ヨハネの黙示録11章10~13     2016.3.6

 

 

 

11:10また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。

 

 

 

贈り物を贈り合う。 これは特殊な表現。

 

エステル書に書かれていたことが再現するのではないか。

 

「プリムの祭」というものが、このエステル書に出て来る。

 

くじ(プル)を引く。 ユダヤ人を殺す日を定めるために。 

 

プリムの祭の時に、「喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。」

 

同じ事が再現するであろうと考えられる。

 

滅ぼす日を定めるのではないか。

 

艱難時代は、三年半と、きっちり期間が決まっている。

 

どこまでも聖書に忠実な者。 どこまでもキリストを主だと言っている人達を滅ぼす日を定めるのではないか。  その日が、「あの連中が滅ぼされてよかった」と言って、喜び祝うという、

 

そのように思える。 背教の極致。

 

キリストを十字架につけて、福音書に書かれている様に、大喜びする背教の極致と言われている様に、正しいクリスチャンを皆殺しにして、喜び祝い、贈り物を贈り合う、背教の極致。

 

これらは、クリスチャンの間の事。「喜び祝い、贈り物を贈り合う」

 

 

 

11:11しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。

 

 

 

三日半は三年半のこと。

 

艱難時代の終わりに、復活が起きる。

 

「三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がった」とある。

 

簡単に書いてあるが、これは「復活」のこと。

 

死んだ人が生き返る。

 

我々が理解しなければならない事は、この時、世の終わりの時に、聖徒の復活が起きる。

 

イエス・キリストも三日の後に甦って、ここでも、三日半の後、甦りが起きる。

 

一つは、復活に関連して、聖書に書いてある。

 

この言葉の成就だと思われる。

 

 

 

第一テサロニケ

 

4:15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 

4:16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

 

 

「死者が、まず初めによみがえり、」と書いてあるように、世の終わりの時に死者の甦りがあると書いてある。

 

この事が実現することが、先ほどの黙示録に書いてある事柄の、意味合いであると理解出来る。

 

死者の復活。 我々は、世の終わりにあって臨む時、理解して行かなければならない。

 

何故なら、そろそろ死者の復活とか、夢とか、天に上げられるとか、そういった事が現実化する時代に入って来ているから。

 

獣の国も既に台頭しているし、獣の国によって、正しいクリスチャンが逮捕されたり、聖書に基づいて、「同性愛は神によって許されない」と言っただけで、逮捕される。

 

そう言う時代に来ているので、我々もそういうところを見て行かなければならない。

 

「死者のよみがえりについて」

 

 

 

第一コリント

 

15:50兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

 

15:51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。

 

15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

 

15:53朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

 

15:54しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

 

15:55しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

 

15:56「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

 

 

 

世の終わりの時に、黙示録11章の二人の預言者が甦るという事は、ここで書いてある、「朽ちないもの」とか、「不死を着る」という事の実現。

 

そして、二人の預言者と書いてあるが、「二本のオリーブの木」「二本の燭台」だとか書いてある。「二本のオリーブの木」とは、異邦人、イスラエルの民。

 

「二本の燭台」とは、二つの教会。

 

だから、たった二人だけという事は無い。

 

我々は、大いにこの事に関係する可能性があるという事を、理解しておきたい。

 

他人事と思ってはいけない。

 

ここはまさに、我々と関係するかも知れないという事だと思われる。

 

知らなければいけない事とか、理解しなければいけない事とは、「獣に負けてしまった」とか、「いのちを奪われてしまった」とか、また、「二人の預言者が殺された」とか、如何にも敗北に見える。

 

我々は、イエス・キリストが、どこまでも模範であるので、イエス・キリストの方法は、やはり、主は勝利をおさめられたが、その方法もこの様な有様だった。二人の預言者のように。

 

人間的に見れば、キリストは全く勝っていないように見える。

 

