ヨハネの黙示録11章15~19         2016.3.13

 

 

 

11:15第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」

 

 

 

主ご自身が支配する。

 

そう言う時代が来たという事。

 

聖書が一貫して語っている中で、キリストは、福音書の中で、世の終わりの時、もう一度帰って来られる。

 

 

 

11:16それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、11:17言った。

 

 

 

長老の数が24人。  なぜ24人なのか。

 

イスラエルは12部族であり、キリストの使徒も12使徒。

 

意味合いがあるように思える。

 

聖書に書いてある数は、思いつきで書かれたわけではなく、神様の知恵によって書かれている。

 

あらゆる数字に関して意味がある。

 

聖書の中の数字に関しての学問というものがある。

 

24という数字にも意味がある。

 

2412+12

 

なぜ長老が24人出て来るのか。

 

黙示録の時代というのは、新約の終わりであり、且つ、旧約の終わりの時。

 

神は、その様な事を示されているのではないか。

 

黙示録は、あらゆる結論とか、まとめが書いてある。

 

旧約の事が書いてある。

 

それと共に、新約の終わりとか終末とかも、結論が書いてある。

 

その様に理解出来る。

 

なのでここに出て来る長老の数というのは、12人ではない。

 

もし12人なら、旧約のみ、またはね新約のみの人数になる。

 

24人は、旧約の終わりであり、尚且つ新約の終わりである。

 

それが黙示録であると理解出来る。

 

なので実際にそう。

 

黙示録を見ると、新約の7つの教会の終わりの事が書いてあるけれども、それだけではない。

 

明らかに、旧約のイスラエルの事も出て来る。

 

黙示録は、旧約の終わりプラス、新約の終わり。両方の事が書いてある。

 

24人の長老という事を通して語って行く。

 

艱難前携挙のようなインチキな教理には、この事は大事。

 

何故か。この教理はディスペンセンション主義から出ている。

 

JNダービーという、19世紀のイギリスの人が言いだしたのだが、この考えの一つの大きな特徴というのは、「時代区分」というものがある。

 

全部で7つの(神が7日で創られたという事で)、時代区分という。

 

7つのミレニアムまで言う。

 

6つ目のミレニアムまでは、教会時代だという。

 

6つ目までは、異邦人の教会時代で、7つ目のミレニアム、つまり黙示録の時代は、ユダヤ人の時代であって、この時は、具体的に言うと21世紀以降。7つ目のミレニアムなので、この時には異邦人の時代が終わり、ユダヤ人の時代に戻るなどと言う。だから、「黙示録の時代は、ユダヤ人の時代だ」と言う。だから、艱難前に教会は上げられるという。

 

一見本当の様に思えて、信じ込む人がたくさんいる。だから「黙示録に書いてあるのが律法的なのはそのせいだ」と言う。引っかかる人がたくさんいる。

 

しかし、黙示録がその様に見えるのは、読み方が浅いから。しかも意図的。

 

黙示録の時代が、ユダヤ人の時代に戻っているなら、イスラエル12部族の12人の長老しかいない筈。  しかし、24人いる。明らかにこれは、旧約の時代の終わりであり、黙示録の時代というのは、旧約の時代の終わりであり、尚且つ新約の時代の終わり。

 

それを「24人の長老」が表している。

 

黙示録の時代はユダヤ人だけが登場するというのは嘘。

 

たった一つのみ言葉で、こういう事が分かるので、しっかり見て行きたい。

 

 

 

11:17言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。

 

 

 

と、あるように、「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。」

 

これは、イエス・キリストの事を言っている。

 

しかし、日本語の新改訳聖書には問題がある。

 

KJVでは、「常にいまし、昔いまし、やがて来られる」と書いてあるが、日本語には出てこない。

 

「やがて来られる」というのは、明らかにこれはキリストに関しての事柄。 再臨。

 

なのでここは、キリストの事を言っている。

 

一つは、17節で言っているのは、「キリストは神」だという事。

 

ここのところが、日本語訳では今一つ。

 

聖書の翻訳とかに関しては、しきりに攻撃がされており、特に、キリストの神性に関して、色んな攻撃が来ている。

 

残念ながら、この様な事が色々ある。

 

 

 

1:4ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、

 

 

 

この方は、イエス・キリストの事。

 

だから、「今いまし、昔いまし、後に来られる方から」  再臨されるから、キリストの事。

 

 

 

1:8神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

 

 

 

これも、キリストの事を言っている。

 

聖書が明らかに「神である主」と書いてあるように、キリストこそが神であると言っているが、

 

