ヤコブ書1:1727               2014.12.7

 

1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。 

1:18父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 

贈り物。完全な賜物と書いてある。

贈り物とは、自分が持っていない物を人から与えられる物。

我々がクリスチャン生活をしていく時に、自分の持っている物だけに、頼って行く、また、自分の能力、生まれつきの能力だけを見るのは良くない。

上からもらえる物を求めて行く者は、与えられる。

賜物は、上から与えられる。

賜物とは、贈り物の事であって、これは自分に無い物を与えられる。

我々の真の働きに関しての色々な物、証など。

すべて、良い賜物は、上からすなわち、天の父から来る。

その場合の一つのポイントは、「求める」こと。

賜物は、第一コリント書において、御霊の賜物を求めよと、特に預言の賜物を「熱心に」求めよと勧められている。これが聖書的なスタンス。

「求める」という事がね大いに影響してくる。

ある人は、信じる。自分に何か足りない物があるとしたら、主にある人は求めていく。

ある人は、こういう言葉を聞いた時は「なるほど」と思うのだが、忘れ去ってしまう。

求めもしない、祈りもしない。 それだと何も変わらない。

色々神に求めて行くという習慣をつけない。すると、何も与えられないし、何も変わらない。

イエス様でさえ、徹夜して祈られた。

求めて行く時に、我々にとって大事な物が、与えられる。

最初は何も与えられないように見えたりするが、肝心なのはめげずに祈っていく事。

すると、大事なポイント、事柄が、主によって示されてくる。

これは結局、求めるから与えられる。

ある人は信じて与えられるが、ある人は本気で求めないので、何も与えられない。

大事な警告も上から来る。    賜物は父から来る。

 

1:19愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

 

聞くに早く。これはメッセージ、御言葉で語られている事など。

ペテロやヨハネ。イエス様に「私に従って来なさい」と、言われた時に、網も、船も、父も捨てて、すぐその場で従った。 

聞くに早い。主の言葉を聞いてねすぐに実行する。

これが聖書的な模範。

語るにはおそく。  これは、慎重になる事。そうでないと間違える可能性がある。

今日思いついてすぐ、ではなく、何年間か、御言葉、示し、語りかけ、確認などがある。

我々は、語る場合、御言葉に基づいた事を語るのであり、主の御心に沿った事を語るつもりでも、「語るにおそく」と言うのは、慎重さ。軽率に何でもかんでも思いついた事を語るのではない。

怒るには、遅いようにする。

クリスチャンも、「全く怒るな」とは書いていない。

場合によっては、我々も怒らなければならない場合もあるが、そうであったとしても、「おそく」ありなさいというのは、慎重になるということ。

 

1:20人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

 

人間的な怒りというのは、間違った方向に用いられてしまう。

神のためと思っても、自分の感情からのもので、実は、神のためになっていないという事もありうる。

良い例は、「イエスは神を冒涜している」と言った、律法学者やパリサイ人。

彼らは、神のために怒っているつもりだったが、結果としては、ただ自分たちの感情などを表しているにすぎなかった。   人間の感情が悪い方向に用いられてしまい、あろうことか、救い主を殺害してしまった。

 

1:21ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

 

御言葉を、正しく素直に受け入れていく時に、その御言葉が我々の魂を救う事になるので、この事を尊重していきたい。

逆に御言葉を、素直に受け入れない時に、救われるべき者が救われない可能性がある。

しかし、正しく御言葉が植えつけられていく時に、これは我々を救う。

書かれている通りに、いのちに至る門は狭く、滅びに至る門は広い。

サタンは、我々の最も大事な「永遠の命」に照準を合わせている。

世の終わりには、サタンは大量に、クリスチャンの永遠の命を奪う。

しかし、感謝な事は、我々はそのポイントを気を付けているので、守られる可能性が高い。

多くの人にとっては、「いのちに至る門は狭い」事を言葉として知っているけれども、実感を持っていない場合が多い。その場合、「みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」 だから、心に植えつけられた御言葉を素直に受け入れよという事。

結局これは、言葉として「いのちに至る門は狭い」という事を知っているだけで、素直に受け入れなかったり、留まっていなかったりすると、結構あっさりとサタンに惑わされてしまう事がある。

我々が、どれほど御言葉を受け入れるかという事は、まさに救いに直結している事をよくよく覚えておくべき。教会に来ている全ての人が救われるわけではない。聖書を持っている全ての人が救われるわけではない。逆に、正しくみ言葉を受け入れて、それが、そういう人にとって真実となっている場合、御国に入る可能性は大いにあるが、言葉だけ知っているのみで、見るには見るが、悟っていない場合、殆ど救いと関係なくなってしまう事がある。

