ガラテヤ人への手紙5章 2012.10.21,10.28

 

5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

クリスチャンは義となる、または、奴隷の子として終わる

自由の子:どれいではない

「奴隷の子」と「自由の子」と、聖書は対比している

聖書は、このことを重要なこととして、強調している

アブラハムの子孫だからと言って、そのまま御国を相続するとはかぎらない

奴隷の子は相続できない

ずっと奴隷の状態か?それとも、どこかで脱出するのか?このことは、クリスチャンの生涯をとおしてのライフワーク(目的)

生涯をとおしてなされることであり、パウロがそうだったように、私たちも現在進行形でもある

参照 ピリピ3:12

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

たしかにクリスチャンは、いったん罪から自由になる、しかし、もう一度、奴隷に戻ってしまうことがあるので、よくよく気をつける

 

5:2 よく聞いてください。このパウロがあなたがたに言います。もし、あなたがたが割礼を受けるなら、キリストは、あなたがたにとって、何の益もないのです。

5:3 割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。

5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

かんちがいの方法について

熱心は良い、しかし、ちがう道律法のおこない

おこないによって義としていくときに、めぐみからズレる

こういうたぐいの巧妙なインチキが入ってきている

おこないによる罠がクリスチャン生活にある

Ex:カソリック、マザー・テレサ(孤児院を経営)

救いがおこないだという罠があるので気をつける

 

5:5 私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。

聖霊によって義とされる

:白い衣 Ex:イエスさま

聖霊によって、きよさが達成できる

「聖霊によって」ということに注目することが正しい

聖霊は「水」にたとえられる

たとえば、こんな例があります

こどもがドロで服を汚したらおかあさんは洗濯機で洗います、その際、洗剤だけでは汚れは落ちませんが、水を入れれば、きれいに落ちます

それとおなじく、私たちの心も聖霊によってきよめられる

ただし、聖霊に働いてもらうのに、楽に・・・と、いうわけにはいかない祈りが必須

それを惜しむなら、聖霊は働かない

手間隙が、かかることは正しく理解する

祈ることで、御霊に触れる中で、「義をいただく」ということがふつうに成就する

たとえば、聖霊に触れていると、義でないことが明確になっていく場合がある

この世的なことに違和感を感じたりする、これは、聖霊や義の感覚とも言える

きちんと祈っていくときに、義になっていく

聖霊をとおして義とされるのが、聖書的に正しい

 

5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

よさそうなものをもってきて、関係ないものを持ってくる

こういう惑わしに入らないように気をつける

 

5:7 あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたのですか。

5:8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。

これは想像ですが、ガラテヤの教会はパウロ以外の教師がいたのでは?

そして、そのような人からおすすめを受けたときに、真理から外れていった、これは、教会が仇になったとも言える

ガラテヤの教会だけが例外的ではなく、多くの教会で、ひんぱんに起きていること

キリストの名でかたられていても、聞けばきくほど、つまずきになり、真理にしたがわないおしえに入っていく

ガラテヤの教会のときだけでなく、いまの時代にひんぱんに起きること

こういったことに関して、他人の失敗からまなぶ

たとえば、キリストの再臨のときには、多くのクリスチャンがさばかれるのですが、こういう真理をさまたげる教理が、アメリカを起点に出てきている Ex:艱難前携挙説

真理にしたがわない方向へ、真理を見させない方向へと引っぱっている

このことは、他人事ではない

さまざまな正しい心理からズレてしまうようなものが、説得力をもって幅をきかせている

Ex:レフトビハインド

いまのキリスト教会のおしえは、真理からズレている

じっさいに反キリストは宗教指導者として登場する、しかし、多くのクリスチャンは政治指導者だと、かんちがいしている

正しく歩まないからインチキにひっかかる

真理に行かせないあらゆる罠がある

たとえば、オフィスにおいても、セールスの電話が、かかってくることがあり、まんまとそれにひっかかる人がいる

それとおなじように、真理にしたがわせないようなおしえが多く、ゆるされているので気をつけなければいけない

 

5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。

パン種が入ると、パンはふくらむ

おなじ意味合いで、パン種を入れると信者が増え、教会が大きくなる

 

Ex:カソリック地獄は無いとかたり、終末についてはかたらない

プロテスタントリック・ウォレンがかたるイスラム教とキリスト教の融合について、特別、異をとなえない

たしかに、このようなことは人受けは良い、そして、インチキなおしえにかぎって広まっていく

いま、キリスト教会に広がっている教理は、どれもこれもパン種ばかり

インチキが広がっているため、聖書の常識が通用しない

パン種だらけなので、すべてを取り除くのは、ほぼ、不可能

参照 マタイ13:33

13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

女は、教会のたとえ、パン種とは、「罪」の入ったメッセージのこと

教会にパン種のインチキが広がるという、たとえ

いまの時代、教会や教理をきちんと見分けなければいけない

たとえば、カソリックは、教会に視点をおいている

そして、教会にはあやまりがなく、しかし、聖書は人が書いたものなので、あやまりがあると言っている

つまり、聖書とは、逆のことを言っている

でも、聖書では何と言っているでしょうか?

