ヨハネの黙示録10           2016.2.14

 

 

 

10:1また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。

 

 

 

ここに書いてあるように、御使いが来る。

 

聖書を読んでわかる事は、御使いは、神に仕える霊。

 

御使いは、良い事だけではなく、災いも引き起こす。

 

我々にとって、良い事も悪い事も執行する。

 

御使いは、正しい人にとっては助け手。

 

しかし、背信、背教、罪を犯している人にとってはそうではない。

 

黙示録に記されている、御使いのやっている事は、災いが多い。

 

御使いが意地悪なのではなくて、神の命令を受けて行なっている。

 

黙示録にては、御使いは厳しい事を色々行なっている。

 

1節の御使いに関しては、一つは、「その頭上には虹があって」とある。

 

虹というのは、

 

 

 

エゼキエル書

 

1:26彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。 

 

1:27私が見ると、その腰と見える所から上のほうは、その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見えた。その腰と見える所から下のほうに、私は火のようなものを見た。その方の回りには輝きがあった。

 

1:28その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。 :

 

 

 

28節の「雨の日の雲の間にある虹」、この言葉が、先ほどの黙示録の言葉と対応している。

 

「雨の日の雲の間にある虹」、これは何かというと、創世記の中に出て来る。

 

「二度と、洪水は起こさない」と神はノアに誓って、「洪水では滅ぼさない」

 

神はそう言ってノアに虹を見せた。  それは、神との契約のしるし。

 

ノアの洪水が、虹という事に関係して来る。

 

ノアの時の人々というのは、歩みが正しくないので、ノアの家族以外は、全員滅んでしまった。

 

これは、歴史的事実。山の頂に至るまで水で覆われた。日本の高い山の頂上付近では、海の貝の化石がある。

 

これは実際に起きた事でありね神の恐ろしいさばきの一つのしるし。

 

この世の裁きは、これから、ペテロの手紙に書いてあるように、地も、太陽も地球も火で燃え尽きる日が来る。

 

その災いが来て、地上に住んでいる人々は、みな滅んでしまう。

 

しかし、助かる人もいる。  それは、神に忠実であるがために体が栄化されて死なない身体となった人達。

 

ソドム(同性愛)とゴモラは火で滅んだ。

 

今、この地球上のあらゆる国が同性愛を受け入れつつある。

 

ヨーロッパも日本も。これは、滅びの前兆。

 

なので、そういう意味でも、御言葉は一貫している。

 

ソドムとゴモラが、同性愛を受け入れて、「火」で滅んだので、地球全体が同性愛を受け入れるなら、地球全体が、火で滅びる。

 

神の言葉は変わる事はあり得ない。

 

今、起きている事は、滅びの一里塚。

 

渋谷や世田谷で、同性愛を受け入れているからといって、おめおめと受け入れてはいけない。

 

その気になって賛成してはダメ。

 

洪水の時は、雨が止まなかった。

 

これからノアの日の大洪水が来る。

 

それは、液体の水ではない。  それは、霊的な水の大洪水。

 

世の終わりの事に関しては、洪水の事が書かれている。

 

「人の子が来る時には、ノアの時、ロトの時のようである」

 

ノアの時は、洪水以外の何事でもない。

 

文字通りの水は無いにしても、洪水は再現する。  ここは理解する。

 

その時に、「虹」というのは、助けのしるしであり、恵みのしるしであり、避難のしるし。

 

ノアへの契約。

 

我々が理解しなければいけないのは、黙示録にて、「その頭上には虹があって」と書いてあるが、言わんとしている事は、全体として、洪水が来るという事。

 

あらゆる霊の惑わしの洪水が来る。みんな飲み込まれて行ってしまう。

 

しかし、ノアのように正しく留まった人達には、神が、虹の契約を思い出させて、その洪水から免れ、ノアたち八人は命を救われた。

 

同じ事が再現する。

 

救われるポイントは何かというと、「ノアの箱舟の箱」の箱というのは、新約聖書で、この同じ「契約の箱」という言葉が、全く同じ原語で使われている。

 

契約の箱には、神ご自身が臨在している。

 

ノアの箱舟は、一つの喩えであって、神の臨在と共に歩んでいる人は、洪水から守られるという事。

 

