ヤコブ書2:111       2014.12.14

 

2:1私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。 

2:2あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。 

2:3あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、 

2:4あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

 

人を差別してはいけないという事。

書いてある内容は、金持ちに良い席を提供し、みすぼらしい人には「そこに立っていなさい、または、足元に座っていなさい。」  それではいけないという教え。

聖書には御国の奥義がある。

特に終末には、奥義などは封印されていて、読めないという事柄がある。

しかし、主の憐れみによって、封印が開かれ、必要な奥義が開かれるように求めて行きたい。

金持ちと、貧しい人。この箇所は一見すると、人を服装などで差別してはいけないという教え。

もちろん、差別してはいけない。

しかし、その事のみではないニュアンスが所々にある。

例えば、筆者のヤコブは、金持ちに対して悪く書いてある。

6節では「あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。」

7節では、「あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。」

もっとすごい事には、「金持ちは、人を殺すようになる」とまで言っている。

 

2:11なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

 

ここで、穏やかでない事を言っている。  殺人とか、人を死に至らせるとまで言っている。

同じヤコブ書の5章では、金持ちに対して、預言的な事を語っている。

 

5:1聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。

 

5:5あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。

 

金持ちは殺される、と書いてある。

 

5:6あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。

 

金持ちは人を殺すと、はっきり書いてある。

ヤコブ書においては、金持ちは「人殺し」

こういったラインでヤコブは語っている。

これは、隠された奥義であったり、世の終わりの事に関して、神様が封印をもって封じられている事柄。

主が示して下されば、封印は開かれ、主にあって正しく読む事に通じる。

2章の1節で「人をえこひいきしてはいけません」

同じ事柄が、一つは、これから起こる終末に関しての事柄。

大きなキリスト教会の問題というのは、「えこひいき」に対しての事。

人を片寄り見てしまうということ。

これから、正しいクリスチャンが誤解されていく時代になるという事を預言している。

イエス様の時代もそうだった。

イエス・キリストも、誤解されて片寄見られて、罪に定められ、命まで失った。

「あれは悪霊憑きだ」など、間違った理解をされた。そして、最後には逮捕され、縛られ、

裁判にかけられ、死罪になり、命を奪われた。

そしてそれは、終末に起こる事の予表。

「えこひいき」 これからの時代、クリスチャンは、教会において、集まりの時に、金持ちと貧乏人が来るとき、間違った判断をして行く様になる。

 

2:2あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人がはいって来、またみすぼらしい服装をした貧しい人もはいって来たとします。

 

金の指輪、金は信仰を表す。

喩えの意味合いとしては、信仰に富んでいること。

立派な服装。

ギリシャ語の原語で調べると、

 

黙示録

15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。 

 

「きよい光り輝く亜麻布を着て」・・これが「りっぱな服装」と同じ言葉。

これで、金持ちの事が段々見えて来る。

喩えの意味合いで、すごい信仰者という意味合い。

そして、素晴らしい御使いと同じかっこうをしているので、神の前に立派な歩み、行いをしているように見える人達。

これは、これからキリスト教会に、惑わしが起きて来る日を予表している。

素晴らしい信仰者、賜物、ものすごい癒しの器だとか、そういった人達が尊重されて、貧しい、すなわち神の前に貧しい人達が、教会の中で疎外されてしまったり、悪く思われてしまったり、

極端な話、死に至らしめられたりなど、そんな時代が来るというように語っている。

 

ヤコブ書

2:3あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい。」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい。」と言うとすれば、

 

教会が、世界的な規模で、賜物とか信仰の器というような人が持ち上げられてくる。

対し、貧しい人は、聖書的には歓迎されている。「心の貧しい人は幸いです」

「足もとにすわりなさい。」という言葉。これには意味合いがある。

ギリシャ語の言葉の意味合いを見ていくと、「足台」という言葉が使われている。

足台という言葉は、聖書の中では特別な言葉。

 

ルカ

20:42ダビデ自身が詩編の中でこう言っています。『主はわたしの主に言われた。

20:43「わたしが、あなたの敵をあなたの足台とする時まで、わたしの右の座に着いていなさい。」』

 

ここにも「足台」という言葉が出て来る。

足台とは、この様なニュアンスばかり出て来る。

足台とする = 敵とする

この箇所が言わんとしている事は、これから出て来る金持ち、すごい信仰や行い、賜物の器、

そういった人が極端に尊重される時が来る。

対し、「貧しい人は幸いです」といった、主の前に求めている人達は、「足台」、すなわち敵扱いされてしまう。敵意で教会の中で扱われてしまう。そういう時を予見しているように見える。

 

ヤコブ書

2:4あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

 