参照 マタイ24:35

24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

上記御言葉では、教会が変わったり、まちがえたりすることについて言われている、反対に、神のことばは、変わらないと言っている

ゆえに、カソリックはパン種が行き渡った教会と言える、どれもこれもパン種だらけ

そして、カソリックだけでなく、プロテスタントともおなじ

たとえば、獣の国がどこなのか?宮の崩壊とは何をかたっているのか?ということについて理解していないし、こういうことに関して、見当外れなことをつかんでいる

 

5:10 私は主にあって、あなたがたが少しも違った考えを持っていないと確信しています。しかし、あなたがたをかき乱す者は、だれであろうと、さばきを受けるのです。

「かき乱す者」とは、外部の人ではなく、教会の働き人について言われている

真理と違ったおしえを持ってきて、かき乱す

このことは、私たちに対する警告、そして、往々にして起きていること

そして、働き人に対しての警告、教師に対してのさばきに関しての警告を見ていく

参照 ヤコブ3:1

3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

メッセージの奉仕は、正しくおこなえば祝福、しかし、真理を見えなくしたり、かき乱したりするなら、さばきを受けてしまう働きだということを言っている

ゆえに、悪霊を下すベニー・ヒンやカソリックのおしえにはまちがえがないなどとかたるビリー・グラハムや地獄は無いとかたるローマ法王は、さばきを受ける

一歩違うものをつかむと、さばきの対象になってしまうということは、よくよくとらえておく

しかし、憐れみを求めておこなうなら、主の祝福を受ける

みことばの奉仕には恐れを持つ

かき乱す奉仕にならないように祈り求める

教師のきびしさについても、正しく見ておく

 

5:11 兄弟たち。もし私が今でも割礼を宣べ伝えているなら、どうして今なお迫害を受けることがありましょう。それなら、十字架のつまずきは取り除かれているはずです。

十字架は、つまずきということは、とらえておく

多くの人は十字架を受け入れられない

キリスト教の教えは、万人にわかりやすいものではない

参照 マタイ7:14

7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

しかし、真に求める人は見る

 

5:12 あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。

かき乱すようなメッセンジャーは、キリストの体(教会)から切りとってしまえ!追放してしまえ!と、言っている

 

5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

自由に召された

律法を果てしなく守るというのではなく、聖霊の力によって歩む

愛をもって互いに仕えなさい:クリスチャンのあるべき姿

 

5:14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。

このことは、イエスさまも言われた

参照 マタイ22:37-39

22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

22:38 これがたいせつな第一の戒めです。

22:39 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

愛をもって隣人を愛する、このことを守っているときに、律法のどれもこれもカバーしていく

このことに関して、神の力によって実行できれば良い

自分に置き換えて奉仕をしていく

自分たちの思いや考えを判断して、良いと思うことをおこなっていく

反対者がいたとしても、もっとも大事だと思うからおこなっている

隣人を愛するというとき、場合によっては、悪く思われたり、波風が立つこともある、しかし、おこなっていく

 

5:15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。

これは、クリスチャンのこと、そして、どこの教会でも、当てはまること

クリスチャンであっても、こういう方向に、簡単に行ってしまったり、引っ張られたりする

お互いの間で滅ぼされてしまいます永遠のいのちが得られないと言っている

クリスチャンの交わりが仇になることがあり、どっちも永遠のいのちを得られない可能性がある

だから、たとえ、理不尽なことをされたりしても、やり返したりしないこと!!

教会や交わりが仇になることがある

やり返したりしたら、このことばが成就してしまうので、気をつけなければいけない

そのようなことをしているうちに、滅んでしまうので、警告として受けていく

 

5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

or聖霊によって歩むのか?によって、結果が変わる

行き着く先が明らかに変わる

肉を実行していくクリスチャンがいる、しかし、このことは自己責任

参照 ガラテヤ6:7-9

6:7 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

6:9 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

肉に入らないように気をつける

肉の欲望を満たすだけにならないように、御霊によって歩む

御霊によって歩みなさい(KJV):御霊の内に歩みなさい

御霊の外or内の歩みがある

御霊の内に歩みたいというとき、祈りの中で聖霊に触れる

御霊の感覚というのは、「井戸水」のよう

井戸水の場合、水を汲むのをやめたら水が出てこない、反対に、こぎ続けているあいだは、水が出る

聖霊の働きもそのことに準じるのでは?すなわち、祈り続けているなら、聖霊の中にいる

ある程度の祈りが必要

祈りをやめたら、それっきりになる

祈り続けること!!

 

5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

御霊と肉とは違い、対立する

 

5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

「御霊の実」とか「肉の実」については、具体的に分かる

各自が見ていく

御霊の実を結ぶ歩みをしているのか?そうでないのかを見分けるために書いてある

自分で客観的に判断するために、こういうことが書いてある

自分を点検しなければいけない

肉が優勢だと危ない

クリスチャンでも、結局は肉のみを結んで、滅んでしまう人が多いから、こういうことが書かれている

歩みの先にゴールがある、いまの歩みによってゴールが変わってしまうので、このことは尊重する

21節では、厳しいことが言われている

書いていることに基づいて、クリスチャン生活を点検しなければいけない

せっかく教会に毎週行っていても、御国を相続できなかったら意味が無い

このことは、各自の問題、責任

入るべきゴールを目指していきたい

 

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

御霊に導かれていく

 

5:26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

こういう方向にクリスチャンは行きやすい、しかし、それは虚しいので謙虚になって主のみこころをおこなっていきたい