ヨハネの黙示録11章6~10         2016.2.28

 

 

 

11:6この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。

 

 

 

二人の預言者の事を語っている。

 

二人の預言者は、解釈する人はみな言っているが、二人の特徴は、モーセ及びエリヤ。

 

モーセとエリヤ、二人の預言者個人がそのまま来るのではない。

 

二人の預言者は「燭台」だと黙示録に書いてあるように、二つの教会をさす。

 

キリストを信じる人々。

 

個人が預言をし、個人が天に上ると思うのは間違い。

 

ある意味で、グループをさす。一人や二人ではない。

 

ただもう一つは、「預言者」と書いてあるので、旧約の預言者の様に、その時代の曲がった神の民に対して、正しい方向を示していく。

 

エリヤがまさにそう。その時代、バアルの預言者四百人、アシェラの預言者四百五十人、真の神の預言者がエリヤ一人だった。

 

曲がり切った状態でも、預言者は正しい方向を示す。

 

レムナントもそれを願って行きたい。

 

雨が降らないように天を閉じるのは、世の終わりの時に、雨が降らないということ。

 

これは、喩えが使われている。  喩えを理解できないのは良い事ではない。

 

雨は、明らかに、聖霊の雨。

 

エリヤが祈ったら、三年半の間、雨が降ら無かった事が書かれているのは、三年半は明らかに艱難時代。  艱難時代には聖霊の雨が降らない。そういう時代が来る。

 

艱難時代の事に関しては、あらゆる方法で、あらゆる形で、あらゆる聖書箇所で預言している。

 

ある意味で、これは聖書のクライマックス。

 

聖書は、ある特定の時をさして書かれた本ではないか。

 

福音書の中で、「全ての事が成就する報復の時」とかいてある。

 

あらゆる御言葉が成就する時が来るが、それがまさに艱難時代。終末の時。

 

艱難時代の時には、聖霊の働きが枯渇してしまうという、この一点も覚えておく。

 

テサロニケの手紙の中に、「とどめている者が取り除かれる」と書いてあるし、黙示録のラオデキヤの教会では、「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。」とイエス様が言っておられる。

 

つまり、聖霊が、外に追い出されている。神の教会の外に追い出されている。

 

これが、「雨が降らない」という事。

 

しかしそれは、全ての教会ではないと思う。

 

仮庵の祭に入って行った人に対しては、雨が降る。 それはエリヤの箇所で、飢饉だが、一人のやもめは守られた。「その粉は尽きず、瓶の中の油は尽きなかった。」

 

油は聖霊。 我々が、預言者を助けるような歩み(エリヤのような)をしていく時に、我々にも聖霊が与えられるという事が、実は旧約聖書の中に預言されている。

 

雨が降らない時に、どうするか。

 

基本的には、預言者を助ける人には、聖霊が枯渇することが無いという事が、このやもめに関しての教えの真髄。

 

6節では、「水を血に変え」とかは、つまり聖霊が悪霊に変わる。

 

艱難時代は大変な時。  背教の教会で、聖霊を受けるつもりが、悪霊を受けてしまうという災いがある。  そういった時になってしまう。

 

 

 

11:7そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。

 

 

 

黙示録に関して、根本的な間違いをしているパターンが多い。

 

黙示録13章に出て来るように、「獣」は国。

 

七つの頭と十本の角を持っている人間はいない。

 

つまり、獣の国が、「彼らと戦って勝ち、彼らを殺す」と書いてある。

 

勘違いしている人が多いが、我々の理解では、獣の国はアメリカ。

 

この獣に関しては、一つは底知れぬ所から登って来るという事が書いてある。

 

悪霊、サタン的な働き。

 

この国がアメリカであると我々は理解しているが、分かる事は、終末に出て来る獣の特徴は、

 

「底知れぬ所」から出て来るという事。

 

だからあらゆる意味で、悪魔的な、サタン的な、人に滅びをもたらすようなあらゆる要素があると言うように理解出来る。

 

獣の国アメリカは、天から降りた天使ではなく、地の底から登って来た、特別な国。

 

終末の時を理解するには、これを見ておかなければならない。

 

あらゆる聖書の言葉は、意味なく書かれているわけではない。

 

「地の底から上って来る」とは、やはり意味がある。

 

アメリカを見てわかる事は、一見良さそうだったり、音楽だったりとか、いろんな映画とかを見て、楽しいとか、ユーモアのある人とかが結構いる。マイケルジャクソンとか。

 

だが、「底知れぬ所」から上って来る国である事は、理解しておく。

 

アメリカという国に関して、色んな実態というものが見えるようになって来た。

 

例えば、他国に対し原爆を使い、劣化ウラン弾を使う。そのような事を平気で行う。

 

狂牛病が起きたりなど。

 

あと、如何にも良さそうな事を言っておいて、裏では大変な事をしていたり、そういう事柄が多くある。   9.11のテロも自作自演であるし、日本においても3.11の地震、津波、原発も、

 

アメリカの陰謀だと言われている。  その通りだと思う。

 

表向きには良い事をしている様に見えるが、裏ではとんでもない事をしているのがアメリカという国。

 

一つは、政治的な事。狂牛病の原因となる牛を送って来たり、誰も頼んでいないのに遺伝子組み換えの食物(モンサント社が推進)を送って来たり、強制的に食べさせたり、農薬まみれの食べ物を食べさせたりとか、アメリカのしている事は、悪魔的。

 

それと共に、クリスチャンが知らなければならない事は、アメリカ由来のキリスト教も、やはり、例外なく、悪魔的な部分、クリスチャンにとって良い事のように見えるけれども、最終的には惑わされ、永遠のいのちへの道を失ったり、悪霊を受けてしまったりと、そういうものを提供しているという、こういうポイントも覚えておく。