ののしられたり、目隠しされて叩かれて、「今叩いたのは誰か」と侮辱され、上着も取られ、下着までも取られてしまった。「神の子なら、十字架から降りて見ろ」とか、ひどい敗北に見える。しかし主は、勝利をし、逆転をしたのだけれど、死は、キリストの死によって、勝利に飲まれた。イエス様は死んだが、甦られた。

 

主は死なれた後、復活され、栄光の身体に変えられた。

 

ゆえにずっと生きておられる。二千年経った今でも。

 

キリストが黙示録に出て来るときに、髪は白かった。

 

「歳を経た方」とも呼ばれている。

 

我々の勝利も、この様なものと思うべき。

 

恥を通るかも知れない。

 

しかし、逆転の勝利がある。永遠のいのちを得てしまえば、勝利。

 

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 

朽ちないとは、しおれない、老化しないという事。

 

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられる」「ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 

普段我々は、老化を当たり前だと思っているが、我々が、死ぬとか、老化する、というのは一時的なもの。永遠に必ず老化して死ぬとは限らない。

 

神によって、朽ちない体に変えられたら、もはや老化も死も無い。

 

「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」と書いてある。

 

「死ぬものは、必ず不死を着なければならない」と書いてある。

 

我々は、寿命が来て死ぬのは当たり前だったが、それはこの世の常識であり、今の常識。

 

「死ぬものは、必ず不死を着なければならない」

 

そうなっていく。

 

この二人の預言者は、主の言葉に従ったが、人間的に見れば敗北であり、負けているのだが、

 

不死を着た。そして、神の霊によって甦った。もう死ぬ事は無い。

 

これが神の方法であり、神の勝利の方法だという事は、よくよく覚えておく。

 

なので我々は、イエス・キリストこそ、信仰の模範であり、完成者なので、キリストのような歩みをして行く。それで良い。 恥を受けたり、「負けたじゃないか」と言われたりするかも知れないが、そこは我慢する。

 

 

 

黙示録

 

11:12そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。

 

 

 

ここで注目する事は、「雲に乗って天に上った。」ということ。

 

まさに、キリストの昇天と同じ。

 

二人の証人は、キリストと同じような歩みをするという事。

 

イエス・キリストも三年半の公生涯において、十字架で亡くなり、その後甦って、天に上った。

 

二人の証人もそう。

 

三年半の間、1260日の間預言して、その後殺され、甦って、天に上る。

 

明らかに、キリストと同じように復活して、キリストと同じように永遠のいのちの身体をいただく。  どちらが良いかという事。 この世では恥を受けたとしても、永遠のいのちは死なないし、朽ちないから、

 

 

 

第一テサロニケ

 

4:17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります

 

ここにも「雲の中」が出て来る。

 

どうもこのテサロニケの人達は、二人の預言者と同じ事をしている。

 

そういう意味で、二人の預言者の働きに通じるかと思われる。

 

ポイントは、我々は、世の終わりの時に、大事な事が一つある。

 

それは、今の間違えたクリスチャンが言っているように、「艱難の前に上げられる」事ではない。これは、インチキ教理。これに騙されてはいけない。

 

大事な事は、テサロニケの手紙4章にも、雲の中に引き上げられと書いてあるので、これが携挙ではないか。この時に、天に上げられなければならない。

 

この時に、朽ちる身体から朽ちない体に変えられなければならない。

 

この時がポイント。

 

これを逃がしてしまうと、もうチャンスが無い。

 

復活を経験したり、天に上げられる人々、この人たちは、朽ちない体に変えられるが、この人たちは、黙示録11章を読む限り、分かる事は、預言者の歩みをしているという事。

 

誰でも彼でも上げられるとは書いていない。

 

逆に、三年半、1260日の間、預言をして行く。  そして、人々には嫌われたりする。

 

「あいつ等はくたばって良かった。贈り物を贈り合おう」

 

ポイントは、この人たち(二人の証人)が、携挙されて行き、復活を経験する。

 

