ヨハネの黙示録1章7~12           2015.9.20

 

1:7見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

 

黙示録は、喩えと謎に満ちている書。  奥義の中の奥義であり、しかも、神様は、全ての人に、

必ずしも、黙示録の全ての事柄を啓示しようとは思っておられない。

逆に、黙示録の性格や意味合いを理解するには、例えばダニエル書を見れば分かる。

封印されている。 ダニエル書の最後の所では、「この終わりはどうなるのか」、知恵のあるダニエルでさえ分からなかった。

その時に、この預言を封印しろと神ご自身が言われた。

「知恵ある者は悟るが、悪人は誰一人として悟ることは無い」とダニエルに言っておられる。

黙示録は、ダニエル書と、大いに通じる所があるが、やはり同じような意味合いがあるという事は捉えておく。

今は、民主主義の時代であって、皆が権利を行使する時代であって、「不公平はいけない」という時代だが、こと黙示録に関しては、神は明らかに、これは万人のために、ダニエルに対しても開くという類の書ではないという事は、明々白々な事。

しかし、だれに対しても開かれないというわけでもなく、主が弟子たちに「あなた達には御国の奥義を知る事が許されているが、他の人達にはそうではない。」

弟子たちには、開かれたり、啓示されたり、福音が開かれたりする。

なので、そういう意味合いでは、主のしもべとして歩むことは、黙示録の封印が開かれて行く

事の、一つの秘訣。

勘違いしてしまう人、また、人間的な考えをする人は、学校の学問と同じように思っている。

IQが高かったり、成績が良ければ分かるという風に思っている。

それは勘違い。

悪人は、決して、「一人として悟る者はいない」という、ダニエル書に書いてある通り、行ないを糺さない限り無理。  見るべきものが、決して見えない。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。」とある。

これはね明らかにイエス・キリストの再臨。

この再臨に関して、意表を突いた事が書かれている。

「全ての目が、彼を見る」

「ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」

その後には、「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」と書いてある。

書いてある事柄は、「地上の諸族は」、または、「全てのクリスチャンは」、「彼のゆえに喜ぶ」のではなく、逆に、「嘆く」と書いてある。

なので、キリストの再臨に関しては、キリスト教会の中では、キリストの再臨こそ希望であり、

理想的な事であるように語られているが、書かれているように理解しなければならない。

「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。」 こういうポイントを見て行かなければならない。

なぜ嘆くかというと、この様な意味合いだとある。

例えば、泥棒して人が、うまく、家人が寝静まったところを、お金とか、宝石とかを盗んで、

うまく部屋を出、塀を飛び越えて道路に飛び降りたところ、目の前に警官がいた場合、現行犯。

そのたぐいの嘆き。

だから、言っている事は、我々の意に反して、キリストの再臨というのは、必ずしもすべての人にとって、グッドニュースとは限らないと、聖書には書いてある。

こういう面を見て行かなければならない。

そうでないと正しい備えが出来ていかない。

なぜ嘆くかというと、彼らにとっては、キリストの再臨の日は、災いの日だから。

そういう人は明らかにいる。しかもこれは、喩えの意味合いとしては、クリスチャンの事を言っている。  この事に関しては捉えて行きたい。

イエス・キリストの初降臨が、仇になった人達がいる。

律法学者、パリサイ人たちは、キリストの公生涯の時代に、たまたまめぐり合わせたために、悪く言うなら、とんでもない災いに遭っている。

ナザレのイエスをとんでもない偽キリストだと思ってしまった。

「聖書にはベツレヘムからと書いてあるのに、ナザレからなど聞いた事が無い」

終末の時、同じ意味合いで、災いに遭う人が出て来る。再臨に関しての事柄なので、我々の時代に大いに関係して来る。

この鍵となるのは、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。」ということ。

これは明らかに喩えが使われている。

「突き刺す」という言葉は、関連した喩えでは、「剣」「槍」という言葉が出てくる。

「剣」は、御霊のつるぎ、すなわち神の言葉。なので、御言葉や、教理に関しての言葉。

イエス・キリストの御言葉、教理に関して、キリストを突き刺すように、とんでもない攻撃をしてきた人たちは、この時、その人達に関しては、「再臨の時に災いが来る」という事を語っている。

教理や、御言葉に関してキリストを突き刺すとは、具体的には、例えば日本で言えば、東神大で語られているようなインチキな教理。

「キリストは復活していない」「キリスト以外にも救いがある」「キリストの奇蹟は嘘」など、

とんでもない事を言っている人達は、その日には災いになって行く。

 

マタイ

26:63しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

26:64イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

26:65すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒涜だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

26:66どう考えますか。」彼らは答えて、「彼は死刑に当たる。」と言った。

 

