エステル記8章 2012.6.3

 

8:1 その日、アハシュエロス王は王妃エステルに、ユダヤ人を迫害する者ハマンの家を与えた。モルデカイは王の前に来た。エステルが自分と彼との関係を明かしたからである。

8:2 王はハマンから取り返した自分の指輪をはずして、それをモルデカイに与え、エステルはモルデカイにハマンの家の管理を任せた。

今までも何度か説明しましたが、エステルはキリストと結ばれるクリスチャンや教会の型

教会やクリスチャンとして、艱難時代にエステルの働きをしなければいけない

それは、逆転をもたらすものだから

ハマンとモルデカイの立場がひっくり返された

キリストによってサタンはどこかでひっくり返される、このことは覚えておく

 

8:3 エステルが再び王に告げて、その足もとにひれ伏し、アガグ人ハマンがユダヤ人に対してたくらんだわざわいとそのたくらみを取り除いてくれるように、泣きながら嘆願したので、

8:4 王はエステルに金の笏を差し伸ばした。そこで、エステルは身を起こして、王の前に立って、

8:5 言った。「もしも王さま、よろしくて、お許しが得られ、このことを王さまがもっともとおぼしめされ、私をおいれくださるなら、アガグ人ハメダタの子ハマンが、王のすべての州にいるユダヤ人を滅ぼしてしまえと書いたあのたくらみの書簡を取り消すように、詔書を出してください。

8:6 どうして私は、私の民族に降りかかるわざわいを見てがまんしておられましょう。また、私の同族の滅びるのを見てがまんしておられましょうか。」

ハマンが柱にかけられたあと、エステルの願いが聞き入れられた

エステルと同じく艱難時代に入るなら、エステルがしたように、王にしなければいけないことのパターンについて語っている→王()に願う

このことをちゃんと行わないなら、より分けられてしまう

誰も彼もがエステルのように祈っていく

祈りによって自分自身の身を災いから守る

艱難時代の基本は祈り、祈らなければ、あっという間に惑わしに入ってしまう

艱難時代に入っても、なおかつ、得るべきものを得るのは個々における人の責任

祈らなければハマンの計画が実行されてしまう

祈りによって絶体絶命のピンチをひっくり返す

祈りがあるのと無いのとでは、まったく違う結論になる→自分の身も助けられるし、他の人をも助けられる

エステルが行ったことは王の前に出て、必死に嘆願した

知性ではなく、真剣に求めるかどうか?がキーになる

 

8:7 アハシュエロス王は、王妃エステルとユダヤ人モルデカイに言った。「ハマンがユダヤ人を殺そうとしたので、今、私はハマンの家をエステルに与え、彼は柱にかけられたではないか。

8:8 あなたがたはユダヤ人についてあなたがたのよいと思うように、王の名で書き、王の指輪でそれに印を押しなさい。王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」

「だれも取り消すことのできない」について2つの意味合いがある

 

①王の権利は強い

②真の王である神のことば、すなわち、聖書は、だれも取り消すことはできない

 

そして、8節で言われている王の文書も生きているが、最初にハマンが出した文書も取り消すことはできない、すなわち、「ユダヤ人を根絶やしにする」という文書も生きている

このことは何を言われているのかというと、終末の艱難時代についても、神の許可が出ているので、いまさら取り消すことはできない

にも、かかわらず、キリスト教会やクリスチャンの間では、携挙が奨励されていて、艱難が来ないことになっている

でも、どのようにしても、艱難は来る、来ないとは言っていない

しかし、神の助けが来る、ひっくり返されることも聖書は語っている

 

参照 黙示録3:10

3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

なぜ、試練の時が来るのか?→サタンが神にねだって定めたから、ゆえに、取り消すことはできない

しかし、その時には、「守ろう」と言っている、このことは、エステルに与えられたあとから加えられた文書に匹敵する、これも取り消せない

ただし、このことに関しては、ある種の人々には実現するし、ある種の人々(艱難が来ることを信じていない人々)には実現しない

ちなみに、なぜ、艱難が来るのか?について考えてみたい

それは、真のものとそうでないものとを見分けるため

本当に神に正しく着く人を選ぶとき

神は真の花嫁を選びたい、このことについては、個々の人の行いにかかわってくる

本当にキリストの花嫁になるつもりがあるのなら、神が言われていることに、合わせなければいけない

 

8:9 そのとき、王の書記官が召集された。それは第三の月、すなわちシワンの月の二十三日であった。そしてすべてモルデカイが命じたとおりに、ユダヤ人と、太守や、総督たち、およびホドからクシュまで百二十七州の首長たちとに詔書が書き送られた。各州にはその文字で、各民族にはそのことばで、ユダヤ人にはその文字とことばで書き送られた。

8:10 モルデカイはアハシュエロス王の名で書き、王の指輪でそれに印を押し、その手紙を、速く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。