そして不死を経験する。栄光の身体を受ける。  他の人々にはもうチャンスが無い。

 

だから、これを逃がしてはいけない。

 

先程のテサロニケの手紙を見ても分かるように、殉教する人もいるし、最後までこの世にいて上げられる人もいるが、どちらにしても、預言者的な働きに加わっているという事。

 

それで結局、殉教する人もいるかも知れないが、エリヤを助けたやもめのように、そう言う人たちは上げられていく。

 

この黙示録11章で言っているポイントというのは、ソドムやエジプトの都に同調して行く人は明らかに、天に上げられない。栄光の身体に変えられない。

 

しかし、預言者的な働きに加わって行く、ある人達は殉教するかも知れないし、ある人達は、

 

最後まで生き残るかも知れないが、これは一体。  そう言う人たちは上げられていくし、変えられていく。

 

レムナントでは、「角笛」という名のニュースレターを出しており、ホームページも出している。これらも預言者的な働きにつながって行くと思われる。

 

二人の預言者の働きにつながって行く。

 

その日、上げられる事に関係して行く。

 

預言者の働きの一端を担うから。

 

だから結構、ポイントは高い。

 

「艱難前携挙」は、あり得ない。いくら待機していても意味が無い。

 

勘違いしている人達はそれをずっと待っている。

 

しかし、黙示録1112節で言われている天には上げられなければならない。

 

それを目指していくというのが正しい。

 

ここで、朽ちない身体に変えられる。

 

その為に明らかに、預言者の働きをしている人は、復活を経験するという事。

 

生きながら栄光の身体に変えられる人もいる。

 

みな、二人の預言者の働きに連なっているというように読める。

 

レムナントの奉仕に携わっている人は、たとえ封筒を折る奉仕でも、結果的に連なることが出来る。   非常に大事なポイントだと思う。

 

 

 

黙示録

 

11:13そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。

 

 

 

地震とは、迫害などの揺るがしだと思われる。

 

 

 

11:14第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。

 

11:15第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

 

 

 

だから、キリストは、その時に再臨される。

 

テサロニケの手紙ではキリストの再臨の時、天に上げられると書いてあるので、キリストは来られる。

 

キリストは来臨し、全てはキリストのものとなったと書いてある。

 

主は永遠に支配される。

 

今のこの世の中も、キリストのものではない。キリストが支配してはいない。

 

「この世の神」と言われるサタンが、この世を支配している。

 

しかし、キリストは来られ、この世を支配するのは、まさに聖書が語っている事柄であるので、

 

こういった事は、是非見て行きたい。

 

キリストが王となり、キリストが国を支配されるという事に関連して、聖書は23、語っている事があるので、そういった事柄を見て行きたい。

 

キリストが王となる事に関連して学ぶことがある。

 

 

 

マタイ

 

22:1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。

 

22:2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。

 

22:3王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。22:4それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』 

 

22:5ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、

 

22:6そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。 

 

22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。

 

22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

 

22:10それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 

22:11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

 

22:12そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 

 

 

ここで書いてあるように、我々は、キリストの来臨、キリストが王となって支配する時を迎えようとするが、その時の注意点をこの箇所から見て行きたい。

 

注意点の一つは、マタイ22章の14節で分かるように、「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」というところにポイントがある。

 

ここを見て行きたい。

 

招待されたのに選ばれなかったとか、そういう事にならないように気を付けたいと思う。

 

キリストの来臨、そして新たに国を支配するようになるという時に関しては、結婚の披露宴をもうけた王に喩える事が出来ると書いてあり、結婚式に喩えられる。

 

これは、世の終わりの時もそう。

 

黙示録に花嫁が出て来る。

 

ポイントはちゃんと、結婚が成立するかどうか。

 

問題は、ここで見て分かる事は、招待した人達は来ないという事。

 

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」 「どうぞ宴会にお出かけください。ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」

 

王は怒る。   この事は冗談みたいに思えるが、聖書は冗談を語らない。

 