ここでまさに再臨のことが書かれている。

64節で「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

ここで、大祭司だとか、律法学者とか、パリサイ人らは、キリストの敵となっており、「これはインチキな偽キリストであり、神への冒涜者であり、死刑に値する」と言って攻撃して来ている。  こういう人達への、悪い報いの日になる、とイエス・キリストはおっしゃっている。

「今から後、あなたがたは見る事になる」

2000年前の大祭司たちは、2000年後のキリスト再臨の時には居合わせない。

なのでこれは預言。

終末の日に、こういう大祭司達のような立場にある人達にキリストの再臨が行なわれるという事。  なので明らかに聖書が語っている、一つの意味合い、「再臨」というのは、それが祝福になる人達もいるけれども、それのみとは限らないという一面も、見て行かなければならない。

災いに遭ってしまう、キリストの再臨の日が、自分にとって裁きの日になってしまうという、そういった人達もいる。 かつての大祭司らは、今のクリスチャンに当たる人達。

聖書を読んでいるし、毎週、安息日ごとに、会堂に集って聖書を読み、祈り、神を礼拝するとは、クリスチャンのやっている事と同じ。しかも大祭司とは、礼拝の中心的な人々。

なので、これは預言。

やはり、キリスト教界の中心的な人々には、聖書が預言している事は、再臨の日が災いの日になるだろう。普通に考えたらそうとしか読み取れない。

このパターンはよくよく覚えておきたい。

我々にとっての警告としては、やはり、人のフリ見て我がフリ直せという感じだけれども、特に我々は、「ことに彼を突き刺した者」になってはいけない。

右の人がキリストを刺したとしても、インチキな教理を掴んだとしても、「聖書は同性愛を受け入れている」だの。

このようなインチキがアメリカでどんどん増えている。日本でも、この様なインチキに引っかかっている人が、結構いる。

例えば救世軍。印刷物に、「我々は、カトリックの様に、一律に同性愛を非難する者ではない。そういう立場をとっている」と書いてあった。

そういうものに引っかかって、キリストを刺し通す者になってはいけない。

同じ災いが来てしまう。

もう一つの事も見て行きたい。

ヨハネの黙示録17節で、「地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」という事にも、目を留めて行きたい。

クリスチャンの中でも、天の諸族というものもある。

また、地上の諸族という者もある。

そして、地上の諸族は、この日、キリストの再臨が仇になる。

しかし、天的な人達にとってはそうではない。

黙示録12章は、太陽を着る女が出て来る。

それは、全て、天的な表現。

太陽は天にあるし、「頭に12の星」これも天。

「月を足の下に」、これも天。

少しも地上的な要素に関しては書いていない。

女は教会の喩え。これは、教会の喩え。

それは、3年半の間、荒野で蛇の攻撃を免れ、養われると書いてあるように、祝福に入り、艱難に遭うけれども、神の御心の中にある。

しかし、アブラハムの子孫というのは、天の星、地の砂と書いてあるように、アブラハムの子孫とは、全てのクリスチャン。

良い事のみではない。

この世的なクリスチャンも、アブラハムの子孫。  天的な人もアブラハムの子孫。

だから、クリスチャンに会って、世的なクリスチャンに遭っても、ビックリしてはいけない。

だから、教会において、ビックリしたり、躓いてしまってはいけない。

やはり、地上的な歩み、地上の諸族というのは、良くない。

その日に災いに遭うという事を覚えておく。

地上の諸族とはどういう事か、それは、この世にくっついているクリスチャン。

具体的に言えば、同性婚を認めながらニコニコしている牧師など。

アメリカにおいて、正しいクリスチャンたちが、同性愛に反対して、逮捕される事例が増えている。  たとえ、罪人扱いされても、逮捕されても、やはり、地上の諸族になってしまってはいけない。  天に属する者として、御心を行なう者として、歩んでいく事にポイントがある。

 

黙示録

1:8神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。

 

この表現が度々出て来る。

「初めであり、終わりである」という事柄は、よくよく覚えておく。

オメガは、ギリシャ語のアルファベットの最後の文字。

我々は、今いるだけに過ぎない。

しかし、主は、教会時代の終わりにもおられる方なので、その方の書かれた事は、唯一未来に関して正しい。

それは残念ながら、我々の迎えようとする未来は、黙示録に書かれたように、必ずしも平和とか、平穏という時代ではなさそう。

ではあっても、やはり唯一、後の時代を知る事が書かれている事が正しいので、この事に目を留めるのが正しい。

何とか、この封印が開かれるように、求めて行く事が、全く正しい。

初めであり、終わりである方の声に、耳を傾ける事が一番正しい。最も懸命であり、その事に徹する事が正しい。

 

1:9私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。

 