「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り」

クリスチャンであっても、汚れや悪を捨て去らなければならない。

我々は、汚れとか、この世の罪から解き放されて行かない限り、正しく救いを全う出来ない

という事を正しく理解しておくべき。

 

ヨハネ福音書

5:2さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

5:3その中に大勢の病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。

5:5そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

5:6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

5:7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 

5:8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 

5:9すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

 

先ほどのヤコブ書では、「あふれる悪」、「汚れ」などが書いてあるが、そういった事から我々は、どこかで、罪、汚れ、弱さなど、そういった事から抜け出さなければ、我々は入るべき所に入れない。

聖書が明らかに語っているように、自由の子は家を相続するけれども、奴隷は家を継がないと書いてあるが、喩えである。奴隷は天の御国の父の家を継がない。我々が罪の奴隷として歩んで行くならば、入るべき御国に入れないし、天の父のものを相続できない。逆に滅びに入ってしまう。

なので我々はクリスチャンとして歩んでいく時に、罪、汚れ、自分の弱さと言った事から、どこかで解放されなければならない。

それに関連して、この箇所には、病人がたくさん出て来るが、これは、肉体の病人。しかし、喩えの理解をしていくならば、これは霊的な病人だったり、自分の肉的な弱さだったり、場合によっては罪によって正しく信仰の歩みが出来ない人達等の意味合いにもとる事が出来る。

3節には「大勢の病人」と書いてあるけれども、病人という言葉も、無力という言葉になっている。

57節にも病人という言葉があるが、他の箇所では、無力、身体が無力すなわち病人という

けれども、ギリシャ語では、肉の弱さ、罪によって弱くなったなど、そういう所で使われている言葉なので、病人とあるけれども、それは霊的な病人とか、罪、弱さなど、そういった事

に関しての意味合いもある。

「大勢の病人、盲人、足なえ」・・・足がなえているので、信仰の歩みが出来ない、まともに奉仕が出来ない、まともに聖書が読めない、祈りも出来ないなどの意味。

やせ衰えた者・・・原語では、渇いたという意味、聖霊の働きが無いなどの意味合いがある。

38年もの間病気にかかった人がいた。伏せっていた。 つまり、信仰の歩みが出来ていない。

すなわちクリスチャンとして、何の歩みも進歩もないという事。

その人の問題点として、主が語っている。その人は、癒されるのを待っているけれども、主は、「よくなりたいか。」と言われた。 これを原語の意味でとると、意志という言葉が出て来る。

「良くなるつもりがあるのか」「そういう気持ち、意志があるのか」という意味。

主が指摘している事は、そういう事。

 

5:7病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

 

いわゆる言いわけをしている。しかし、イエス様はこの人自身の意思に関して訊かれた。

 

5:8イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 

 

彼自身が「起きて、床を取り上げて、そして歩め」

その通りにして、彼は癒された。

「床を取り上げる」という言葉。 これは、片づける、取り除くという意味合い。

一つは、我々の弱さ。罪につながっている。 

一つは、自分の意志に問題がある。自分自身が床を用意しておいて、いつでも倒れてもいいように用意している。  主は「それを片付けろ」と言われている。

 

5:6イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

 

これは自分の意思の問題。

真に良くなりたくなければ、すぐに倒れこんでしまう。

 

ヤコブ書

1:22また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 

1:23みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。 

1:24自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

 

この様なクリスチャンは、結構多い。

聞くだけの御言葉はその人に何の変化ももたらさない。

また、その人を永遠の命にも導いていない。

ただ、頭の中に、知識の断片が増えただけのこと。

それはその人の信仰の成長に寄与していない。

 

1:25ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

 

事を実行する人。その人は行いによって祝福される。

御言葉は行なってこそ意味がある。

御言葉を行なって祝福される事はよくよく覚えておくべき。

我々の体質も変えるようにしていった方が良い。

腰が軽い人になると良い。

御言葉をきちんと実行する人が、クリスチャン生活においても進歩する。

またね本質を掴む。  また、入るべき永遠の御国に入って行く。

自分の中に、そういう体質を身につけて行かないと、全くクリスチャン生活が変わって来る。

 

1:26自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

 

自分の舌にくつわをかける事は大事。   自分の発する言葉に気を付ける。

 

1:27父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

 

孤児とは、地上に父がいないという事。

「地上の誰をも父と呼んではならない」と主は言われた。

そういった歩みをしているクリスチャンをさす。

やもめは、夫のいない女。

地上の誰をも夫としない女(教会)のこと。

本当にキリストのみを、天の父のみを頼りにしている人達。

そういった人たちの世話をする。

喩えの意味合いでは、そういった事にポイントがある。

この世から自分をきよく守ることは、罪などから、自分をきよく守る事。