ヤコブ211~26               2014.12.21

 

2:11なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。

 

どの律法も守って行きたい。

 

2:12自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行ないなさい。 

 

我々は、ここで「さばかれる」と書いてある。クリスチャン人生において(クリスチャンに限らない)、「一度死ぬ事と、死後にさばきを受ける事が定まっている」と書いてある通りになる。 死んだらそれで終わりではない。その後に「さばき」がある。

この事は、正しく理解して行かなければならない。

そういう意味では、この世の常識は全く間違えている。

「死んだ後に千の風」になったりはしない。

正しいのは御言葉。

「一度死ぬ事と、死後にさばきを受ける事が定まっている」

我々の人生において、裁きの日というのは、さばきの結果によっては、ある人は、永遠の命、誉れを受け、またある人は、永遠の忌みに入る。

そのあたりをきちんと理解して歩まないなら、全く見当違いな、的外れの歩みになってしまう。

我々は、ここに書いてあるように、自由の律法だが、裁きがある事を覚えて行きたい。

 

2:13あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。

 

我々はさばきを望むと望むまいと、その日は来る。

ポイントは、憐れみを示すかどうか。

人に憐れみを示したことが無く、人に憐れみを施さないで裁きに向かうと、神からの裁きも憐みの無いものになってしまう。つまり、厳しいさばきになる。

そう書いてあるので、結論としては、憐れみを示すような機会があるのなら、憐れみを示した方がいい。

そうすれば、誰でも通る裁きの日に、ここを読む限り、基準が甘くなる。

「憐れみは、さばきに向かって勝ち誇る」と書いてある。つまり楽勝。

ここは、裁きの日に対しての、一つのポイント。

聖書は常に「あそこに少し」「ここに少し」。

聖書は、数多く読んだ人の勝ち。

多く読めば、「あそこに少し」「ここに少し」であっても、全体が見えて来る。

一夜づけはダメ。地道にやっていく事が大切。

憐れみを示すという事は、人の為にもなるけれども、それは、自分自身の裁きの日に大いに生きて来る。

憐れみを示したことの無い者。これは、終末の事も兼ねて書かれている。

憐れみというのは、艱難時代に、キリストの名のゆえに迫害されている人達に対して、憐れみを示したことの無い者は、やはり厳しいさばきに入ってしまう。

我々が、キリストの名のゆえに迫害を受けている人を見た時に、憐れみを示すかどうかは大きなポイントになって来る。

具体的に、憐れみとは、

ギリシャ語で、「憐れみ」という言葉がどこで使われているかというと、

 

ルカ

10:36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

10:37彼は言った。「その人に憐れみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。あなたも行って同じようにしなさい。」

 

ここに、「憐れみ」が出て来る。ここは、他でもない、よきサマリヤ人の箇所。

祭司、レビ人が、良い事はいつも言っているが、強盗に襲われた人を見た時、事なかれと避けて通った時、サマリヤ人はちゃんと憐れみを示した。

これは、良い例。

しかし、サマリヤ人は、聖書の殆どの箇所ではろくなことが書かれていない。

イゼベルなど。

サマリヤ = カトリック

カトリックは、一つだけいい事がある。

慈善事業など。マザーテレサは、とんでもない事も言っているが、孤児院を経営したり、町で死にそうな人を助けたりなど。

「あなたも行って同じようにしなさい」なので、これは見習うべき。

マリヤ像やローマ法王を崇めたりなど、とんでもない事をしているが、慈善事業は見習うべき。

それは、神も認めておられるので、同じようにしていくべき。

ヤコブ書の、今回の箇所は、行ないに関して語っているが、この書を非難する人がいる。

マルチンルターは、ヤコブ書を「わらの書簡」だと言った。

それは、まったく間違えている。

主は「あなたも行って同じようにしなさい」と言っておられるので、実行、行ないは大事。

主は「行なえ」と言っておられる。

憐れみに関しては、実行することを覚えておくべき。

出来る範囲で行なっていく。

この様な歩みが裁きに打ち勝つ。

 

