ヤコブ書1:918              2014.11.30

 

1: 9貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。

 

この世の中では、貧しい人は嫌われたりする。

しかし、「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」とある。

具体的に、お金が無くて貧しいという事もあるかも知れないが、それと共に喩えの意味合いも見て行く。

教会では、お金が無くても、主にある、神の子とされていると言う意味では、高い身分という事もある。

「貧しい」という言葉を原語のを調べて行くと、よくぶつかって来る言葉がある。

それは、「必要がある」とか、「物を乞う」という意味合い。

乞食は、格好良くはないが、喩えの意味合いとしては、すぐ、神の御前に必要を求めて行くという事。逆に金持ちは、自分がたくさん持っているので、物を乞う必要がない。

しかし、この箇所を見ていく時に、貧しい人は歓迎されているが、金持ちは「草の花のように過ぎ去って行く」とまで書かれている。

神の御前にいろいろ求めて行く人は、神の前に好ましい人。

逆に神を必要としないひとは、神から離れて行く。

祈りによる願いは、神に触れる方法でもあるので、祈る必要は、あった方が良い。

どんな些細な事でも、主の御前に祈って行く人は、恵みを受ける。

我々がそのように貧しい者として、主に何でも求めて行く事は感謝な事。

逆に、「祈る必要がない」という人は、ろくでもない事になる。

貧しい者は幸い。

「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」

「高い身分」について調べると、

 

エペソ書

4:8そこで、こう言われています。「高い所に登られた時、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」

 

高い所に登られたのは、イエス・キリスト。

また、聖書の他の箇所では、「いと高き所から力をきせられるまでは都に留まっていなさい」

いと高き所は天。

言わんとしている事は、我々が、喩えの意味合いとして言っている事は、貧しく、主に求め続けていく人は、天の高い所に挙げられる。  こういう事柄は、覚えておくべき。

祈って、何でも神に求める事が習慣となっている人は、天から力をきせられたり、天に挙げられていくという事。

必要な霊的な高み、啓示、天における知恵、天からの悟りを受ける。

高い所からの啓示を受ける。これが尊い。

 

ヤコブ書

1:10富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。

1:11太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

 

お金を多く持っている人は、それをもって高ぶる事はもちろんあるが、喩えの意味合いがある。

富んでいる青年の話では、自分の力で、全て出来てしまう、律法も行なえてしまう。神の前に「あれを下さい、これを下さい」と言う必要がない。イエス様が「これらを全て売り払って私に従って来なさい」と言った時に悲しみながら去って行った。

「金持ちが天国の門をくぐるのは、らくだが針の穴を通る方がまだ優しい」

我々が、富んでいて、しかも神の前に、どの行い、この行いに関しても、何も求める必要が無い、みんな自分で、楽々出来てしまうという時に、人間的には、この世で称賛される事。

しかし、神の御前にはそうではない。 我々は「あれもこれも出来る、全く神様に祈る必要がない」という時に、神の国に入るのは難しい。 そういうポイントは捉えておく。

喩えを理解しないと殆ど分からない。

ここでは、その様に富んでいる人、神の御前に求めて行く必要のない人に関して、「富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行く」とか「太陽が熱風をともなって上って来ると草を枯らしてしまう」「美しい姿は滅んでしまう」と書いてある。

 

イザヤ書

40:6「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。

40:7主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。

40:8草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 

ここで書いてあるように、人間的な力、栄光、自分の力に頼っているというのは、結局は過ぎ去って行ってしまう。ヤコブ書に書いてあるように、富んでいる者、才能、力、能力など。

「求めて行く必要はない」というのは、神の働きを担っているようでいて、実は自分の力に頼って行なっている、そういった働きをしている時に、

 

ヤコブ書

1:11太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。

 

とある。 これはシビアな事。   これは、神が判断する。「この人は貧しい人で、神に頼って働きをしている」「この人は富んでいて、どこまでも自分の力に頼っている」など。

神がそのように判断した時に、この言葉はシビアに実現する。

「太陽が熱風を伴って上って来ると」  太陽は大きな器、これはキリスト。

草を枯らしてしまう。結局その働きが消えて行ってしまうと言うように、そのような牧師もいる。結構すごい能力があっても、結局その働きは消えてしまう。

でも、先ほどのイザヤ書の言葉で、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」ということ。  結局、自分の力とか、能力的なもので、自分の考えを述べて行ったり、神の言葉を語っているようでも、微妙にずれている。

艱難前携挙説を語っていたりする。これは、神の言葉を語っているのではなく、自分の考え、能力に頼って語っている。結局それは滅びて行く。

我々は、「神の言葉は永遠に立つ」とあるように、神の言葉に立って行くなら大丈夫。

萎まず、栄光を見ていく。

 

1:12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

「試練に耐える人は幸いです。」と書いてある。

試練というのは、誘惑というものにも訳せるが、クリスチャンには、すべからく、永遠の命に与る可能性があり、その門は、誰に対しても開かれている。しかし「その門は狭い」と書いてあるように、現実に狭い、しかもその前に意地悪な存在が立っている。それはサタン。