逆に、書かれている事が実現するから怖い。

 

これは、イエス・キリストの来臨の時、まさにそう。

 

イエス・キリストは、花婿に喩えられる。

 

バプテスマのヨハネは「花婿の友人」だと言っていた。

 

花嫁は神の民だったりする。

 

その時のユダの民(神の民)の反応は、まさにここに書いてある。

 

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」「ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、」

 

「そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」王のしもべ。神の遣わした色々な預言者。 イザヤ、エレミヤなど、イエス・キリストの来臨を預言したが、殺されてしまった。

 

バプテスマのヨハネも殺されてしまった。

 

そして、キリストご自身も殺された。

 

それで、どうなったかというと、7節の御言葉が成就した。

 

「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」

 

「彼らの町」を具体的に言えば、キリストの初降臨の事を言うなら、ユダヤの民であり、エルサレムの事を言っている。

 

西暦70年のエルサレム崩壊の場面の絵画には、みな、焼かれる絵が出て来る。

 

エルサレムは、ローマ軍によって滅ぼされ、焼かれてしまった。

 

この事は、正確に成就している。

 

キリストを十字架につけて殺した後に、エルサレムが四十年後に、西暦70年にローマによって滅ぼされ、火で焼かれ、その宮も崩壊して、一つの石も、他の石の上に残らなかったというのは、まさにこれらの御言葉の成就。

 

全然気にもせず、相手にもしないので、結婚は成立せず、しもべを殺したので、王すなわち神様が怒って、町を滅ぼしてしまった。

 

恐ろしい事だが、主の語られた喩え話は、正確に成就する。

 

ここで、話は半分。

 

終末の日に、これは再現する。

 

だから、過去の事を今でも読んでいる。

 

旧約の神の民に起きた事は、正確に、新約の歴史の中に再現する。

 

聖書は、その様に書いてある。

 

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるが聖書に書いてあるわけではないが、そのことは大事。

 

聖書に書いてある、昔の民の失敗というのは、後の日に再現されるから書いている。

 

言われている理解しなければならない言葉というのは、この言葉が再現されるという事。

 

7節で「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」

 

これが世の終わりに再現する。

 

大筋としてこのような事が起きて来る。

 

背教がまさにそう。

 

宮が崩壊する事もまさに予表。

 

その辺が大きなポイント。

 

キリストが、王として来臨する時に、この様な事が起きて来る。

 

我々は、正しく見て行かなければならない。

 

もう一つの事がある。

 

 

 

22:8そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。

 

22:9だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』

 

 

 

あらゆる人を宴会に連れて来たのだが、使徒行伝の時に成就している。

 

パウロは、異邦人に救いの福音を述べ伝えていって、多くの人が、キリストの花嫁として、教会に連れて来られた。

 

同じ事が、世の終わりにも再現しそう。

 

だから、クリスチャンは気を付けなければいけない。

 

今のこの盲目度は尋常ではない。

 

聖書は、艱難前に上げられるとは全く言っていないのに、何も見ていない。

 

これは危険な領域。  ちょっとの間違いではない。

 

宮の崩壊に関しても、出来てもいない第三神殿が建設され、それからどのくらい後になるか分からないが、それが崩壊した後に、反キリストが立つとか、それはあり得ない。

 

しかし、それを真面目に考えている。

 

並大抵の盲目度ではない。   滅びが来る可能性がある。

 

クリスチャンの代わりに別の人が来る可能性がある。

 

今、「未信者」と言っている人達が。これには気を付けるべき。

 

 

 

22:11ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。

 

22:12そこで、王は言った。『{友よ。}あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 

22:13そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。

 

22:14招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

 

 

 

結婚式は、ただ行けばいいというものではない。

 

服が大事だという事。

 

これは、喩え。

 

聖書には、「義の衣」が出て来る。

 

どう見ても、礼服は、義の衣。

 

それを我々は、用意しなければいけない。

 