祈りによって、神の臨在と共に歩んでいくのが大事。これは確かな事。

 

黙示録が暗示している事柄は、いろんな方向から、霊的な災いに関して語っている。

 

この事は正しく捉えて行く。

 

ノアに関連した洪水が来る。

 

我々が思っている以上に、終末には霊的な惑わしが必ず来る。

 

守られるのは、ノアの様に、箱舟、すなわち契約の箱、神の臨在、祈りの中に留まる人は、そういった変な惑わしから守られる。

 

 

 

黙示録

 

10:2その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、

 

 

 

開かれた小さな巻き物がある。

 

象徴的なのは、七つの封印で閉じられた巻き物(昔の聖書は、全て巻き物)、それが開かれる。

 

黙示録の時代になると、封印は、開かれるべき時に開かれて行く。

 

 

 

10:3ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。

 

10:4七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。

 

 

 

七つの雷。雷というのは、喩えの意味合いで考えるなら、雨に関連している事。

 

雷は祝福ではない。  霊的な事柄に関しての災い。

 

「封じておけ」と書かれているので、これは封じられている。

 

ただ、霊的な災いが来るという事だけは、覚えておく。

 

聖書には、あちらこちらに、繰り返し、霊的な事柄に関しての災いが来るのが語られている。

 

 

 

10:5それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、

 

10:6永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。

 

 

 

「もはや時が延ばされることはない。」との御言葉。

 

第二ペテロの3章9節で、主は人々が遅いと思っているように遅いのではなくて、すべての人々が、悔い改めに進む事を望んで、その為に時が遅く感じられる。

 

そういう意味合い。

 

「もはや時が延ばされることはない。」とは、神はずっと忍耐しておられたが、それ以上の忍耐は無いという事。

 

厳しい神の決断の時がある。  ここからは、厳しい罰や裁きがあるという事。

 

「海と地の上に立つ御使い」という事は、足が、火の足になっている。

 

片足を地と海に立つ。 火の足で踏まれたら災い。

 

言わんとしている事は、この御使いを通して、地と海に、これから災いが来るという事。

 

逆に天に関しては、「災いが来る」とは書いていない。

 

クリスチャンでも、天的なクリスチャンと、地的なクリスチャンが明らかにいる。

 

アブラハムの子孫は、天の星のような人もいるが、地の砂のような人もいる。

 

天にいた方が御心がある。  しかし、この恐ろしい御使いは、地に、海に災いをもたらす。

 

災いは、「足が火」という事が問題。

 

火は、霊的な事。 だから霊的な災いが来るという事。

 

「地」は、地についたクリスチャン、教会。 また、「海」も霊的な事柄なので、そこに災いがくる。 一般的な事柄として、終末の時代というのは、霊的な事柄、教会の霊的な事柄に関して、災いが来ると、繰り返し言われている事に関しては、よくよく目に留めておく。

 

我々の思いや想像以上に、霊的な事に、甚大な被害が来る。

 

アメリカから色々な器が来るが、どの器も、みんなおかしな器ばかりで変な霊を下している。

 

海に、霊的な事に災いが来るという、まさにそういう事。

 

しかし、聖書のこのような所を読まない、読めないと、殆ど、警告が警告になっていない。

 

大事な事が書いてある。

 

「海」が災いになって来る。

 

だから、アメリカ由来の器の所に、吟味せずに行く事は危険な時に来ている。

 

世的なクリスチャンに対しては災いが来る。

 

我々は、世的な所から聖別するという事を見て行きたい。

 

クリスチャンでも、あまりこの世と分離していない人がいる。

 

聖書に、汚れたものに触れてはならないと書いてあるけれども、やはり、世をも、世にあるものをも愛してはいけないという事。 この言葉は真実。

 

この世にぐっとついている人は、変な霊にやられたり、惑わしに入って行く。

 

 

 

10:7第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

 

 

 

この時に、神の奥義が成就すると書いてある。

 

神の奥義は単数、一つの事。

 

特別な一つの奥義が、成就すると思われる。

 

一つは、

 

 

 

第一コリント

 

15:51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

 

15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

 

 

ここに奥義とか、ラッパの事が書いてある。

 

黙示録の107節でも、「ラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」とあるので、この箇所と合致する。

 