ここで、ヨハネが、自分の事を語っている。

ヨハネは、イエスに愛された弟子。

イエス様に愛された弟子は、どうなったかというと、少なくともこのヨハネの黙示録の時に、

彼は、イエス様にある苦難と、御国と、忍耐に与っている。

しかも、パトモスという島に、罪人として島流しに遭っている。

黙示録という書簡の、性質がある意味ここで書かれている。

まさにキリストの名、また御言葉のゆえに、罪人扱いされて、苦難に遭う。

そういった、主の弟子であるヨハネから、同じように、人々にあてて書かれたもの。

なので同じ苦難に遭っている人達に宛てて書かれたものであるという事。

ヨハネの黙示録の、特徴という事柄が、ここではっきり分かって来るというように思う。

それは、黙示録を我々が理解するという時に、これは推理小説ではないので、

一つは、我々が、どういうクリスチャンとして、歩みをしているかという事に、大きく関わって来る。我々がもし、ヨハネと同じように、今はまだ苦難に会わないとしても、しかしアメリカにおいては、すでに、同性愛に反対したために逮捕された人もいるし、市の職員なのに、同性婚の許可を出さないために、逮捕された職員たちもいる。

これはまさに、キリストのゆえに苦難に遭っている。

そういう人たちと、同じ歩みをして行くならば、ヨハネの黙示録は、我々に対して開かれて行く。まさに、そういった人向けに書かれている本だから。

苦難に遭っている人から同じく、苦難に遭っている人向けに書かれた書だから。

我々がそういうつもりなら理解できる。

しかし、「何が何でも艱難前携挙説」とか、自分は何が何でもキリストの為に苦難に会いたくないとか言う事。  そういう人は危ない。

黙示録も分かりたいし、これをみんなに解説したり、ちょっといいところを見せたい。

「でも苦難には遭いたくない」という人には分からないと思う。

なので彼らは、変なものを掴んでいる。「艱難前」を掴んでいるので、全然わかってない。

そういう場合は無理。「苦難に遭いたくない」というのは矛盾している。

スキーに行きたいけれども、雪には触れたくないというのは無理。

我々も黙示録の性格というものを理解しなければならない。

苦難に遭っているキリストの言葉とか、キリストの名のゆえに苦難に遭っているヨハネから、同じく苦難に遭っている人達向けに、書かれている書なので、我々が、そういうつもりであるならば、見えて来るだろうし、そうでなければ内容を理解できないであろうという事を見て行くべき。

黙示録は、艱難に遭う人向けに書かれている。

さて、パトモスという言葉。ギリシャ語。

どんな言葉にも意味合いがあるが、「私の殺戮」

いい言葉ではないが、殉教とかが関係して来るのか・・

一応意味合いを捉えておく。

 

1:10私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

1:11その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

 

