コロサイ人への手紙1章 2013.5.5,5.12,5.19

 

1:1 神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、

使徒:キリストから遣わされた者

神の御心によって召された働き人と、そうでない人、つまり自分で着いてしまった人がいる

そして、それぞれ結果が異なる

パウロはたしかに使徒の中の使徒

パウロの書簡の数はダントツ

パウロは、復活前のキリストと会っていない可能性がある、ゆえにバックグランドは弱い

生きたキリストから直接教えはもらっていない、ゆえに啓示が与えられた

私たちもある意味、パウロと同じ立場

聖霊の啓示によって、福音の真理のあらゆることが示された

福音の真理は、そのように示される

同じ聖霊に教えられるなら、同じ聖霊に示される

神が召している→色々な恵みと助けがある(アシスタント、応援、啓示、もちろん困難も来る)

神の御心や意志がある場合と、そうでない場合、結果が異なる

終末の啓示も、神の御心によって召されて、その奉仕に着いたという類の人がいる→特別な啓示や教えが来たり、開かれなかった封印が開かれる→レベルが違う、神様の後押しがある

主の従いの中で、神様の導きが理解できるようになる

 

1:2 コロサイにいる聖徒たちで、キリストにある忠実な兄弟たちへ。どうか、私たちの父なる神から、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

「キリストにある忠実な兄弟」になるなら、良いことがある、色々な形で平安や恵みがある

 

1:3 私たちは、いつもあなたがたのために祈り、私たちの主イエス・キリストの父なる神に感謝しています。

1:4 それは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対してあなたがたが抱いている愛のことを聞いたからです。

1:5 それらは、あなたがたのために天にたくわえられてある望みに基づくものです。あなたがたは、すでにこの望みのことを、福音の真理のことばの中で聞きました。

天に宝を積む

参照 マタイ6:1921

6:19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

6:20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

6:21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。

「宝を積む」というのは、時間、エネルギー、集中力、思いのすべてを捧げることに通じる、あらゆるものを費やす、そうでないと、金持ちになれない→時間、手間隙がかかる

 

1:6 この福音は、あなたがたが神の恵みを聞き、それをほんとうに理解したとき以来、あなたがたの間でも見られるとおりの勢いをもって、世界中で、実を結び広がり続けています。福音はそのようにしてあなたがたに届いたのです。

1:7 これはあなたがたが私たちと同じしもべである愛するエパフラスから学んだとおりのものです。彼は私たちに代わって仕えている忠実な、キリストの仕え人であって、

1:8 私たちに、御霊によるあなたがたの愛を知らせてくれました。

1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

あらゆる霊的な知恵と理解力がないと、神の御心は分からない

あらゆる霊的な悟りによって理解する

神の御心を知るのは、思ったほど簡単ではなく、難しいニュアンスがある

表面的に分かっていても、勘違いしてしまうことがある

Ex:パリサイ人や律法学者→イエスをカルト扱いし、結果として滅びに入った

クリスチャンが全然違うことをつかんでいるということがキリスト教会である

Ex:神の愛のみを強調、艱難前携挙説を唱える→神様の御心に反していること

神の御心は、聖霊によって悟る

Ex:仮庵の祭り、2本の角→こういったことを理解するために、神様の言われたことに対して一歩ずつ従っていく、そうすると少しずつ開かれ、やがて全体像が見えるようになる

自分の都合を優先するなら、神の御心見えない

しかし、しもべとなって従っていくつもりがあるなら、徐々に見えるようになる

 

1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。

主にかなった(KJV):ふさわしいような→そのような歩みができるように祈り求める

ぜひ、主に喜ばれる歩みをしていきたい

主に喜ばれるクリスチャンの歩みがある、しかし、そうでない歩みがある

また、神に喜ばれるからと言って、必ずしも人に喜ばれるとは限らない

Ex:カソリックへの警告→良かれと思って行っても、非難されることがある

 

しかし、たとえ人からは悪く思われても、御心に叶った奉仕や歩みをしていきたい

それぞれ結果が異なるので、罪を悔い改めつつ、喜ばれるような歩みをしていきたい→大いになる恵みを受ける

 

1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、

忍耐と寛容を尽くし(KJV):忍耐と寛容を強める

忍耐と寛容において、神の霊的な力や知識や悟りによって強められることにポイントがある

“忍耐&寛容”は、艱難時代のときに、大事なポイントとなる

そして、主に信頼する

正しく主の声に従うなら、必要な訓練や備えが成される

箴言に「知恵が叫ぶ」ことについて書かれているが、神様はあらゆる方法で語られるので、きちんと備えていきたい

主に訓練され、鍛錬されるときに、いざというときに変わってくる

当座は喜ばしくなくとも、色々な訓練は益になる→忍耐や寛容が訓練される

主の訓練に聞き従っていくときに、艱難のための備えができる

主の力によって忍耐と寛容において、必要な備えをしていきたい

 

