ガラテヤ人への手紙3章 2012.9.8,9.16,9.23

 

3:1 ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。

十字架のことが示されたのに、なぜ、迷わせたのか?

迷わせた(kjv):真理から迷わせた→真理に従わなくなる

旧約も新約も、真理は信仰によって義とされる

でも、ユダヤ人は、みな、それに納得せず、パウロに対して怒っている

聖書には正解があり、それが真理

でも、同じ聖書を読みながら、とらえきれないということが往々にしてある

Ex:カソリックは偶像を拝んでいたり、ヒンズー教でも救われると言っている

真理については、必ず攻撃がくる、変な方向に導かれる

真理が見えるように求めていくときに、はじめて見える

あらゆる面でサタンは惑わしを入れる、そして、違う聖書ではなく、同じ聖書を用いて、違う方向に引っ張っていく

参照 Ⅱテサロニケ人への手紙10,11

2:10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

2:11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

惑わしを送る→惑わしに引っ張られる、ゆえに、惑わしに恐れを持つ

惑わしに入る理由:真理に従おうとしなかったり、神のことばよりも自分の考えを優先したりしているゆえ

Ex:何が何でも、艱難前に挙げられるということを盲信→惑わしに入る

真理を見るつもりがない人は惑わしに入る

私たちがすべきこと→謙虚になること、自分にとって不都合な真理であっても、真理をつかんでおこうとしないと、変な霊をつかんでしまう

主の歩みに見習うべき

Ex:イエスは、御自分が十字架にかかることを話したときに、ペテロは「そんなことがあなたに起きるはずはありません」と、キリストをいさめ始めた、しかし、「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言って、キリストは神の御心をどこまでも優先した

参照 マタイ16:21-23

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」

16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

書かれた御言葉を優先するときに真理を見る

自分にとって不都合であっても、真理に従おうとするときに真理が見える

真理に従おうとしないと、惑わしに入る

そういう惑わしに入るような、ひっかけを神は持ってくる

Ex:ナザレのイエスは救い主ではない、ミカ書には、ベツレヘムで生まれると書いてあったが、実際は、ナザレだった

終末、神が、ひっかけ問題を持ってきたからといって、驚くことはない

獣の国アメリカも、ひっかけ

ダニエル書で、バビロンの知者が解き明かせなかった

ヨーロッパが獣の国とか偽ユダヤ人にひっかかる

真理を知ろうとしていくときに神が教えてくださる

同じ聖書を読んでいても、ひっかかる

あらゆる種類の罠がある

真理と偽りについて、必ず間違えがある、しかし、真理に従っていくときに、辛うじて見る

 

3:2 ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

はじめ、信仰によってキリストを信じた

しかし、3節に書かれているように、「肉によって完成される」ということがある

そういったことに関連して、このような例がありますので、参考までに読んでみてください

ホーリネス系の教会では、第2の恵みということで、「きよめ、せいけつ」ということが言われていたので、それを得なければ・・・と、思った、そして、行いに入っていった、しかし、肉の力なので、挫折してしまった、しかも、「きよめ」とか「せいけつ」ということに着眼するときに、罪に対してナーバスになってしまい、どんな罪もゆるせないと・・・そんな風になってしまう、たとえば、些細なことでお互いにさばき合ってしまったり、他人を責めたりする、結果、クリスチャンの限界が来てしまい、信仰が破たんしてしまう、このことはNG

こういったことも、「罠」と言える

つまり、信仰は、肉では、まっとうできないことが理解できる

肉によってまっとうするという罠があるので、くれぐれも気をつける!!

 

3:4 あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。

3:5 とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

御霊によって、パウロは奇跡が行われると言っている

真に聖霊に触れるときに、私たちに奇跡が行われる

私たちの歩みが変えられていく

神はクリスチャンの歩みのうちに奇跡を行われる

祈りを通して、神の働きを進める

主の示しに従う

他の人にために祈る→このことは、超人的なことと言える

人のため、主のために自然に働きを行う→奇跡的なこと

聖霊は私たちの人生に、ありえない奇跡を起こす

 

3:6 アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。

3:7 ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。

3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

アブラムからアブラハムという名に変わった

すべての国民の父:キリスト教のすべての宗派の父

アブラハムは、すべての国民、すなわち、旧約、新約にとっての父

すべてのクリスチャンの信仰の父はアブラハム

アブラハムの歩みは、私たちの信仰の模範

 