ヤコブ書

2:14私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 

プロテスタントもいろいろ間違えたところがあるが、一つのポイントは、「信仰と行ない」

神様はヤコブを用いて、「信仰のみ」とパウロは言っているけれども、勘違いして何も行わないというような間違いに入る事が無いように、「行いの無い信仰では救われない」と言っているが、日本では「見るには見るが悟らず」という感じで、大事な事が書いてあるが、今のキリスト教会ではこういう事がはっきり見えないという事が多い。

たとえルターが、プロテスタントを最初に始めた人であろうと、それはどうでもいいこと。

神は偏りみられる方ではない。  どの聖書も神によって霊感されているので、このヤコブの行いに関する言葉も、神が霊感し、語っている事。

これを軽視していく時に、ろくでもない事になって行く。

「そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。」と書いてあるように、行ないの無い信仰では救われない。救いが絵に書いた餅になってしまう。救いに入れず、意味がない。

救われなかったら、火の池の裁きに入ってしまう。

根本的な事が、この書にはかいてある。

我々は、この事に関して、根本的な惑わしがキリスト教会に来ているけれども、この事に関して、正しく聖霊によって教えられなければならない。

 

2:15もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 

2:16あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

2:17それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

ここで言う行いというのは、具体的に言えば、着る物や食べ物が無い人がいた場合、家に餅が

三つあったとすれば、一つ分けてあげるとか、そういう事。

言うだけではなくて、実際に行なっていくという事。

「それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。」

ということなので、命には通じない。

我々は、永遠の命を望む者であるが、信仰を持って行けば、永遠の命に通じて行くものかもしれないが、「行ないの無い信仰は死んだもの」と書いてあるので、この様な信仰を持ち続けても、永遠の命につながらない可能性がある。  永遠の死、滅び、罪などに入ってしまう事がある。  なので、「行なって行く」という事柄は持っていきたい。

信仰。 多くの人は、「神の言葉を信じればいい、行ないは不要」という人が多い。

しかし、主はそのように言ってはおられない。

 

ルカ

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 

10:26イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」10:27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」  

10:28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 

だから、勘違いをしてはいけない。

御言葉を信じただけでは救われない。  実行して初めて永遠のいのちを獲得する。

このポイントは、惑わされたり、違うものを掴まされたりしないように。

なので我々は、御言葉が神によって語られていたら、それを実行するという事に目を向けていくべき。

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

これらを実行していく事が出来るように求めて行く事。

単に知っていたり、その言葉を正しいと信じているだけではダメ。

「実行したら命を得ます」と主がはっきり言われているので、このポイントは是非 理解しておく。

 

ヤコブ書

2:17それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

行なっていく事が我々自身の命を救っていく。

 

2:15もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

 

「着る物がない」という言葉。    ギリシャ語の原語で、 着る物がない = 裸

終わりの時に、全ての民が、羊と山羊に分けられる。

「私が裸でいる時に、着る物を与えてくれた」

これは、正しい事を行なうがゆえ、困難に遭う人達に対してどのように接するか・・。  それによって、主の裁きを受けるか受けないかがかかっているので、これは艱難時代に関連してくる。御言葉を行なって、苦難に遭う人達にどのように対応するか、たとえば裸でいる時、着る物がなかった時に、助けてあげるとか、そういった事が関係してくる。

 

2:18さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」 

2:19あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。

 

こう書いてあるのは、まさに、今のキリスト教会で陥っている間違いを正に語っている。

今のクリスチャンは、自分たちは、「未信者みたいに、神を知らないとか、進化論は正しいとか言っている人達とは違うとか、ちゃんと神様いる事も分かっているし、聖書も理解している」とか、そういう人達に対して言っている。