間違いのない教理を受けていても、十分に結婚式へ入っても、服が問題。

 

「礼服」の事を見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

19:7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

 

19:8花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

 

 

 

これが先ほどの礼服の話と通じると思う。

 

ここでもやはり、結婚式の花嫁の服の事を言われている。

 

花嫁の衣は何かというと、8節に書いてあるように、「きよい麻布の衣を着ることを許された。」と書いてあるが、「その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」と書いてある。

 

やはり、「行ない」

 

我々が、「行ない」が正しくなって行く事が、結婚式に出る衣装。

 

それを着ているなら、結婚式を追い出される事は無い。

 

しかし、それを身に着けないで、婚姻の場にいる時に、追い出される可能性がある。

 

この事は大事。

 

 

 

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

 

 

これではダメ。名目だけではいけない。実際は死んでいるのでは意味が無い。

 

 

 

3:3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

行ないが死んでいると、衣を汚す。

 

そうすると、いのちの書から消されてしまう場合がある。

 

「白い衣を着ている」という事が大事。

 

我々は正しい教理を得て、間違いなくそういうところに入って行くべきだが、それは一つの事。それと共に、聖徒の正しい行いを身に着けて、それを衣として結婚式に行くというのが大事。

 

 

 

ルカ

 

19:12それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

 

19:13彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

 

19:14しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。

 

19:15さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

 

 

 

19:26彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている物までも取り上げられるのです。

 

19:27ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

 

 

 

ここも、明らかにキリストの来臨の事が書いてある。

 

その時に出て来る言葉は、先ほどのマタイの福音書でも、

 

 

 

マタイ

 

22:7王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。

 

 

 

ルカの1927節でも物騒な事が掻いてある。

 

「ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。」

 

それに関連して、同じルカの、

 

 

 

ルカ

 

19:14しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。

 

 

 

その国民。

 

ここに非常に悲劇的な事が書いてある。

 

キリストは、ご自分の国に王として来られたが、その国民は、「王にはなってもらいたくありません」と言った。

 

悲劇的だが、キリストの初降臨の時に成就している。

 

やったことがそうだった。

 

イエス・キリストが、結局はカルト扱いされ、非難され、迫害され、最後に殺された。

 

十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれた。

 

王を殺してしまった。

 

その結果、どうなったかというと、

 

 

 

ルカ

 

19:27ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

 

 

 

王であるキリストが殺され、その四十年後、西暦70年、エルサレムにいた者は、最後の一人まで殺されてしまった。

 

それが、先のみ言葉の成就。

 

主の言われた喩えというのは、みな正確に成就している。

 

そしてこれは、未来への預言でもある。

 

我々が世の終わりの事に関して知らなければいけない事は、この国民が、後から使いをやって、「この人に私たちの王にはなってもらいたくありません」と言った事は、起きてほしくないけれども、聖書に書かれているので、成就するという事。

 

旧約の国民と言えば、その当時のユダヤ人全員。

 

今の新約の時代、キリストの国民とは何か・・・教会である。

 

どこの教会というわけでもなく、結局は、キリストに対して背教して行くというのが、まさに聖書が語っている事。

 

黙示録の11章に書いてある事はまさにその事。

 

「彼らの主も、この都で十字架につけられた」というのは、この事の再現。

 

だから、ソドムやエジプトのようになって、キリストを排除しているという事。

 

大きな都とは、教会の事。

 

排除しているし、王になって欲しくないという事。

 

全体として、どこの教団とか、関係なしに、世界的に背教に入って行くというのが、聖書の言っている事。

 

この辺りをとらないと分からない。

 

そういう意味では、二人の預言者の歩みは、例外的。

 

しかしこれが正しい歩み。 聖書で言えば、かつての12弟子の歩み。

 

そのあたりを見て行きたい。

 

ここで、キリストの来臨の時には、「1ミナ」とか、「2ミナ」とか言われているので、頑張ろう。