この箇所が喩えで言っている事は、教会の中で神の意図に反した裁きが行われるという事。

そういう意味では、信仰、行い、賜物に満ちた者が入って来て、器崇拝が起きて来る。

それと共に神の御前に真に喜ばれる筈の人達が(貧しい人達)、敵意に囲まれ、敵扱い、神の敵とまでされてしまう。

イエス様の時も同じだった。主イエス・キリストは歩めば歩むほど、律法学者、パリサイ人から罪人扱いされ、逮捕され、死刑にもなってしまった。

そういう時が再現するというニュアンスが感じられる。

4節にあるように、悪い考え方。

すなわち教会の中で、悪い考え方で裁かれてしまう。そういう時が来る。

神の御前に正しい信仰の持ち主が、教会の中でいろいろ迫害されたりするという事が来るという事が、聖書の中で、あちらこちらに預言されている。

 

マルコ

13:9だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。

 

13:11彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。

13:12また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。

13:13また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。

 

残念ながら、教会の中で、正しい人が正しいと認められなくなる。

なぜ、正しい人が迫害されるのか、一つは、「金持ち」が優遇される。

「金持ち」とは、ただ単にお金があるというだけの人ではない。

「金持ち」の意味合いは、

 

黙示録

3:17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

3:18わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。 

 

このラオデキヤの教会で言われている事は、勘違いのクリスチャンが出て来るという事。

「自分は富んでいる、豊かになった」・・まさに「金持ち」

「富んで豊かになった」とは、理由がある。マイカーやマイホームを持っている。またはゴージャスなダイヤの指輪をゲットしたとかそういう時かもしれない。

しかし、聖書的な意味合いでは、賜物・・・癒しの賜物、悪霊を追い出す権威、預言の賜物など。  しかし、本人は、「自分は神の器だ」と思っているし、そういった人を支持する人々もそう思っている。  しかし、神の前ではそうではないと御言葉には書かれている。

神の前には裸だったりする。

なぜ、このような事になるのか。それは、これらの賜物が神以外の霊だったりするから。

おかしなリバイバル、笑いのリバイバル。 確かに奇跡は起きている。癒しも、預言もあるかも知れない。  しかし、それは、神以外の霊によるもの。

何でも癒しが起きればよいというわけではない。

神以外の霊によって、これらの働きが起きている時に、実は、神の前には、みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であるという事。

すでにそうかも知れないが、ペンテコステ、カリスマ派の人々は、賜物があっても、その霊を吟味することがない。  その霊がどんな霊であろうと、「自分さえ賜物を受ければいい」「自分さえ神の器として、皆から称賛されればいい」・・そんな感じである。

ペンテコステ、カリスマ派はそういう方向に来ている。これが「金持ち」の実態!

問題は、神の霊でも、悪霊であっても、賜物さえ開かれればよいという考えもあるかも知れないが、そうではない。 そういった惑わしの霊によって業が開かれて行く時に、結局は先ほどのヤコブ書で書いてある通り、貧しい人を殺す方向に行ってしまう。

悪霊は悪霊。賜物で引っ張られて、そのような霊に引っ張られて行く時に、結局はサタンのもくろみを行なうようになってしまう。

ラオデキヤの教会は7つ目の教会。  なので、明らかにこれは終末の教会。

終末の時には、こういった勘違いの「金持ち」が出て来る。

それが、聖書が語り、預言している未来というように読める。

このラオデキヤの教会の「金持ち」の事を理解したうえで、先ほどのヤコブ書の2章の「金持ち」を見て行くと、少し見えて来る。

賜物に引っ張られて行ってしまう時に、肝心なところが抜け落ちてしまう。

神の名前で癒しとか行っているのだけれども、実はその人の根底にある、「自分は偉くなりたい」とか、「すごい器と思われたい」とか、そういうところに引かれてしまう時に、実は変な霊に引っ張られてしまう可能性がある。

 

ヤコブ書

2:4あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。

 

「悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。」

これから起きて来る教会のトレンドというのは、教会の中で、しるしや不思議を行なう器がふんだんに用いられていくということ。

結果として貧しい人達、真に神に忠実な人達は、逆に迫害されて行くような時代に来る。

そして、「金持ち」とそれにつく人々によって裁かれてしまう。

それは、単に悪口を言われるだけではなく、死に渡される。

この事柄はよくよく覚えておくべき。

 

2:5よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。

 

