ヤコブ書5:820        2015.2.1

 

5: 8あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。

 

ヤコブ書にも、度々、主の来られる時、世の終わる時のことが書かれている。

聖書のあらゆる言葉というのは、世の終わりに焦点が置かれている。

福音書には、「書かれているすべての言葉の成就する御怒りの時」

あらゆる聖書のみ言葉は、終末において成就する。

「主の来られるのが近いからです。」

終末の時というのは、「耐え忍ぶ」こと、「忍耐」という事を、明らかに聖書が語っている。

艱難前携挙説は、悪い意味で、とんでもない教理。

聖書は「忍耐が必要」と語っているのに、「忍耐は不必要だ」と言っている。

真理からかけ離れた教理に入らずに、御言葉の言われる事に留まりたい。

大事な事は、「あなたがたも耐え忍びなさい。」  耐え忍ぶという事。

今の時代は、主の御心を行なうと、いやな目に遭う。

アメリカでは、路傍伝道を行なっただけで逮捕されてしまう。

「心を強くしなさい。」と書かれているので、心も強くする。

「心を強く」とは、かたく留まるということ。

「主は、かたく、御顔をエルサレムに向けて行かれた」と書かれている。

その「かたく」と同じ言葉。

イエス様は、身じろぎもせずに、まっすぐエルサレムに向かって行った。

私たちは、身じろぎもせずに永遠の命へと向かうべき。

そうでないと、サタンにつけ込まれる。

「かたく」とは、そういう意味合い。

 

5: 9兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

 

だから、「我々には、一度死ぬ事と、死後にさばきを受ける事が定まっている。」

主の再臨の後、さばきがある。  この事を我々は、計算の中に入れて歩んで行きたい。

その時に、「つぶやき合ってはいけない」と、書いてある。

「つぶやき」という言葉。「溜息をつく」という意味。なので、気をつけて行きたい。

裁かれてしまうので、つぶやきや不満は良くない。

 

5:10苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。

 

旧約の預言者たち。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなど。

そういった人たちの生涯を見る場合、主の御言葉を語っていた時に、民、王、律法学者たちが喜んで聞いたという事が、殆どない。かえって、みんな怒ってしまう。

これからは、イザヤ、エレミヤの時のように、神の民が曲がって行ってしまう。

そんな中で、我々が預言者の働きをしていく時に、やはり忍耐は必須。

やはり、主が語られたら、我々は語る。その時に忍耐がいる。

正しい言葉であるが故に、いろいろと非難されてしまう。

神の働きであるが故に起きてしまう。

しかし、それでも、正しく忍耐を持って行なっていく時に、正しい報いを得るという事を見て行きたい。

 

5:11見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 

ヨブの忍耐のことが語られている。

終末の時に関して、聖書は繰り返し忍耐の事を語っている。

終末は、忍耐の時。  御言葉が正しい。

艱難前携挙説を掴み、勘違いなクリスチャン生活をしている人達がいるけれども、それでは艱難時代に耐えることが出来ない。

また、正しい人は、正しいが故に迫害を受ける。

3年半の艱難時代は、イエス様の公生涯の3年半に通じる。

やはり、イエス様にとって忍耐の時。

その時に大事なのは、「最後まで耐え忍んだ人達は幸い」だという事。

途中でギブアップしてはダメ。

我々はこの時代、いつ艱難時代が始まるか分からないが、ただ、獣の国が、だいたい正体をむき出しにしつつあるので、その時は近い。

主の言われた時まで、耐え忍ぶ事が幸い。

艱難と、今のレムナントの働きは、無関係ではない。

ヨブも最後まで耐えて幸せに入って行った。

それは、我々にも同じ。 艱難に耐えて、その後に祝福が来る。

途中でやめてしまうのはダメ。

艱難時代では、兄弟が兄弟を訴える。曲がったクリスチャンによって、正しいクリスチャンがいやな目に遭う。

 

5:12私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい。」を「はい。」、「いいえ。」を「いいえ。」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。

 

こういう言葉を、イエス様も福音書の中で語っておられる。

「天をさして誓ってはならない」など。

天は、教会の喩え。何故なら、クリスチャンは皆、アブラハムの子孫。

旧約の神の民であるイスラエルも、アブラハムの子孫であるが、我々も、信仰の先祖はアブラハム。  アブラハムの子孫は、「天の星」のよう。なので、「星」がクリスチャンの喩え。

故に天は、教会をさす喩え。

「地」も同じ。 「地の砂」   砂もクリスチャンの喩え。

地は、クリスチャンが住む所としての教会の喩え。

すなわち、「教会をさして誓うな」と言っている。

「天をさしても、地をさしても誓うな。」

これも、終末に関係してくる。

クリスチャンは、誓うべきではないけれども、終末の日にこういう時が来ると理解できる。

終末には、背教が起きる。  公の教会が全て、獣の国アメリカの支配の中で、キリストを神と認めない方向に行く。 逆に、獣の像である反キリストを立てて、「この人こそ、キリストの代わりの救い主だ」と言う。その時に、何がポイントになるか、その時は、「誓う」事がポイントになる。