ここで、ユダヤ人の殺害が、ひっくり返された

ハマンの悪い計画は逆転された

キリストの座はサタンの計画を逆転することを正しくとらえておく

クリスチャンの歩みや働きの中で、よくあるパターンとして、神の働きを担っていくときに、絶望的に思うことがある

たとえば、かつて、キリストの弟子として歩みをしていたペテロやヨハネもそうだった

キリストが十字架に付けられて、元の漁師にいったんは戻った、しかし、復活のキリストに会って、正しい働きに入った

私たちも同様で、御心の働きをしていくときに進んでいき、実を結ぶ

一時的に敵の攻撃、妨害だけが目についてしまうが神の前に逆転することは正しく理解しておく

 

8:11 その中で王は、どこの町にいるユダヤ人にも、自分たちのいのちを守るために集まって、彼らを襲う民や州の軍隊を、子どもも女たちも含めて残らず根絶やしにし、殺害し、滅ぼすことを許し、また、彼らの家財をかすめ奪うことも許した。

ユダヤ人を襲う軍隊があった

世の終わり、私たちも軍隊に襲われる

 

参照 黙示録16:14-16

16:14 彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

16:15 ――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――

16:16 こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。

 

王と軍隊が召集され、正しいクリスチャンを迫害する

しかし、王たちの結末は、滅ぼされてしまう、だから、恐れるに足らない、仮に批難や問題が集中しても、逆転する

こういうことが聖書にはパラパラと書いてある、聖書は神の知恵によって書かれているので、あっちの箇所、こっちの箇所を持ってきて読むと、全体が見えてくる

 

8:12 このことは、アハシュエロス王のすべての州において、第十二の月、すなわちアダルの月の十三日の一日のうちに行なうようになっていた。

聖書で言う1年間というのは、「世の初めから終わりまで」を言われている場合がある

はじめに過ぎ越しの祭りがあり、次に、7週の祭りすなわちペンテコステがあり、世の終わりには、収穫祭すなわち仮庵の祭りがある

 

8:13 各州に法令として発布される文書の写しが、すべての民族に公示された。それはユダヤ人が、自分たちの敵に復讐するこの日の準備をするためであった。

8:14 御用馬の早馬に乗った急使は、王の命令によってせきたてられ、急いで出て行った。この法令はシュシャンの城でも発布された。

8:15 モルデカイは、青色と白色の王服を着、大きな金の冠をかぶり、白亜麻布と紫色のマントをまとって、王の前から出て来た。するとシュシャンの町は喜びの声にあふれた。

15節は再臨のキリストの姿、王として来られるキリストの姿

初降臨と違って輝きの栄光を持ってくる

 

8:16 ユダヤ人にとって、それは光と、喜びと、楽しみと、栄誉であった。

8:17 王の命令とその法令が届いたどの州、どの町でも、ユダヤ人は喜び、楽しみ、祝宴を張って、祝日とした。この国の民のうちで、自分がユダヤ人であることを宣言する者が大ぜいいた。それは彼らがユダヤ人を恐れるようになったからである。

再臨に関して2面性を語っている

たしかに、再臨の前に正しくキリストに着いた人は根絶やしにされるという計画があり、実際にそれは来る、しかし、それはひっくり返される

艱難は通る、しかし、再臨にひっくり返される、そして、迫害する人は滅びることを言われている

キリストや正しい人に逆らった人は栄華されず、そのままの状態で滅ぼされる

しかし、正しい人は、栄華されるので、Ⅱペテロに書かれているように、地球や太陽が滅ぼされても大丈夫

 

参照 Ⅱペテロ3:7-12

 

3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

 

聖書は、あっちこっち読まないと分からない

世の終わりは報復の日

 

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙1:6-10

1:6 つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、

1:7 苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。

1:8 そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。

1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

1:10 その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

 

10節に書かれていることは、エステル記に書かれていることと、彷彿する

正しい人が艱難に会うことはたしか、しかし、それで終わりになるのではなく、7,8節のことが起きる

さきほど見たエステル記で書かれているように、報復される

このような単純な未来について聖書は書いている

私たちが信仰を失わないためにこのようなことが書かれている

どのような報復か?と、言うとⅡペテロの手紙に書かれているように、火の中で燃え尽きてしまう、そして、それだけで終わるのではなく、なおかつ、永遠の刑罰に入る

火の中とは、すなわち、ロトの時と同様であることを言っている

神の報復は艱難時代に迫害した人に来る

だから、絶望してはダメ、必ず神が報復されるから

くり返すようですが、艱難時代は神の御手の中にあり、すでに定められたこと

そのことをきちんと理解して、神の御心を正しく行っていく

エステル記は艱難時代に向けてのメッセージが書かれている

艱難時代に、絶望したり、迫害者に回ってしまったりしてはダメ!!