なので、この事かも知れない。     これは奥義。

 

一つは、皆が殉教するわけではなくて、キリストの再臨まで残る人達がいる。

 

残った人達は、キリストが再臨する日まで、ヨハネみたいに生き残った人達は、一瞬にして変えられる。 変えられないとダメ。   太陽も月も、火で滅びる。

 

変えられなければ、一緒に滅んでしまう。

 

 

 

第一テサロニケ

 

4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

 

 

「神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。」

 

これもやはり奥義であり、まさに主の再臨に関しての事ではないか。

 

そして、世の終わりの時とか、キリストの再臨の時というのは、「奥義」と書いてあるので、

 

隠されている事があると感じる。

 

奥義はミステリーという意味。

 

 

 

第二テサロニケ

 

1:10その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の――そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです。――感嘆の的となられます。

 

 

 

「感嘆の的となられます。」

 

感嘆の的とは、ビックリするという事。

 

キリストの来臨の時は奥義と書かれているし、我々が、ある程度までは分かるけれども、それ以上分からないような奥義が隠されている。

 

何となく期待できるのは、正しいクリスチャンが、絶体絶命という時に、驚くような大逆転があるのではないか。   何か、サプライズがありそう。

 

なので、期待すべし。

 

その時に、奥義が成就し、正しく主に従ってきた人に対しては、何か、驚くような助けとか、道が開かれるのではないか。

 

 

 

黙示録

 

10:8それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」

 

10:9それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」

 

10:10そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。

 

 

 

一つは「開かれた」巻き物をもらうというので、封印が開かれたという事。

 

なのでそれを語る事が出来る。

 

御使いは、その巻き物を「取って食べなさい」言った。

 

巻き物は、取って食べるもの。

 

それは、我々に対してもそう。

 

我々は、巻き物を食べなければいけない。

 

食べた人は、ヨハネがそうであるように、

 

 

 

10:11そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

 

 

 

食べた人は、預言する事が出来るようになる。

 

食べない人は、それが出来ない。

 

食べるという事に、大きなポイントがある。

 

巻き物を食べる事に関しては、

 

 

 

へブル書

 

5:11この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。

 

5:12あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 

5:13まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。5:15しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 

 

 

「固い食物を食べる」という事が言われている。  奨励されている。

 

究極の固い食物は、先の巻き物。

 

やわらかい食べ物とは、福音の初歩。

 

謎とか喩えを理解るのは、固い食物。

 

固い食物は、訓練された者が食べる。  奨励されている。

 

黙示録に戻るが、言わんとしている事は、黙示録109節で「取って食べなさい」と書いてある。

 

これは、我々に対しても言われている。

 

なぜなら、巻き物を食べない事には、預言が出来ない。

 

我々が、ヨハネの様に、黙示録に関しての奉仕とか、巻き物に関しての奉仕とか、終末の預言に関しての奉仕をして行くという時に、固い食物を食べて行く。

 

食べて初めて、人に預言が出来る。

 

なのでこの事を進めて行かなければならない。

 

具体的にはやはり、喩えを理解する、という事を日々訓練して行く。

 

そうすると、いつの日か、黙示録の難解な部分も、人に預言したり、「こういう事が起きる」とか、警告したりする事が出来るようになる。

 

これは、食べ続けて行く。

 

聖書は、その箇所だけ見ても分からない。

 

「虹」と、いきなり来ても、分からない。

 

しかし、固い食物を食べる訓練をしていく時に、創世記の中で出て来る、ノアに対しての約束の虹とは何なのか、エゼキエル書の「雲の間にある虹」とは何か、一つ一つ、固いものを食べて行く中で、雨、ノアの日の大洪水も雨。 大洪水の中にあっても、「虹」は神の助けのしるしなので、ノアたちは、決して滅ぼしたりはしないという契約なので、そういう約束が、黙示録の日にも、ノアの歩みをしている人達は守られる。

 

固い食物も、消化しきれて行く。

 

そこで初めて預言が出来る。

 

なので、ここでのポイントは、固い食物を食べるという事。

 

固いものを食べるのを否んではいけない。

 

その先に、この事に関して、預言や、終末の啓示に関しての奉仕が待っている。

 