なので、聖書が度々語っているように、心の貧しい(原語では、霊において)者は幸い。

そういう人は、天の御国を相続するようになる。

我々は、賜物を与えられるのは良いに越したことは無いのだが、神の御心と、どちらが優先か、

勘違いしてしまって、「神以外の霊であってもよい」などという考えを掴んでしまう時に、最も大事な永遠の命を失ってしまうというポイントはよくよく覚えておくべき。

貧しい人は幸い。

「貧しい人」をギリシャ語の意味合いで見ると、「乞食」

乞食は、物を乞う。  神の前に物を求めて行く人は、「貧しい人」

それは、尊重される。

イエス様もそうであった。主は夜通しずっと祈って求めていた。

求める人は、貧しい人。   それは、大事な事柄。

神の前にあれもこれも求めていって、初めて得られる。それは益になる。

その行先が、神を愛する者に約束されている御国の相続。

しかし、祈らない習慣は身につけない事。

 

2:6それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。

 

これから、正しいクリスチャンというのは、富んだクリスチャン(物凄い信仰の器とか、しるし、不思議を行なう)によって、圧迫されたり、虐げられたり、裁判所に引いて行かれたりする時が来る。 こういうポイントは覚えておくべき。

なので、これから、賜物に導かれていく人達が災いになっていく、そういう未来に関して、聖書は語っている。

 

マタイ

24:24にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 

世の終わりの時というのは、しるしと不思議の時になっていく。

しかし、これはにせキリスト、にせ預言者なので、神の霊によるものではない。

惑わされたクリスチャンは、しるしと不思議さえあれば、そういう賜物とか、癒しだとか、不思議、奇跡の力などを追い求め、それだけに目を取られて、惑わしに入って行く。

ペンテコステ系の人達は、すごい神の業の時代に入って行くと言っているが、違う。

これからは惑わしの霊の時代に入って行く。

 

黙示録

13:13また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。

 

ここでも、しるしが行なわれている。

 

13:14また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。

 

しるしをもって地上に住む人々を惑わす。

これは反キリストのこと。

反キリストがどんどん人を惑わす時に、しるしや不思議、教会でしるし、不思議、すなわち癒しだとか、物凄い奇跡がある、物凄い預言の賜物があるなどで惑わすとはっきり書いてある。

これからのキリスト教会に来る時代というのは、しるしと不思議、今もすでにそうなりつつあるが、増々エスカレートして広がって行く。これからの時代に起きる。

しかし、それはこれだけで終わらない。

行きつく先は反キリスト礼拝。

それと共に、教会の中で、そういった事が、ずっと優先、優遇されたりしていく中で、正しい信仰者は、迫害されたり、白い眼で見られたり、罪人扱いされる。

世の中の詐欺師でも、ターゲットに対するエサが無ければ、詐欺は行なわない。

騙される人は、欲に引っ張られて騙される。

そういう意味合いで、クリスチャンも、「神のため」と言いながら、そういった欲、結局自分のために、しるしや不思議を求める。その人の真の心をサタンに突かれる時が来る。

自分のためにしるしや不思議を求める者は皆それに引っかかる。すでに引っかかっているかも知れない。そういう時代が来る。 しかも、それだけではない。 今度は、結局、悪い霊に惑わされて、正しい人を罪に定める日が来る。

ヤコブ書は、それを預言している。

これから大変な時が来る。 一つは、賜物に目が眩んだ人達は、正しい信仰者を迫害する側に来てしまう。

6節では「あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。」とあるが、まさにその事を言っている。

 

ヤコブ書 

2:7あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。

 

尊い名とは、イエス・キリストの御名。

先ほどの黙示録13章では、「反キリストを拝み、そして、しるしと不思議で惑わした」と書いてある。

しるしと不思議、賜物に引っ張られている人は、最終的にどこまで行くかというと、反キリストを拝み、あろうことか、イエス・キリストの御名を否定してしまう。

欲に目が眩むのは恐ろしい事。本末転倒。

神は、我々の本音を見られる。この事はよくよく覚えておくべき。

いずれ、聖霊の第三の波をはじめとしたおかしな聖霊派の動きというのは、キリストの名を否定するようになる。

今既に、ペンテコステ、カリスマ派の人達が、どんどんカトリックと手を結んでいっている。

カトリックは、背教の極み。  背教と手を結んでいるようなもの。

この動きは増々行く。

それを見て何も感じないのはおかしな話。

 

2:8もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです。

 

隣人を愛さなくなる。正しい、貧しい兄弟を愛さない時が来る。

 

2:9しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。

 

これは預言。 教会においてこういう時が来るという事。

そういった信仰の器、癒しの器とかの人達が本当の神の器と言って、神の前に貧しい歩みをしている人達を逆に罪人呼ばわりする。  それを預言している。

人をえこひいきするならば。

 

2:10律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

 

何が一つの点で躓くかというと、

 

2:11なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。 

これから犯す罪とは、人を殺す罪。 正しい人を罪に定めるという事が、他でもない教会の中で起きる。

やはり聖書には御国の奥義という類のものがあるという事を覚えておくべき。

それを読んでいく時に、未来に関して起きて来ることが分かる。