ヤコブ書1:110       2014.11.23

 

:1神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

 

「しもべ」という言葉。英語で見ると、「奴隷」という意味合い。

旧約聖書の中で、「奴隷として主人に仕えて行く」というニュアンス。

パウロも同じことを言っている。

主に仕えて行く人は、奴隷の様に仕えて行く。そういった事が新約聖書の中で、度々出て来る。

これは、強制ではない。 

旧約聖書の中の奴隷もそうである。 律法によれば、自分で、主人に仕えたいと思って、そのように表明する者は、耳をキリで刺し通す。つまりピアス。  ピアスにはそんな意味がある。

強制ではなく自分の意思で主人に仕えて行く、そんなニュアンスがある。

我々が、神の働きに仕えて行くという場合は、奴隷として仕えていく事が、聖書の中で奨励されている。

ヤコブにしても、パウロにしても、自分で身をもって、主に仕えて行く、そのように書かれている事を覚えておくべき。

 

1:2私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。

1:3信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。  

1:4その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 

「様々な試練に遭う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」

あまり聞きなれない言葉だが、そのようにヤコブが言っているなら、それなりの意味合いがある。

試練という事に関して、一つは、イエス様が、荒野でサタンの誘惑に遭われた事。

この試練も同じ言葉が使われている。また、ヨブのような試練もあるかもしれない。

これらに関してはねこの上もない喜びとせよと、そのように言われている事は、心に留めておくべき。  その理由として、「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」

試練に遭ったり、困難にあったり、または、サタンが来て、身体も思いも試す時というのは、人間的な事を言えば、嬉しくない事。しかし、はっきりしている事は、我々が、主によって、

試練を試されている時に、ヤコブの言うように、忍耐というのは、自然と訓練されて行く。

この事は事実。そして、我々が、信仰生活を送り、得るべきもの、主の働きを担ったり、永遠の命を得て行くという時に、忍耐力がついているといないとでは、全然違って来る。

例えば体力にしても、日ごろ鍛えている人とそうでない人とでは違う。

我々が、困難とか試練に遭う時に、嫌でも、忍耐が生じる。

信仰が試されると忍耐が生じる。  つまり4節は、忍耐が肝心だと言っている。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

クリスチャン生活において、我々が試練を得て、その結果忍耐が生じる。

そうすれば、ちょっとやそっとの事では、我々は揺るがなくなる。

そういう意味合いでは、ヤコブが、「試練はこの上もない喜び」と言っているのは、決してやけで言っているのではなく、実際にそうであるから。

いろんな試練、あの試練、この試練で、体力がついて来る。

これは、後の日に大いに益になる。

「信仰がためされると忍耐が生じる」 信仰は、試されるものだという事も覚えておくべき。

アブラハムの時がそうであったように、信仰は、試されるもの。

忍耐がついていく時に、いろんな事柄に対応できていく様になる。

「その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

そういう経験をしていった時に、他の働きにも、応用していく事が出来るようになる。

また、神様が、どの様に物事を進ませていかれるかが、分かって行く。

そういう意味合いでは、一人一人のクリスチャン生活というのは、信仰を重んじる。目に見えない事を望んでいくのが信仰。  目に見える事は信仰ではない。

色々試練があるけれども、それを通して、体力がついてくるという事。

これは益になって来る。

 

1:5あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。

 

ヤコブは、知恵について語っている。

足りない物は、色々あるかもしれない。 しかし、ヤコブは知恵について語っている。

故に知恵というのは大事な事。

「知恵の欠けた人がいる」 自分に知恵が欠けていると思うなら、知恵を神に求める。

この世の知恵は、往々にして神の御前に失敗するので、主の働きを成していくという時には、主の知恵を与えられたり、主の与えて下さる方法等を主によって求めて行くのが良い。

聖書の他の箇所では、「この世の知恵は、神を認めるに至らなかった」と書いてある。

主の知恵を求めて行くのは良い。

レムナントにては、月刊バイブルにしても、角笛ニュースレターにしても、神は必要な内容を与えて下さる。

 

1:6ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。  

1:7そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。

 

我々が祈って、神に求めるというのは一つの事だけれども、その時に、疑う心を持っていてはダメ。それでは信仰ではない。

少しも祈りが答えられないという時には、やはり、祈ってはいるが、信じていないという事がないかどうかを考えなければならない。  また、自分の欲望のために祈ってはいないかを。

信じた人は、主から、祈りの答えを受けるというのが、聖書の中で度々語られている事。

アブラハムがそう。彼は子供が生まれる、子孫が生まれると言われた時に、自分の身体が100歳になり、死んだも同然であって、サラも99歳であったが、彼らは信じた。

サラは、笑った事もあったが。 アブラハムは明らかに信じた。そしてその信仰の答えを得た。

これを通して知らなければいけない事は、やはり、信仰の試練という言葉もあるように、祈ったことは、信仰で神の御前に祈るという時に、やはり一つは忍耐を試されるという事は、ヤコブ書で、繰り返し言われている。