その辺の事を、日本語訳は、ぼやかそうとしている。

 

しかし明らかに聖書は語っている。

 

「再び来られる方」というのは、キリストであり、それが万物の支配者である、神である主。

 

こういった事柄に関して、どこかで惑わされることが無いようにしなければならない。

 

正しく理解しておく。

 

「ものみの塔」なんかは、「キリストは神ではない」などと、色々ひっかけようとしているが。

 

キリストは、謙遜であられる方であり、御言葉を丹念に読んでいくと、ちゃんとキリストが神であるという事が分かって来る。

 

惑わされることが無いように。

 

驚くべき事だが、神が、人の姿をもって来られ、ナザレで生活していた。

 

聖書に書いてある事が正しい。

 

 

 

11:18諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」

 

この所は、一つは18節に書いてあるように、死者の裁かれる時。 死者は単に、人間の身体が死んだだけではない。聖書でいう死とは、「罪と死」ということ。

 

 

 

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

 

 

と書いてあるように、「生きているとされているが、実は死んでいる。」

 

この死が、先ほどの「死者の裁かれる時」と思う。

 

ここで言っているのは、明らかに肉体の死というよりも、罪とか死の事を言っている。

 

「あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

 

という事は、まだ罪に沈んでいるという事。

 

このような人達というのは、死人とみなされる。

 

そうすると、サルデスの問題は、サルデスの教会に関して書かれている。

 

「クリスチャンであるなら、誰もさばかれない」とか、「地獄に入る事など決して無い」などと言われるかもしれないが、このサルデスの教会の事をよくよく読んでいく時に、そうとは言えないという事に気づく。

 

1節で、「実は死んでいる」と書いてあるが、罪に死んでいるとどうなるかと言うと、命の書から明らかに、名が消される。

 

 

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

白い衣を着て、義の衣を着て、そして生きている者は、命の書から名を消されない。

 

何故なら死んでいないから。

 

逆に生きているとされていても、神の御前に死んでいて、白い衣を着ていない人たちというのは、命の書から名を消されてしまう。

 

そうとしか読めない。 命の書から名を消されるという事はありうる。

 

なので我々は、この事を理解しないといけない。

 

そうでないと、我々は、神の裁きの座に立った時に、誰が裁かれるか、裁かれないかに関して、

 

はっきりしないから。

 

はっきりサルデスから理解しなければならない事は、明らかにクリスチャンであっても、「死んでいる」とされていて、罪の中にずっととどまるなら、いのちの書から名が消される。

 

そういう事が、明らかに書いてある。

 

 

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

ここでは、「死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」

 

これは何かというと、贖いが無いという事。  贖いとは「買い取る」という事で、それがないと罪を買い取って、帳消しにしてもらっていないという事。

 

明らかにわかる事は、我々が、サルデスの箇所の言葉の通り、名目で「生きている」とされていても、「実は死んでいる」と神様にみなされたら、これは「死者」

 

死者は書物によって裁かれ、贖いが全くない。

 

我々の行なった行ないは、びた一文負けられることなく、全部罰を払う事になる。

 

キリストを信じない人も死者。しかし、たとえキリストを信じても、「生きているとされているが、実は死んでいる。」と見なされた人は、これも死者。

 

だから我々は、キリストを信じるというのは一つの事であるが、神によって生きていると、本当に見なされるとは、また別の問題。

 

それを目指さなければならない。

 

 

 

ピリピ

 

3:10私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、

 

3:11どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

 

3:12私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

 

 

 

パウロは、「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

 

死者は死人。死んだ人。そこから復活、甦る。

 

パウロは、単にキリストを信じるだけで終わりとは言わなかった。

 

逆に彼は、クリスチャン生活の生涯の歩みをかけて、「どうにかして、死者の中からの復活に達したい」と求めて行った。

 

彼は、死者からの復活に達し、いのちの書に名前を連ねて、命の栄冠を得たと思うが、同じように我々も、キリストを信じるのだけれど、同じように、我々は、信じたとしてもやはり、クリスチャン生活の中で、大事な事は、やはり、死人の中に、罪の中から、死者の復活に達する事。 「生きているとされていて、本当に生きている」という具合に、名目も実態も生きている。  それが、死者からの復活。

 

そうすれば、いのちの書から名が消されることは無い。

 

逆に、死人と見なされて、あらゆる罪が、一つも贖われずに、自力で払わなければならない、火の池に入らねばならないという事が無い。

 

なので、クリスチャン生活というのは、このピリピへの手紙のように、死者からの復活というものを求めていくという事に、大きなポイントがある。

 