1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

聖徒の相続分にあずかる資格:天の御国を継ぐ→このことはもっとも尊いこと

主は、後の世に絶えず焦点を当てて歩んでいた→それが正しい

聖書は明らかに、後の世の相続

このことは表面的には、分かっている

ただし、このことに関しては、御国の奥義を知ることと、そうでないこととに関する→弟子と群衆の区分に通じる、そして、弟子には御国の奥義を知ることが許された、しかし、群衆は許されなかった

参照 マタイ13:10,11

13:10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」

13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。

主の弟子として歩んでいく中で、御国の奥義を知る

奥義に関して、さらに御言葉を見てみる

参照 黙示録3:15

3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる

3:2 目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

3:3 だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

3:4 しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

サルデス:赤いもの、すなわち“エドム”のこと、また、“エドム”はエサウの子孫

ヤコブの兄、エサウは自分の相続を売り払った、これは悪いパターン

参照 創世記25:2934

25:29 さて、ヤコブが煮物を煮ているとき、エサウが飢え疲れて野から帰って来た。

25:30 エサウはヤコブに言った。「どうか、その赤いのを、そこの赤い物を私に食べさせてくれ。私は飢え疲れているのだから。」それゆえ、彼の名はエドムと呼ばれた。

25:31 するとヤコブは、「今すぐ、あなたの長子の権利を私に売りなさい。」と言った。

25:32 エサウは、「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」と言った。

25:33 それでヤコブは、「まず、私に誓いなさい。」と言ったので、エサウはヤコブに誓った。こうして彼の長子の権利をヤコブに売った。

25:34 ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。

長子の権利を軽蔑した→エサウは天の御国を受け継ぐのを軽んじた、そして、ヤコブに取られた

このことは、旧約時代だけを言われているのではなく、新約時代の私たちに教えを語るパターンとも言える

エサウ、すなわちクリスチャンは、本当は相続するはずだった、しかし、エサウのように俗悪な者は、相続しないことを言われている

サルデス=プロテスタント

ゆえに、プロテスタントは、相続が危ないとも言える→これは、御国の奥義

どのクリスチャンにも、相続の約束は与えられている、しかし、自ら相続を放棄するクリスチャンが沢山出てくるという暗示

相続の権利はある、しかし、みすみす失いそうな感じ

黙示録31“死んでいる”→罪や罪悪と関係する、このことは、プロテスタントの本質をついている

プロテスタントの名目は、カトリックと分離をし、真理を見ている

でも、イエス様は外見や名目は見ない、本質に興味を持ち、そこを見る

1節は、永遠の命を得るのに、失敗する可能性があるということを言っている

黙示録32“死にかけている”→どんどん罪に入って、滅ぶ

黙示録34“その衣を汚さなかった者が幾人かいる” “幾人” (原語):ほんの少し、ゆえに少ないことを言っている

黙示録35の前半においては、怖いことが書かれている、また、後半においては“いのちの書”について書かれている→小数の白い衣を着て歩む人たちは、名が消されない

でも、そうでない人は危ない→“いのちの書”から名が消される

このあたりが、「聖書の奥義」と言える

群衆は表面しか分からない

黙示録3章は、“罪”に対しての戦いについて語っている

クリスチャンの中で、罪に対して戦いができない人が多い、ゆえに御国を相続できない

プロテスタントが言っていること→群衆の論理&理解、しかし、実際には奥義を理解しなければ入るべきところ、天の御国に入れない、ゆえに道や門は狭いと言える

白い衣→罪に関連する、罪に負けていってしまうクリスチャンが多い、しかし、この世の歩みに入ってはダメ

 

1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

サタンの圧制について

この世の欲、名声に、毎日振り回されている

この世に生きている人は2パターンある→①信者、未信者を問わず、暗やみの圧制の中を生きる人②主により頼む人、そういう人は、暗やみの圧制から脱出する

 

1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

キリストにあって、罪が赦される→これは、神の愛

罪が赦されていないと大変 Ex:一万タラントの負債を負ったしもべ

赦すのが根本、それを一生の間に解決しなければいけない、そうでないと、ダイレクトに負債が来る

 