七つの教会に書かれている言葉。

七つの教会というのは、聖書的に言うならば、これから始まる、(ヨハネの時代)教会時代は7つに分類される。

七つの教会時代が終われば、それは世の終わりだという事。

もし、我々の時代に、7つ目の教会に来ているならば、世の終わりに近い。

八つ目の教会は無い。

我々が7つ目の教会時代に来たならば、それはもう世の終わりだという事。

次の教会時代は無い。

7つ目の教会は見えて来ていると思う。

ラオデキヤの教会。

今の時代には7つ目の教会はすでに現われて来ている。

7つの教会は意味のある言葉。

エペソ・・・「受け入れられた」

スミルナ・・・「没薬」

ベルガモ・・・「高く上げられた」

テアテラ・・・「災いのにおい」

サルデス・・・「赤いもの」

フィラデルフィア・・・「兄弟愛」

ラオデキヤ・・・「民衆、会衆の義」

こういった言葉の意味合いも、分かった方がいい。

どんな言葉も、意味の無い言葉は無い。

とりわけ聖書は、神の知恵によって、人が書いたもの。

神に霊感されて書かれたものなので、意味がある。

それぞれの教会の、歩みや性格を、端的に、こういった名前が現している可能性がある。

スミルナは没薬で、死人にかける薬なので、殉教を意味している。

テアテラは災いのにおいなので、カトリックには、ろくな運命が待っていない。

サルデスは赤いもの。エソウやエドムの赤いもの俗悪なエドムなので、この世について、長子の特権を失う。

サルデスはプロテスタントだが、喜んではいられない。

名前の中で一番良いのはフィラデルフィア。

兄弟愛、唯一のキリストへの愛を全うしていると理解出来る。

ラオデキヤは、民衆とか、会衆とか、群衆の義という事。

神の義ではなく、この世の人や、群衆には受け入れられるけれども、神の前には正しくないという、隠れた意味合いが出て来る。

なので、神様の知恵によって、黙示録は書かれているので、あらゆる所に神の知恵が隠されているので、どういった言葉も、意味合いというものを調べた方が良い。

「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

その様な事をヨハネは言われた。

彼はその通りにした。

巻き物と書いてあるが、KJVではBOOKと書いてある。

ヨハネがその事を見て、教会に書き送らないならば、7つの教会は、これから自分たちに起きて来る事柄という事を理解出来なかったり、知る事が出来なかった。

教会の事に関しては、結構災いの事が書いてある。

テアテラの教会は「災いのにおい」  明らかに災い。

それを聞いて、ある人は悔い改めるだろうし、ある人は悔い改めないかもしれない。

しかし、悔い改めるべき人は、悔い改めて行くだろうと思う。

そういう意味合いでは、レムナントは教えられる事がある。

ヨハネは、見たから、巻き物に記してそれぞれの教会に送った。

その中には、悔い改めて、歩みを糺して言った人たちもいると思う。

そういう意味合いでも、レムナントも、我々は、見た事を書き送っている。

「角笛のニュースレター」はまさにそう。

我々が見た事を書き送っている。

怒る人はいるがね見る人は見る。

我々の行なっている事は無駄ではない。 嫌な反応も時々あるが。

大げさに言うと、ある意味ヨハネと同じように奉仕をしている。

見た事をそれぞれの教会に書き送っている。

教会、クリスチャン、書店に。

それを、ある人は見る。

だから無意味な奉仕ではない。

それこそ、ヨハネの時代からなされていたことなので、見た人は、書き送るべき。

見た以上、責任がある。

なのでだれからも言われたわけではないが、自発的に「角笛」を印刷して67年経つ。

これは正しいというように思う。

これで、実を見たり、警告を受けたりする人もいるので、こういった事を見て行く。

 

1:12そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

 

この12節で、独特の表現がある。

「私に語りかける声を見ようとして振り向いた。」

「声を見ようとして」・・・「声を聞こうとして」ではなく声を見ようとした。

独特な表現。 「声」を「見る」という人が他にいるだろうか。

聖書は神の知恵によって書かれているので、おかしいな、と思いつつ、気づくようにこういう独特の表現が用いられている個所もある。

そして、12節では、「振り向いた」とも書いてある。

「聞こう」として「振り向く」

10節でも、「私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」

後ろを振り向くというニュアンスがある。

だから我々が本当に、この語られている警告の声を聞こうとする時、「後ろを振り向いて見なければいけない」というようなニュアンス。

聖書は「バック・トゥー・ザ・フューチャー」すなわち未来へ戻る。

普通は前に向かって前進していくのだが、未来に対して、後ろを振り向いて戻って行く、そういうニュアンスがある。

ここでも振り向けと書いてある。

新約の時代のヨハネに関して言うなら、これは、旧約。

旧約聖書を見て行く。  「未来を見たい」と思う人は、実は増々、旧約聖書を見て行くべき。

もちろん新約聖書も。

「見て行く」ということに、意味合いがある。

本当に未来を見るつもりがあるなら、過去の記述に目を留める。

逆説的だが、聖書のそういった意味合いというのは目を留めて行った方がいい。

エレミヤ牧師がこの奉仕に入って以来、主に言われている事は、「旧約聖書を読め」という事。ここ十数年、弟子の歩みに入って以来、聖書通読は、新約聖書よりも圧倒的に旧約聖書の方が多い。 新約は数えるほどにしか読んでいない。両方読むべきだが。

しかし、不思議なもので、そうすればするほど、旧約を読めば読むほど、未来の事が見えて来る。

また、詩編の102編に、目を留め、後ろを振り返り、過去の事を見て行く時に、未来の教会の事が見えて来た。

それは、着物は取り換えられるという表現を通して。

これから起きて来るのは、教会が古びて行く、という事。

そしてそれらは、主によって取り換えられる。

それは、我々に関して、未来に関して、大いに備えとなった。

3000年前の詩編を通して教えられた。

だから、振り返る者は、警告を見、また、未来を見て行く。

この事を是非、正しく見て行く。

そうする時、ヨハネの黙示録は、あらゆる旧約の箇所からの引用。

あらゆる御言葉がそう。

例えば、ラオデキヤの教会で、主は「あなたは熱くもなく冷たくもないので、私の口から吐き出そう」と言われた。

「吐き出そう」という表現は、旧約聖書のヨシュア記などから出て来る。

「このカナンの地はあなたがたを吐き出す」

あらゆる言葉が旧約からの引用なので、旧約聖書をちゃんと通読しない人は、黙示録に弱い。

黙示録を理解する鍵は、ちゃんと旧約を読むという事。

そういった事を心がけて行きたいと思う。