18節の中ほどで、「あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時」

 

だから、ここで、良い事も書いてある。

 

「しもべである預言者たち」とか、「聖徒たち」とか「御名を恐れかしこむ者」、こういった人達に報いが与えられる。

 

「報い」という言葉は、日本語では微妙だけれども、ギリシャ語の意味合いとしては、「賃金が与えられる」という事。  そういう意味合いで報いが来る。

 

なので、この黙示録の時代というのは、我々が、罪や、死に留まる時に、裁きに入ってしまうが、逆に、主のしもべとか預言者としての働きにとどまり、その働きを我々が続けていく時に、

 

大いなる報いを受けるようになるという事。

 

「報い」という言葉に関し、

 

 

 

マタイ

 

5:11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

 

5:12喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 

 

 

「報い」という言葉が、先程の黙示録に出て来る「報い」

 

「あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時」

 

だから、報酬。

 

「あなた方の報いは大きいから。」「喜びなさい。喜びおどりなさい。」

 

よほどにすごい報酬が、良い報い、賃金とかが来る。

 

だから、そんな様な意味で、教えられることは、やはり黙示録の世界を見ても分かるように、

 

やはり、二つ良いことは無い。

 

キリストの為に、預言者的な働きをして行けば、当然、苦難、迫害に遭うが、しかしそれは、後の世において、「喜びなさい。喜びおどりなさい。」というような報いを得るという事。

 

抜け駆けとか、うまい方法とかは無い。

 

イエス様でさえ、十字架をしのび、辱めをものともしないで、天の栄光を受けるようになったけれども、我々も同じようなものだという事。

 

そういう意味では、主の方法が最も賢く、模範であるので、我々も、人間的な知恵を用いて、

 

迫害時代にキリストを「知らぬ存ぜぬ」で、後に報いだけ受けようとか、それは結構難しいのではないか。

 

二兎得ようとする者は、一兎も得ずという事もあるので、二つ良いことは無い。

 

しもべ、預言者たちに、報いがある。

 

終末になればなるほど、然りは然り、否は否でなければならないと思う。

 

どっちつかずではいけない。

 

報いが与えられるのは、キリストのしもべとして歩む事。

 

預言者として歩む事に、大きな報いが与えられる。

 

レムナントはまさに、預言者的な歩みを、望むと望まざるを行なっているので、預言者は「ナビ(ナビゲイトのナビ)

 

この働きをしていると、色々と文句が無いでもない。

 

例えば、「艱難前は間違いだ」「キリストは、二度も再臨しない」と言うと、それらを信じている人はみな怒り出すが、そう言う奉仕なのでして行きたい。

 

今の世では受けないかもしれないが、しかし後の世で、報いを受けるという事なので(永遠のいのちも得られる)、ここがベスト。

 

今までもそうだったけれども、これからも、預言者的な働きに、従事して行くのが、結局は永遠のいのちに近い。人間的には、危ないし、近付かない方が良いのだけれど、結局は、聖書を読んでいる限り、エリヤのような、二人の預言者のような歩みが、永遠のいのちに近いと思われるので、こういったところを選んでいきたい。

 

「地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」と書いてある。

 

「地」は天地の地。  なのでこれは「教会の喩え」だと理解する。

 

アブラハムの子孫は、天の星、地の砂の様にと言うけれども、砂も星もクリスチャンの喩え。

 

星があるのは天。砂があるのは地。

 

そういう意味では、クリスチャンを入れる所としての教会を喩えていると思う。

 

ここでわかる事は、「地を滅ぼすもの」と書いてあるように、この世の地はこの世。

 

地についた、この世についたクリスチャンは滅ぼされるようになる。

 

今その兆候が大いに出ている。

 

この世と妥協した様な教会では、同性愛を受け入れてしまったり、「地獄は無い」と言ってみたり、また、「イスラム教とキリスト教も一つになる」とか、滅ぼされて行っている。

 

今、地的な教会は滅ぼされつつある。  今、我々はその過程にある。

 

だから、教会を主体に見てはいけない。

 

カトリックの人達は間違えて、教会が一番だと思っていて、教会を軸にものを見ているから何も分からない。

 

主の御言葉のみが、天地が滅び去っても、決して滅びず、動かない。

 

御言葉に立つのが全く正しい。

 

 

 

黙示録

 

11:19それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。

 

 

 

この箇所を見たい。

 

この中でわかる事は、いなずまとか、声とか、雷鳴、地震とか、こういった似たような表現の箇所がある。

 

 

 