「信仰が試される時、忍耐が生じる」「少しも疑わずに信じて行ないなさい」というのは、信仰が試されたり、揺るがされるような事を経て、その中で、揺るがされた人は結局、「そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」と書いてあるように、何も得られない。求めて祈っても、場合によっては、答えられなかったりすることもある。

信じたつもりで祈って、信仰の試練を得ても、尚且つとどまった人は、祈りの答えを得るというのが、聖書的なパターン。

この事は体得しなければならない。 祈った全ての人が答えを得るとは限らない。

疑って祈る人は「主から何かをいただけると思ってはなりません。」とある。

信じていない人は、祈っても何ももらえない。

アブラハムがよい例だが、やはり、信仰の試しは来る。  それで、留まるかどうか。

留まれば業を見る。

主にあって、奉仕をしていった時にも、やはりたびたび、これを経験する。

レムナントでは、「警告のニュースレター 角笛」を毎月送っているが、皆で祈って、確信を持って進めたが、最初は酷いものだった。怒りの電話や、購読中止の葉書などがいろいろ来た。

やはり、嫌な感じはする。  そこが信仰の揺るがし。それでも続けて行った。

揺るがされずに行って行った時に、段々状況は変わってきた。感謝や献金が送られてきたり、12か月、発送が遅れた時には、催促の電話が来たりした。

不信仰になってやめてしまえばそこで終わり。

少しも疑わずに信じて願って行く事が大事。  その時に我々は、神の働きを見たり、祈りの答えを見たり、働きが進んで行ったりする。

信仰の答えを見る時、祈る事はもちろん大事だが、揺るがしの中で、信仰が失せてしまったり、疑いの中に入ってしまう、これは、信仰の答えを得られないパターン。

是非、とどまる事が出来るように求めて行きたい。

「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。」

喩えの解釈では、海というのは、霊的な事柄。海は、水から出来ている。

「私を信じる者は、その腹から生ける水の川が流れる」と、イエス様は言われた。

キリストを信じる時に与えられる聖霊をさすと言われたが、聖霊も水、また、惑わしの霊も水。

「海の大波」とは、惑わしの霊の大波。

その中で、疑ってしまってはいけないという事。

 

1:8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

 

二心という言葉。  原語の意味合いでは、旧約では、ギリシャ語では、二つの息(プシュケー)

息というのは、聖書の中では、特別に使われている言葉。それは、旧約聖書を読めば分かるが、

アダムが造られた時に、神が息を吹き込まれ、人は生きたものになった。

 

エゼキエル

37:5神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。

 

最後に息が吹き込まれると、生きて行く、または生き返って行く。

 

37:8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。

37:9そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」 

37:10私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

 

死んでいたのに甦る。これはやはり、聖霊の喩え。

我々は、死んだ者であっても、聖霊の息が与えられ、生き返って行く。

 

ヤコブ書に戻るが、「心」と書いてあるが、ポイントは、霊的な事柄であると理解できる。

問題のある人がいるという事。 それは、二つの息を持っている人。  聖霊の息と、または、悪霊とか別の霊を持っている人。そういう人は、すべての安定を欠く人になるという事。

この様に書いてあるという事は、こういう人はいるという事。

聖霊はその人に働きかけている。しかし、その人は、聖霊の声も聞いているが、悪霊の声も聞いてしまっている。  両方の声を聞いてしまうと、一つ目は正しくても、二つ目で間違えてしまう。そうすると、「その歩む道のすべてに安定を欠いた人」になってしまう。

こういうクリスチャンは結構多い。問題は、二つの息を持っている事。

良い語り掛けもあるが、別の語り掛けもある。場合によっては、社会において歩む道すら不安定になってしまう。

 

ヤコブ書

1:8そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

 

「歩む道のすべてに安定を欠いた人」・・信仰生活の歩みも、聖書の理解においても、奉仕においても、安定を欠く。

解決は、二心を一心にすること。聖霊の声のみに歩んで行くという体質に変わって行かなければならない。そうでないと、役に立たないし、主も、任せてくれない。

しかし、ポイントをついていく時に、心が一つになって行く時に、段々、奉仕が、安定を増して来る。主の憐れみの中で段々、ブレーキをかけるような、色々な惑わしとか、不安定な事柄から少しずつだけれども、解放されるようになって来る。

基本的には祈り。また、惑わしの声に聴き従わない事!

また、それを見分けられるように祈ること。正しい御心を行えるように毎日祈ること。

徐々に分かって来る。 一つの声を聞くようになった時に、歩みは抜群に進歩していく。

安定してくる。  主も奉仕を任せて下さったりする。

なので、二つの声を聞かないこと。二つの息を持たないこと。

多くの人にとって、この事は無縁ではない。

一つの声を一つの霊、すなわち息によって動かされて行く。この事を求める事。

悪霊の声がけや、惑わしの声がけを聞くと、一人一人の歩みを不安定にさせていく。

話は単純ではない。往々にして二つの息をもつということはある。

これは大いに安定を欠くポイントなので、このあたりを気を付けて、何とか一つの声に従って行くことが出来るように、求めて行く事。

 

1:9貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。 

1:10富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。