1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。

見えない神のかたち→たしかに、神は目に見えない、しかし、存在している

目に見えない神、しかし、神を体現した方が歴史上一度現われた→イエス・キリスト→見えるような責任を神は果たしたと言える、ゆえに人の弁解は通用しない

イエス・キリストのうちに、神の性質や行動をあらわされている

Ex:姦淫の場でとらえられた女→キリスト以外は、みな、罪を持っているので、彼女に石を投げられる者は一人もいなかった、そして、罪の無いイエス様も「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言って、彼女を赦した

神様は、私たちの罪を何とかして赦し、助けてあげたいと思われる方

キリストを通して、神は見える形となった

 

1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

1:17 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

キリストによって、あらゆるものは造られた

 

1:18 また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

教会には、トップとなるべき部分がある、そして、そのことを尊重する

キリストを本当にかしらとするなら、恵みを受ける

Ex:ローマ・カトリックは、恵みが無い→進化論を唱えて創世記のことばを否定したりしているゆえ、キリストをかしらから外して、ローマ法王をかしらとしているので、とんでもない方向へ向かっている

主の言われることを守っていきたい

主が、どう言われたか?をたずねていきたい

御言葉を実行しないと、ろくでもない

死者の中から最初に生まれた方:死んで終わりではない

後の世が本番→永遠に続くもの、死が無い

イエス様は第一によみがえった、私たちもちゃんと主についていけば、同じようになる

 

1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、

神の本当のすばらしいところは、“イエス・キリスト”のうちにある

キリストに祈る人は、キリストを通して神の本質に触れる、理解する

この世のものは、益々、キリストから離れていく

この世と同じように歩むなら、この世の人と同じ

キリストに祈り、触れていくなら、神の本質を宿すことができる

このことは理屈ではない、クリスチャンは変わるべき、しかし、変わらない人がいる

ろくに祈らない人は変わらない、キリストに祈る人は変えられていく

神の本質を受け継ぐ、自然に変わる

 

1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、

1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

和解(KJV):平和(戦争状態ではない、仲直りをした状態)

本来、私たちは戦争状態だった

しかし、キリストによって、戦争状態から解放された

主にどんどん導かれるなら、22節が成就する→それを目指す

 

1:23 ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられているのであって、このパウロはそれに仕える者となったのです。

ちゃんと信仰に踏みとどまって神との和解が成立

黙示録→神の怒りが来ている

正しく信仰や望みに踏みとどまりたい、受け入れるべきものを受け入れていきたい

ただし、このことに関して「揺るがし」が来ることは、よくよく理解しておく

主は信仰の模範、その生涯において、サタンによって、ものすごい揺るがしに会っている

Ex:群衆の裏切り

その中でも、主は信仰や望みにとどまり続けた

必ず揺るがしが来る、揺るがされずにとどまるときに、このこと(22)が実現する

 

1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

奉仕者は大変→キリストの苦しみの欠けたところを満たす、これも奉仕の一部

 

1:25 私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。神のことばを余すところなく伝えるためです。

パウロは自分の務めは神から与えられたと言っている

でも、周囲から認められたかどうかは分からない

書簡の数に関して、パウロ以上に与えられた人はいない

しかし、パウロが生きていたときに認められていたか?と、言うと、そうではないかもしれない→私たちもそれに準じる、私たちへの教訓

でも、パウロのように、神から任じられることにポイントがある→必要なことが来る

レムナントは終末の啓示を開く働きなので、必要な示しが来る

神が務めを与える→必要な示しや語りかけが与えられる→主に仕えていく

 

1:26 これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。

何世代にもわたって奥義は隠されていた、しかし、パウロの時代に明かされた

今も同じ、本当に奥義だったら、人からは受け入れられなかったりする

聞いたことがないので、カルト扱いされる可能性がある

評価は二分する、むしろネガティブな評価が多い

本当に奥義なら、全員が受け入れることは無い

パウロは殺されそうになった、ゆえに、受け入れられないからといって、気落ちしてはダメ

ユダヤ人は受け入れなかった、それゆえ救いは異邦人へ行った、今の時代もそうなりつつある

私たちもパウロと同じような目に会うと考える→タフさが求められる、忍耐も必要

カルトと言われても動じない、しかし、このことはある意味、「光栄な奉仕」とも言える

人からは認められないかもしれない、生きている間の評判は期待しない

しかし、神に召されたというのは光栄なこと

 

1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

この奥義:キリスト

キリストは近くにいる

私たちの内側にあるのがキリストの栄光

祈る人は、キリストの栄光に触れる

 

1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

成人:完全な人

 

1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

あらゆる形で、キリストのことを宣べ伝えていた

このことは見習う→奮闘しながら最後まで伝えた

啓示が来たから行っていた→レムナントも準じる、そうしていくときに、パウロに準じた恵みや誉れを受ける

レムナントの歩み→聖書的、パウロがかつて経験した歩み