出エジプト記

 

19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 

 

 

19:15モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

 

 

 

これは先ほどの黙示録に書いてある通り、雷、稲妻、角笛とか、こういった事が書いてあるので、非常に似ている。

 

出エジプトの箇所は何かというと、シナイ山、モーセが契約を受けたその場所に、神が三日目に降りて来る。 これは、キリストの再臨の型であると理解出来る。

 

三日目というのは、キリストが来られてから三つ目のミレニアム。

 

まさに我々は、21世紀にいるが、キリストが来られてから三つ目のミレニアム。

 

その時の特徴というのは、出エジプト記で見た限りは、恐ろしい有様。

 

「宿営の中の民はみな震え上がった。」とあるくらいだから、みな震えあがる。

 

言わんとしている事というのは、神が、その契約を下さった時がまさにそうだった。

 

人々が震えあがった契約だった。

 

我々が理解しなければいけないのは、この様な箇所が黙示録の中に出て来るという事は、他でもない、キリストの再臨の時に関しての事。

 

結構厳しい、律法に関しての御言葉が出て来る。

 

先程の黙示録11章の19節で、「契約の箱」というものが出て来るが、契約の箱は、

 

 

 

第一列王記

 

8:9箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。これは、イスラエル人がエジプトの地から出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれたときに、モーセがホレブでそこに納めたものである。

 

 

 

「箱の中には、二枚の石の板のほかには何もはいっていなかった。」と書いてあるように、契約の箱のメインの中身というのは、二枚の石の板。

 

二枚の石の板は、明らかに、旧新約聖書の型。

 

黙示録の中で言われている事。

 

神は、キリストが再臨する時というのは、再度、このシナイ山での契約を成就する時。

 

その時に、規範となるのは何かというと、二枚の石の板、旧新約聖書。

 

この中のあらゆる律法を履行するという事。

 

なので、我々は、「もう律法は関係ない」とか、色んな事を言う教師がいるかも知れないが、黙示録はそうは言っていない。   神の書かれた契約をきちんと理解しなければいけない。

 

 

 

出エジプト記

 

20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 

20:4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

20:5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 

 

これは十戒。

 

こう言ったふうに、契約を神は語られた。

 

 

 

黙示録

 

11:19それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。

 

 

 

これは、先ほどの出エジプト記の箇所を読めば何となくわかる。

 

契約の箱の中には、二枚の石の板がメインの中身。

 

石の板は、旧新約聖書。

 

ここで言っている事、キリストの再臨の時、大きな問題とか、メインは、他でもない旧新約聖書のみ言葉の通りに、これを守っている民は、祝福に入るが、そうでない民は、災いに遭うという事が、まさにここに暗示されている。

 

そして、その時に、いなずま、声、雷鳴、地震、これらは先ほどの出エジプト記に似ているが、その時に民が恐怖に襲われたように、やはり同じ意味合いで、神は、そういった言葉に関して、語られている。

 

なので我々は、旧約の全ての御言葉を文字通り行う必要があるとは思えないが、言わんとしている御言葉の意味合いというのは捉えて行かなければならない。

 

例えば、「どんな像をも造ってはならない」・・・人を偶像として仕えてしまうとかは、新約の今の時代でも裁かれてしまうという事柄は、よくよく理解する。

 

そういう意味では、律法に照らし合わせて裁かれるクリスチャンは結構いるのではないか。

 

例えば、カトリックの人がそう。

 

ローマ法王を偶像にして、ローマ法王が、「地獄は無い」と言えばそれを信じ、「進化論は正しい」と言えば、「進化論は正しい、聖書の創世記は間違いだ」など。

 

これはどう見ても偶像礼拝。

 

神の言葉を捨て去って、人のいう事を礼拝しているから。

 

プロテスタントでも似たようなところがある。

 

ビリーグラハムが「右」と言えば「右」とか、「カトリックには問題なし」と言えば、同調する。 近代神学者が、「イエスは復活してない」とか言えば、ビリーグラハムは自分の伝道集会に呼ぶ。 すると、ほかの信者も同調する。

 

それらは、偶像崇拝。

 

主は、あらゆる御言葉に関連して、契約の箱の事柄を実践される。

 

こういった事柄は見て行きたい。

 

あらゆる御言葉は、一つも無効になっていない。

 

我々は、キリストの再臨の時、出エジプト記で明らかに三日目に主は来られるのは、キリストの再臨に重なるので、主に恐れを持って、正しく行なうべき事は行なって行きたい。

 

そうすれば、怒り、裁きに遭う事はない。