夢を見たりする、このことも、神の霊が注がれることに通じる

要するに、祈りが積まれ、サタンがひっくり返されてくることを言われている

 

5:9 ハマンはその日、喜び、上きげんで出て行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。

モルデカイ:キリスト

サタンを恐れないため、サタンの憎しみを買った

サタンの願い:サタンを恐れ、おののき、崇め、たてまつること

しかし、正しいクリスチャンは、このことを行なわないので、大艱難時代が予定される

 

5:10 しかし、ハマンはがまんして家に帰り、人をやって、友人たちと妻ゼレシュを連れて来させた。

5:11 ハマンは自分の輝かしい富について、また、子どもが大ぜいいることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを全部彼らに話した。

ハマンは威張っている、これも、サタンの一面

サタンは、謙虚でない、高ぶっている

子どもが大ぜいいる:サタンに付き従う御使いがたくさんいる

サタンが今はトップ、しかし、それは神の性質と違う

クリスチャンは、へりくだる道

 

参照 ヤコブ4:6

4:6 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

 

しかし、クリスチャンの中に権威を求める欲求がある、サタンが、そのことを刺激する

でも、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」と、聖書は言っている

サタンの惑わしによって、クリスチャンでも、高ぶりに入っていく

しかし、主が足を洗ったように、へりくだっていく、そうしていくときに、たとえ、人からは馬鹿にされたり、軽く見られたりしても、主からの恵みや助けや祝福がくる

 

5:12 そして、ハマンは言った。「しかも、王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王といっしょに来させなかった。あすもまた、私は王といっしょに王妃に招かれている。

5:13 しかし、私が、王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない。」

5:14 すると、彼の妻ゼレシュとすべての友人たちは、彼に言った。「高さ五十キュビトの柱を立てさせ、あしたの朝、王に話して、モルデカイをそれにかけ、それから、王といっしょに喜んでその宴会においでなさい。」この進言はハマンの気に入ったので、彼はその柱を立てさせた。

柱にかける:キリストの十字架にかける

ユダヤ人をみな、滅ぼしたい、しかし、その前にキリストを十字架に付ける、そして、それを実践した

しかし、ハマンが、それに付けられた、これは、サタンが滅ぼされる型

 

参照 へブル人への手紙2:14,15

2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

その死:十字架の死→「十字架の死」の本当の意味合いは、「悪魔を滅ぼす」ということ

罪から解放され、永遠のいのちを得られるようになった

サタンも神の知恵には、かなわない→大逆転、キリストの十字架は逆転勝利の型、そして、逆転勝利を行なう

人間的には、一見、負けているように見える、しかし、現実は逆転勝利

わたしたちも同じパターン、キリストに従っていくときに、逆転勝利を得る

神様の方法は、一見、敗北だったり、絶望のように見える

そのときに試されるのが信仰

信仰をもっていくときに、主のわざを見る

祈りは強い

祈りづらい雰囲気がある、しかし、それでも、求めていく

人間的なものだけを見ないこと!!