ヤコブ書4:817           2015.1.18

 

4: 8神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 

 

「神に近づきなさい」というのは簡単な言葉だが、大事な言葉。

近づかないで遠くにいると、声は聞こえない。

我々は、主に近づくのが大事。

順番としては、我々の方から近づかなければならない。

そうすると、主が近づいて下さる。

きちんと祈りの習慣を持つのは、何よりも大切。

それで初めてクリスチャン生活の基本中の基本が成り立つ。

まともに祈らなければ、あらゆる事が崩壊していく。

祈りは必須。

その中で、初めて神様に近づいて行く。

そうすればいろんな事が分かって来る。

召し、歩む方向、成すべき事など。そうすれば、いろんな事のつじつまが合ってくる。

教会の召し、歩みなどそういう事も、主に近づいていく中で、大事な事が分かって来る。

個人として、祈りの時間は必須。  朝食は忘れても、祈る事は習慣としていく事。

クリスチャンで祈らない人は多い。

祈りは、クリスチャンの根本的な問題を解決していく。

「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。」

我々は、主の働きを、本当に担うつもりがあるなら、ここに書いてあるように手を洗い清めるという事が大事。

清めるとはどういう事か。要は、原語の意味合いで見ると「分離」

「手を洗い清める」というのは、罪、世の汚れなど、そういった事から清められるという事。

そうすれば我々は、主の働きを担って行く条件が満たされて行く。

神様は、我々の手が、清いどうか、ちゃんと見ておられる。

ちゃんと清めれば、ちゃんと奉仕が出来る。

 

4: 9あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 

4:10主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

「悲しみなさい」「泣きなさい」という言葉を参考までに見て行く。

聖書は、神様の知恵によって書かれている。

 

黙示録

18:10彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』 

18:11また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。

 

「泣き悲しみます。」  これは、ヤコブ書に出て来た、「悲しみなさい」「泣きなさい」と同じ言葉。

思いがけないが、この「バビロン」に関しての言葉というのは、まさに聖書的。

神の知恵によって書かれた聖書には、いろいろ隠された意味合い、表面上には見えない、裏の事柄も書かれている。

聖書には表にも裏にも字が書いてある。

バビロンに関しては、キリスト教会と大いに関係がある。

不品行の葡萄酒。 聖餐式において、葡萄酒とパンが出て来るが、まさにキリスト教用語だったりする。

バビロンとは、背教の教会の事を言っている可能性がある。

我々がバビロン的な歩みをしているならば、それは勘違いの歩み。

勘違いや傲慢等の歩みを糺して、主の前にへりくだる歩みを成していくべき。

 

ヤコブ書

4:11兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。 

4:12律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

 

聖書の中には、度々「さばくな」と書いてある。

この御言葉に関しても守って行く。

どんな言葉も、守って何ぼ。

そうでないと、思いがけない災いに入ってしまう。

 

マタイ

7:1さばいてはいけません。さばかれないためです。 

7:2あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。

 

人間的な事を言うなら、「あいつは風邪ばかり引く」というと、自分も同じように風邪を引いて酷い事をいわれる・・・そういう意味合いもあるかも知れないが、それと共に「裁かれない

ためです。さばく通りにあなたがたもさばかれる」

我々クリスチャン生活で、聖書が語っている事は、ひとつ気をつけなければならない事柄は、

我々は、どんなクリスチャンも、必ずさばきの日に、神の前に裁きに立つ。

へブル書に「人には一度死ぬ事と、死んだ後に裁きを受ける事が定まっている」

その時に、我々が語った言葉とか、兄弟に対して色々と裁く意味で言ったりしたことが、いざ裁きの座に立った時に、自分の言った言葉で、その日、裁かれてしまう可能性がある。

言わなければよかったのに、自分の言った言葉で、厳しいさばきを受けてしまう可能性がある。

自分の兄弟姉妹に対して、厳しく言うのは、自分の首を絞めるようなもの。

聖書の中ではあちらこちらに「さばく」事に関して書いてある。

 

ローマ

14:1あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。 

14:2何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。 

14:3食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

14:4あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。 

 

前の方は、信仰の弱い人を受け入れる、その意見をさばかない、何でも食べてよいと信じてる人もいるが、弱い人は野菜しか食べないなど、教理のこと。

あるクリスチャンは「日曜日は何が何でも教会を休んではいけない」という事に対し、「自由の律法に仕えていない」「そんなことをする人は全く信仰の本質を分かっていない」と言うように、そこで「さばいてしまう」と、ここで書いてあるように、「何でも食べてよい」という人もいれば、「弱い人は野菜よりほかには食べません。」というように文字通りにしか理解できない人もいるので、その人をさばいてはいけないというように理解できる。

その時に、聖書が語っている事は、

 

14:4あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。 

 

クリスチャン生活の歩みの中で、それぞれのクリスチャンは主に聞いて歩んでいる。

なので、ある人は聖書の翻訳などに召しを受けて、一生懸命翻訳することに何十年も行なっているかも知れない。

一人びとりの召しに、主がそういわれたなら、その人をさばいてはいけないという事。

そう言った意味合いで、「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。」と書かれている。

「しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。」

我々には理解できない奉仕というものがある。

個々のクリスチャンの悪口を言うのは、その人を召した、イエス・キリストに対して悪口を言う事になる。

そこは気を付けるべき。

 

ヤコブ書

4:11兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。 

4:12律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。

 

兄弟に悪口を言い裁く者は、律法に対して悪口を言い、律法を裁く。

我々は、新約の時代に生きているので、モーセの時代みたいに石に書かれた律法に従っているわけではない。

しかし、心の板に書かれている御霊の律法に従って生きている。

それは他の人に見えるわけではない。何故なら自分の心の板に書かれているから。

やはり御霊の律法に従っている。またそうすべき。

その様に聖書に書いてある以上、それぞれの人の心の板に御霊の律法を書き記しておられる。

忠実なクリスチャンであればあるほど、心の板に記された律法によって歩んでいる。

そう言った人達に対して悪口を言うのは律法を裁く者。

 

4:13聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。 

4:14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。 

4:15むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

ここの箇所は日本語の聖書だけでは分かりにくい。

13節に、「聞きなさい」とある。  KJVでは、「今行きなさい」と書いてある。

だからこのように理解できる。

この問題点は、あるクリスチャンが「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」

これは、この人の考え。

しかし、聖書は、「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。」

クリスチャンとして正しい歩みというのは、「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

なので13節では、自分中心に考えている。自分の考えに従って、自分のクリスチャン生活を歩んでおり、自分の判断でやって行こうというもの。

それに関して聖書が言っている事は、一つは、明日の事は分からないという事。

13節に、「聞きなさい」とあり、  KJVでは、「今行きなさい」と書いてあるのは、主の働きをしていくつもりがある場合、「1年先」とか言わずに、成すべきことは、今行なって行く、

クリスチャンの歩み方に関して、明らかに二種類ある。

一つは、自分の都合で歩む人。一つは神の召しに歩む人。

さらに、これらのパターン、神の御心というのは、

 

4:16ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

 

高ぶっている。  成すべきことをせずに、主の御心を行う。何の問題もないと。

この誇りは悪い事だと書いてある。

最後の結論として、

 

4:17こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。 

 

一人びとりに、主は、歩むべき道を示す。

「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」と書いてある。 

行なった人は、恵みを受ける。

滅びに至る門は広いが、命に至る門は狭い。

御言葉が正しい。