テトスへの手紙2章815       2014.3.16

 

 

 

2:8非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。

 

 

 

やはり、メッセージや証をする時は健全な言葉を使っていく。

 

適切に語って行くのが大事。 敵対する者も反対できなくなる。

 

クリスチャンは往々にして間違った思い込み、思いを持っていることがある。

 

しかし、神の憐れみによって健全な言葉を用いて行く時に、徐々に是正されていく。

 

什分の一献金には大事なポイントがある。

 

 

 

2:9奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、

 

2:10盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。

 

 

 

奴隷とは、KJVでは仕える人(サーバント)という意味がある。

 

 

 

善い行い、良い仕事をしていく事は、主にあるクリスチャンとしての歩みをして行く時に

 

神の教え、キリスト教の教えを飾る事になる。

 

飾りは目立つもの。逆に悪く飾ってしまう事もあるので注意が必要。

 

我々が、クリスチャンとしての忠実さ、誠実さをあらわしていく時に、それを通して、仕事で関わっている人達も、分かってくれるようになり、証をしたときにも耳を開いてくれるようになる。

 

 

 

2:11というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、

 

2:12私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、

 

2:13祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。

 

 

 

不敬虔な歩みをし、この世の欲に振り回されて行くなら、救いにあずかる望みはない。

 

 

 

第二ペテロ

 

3:3まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

 

3:4次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 

 

 

我々は敬虔に歩むように語られている。

 

不敬虔な人たちは、聖書の言葉が成就しないと思っている。

 

今はまさにそういう時代。

 

 

 

3:5こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、 

 

3:6当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 

3:7しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

 

 

 

3:10しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。

 

3:11このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。

 

3:12そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。

 

 

 

この箇所は文字通り。これらの事は本当に起こる。

 

事実、ノアの洪水の跡は世界中にある。(例えば山の上に貝の化石が沢山ある。)

 

 

 

我々が何故敬虔に歩まなければならないか。  それははっきりしている。

 

それは、不敬虔な人や、罪にまみれてる人、神をばかにしている人はみんな滅んでしまったから。

 

歩みは、救いに直結している。

 

ノアの時の洪水が現実に起きているので、火による滅びも現実に起きる!

 

敬虔な人々には、主の救いが近づいている反面、そうでない人々には滅びが近づいている。

 

 

 

テトス

 

2:14キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

 

 

 

ご自分の民、文語訳では「特選の民」。

 

主がなされた贖いの目的は、まさに「特別に選ばれた民」を聖め、贖い、救い出すため。

 

その、「特別な民」とは、良い業に熱心な民。

 

イエス・キリストの働きというのは、このように特別に選ばれた、神の業に熱心な人々を通して、大いに進んでいく。

 

イエス様の初臨の時もそうであった。

 

福音を聞いた全ての民が「特選の民」だったわけではない。

 

逆に、惑わしの風が吹いた時に、多くの人々はひっくり返され、イエス・キリストを非難したり、「十字架につけろ」とまで言うようになった。

 

12弟子のように、周りから非難されたり、迫害されたり、逮捕の危険性があっても、着いて行った人たちが「特別な選びの民」である。  彼らは良い業に熱心であった。

 

ペテロにしてもヨハネにしても、ペンテコステ以降は、神の良い業に熱心で、教会を立て上げたり、メッセージによって1日に3000人を弟子にしたり、多くの人を救った。

 

そういう民にポイントがある。    今の時代もそうである。

 

神様の大事な働きは、群衆を通してなされるわけではない。

 

レムナントも「特選の民」に、目を向けていく。

 

 

 

2:15あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。

 

 

 

教会の働きが進む中で、主は、「権威」という事を時々語っておられる。

 

御言葉に従って行くべきである。

 

「権威」を持っているかいないかで話の伝わり方が違う。

 

権威は、尊重すべきである。

 

その中で、恐れを持って、奉仕をしたり、主に仕えていく。