3:9 そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

3:10 というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

参照 申命記27:26

27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

ある意味、私たちは律法の下にあるという点は、とらえておく

ただし、アブラハムに信仰の模範がある

表面だけを見ると分からない

アブラハムはイサクを捧げた、そこで示されているたとえを見ないとダメ

 

参照 ローマ人への手紙4:17-24

4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、

4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

19節に「百歳になって」と書かれている、このことは、「肉体が死んだも同然」であることを言われている、そして、たとえの意味合いがある

罪の中に死んだも同然、だけれども、たとえ、罪しかなくても、よみがえりの命があらわれて生きていくことを信じることによって生かされるということを言っている

参照 へブル人への手紙11:18,19

11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、

11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

やはり、これもクリスチャンに対しての型

子どもを殺しても、生き返るという型→復活の信仰

神はイサクをよみがえらせることを信じる→復活の信仰の型

ゆえに、アブラハムはすべてのクリスチャンの型、アブラハムの真似をしなければいけない

アブラハムがしたこと:死者からのよみがえり

このことが言われているのは・・・入るべきところに入るには、アブラハムがそうであったように、寄留者として歩む、なぜならクリスチャンが真に帰るところは天の都だから

アブラハムと同じ経験(死者からの復活)をしないと、天の御国に入れない

死者からの復活をしなければいけない

このことは、結構、時間が、かかること

ちなみに、アブラハムのはじめの子、イシマエルは肉から生まれた、このことは、NG

一方、イサクが生まれるまでは、年月が、かかった(14)

神がアブラハムに約束を与えて、14年かかった

クリスチャンは、死、罪の体に生きているので、放っておけば罪を犯す

しかし、そのまま罪を犯し続けるなら入れない

ちなみに、パウロも何とかして死者からの復活に達したいと言っていた

参照 ピリピ人への手紙3:10,11

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

「死者からの復活に達する」というのは、一生ものの事業

ゆえに、死者からの復活を求めていく、そうするなら、達していく

このことは一生ものの奉仕、そして、このことは後の世ではなく、今の世において体得する

クリスチャン生活のゴールは、死者からの復活に達すること

教理はひとつ

そして、人前で歩むというのは1つのこと、しかし、そこに力点は置かない

死者からの復活にポイントがある

あるクリスチャンはそのように聞いても罪の中を歩む、これはイシマエルの型と言える、ゆえに、家(天の御国)を受け継がない

すべてのクリスチャンが家(天の御国)を受け継ぐわけではない

聖霊によって歩んで、ぜひ、家(天の御国)を継いでいきたい

 

3:11 ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。

 

参照 ハバクク書2:4

2:4 見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

信仰によって生きるということを、ここでも言われている

 

3:12 しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。

3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

 

参照 申命記21:22,23

21:22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、

21:23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書かれているように、私たちは、律法を行わないと、すぐに呪われてしまうような者だった

しかし、主が私たちの代わりに木(十字架)に架けられて、私たちを呪いから解放してくださった、ゆえに、イエス様が十字架に架かったことを信じる人は、律法の呪いから解放される

私たちの代わりに罰を受けてくださったので、律法を守らないという呪いを受けずに済むようになった

本来は、呪いの下にあった、しかし、呪いから救い出された

私たちを呪いから贖い出すために聖書は書かれた

 

3:14 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

祝福に関して→約束の御霊について書かれている

このことは、同章の17-19節に出てくる

約束:神がアブラハムに与えた約束

たしかに、アブラハムが相続の地を受け継ぐのは非常に大事なこと

ただ、それに関して、「約束」のことを語られている

参照 創世記13:14,15

13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。

13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

その前に「約束の御霊」ということばが使われているのを見ておく、これは、アブラハムへの約束

子孫:イエス・キリストのこと

 