一人ずつ、前に出て、誓わされる。「この人(獣の像)を拝むか」と言われた時に、「誓います」と言ったら、その人は獣の刻印を受けたことになる。

その時に、クリスチャンに来る惑わしがある。

「今は、誓わなければ命が危ないからとりあえず誓っとけ。後で主の前に悔い改めればいい」

これは罠。

だから、「然りは然り。否は否」 YESNOのどちらか。

後で悔い改めが出来る可能性は少ない。

「然りは然り。否は否」  「YES YESNO NO

はっきりしなければいけない。

獣の像を目の前に、「YES」と行ったなら、サタンの前に「YES」と言った事になり、神の前にも「然り」となる。

そういう意味では、早めに公の教会からは出て行った方が良い。

レムナントではすでに地下教会が始まっている。

公の教会に属していないし、キリスト教年鑑にも載っていない。クリスチャンのデータブックにも載っていない。

天を指して誓う、地をさして誓うという事は、「はいははい。いいえはいいえ」と書かれている事はよくよく覚えておくべき。

サタンが、巧妙な事を言って来る。  「この場は丸くおさめろ、後で取り消せばいいんだ」と。

あやふやではいけない。

我々はどこかで腹をくくって、どちらを大事にするかという事柄を正しく理解すべき。

 

5:13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

 

苦しんだり、問題があった時は祈っていく。

祈りの中で神様が解決して下さる。

 

5:14あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。 

5:15信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。 

 

是非、実行していきたい。

 

5:16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 

5:17エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。

5:18そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

 

祈りは聞かれるという事が書いてある。

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」とあるが、KJVでは、「義人の熱心な祈り」という言葉が入っている。

祈りというのは、一つは、義人の祈りは聞かれる。

義人というのは、不義を犯したり、毎日朝から晩まで罪を犯していない人。

我々が、本当に祈りを聞かれるつもりがあるのなら、罪から離れて行くという事を求めなければならない。

われわれは、義人として歩むという事に心を留めなければならない。

そうすれば祈りは聞かれる。

もう一つは、熱心に祈る事。  心、思いを尽くして祈る。

義人として歩む。力を入れて、熱心に祈る。

エリヤの祈りも、熱心な祈り。

 

5:19私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、 

5:20罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。 

 

真理から迷い出るという人がいる、というのは聖書が語っている事。

今、キリスト教会では、頻繁に起きて来る。

たとえば、キリストの再臨が2回あるというのは、明らかにおかしな教理。

パウロやペテロの時代のクリスチャンはそんな教えは信じていなかった。

昔のクリスチャンの文書は残っている。

初代教会では  、キリストが2回再臨するとか、艱難前に来るなどを言う人は誰もいなかった。聖書に基づいた、パウロやペテロの信仰を受け継いだ初代教会は、正しく真理、キリストが艱難時代の後に来られるという単純な真理を信じていたのだが、今は、真理から迷い出ている人が多い。

その時に、レムナントがしている奉仕は、真理から迷い出た人達に対して、真理を語って行くこと。

場合によっては、真理を見て戻って来る人もいる。   この事は尊い。

「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し」とある。

迷い出た所から戻って来るひとは、命(永遠の命)を救う可能性がある。

レムナントはまさに、こういった奉仕に与っている。

真理から迷い出たものを連れ戻すという働きをしている。

今のクリスチャンたちは、命に至る門は広いと思っている。

命に至る門は、狭いというのが正しい。

クリスチャン生活を始めても、入るべき道に入る人は少ない。

今、多くのクリスチャンたちは、信仰さえあればいいと思っている。

これも惑わされた教え。  要は「行いをしなくていい」、しかし聖書はそのような事は語っていない。  ヤコブの言っている通り、行ないの無い信仰は死んだものであるし、また、主は、黙示録の中ではっきり言っておられる。

「わたしはあなたの行いを知っている。」   判断基準は行い。

サルデスの御使いに対し、「あなたは生きていると書かれたが実は死んでいる」と主が言われている。だから、裁きに入って、命の書から名前を消されるというように言っている。

福音の総合理解などは、ずっと信仰ばかり強調して、行ないが何も無くていいと言うのは、これは、真理の道から迷い出ている。

その時に、正しい方向性(そのままでは、審判の時に非難される、いのちの書から名が消される)を示す。それが、正しい道から連れ戻す働き。

今は、真理から迷い出ている人がたくさんいる時代。しかも、あまりにも多い。

真理に連れ戻すことが尊い。未信者を救いに導くのも尊い。罪人の魂を死から救い出すので、これも命に関係してくる言葉。だから、素晴らしい奉仕の一端。

レムナントは、こういった奉仕の一端を担っている。

良いことがある。

 

5:20罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。 

 

多くの罪を覆う。  迷いの道から引き戻された人の罪をも覆う。

また、引き戻した側の罪をも覆ってくれるのかもしれない。

今は、明らかにこのような事が大事な時代。

真理から迷い出た人がたくさんいるから。