「神はおひとり」「唯一の救いはイエス・キリスト」だとかを信じている。

これに対して、ヤコブは言っている。

「ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」

なので、神はおひとり」「唯一の救いはイエス・キリスト」だとかを信じているだけでは、救いに至るものではない。  でも、勘違いしてしまう。  大いなる間違いは、「信じている、聖書の言葉を知っている」とかを特別な事に思ってしまい、全然行ないが伴っていないのに、自分が救いに至るという勘違い。

何故なら主が、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と書いてあるように、行なわないで永遠の命を得るというのはあり得ない。

なので我々は、神の教え、神の言葉に関して、行なっていく、身を持って実行していくという事に心を向け、焦点を向け、エネルギーを向け、思いを向けるという事を覚えておく。

どんな言葉も、聞いたらそれを行なって行くという事。そういう意味では、腰の軽くして、頑なにならずに御言葉を行なっていくようになって行きたい。

 

2:20ああ愚かな人よ。あなたは行ないのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。 

 

愚かな人と書いてある。これは、虚しいという意味合い。

聖書の他の箇所では「何も持たせないで帰らせた」とあるが、「虚しい」「愚か」というギリシャ語と同じ言葉が使われている。

「愚かな人よ」というのは、要するに、行ないがない信仰というのは、何も持たないで帰るということだから、手ぶら、虚しい、実質は空っぽという事。

ですので、絵に書いた餅のようなもの。そんな信仰を持ち続けていたら、得られるべく永遠の命が得られるか分からなくなってしまう。空っぽになる可能性がある。

 

2:21私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行ないによって義と認められたではありませんか。 

2:22あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行ないとともに働いたのであり、信仰は行ないによって全うされ、 

2:23そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた。」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

 

アブラハムは、神を信じ、その信仰が彼の義とみなされたのだが、彼の信仰とは、ただ心の中で信じたとかいう事ではなく、実際にイサクを捧げるという行為をしている。

これは行い。その時に、それが神によって義と認められた。

我々が、神を信じるという時に、アブラハムほどであるかは知れないが、信仰は、犠牲が伴う。

心の痛みであったり、自分にとって一番大切な物であったり、かけがえのない物を捧げるという事も実は、信仰の行ないの中に含まれる事もある。場合によってはある。

正しく捧げるかどうかが、我々の信仰の決め手であったりする。

信仰はきれいごとではない。

神ご自身も、御自分のひとり子であるイエス・キリストを捧げたので、我々も往々にして、

その程度というものが色々あると思うが、犠牲を捧げて行くという可能性はある。

それであっても行っていく時に、我々は、神によって義と認められ、信仰による祝福を受けるという事を覚えておく。

 

2:24人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

 

ヤコブ書で語っている事柄は、正しく理解しておくべき。

パウロも「信仰以外、何もしなくていい」という意味合いで言っているのではない。

「何もしなくていい」と思い込んでるクリスチャンはいっぱいいる。

その先は、救いに至らない。その様な信仰は死んだものであって、人を救わない。

 永遠の命に至らない。

多くの人達が勘違いしているが、我々はそうであってはならない。

 

2:25同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。

2:26たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。   

 

たましいを離れたからだが、死んだものであるというように、行ないの無い信仰はたましいを離れた体のようなもの。

たましいという言葉は、 ギリシャ語で「プシュケー」・・「息」という意味合いがある。

息というのは、アダム、イブの時に、神が、息を吹き込んで、生きた人になった、という、その「息」に通じる。

これは、聖霊の喩え。 なので魂がない体が死んだものであるのと同じように、我々が行ないの無い信仰を続けて行くならば、聖霊が離れて行く。

それは、全然、聖霊の導きに従っていないという事。

ヤコブ書のこの箇所は非常に大事。

クリスチャンは勘違いしている。 「ヤコブ書はわらの書だから、真面目に考える必要はない」と思っているが、とんでもない事。 これは罠。

なので、これは、剣として用いられている。

イザヤ書に書いてあるような、大きな剣となって、人々を惑わしに引き入れていくけれども、我々は、逆に、真理から迷い出た人を引き戻す召しなので、真理に正しくつき、この事を霊の深みにおいて理解していきたい。