参照 へブル人への手紙11:10-13

11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

アブラハムは、旅人、寄留者として、この世で歩み、天の御国を求めた

神がアブラハムに語られた約束:天の都

神がアブラハムに約束の地を与える型であり、アブラハムはクリスチャンの型

このことは、何を言われているのかと言うと・・・罪に死んだ中から生ける信仰が出てくる、いわゆる、復活の型について言われている

この点について言われていること:①復活の経験②私たちクリスチャンは約束の地に入るように召されている

また、場合によっては、約束の地に入れない、追い出されるクリスチャンも出てくるということをも言われている

なぜか?→今は、約束の地から引き抜かれて、バビロンに引っ張られて、クリスチャンが別のものになっているから

しかし、入るべき地に入っていきたい

そのときに「約束」という言葉が、たびたび使われている

それが成就するために大事なのは「約束の御霊」

約束の地に入るために聖書が暗示していること、すなわち、キーワードは、「約束の御霊」

御霊に導かれる人は、天の御国に入る

しかし、御霊に逆らい続けるなら失敗する

クリスチャンになって、良い話を聞くのは1つのこと、しかし逆らう人がいる、従わない人がいる

神から来たものにぶつかってばかりだと御国に入るのは難しい

御霊の声に聞き従っていくかが大きなポイント

このことがいずれ、大きな差になっていく

レムナントも聞き従っていく中で他の教会と区分されてきた

入るべき道に入り色々なことが見えるようになった

Ex:獣の国がアメリカであること、今の時代に起きていること

また、聖霊の声に従い、預言をしていく中で今の時代を悟っていくようになった

Ex:アメリカという獣の国を通して世界中が背教に引っ張られていくという、そのような兆候について、見えるようになった

御霊に導かれていく中でスムーズに理解できるようになった

天の御国に入る鍵は、「約束の御霊」にあるという点について正しくとらえておく

そして、約束の御霊に従っていくことにポイントがあり、実行していく人は入るべきところに入る

 

3:15 兄弟たち。人間のばあいにたとえてみましょう。人間の契約でも、いったん結ばれたら、だれもそれを無効にしたり、それにつけ加えたりはしません。

3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

創世記で主が与えてくださっている

あなたの子孫:イエス・キリスト

アブラハムがその地を受け継ぐ

約束の地に入るためにアブラハムの歩みをする、すなわち復活の信仰を体験する

我々クリスチャン生活のスタートは、罪の中に死んだも同然、また、このことには、問題は無い

しかし、信仰をもって、よみがえることは大事、それは信じて求める人に実現していく

つまり、ずっと、「死んだも同然」ではダメ、そこから出ないとダメ

何とか死者の中から復活に達したい

誰も彼もが肉の中にいる、しかしそこから復活に達した人は入るべきところに入る

もし、達しないなら危ない

その世の人といつまでも変わらないなら危ない

ある種のクリスチャンは、あるところで「死者の中からの復活の信仰」をやめてしまう、見えるところだけを良くする、しかしこれはイエス様がパリサイ人や律法学者に言われたように「白く塗られた墓」になってしまう

しかし、ある人は真剣に「死者の中からの復活」を求める Ex:祈り

そして、パウロが「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と、ピリピ人への手紙の中で言われているように、パウロ自身もこのとき現在進行形だった、要は、まだ、「死者の中からの復活」に達していなかったのだから、私たちも同様と考える

ゆえに、「もう、達している」という人は危ない、このことは真面目に考えて真剣に求めていかなければいけない

 

3:17 私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。

3:18 なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。

3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。

律法は違反を示すために付け加えられた

細かい規定を完全に守って義とされると、そんな風に私たちは考えやすい、しかしそうではなく、細かい規定を通して教えを守れないことや罪人であることを理解してキリストの救いにあずかることが大事、つまり律法はキリストに頼ることを体得するために与えられたもの

 

3:20 仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神は唯一者です。

仲介者はひとりではない、しかし、神は唯一おひとりなので、信用がある

19節に書かれているように、約束は神からなので、こちらに信頼性がある

 

3:21 とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。

旧約&新約のクリスチャンで、すべての律法を守って永遠のいのちを得た人は一人もいない

旧約時代だけでなく、新約時代にも律法はある

律法では永遠のいのちを得られない

 

3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。

聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました→このことは、実際にそう

聖書を読めば読むほど正しくなると思いがち、しかし、守ろうとすればするほどダメになる

パウロもそうだった

参照 ローマ人への手紙7:20-25

7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。

罪の力から誰も自分の力では脱出できないことを理解しなければ天の御国に入れない

 

参照 マタイ19:16-23

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。

19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。

このことは、単に、金銭的なことだけを言われているわけではない

お金とは、「行い」のことも指す

つまり、行いができる人は厄介だと言われている

自分の力では何もできないということを理解しなければダメ、そうしていくときに本格的な福音に入っていく

そして、この箇所は、罪に閉じこめて悪いことしか出来ないと言っているのではなく、律法は自分の力では守れないということを言われている、そうしていくときに、イエス・キリストを信じる気持ちになれる、これは、聖書が定めた方法であり、このことを信じないと的外れな方向へ引っ張られてしまう

Ex:カソリックの巡礼信仰は行い信仰と言える

真理を見ていないときに、そんな風になってしまう

信仰による義が大事

 