「あなたの腹には苦いがあなたの口には蜜のように甘い」巻き物。

 

「口には蜜のように甘い」とは、喩えの理解。

 

喩えで大事な事が神様に示されるのは感謝な事。

 

それこそ甘い部分。助けになる。

 

レムナントに関しても、固い食物、喩えなどを食べる事によって、大いに正しい方向や、おかしなリバイバルに触れないとか、アメリカこそ獣の国だと、大事な事を大いに示されている。

 

しかし、腹には苦いという事もある。

 

そもそも書かれている事が、災いとか滅びに関しての事なので、やはり、語る中で、苦味を感じる。

 

後の日に、素晴らしい祝福が教会に来るとかではなく、背教、宮の崩壊、反キリストがキリストの座に座るとか、苦い事ばかり。  真実は苦い。

 

しかし、それは、神が、苦いものを下さった時に、我々は、苦いものは苦いように語らなければならない。

 

「艱難前」を主張する人たちの問題というのは、そういう巻き物は、本当は苦いけれども、甘く加工して食べやすくしてしまっている事。これでは看板に偽りありとなってしまう。

 

やはりこれは、巻き物は苦いという事を理解する事。

 

我々は苦い巻き物を語るのであり、祝福だけを語るのは間違い。

 

 

 

黙示録

 

10:11そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

 

 

 

ここで、ヨハネに関して、今までも、言われた通りして来た。

 

さらに、もう一度預言しなければならない。

 

何を言っているのかというと、やり直しの様なもの。

 

同じ事を語れという事。  言い方は微妙に違う。

 

同じ、終末に関して、世の終わりに関して言うけれども、表現が若干違う。

 

これを通して、知らなければならない事とか、聖書のメッセージというのは、黙示録という書の性質だが、この書は、ここでも、もう一度語らなければならないと書いてあるように、反復という事。

 

繰り返し語るという事であるが、黙示録の記述の一つの特徴というのは、繰り返し、何度も同じ事が書いてあるという事。

 

例えば、艱難時代とは三年半。これは昔から変わらない。

 

しかし、黙示録の中では、三年半に関して、あらゆる形で、繰り返し表現している。

 

例えば、1260日、42か月、一時と二時と半時など。  また、三日半。

 

こういう表現が、いろいろ出ているという事は、黙示録は、同じ言葉を繰り返し何度も書かれている書だという事を理解しなければならない。

 

そうでないと、わけが分からなくなる。

 

その一つの良い例は、例えば、

 

 

 

8:7第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現われ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。

 

8:8第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。

 

 

 

あと延々と三分の一とかいてあるが、みな繰り返しだと思われる。

 

三分の一が霊的な災いに遭うという事が、いろんな表現を変えて書いてある。

 

出エジプト記の災いがそう。

 

霊的な災いが多い。

 

黙示録も起きて来るメインの事も、そんなにいくつも無いと思われる。

 

表現を繰り返し何度も同じ事を書いてあるので、何か複雑で何が起きるか分からない、こういう封印もある。七つの封印・・・七倍難しいのも確か。

 

同じ事が繰り返し何度も書かれている。

 

黙示録は、そうであるし、また、謎に関しては、聖書もそういう事を言っている。

 

ヨセフの夢の時に、王の見た夢のような、「七つの良い穂が出て来た。」「その後醜い穂が出て来て七つの穂を食べ尽くしてしまった」とか、「太った七頭の牝牛が出てきた後、醜い牝牛が出て来て、太った牝牛を食べ尽くしてしまった」とか、普通に考えれば、二種類の事が起きているように見える。 しかしそう見えても、一つの事を語っている。

 

同じように黙示録も、同じ事を繰り返して語っているが、「すみやかに起きる」と言っているという事にすぎないのであって、何が繰り返されているのか理解しないとさっぱり分からない。黙示録が言っている事は、世の終わりに起きて来る事はかなり単純な事が繰り返されている。一つは御言葉の飢饉とか、いろんなわけの分からない教理が入って来たり、教会で、聖霊ではなく、悪霊が吹き荒れていたりとか、反キリストが、キリストの場所に立つ、獣の国が台頭するとか、メインではそんなにいくつも書いていないように思われる。

 

ただ、表現を変えて、繰り返して書いてあるので、強調して書いてある。