例外なくやってくる。  そして、試して来る。

聖書に書いてある事は、我々に対する教訓。

我々の希望に沿って聖書を読んではいけない。

「こうなったらいいな」ではなく、逆に聖書に書かれている事柄に従って、自分の人生を考えなければならない。

ヨブ記が語っている事は明らか。

それは、ヤコブ書に書いてある通り。

 

1:12試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

 

いのちの冠とは、永遠の命のこと。

永遠の命を受ける前に、ある意味では、どの人もこの人も、ヨブほど極端でなくても、必ず試練を受ける。試練は平等に来る。試練というのはテスト、悪魔の試み。

なぜ命の門は狭く、その道は狭いかというと、たいていの人は、サタンがやってきた時に、ころっと惑わされて、違うものを掴んでしまう。

いい例がエバ。彼女はしっかり神の言葉を掴んだつもりでも、善悪の知識の実を見て、食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木は、いかにも好ましかったので、言っている事がおぼろげになってきてしまった。結局サタンに惑わされて、滅びに至る実を取って、いのちの木から閉め出されてしまった。これはね永遠の命を失う人のパターン。

この箇所からわかる事は、我々が試練の途中で、失敗してしまうと、いのちの冠を受けられない。

聖書を右から見ても左から見ても、永遠の命に至る道は狭い。

狭いというのは、試練を耐え抜くという事。しかもその人の弱い部分を攻めて来る。

 大なり小なり来る。

イエス様の場合もそう。  ヨブにおいても、イエス様においても、そうだった。

我々にても例外は無い。

ここを見て、はっきりわかる事は、クリスチャン生活というのは、いわば、受験生みたいなもの。その試験に耐えたら、入るべき所に入っていのちの冠を受ける。

我々は、試練に耐える事に対して真面目に考えなければならない。なぜなら、失敗したら後がないから。  カトリックで言っている「煉獄」などは存在しない。

試練に耐える人は幸い。  試練は、一人1人違う。

永遠の命を得るまでは、いろんな試練がある。

耐え抜けず、途中で脱落してしまう人は多い。

 

1:13だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

 

神は誘惑しないが、サタンは誘惑してくる。

サタンの働きは神によって許されている。

主イエスキリストの生涯は、非常な試練に耐えている。

イエス様の歩みが、信仰の導き手であり、完成者であるので、これは模範。

似たようなことが起きても驚く事ではない。

試練というのはそれだけシビアなもの。

しかし、入るべき永遠の命は尊い。

今のクリスチャンはね根本的なところで大きな間違いをおかしている。

ひとつは、クリスチャン生活はスタートは分かるけれども、試練に耐え抜くことに関して勘違いしている。しかし、これは、どんなクリスチャンも通る。途中で脱落してしまったり、違うものを掴んでしまう。

 

1:14人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

 

試練の一端が、罪の誘惑。  これに引っかかってしまうと永遠の命が危ない。

具体的に言えば、エデンの園。

エバの様に、見るに良く、食べるに良く、賢くするにふさわしいと言ったように、人間的な欲求、すなわち欲。それでもって、魅かれて行くという事。

サタンは、人間の弱いところを欲で引っ張れるという事をよく知っている。

そこを攻撃してくる。

「おびき寄せられる」の原語の意味は、餌で引き寄せられる、おびき寄せられるというニュアンス。 サタンは結構成功している。その時のパターンというのはだいたい似ている。

我々の、欲的な部分を見るに良く、食べるに良く、賢くするにふさわしいと言った部分をよく用いて来る。

 

1:15欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

 

我々はクリスチャン生活の中で、罪を犯しても、悔い改めれば良いのだが、我々が、クリスチャン生活が、エバみたいに、しょっちゅうサタンに惑わされたり、欲に生きる生活をして行く

と、罪と関係してくる。死は、永遠の死に通じて行くので、我々が欲に駆られて行くのを繰り返していると、それは罪を生むし、繰り返し罪を行なう生活をずっと続けて行くと、結局それは永遠の死に至る。

我々は、どこかでそれを断ち切らなければならない。

我々は、自分の欲や罪を、神様より優先させた生活をしていく時に、たとえ教会で立派なメッセージを聞いていても、結局永遠の死に入って行く。

どんな人でも、弱点となる欲はあるけれども、それをどうやって対応して行くのか、これは別の問題。  サタンが、欲を餌にして、引っ張って行くという事が書かれている。

主は罪に関して厳しい事を言われている。

「あなたの右の手が罪を犯しているなら、切って捨てなさい両手がそろったままでゲヘナに入るよりは、不具になってもいのちに入る方が良い」

サタンがしつこく、誘惑してくるが、どこかで決断しなければならない。

どちらを選ぶのか、欲と罪を離さない歩みをするのか、それとも、主に従うか・・・

両方を取る事は出来ない。

 

1:16愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

 

どこかで罪と決別しなければならない。  両立は不可能。

「ずっと罪を犯し続けても天国行き」と思ってる人は騙され、惑わされている。

 

1:17すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。 

1:18父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。