参照 箴言19:2

19:2 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。

聖書にある知識は大事、聖霊にあって聖書の言葉を理解したい

 

3:23 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。

3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

3:25 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。

律法とは過渡的なもの

自分の現状、力の無さを理解し、キリストに頼っていく、それが正しい方法

このことを多くのユダヤ人は理解できなかった

これは、ある意味、当時の人々への、神のひっかけだった

今の時代も同じパターン

Ex:多くのクリスチャンは終末について惑わされている、獣の国に関しても的外れなことを言っているし、再臨についての正しい認識も無い(艱難は来るのに、艱難前・中携挙説を盲信している)

神の方法に恐れをもってみていく

 

3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。

私たちはバプテスマを受けるとキリストに着く者とされる

バプテスマ(ギリシャ語):浸す、浸される

これは型、滴霊で受洗したとか全身で受洗したとかは関係無い

私たちは聖霊に満たされてキリストに着く者とされる

1回水を受けて、それで、どうこうということではない

クリスチャンでそのあたりを勘違いしている人がいる

聖霊に日々、浸され続けることにポイントがある

そのためには祈ること!!

祈って聖霊に浸される人がキリストに着く者とされる

キリストを着るとキリストのようなものになる

Ex:看護師の人が白衣を着て頭に帽子をつけると、それらしく見える

キリストを着ると、私たちの外側がキリストになる

聖霊に浸され続けるとキリストのように歩み、考え方、愛を持ち、対応することができる

バプテスマを受けるかどうか?

このことは、毎日のこと

このことに心を向けるのなら、キリストを着ることができる

キリストを着る以上、私たちの外見ににじみ出てくる

バプテスマを受けることにポイントがある

 

3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

聖霊を受け、キリストにあるときに外見的な違いは無い

今も、同じ

人間的な区分は聖霊にあって、あまり関係は無い

それよりも、きちんと弟子として歩んでいるか?祈っているか?忠実に仕えているか?が大事

本当に忠実に仕えているかどうかを神様は見ておられる

このことも一面の真理

 

3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

私たちは約束による相続を受ける

アブラハムは型

父なる神の相続を私たちが受ける

参照 へブル人への手紙

11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

自分の故郷:天の都のこと、そして、入るべき御国に入っていく

ただ、それに関して・・

「もし」という言葉に語りかけがある、すなわち、条件付き

キリストのものであり続けるのなら、この言葉は成就する

聖書は、ところどころ、条件が付けられている、しかし、多くのクリスチャンは、絶対的だと思っている

でも、そのように書かれているのなら、条件を満たさないとダメ

ちなみに条件付に関して、他にもこのような御言葉がある

参照 詩篇89:31,32

89:31 また、もし彼らがわたしのおきてを破り、わたしの命令を守らないならば、

89:32 わたしは杖をもって、彼らのそむきの罪を、むちをもって、彼らの咎を罰しよう。

 

参照 エレミヤ12:16

12:16 彼らが、かつて、わたしの民にバアルによって誓うことを教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって、『主は生きておられる。』と誓うなら、彼らは、わたしの民のうちに建てられよう。

Ex:住まいに関して→家賃を払い続けて住むことができる

同じように、キリストのものであり続けることが大事

このことに関して、敵からの惑わしが来る

思いや信仰に揺るがしが来る

しかし、正しくとどまり続けて、受け継ぐものを受け継いでいきたい

とどまり続けていくときに、見えるべきものが見えたり、必要な啓示や示しが与えられたりする

Ex:獣の国がアメリカであることや、今回のニュースレターでは背教が全世界のキリスト教会に臨むことについて示しが与えられた

ちなみに、ダニエル書では、聖所の土台がひっくり返されることについて書かれている

参照 ダニエル

8:11 軍勢の長にまでのし上がった。それによって、常供のささげ物は取り上げられ、その聖所の基はくつがえされる。

このことは、処女降臨や再臨のこととかが、みな、ひっくり返されること言われている

そしてこのことは、良い麦と毒麦の区分に用いられる

良くも悪くも、はっきりさせられる時代に来ている

もし、悪い霊にバプテスマをされた真理が見えない Ex:艱難前携挙説を盲信

これは、気をつけなければいけない

キリストを受け入れ続けていくときに真理を少しずつ見えるようになる

受けるべきものを受けたり、継いだりする

バプテスマがひとつの大きなポイント、しかも、キリストにとどまり続けることは日々の問題