 

聖書を読んでいるクリスチャンを騙すのだから、高度な業。

 

「ヤベツの祈り」もそう。キリスト教書店でよく売れた。

 

「ヤベツの祈り」も、色んな種類のものがある。

 

例えば「キッズヤベツの祈り」もある。

 

これは実は魔術的、同じ言葉を、毎日繰り返す。

 

一週間、一か月、一年、十年と繰り返す。 これは、魔術の原則。同じ言葉で、神に強制しようとする。

 

また、「霊の戦い」

 

これは、御使いの権威に逆らう祈り。ただでは済まない場合も多い。

 

「権威ある者をそしってはばからない」行ない。

 

原則として、聖書の法則というものがあり、それに沿った反応が来る。

 

こういう結果を知りながら、「霊の戦い」をピーターワグナーは推進した。

 

彼も悪いが、アメリカそのものも、地の底から出てきた国。

 

このアメリカから来る、あらゆる物、食べ物、政治、そしてキリスト教においても、やはり、

 

同じようなもの。   吟味して行かなければならない。

 

迂闊に何も考えずに受けたら大変な事になる。

 

霊的な事に関しても、ベニーヒンなどのリバイバルも、凄い業が起きているようだが、聖霊とは違う。   別の霊だったりする。

 

「底知れぬ所」から上って来る獣とは、意味合いがある。

 

「彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。」

 

残念ながら、殉教など、敵が一時的に勝つという事がある。

 

                                 

 

11:8彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。

 

 

 

この喩えも理解しなければならない。

 

「ソドムやエジプトと呼ばれる大きな都」  これは結論から言うと、今の背教に向かっている世界大の教会。   プロテスタントと言わず、カトリックと言わず、キリスト教会全体が背教に向かっているが、全世界的な教会であると理解出来る。

 

ある人は、「キリストが十字架にかかったのだから、これはエルサレムだ。」と言うが、それは違う。 実際エルサレムは小さな都。 これは喩えを理解できていないから。

 

正しい答えは、実際に教会が背教し、ソドムやエジプトと呼ばれるようになる。

 

教会が背教することは、テサロニケの手紙の中で書かれている事なので、そうなるという事を

 

前提で考えて初めて色んな事が見えて来る。

 

多くのクリスチャンは、書いてあるのに見ようとしないし、受け入れようとしない。

 

だから自分の好き嫌いで物事を決めている。  それで全く真理が見えなくなったりする。

 

残念ながら、教会は艱難の前に上げられるわけでもないし、残念ながら、背教して行くという事が、テサロニケの手紙の中にも書いてある。   なので実際に起きる。

 

それが、黙示録のこの箇所では、ソドムやエジプトと呼ばれる様になる。

 

どんな言葉にも意味合いがあるが、教会がソドム化して行くという事。

 

ソドムの意味合いは、同性愛。

 

同性愛を受け入れるような教会になって行く。

 

教会が、同性愛に対して、全面的に受け入れるようになる。

 

まさに聖書でいう背教だが、それが「ソドムと呼ばれる都」

 

この事は、大きな問題。

 

何故なら、一つは、聖書は明らかに、ソドムやゴモラが、その不品行のゆえに、火をもって滅ぼされた事を言っている。

 

イスラエルにある死海は、ソドムの跡だと言われている。

 

しかも、ローマ書の中では、「人々は、神を知ろうとしたがらないので、良くない思いに引き渡し、男と男で、してはならない事をするようになった。」

 

これは同性愛の事を言っている。  女もそうだと書いてある。

 

だから、ホモ、レズは、聖書的にはこれは、罪の結果であり、神に対する反逆の結果。

 

これはローマ書を見る限り、そうとしか思えない。

 

しかし、教会はそれを受け入れるようになる。

 

客観的に見ても今のキリスト教会はソドム化している。

 

これは、面と向かって神に対して逆らうような状態が起きている。

 

その結末は、恐ろしい事になる。

 

何故なら神の罰というのは、昔も今も変わらないから。

 

神がかつて、同性愛のソドムとゴモラを火で滅ぼしたなら、今も同じ裁きが来る可能性がある。

 

神にえこひいきは無い。   だから、同じ罰が来る。

 

教会にも火の裁きが来るだろうし、そういう意味ではやはり、「獣」を拝んだ人はそうなってしまうし、また、ペテロの手紙を読むならば、この世全体が同性愛を受け入れるようになっている。  その先は、火の滅び。

 

聖書の基準は変わる事が無い。   ペテロの手紙に書いてあるように、その日には、太陽も地球も、火で滅びるような日が来ると思われる。

 

聖書の基準は何一つ変わる事が無いので、我々はどうすべきかと言うと、今までと同じように歩んで行くしかない。

 

時代は変わっても、神の言葉は変わる事が無い。

 

しかし、世のキリスト教会は変わって行く。

 

すでにアメリカでは、長老派をはじめ、同性愛を受け入れている教団は多い。

 

日本もどんどん変わって行く。

 

我々は変わってはいけない。

 

もう一つ、「エジプト」

 

教会がエジプト化する。  エジプトはこの世を象徴していると思われる。

 

 

 

へブル書

 

11:24信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、

 

11:25はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。

 

11:26彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

 

 

 

モーセは、エジプトを拒んだ。

 

エジプトには、はかない罪の楽しみがある。  エジプトには宝もある。

 

しかしモーセはこれらのものを受け入れなかった。

 

この世の罪の楽しみなど、そういったものを受け入れない。

 

クリスチャンとして歩んで行くというのが、モーセの一つの型。

 

しかし、世の終わりの教会というのは、この世にどんどんついて行く。

 

実際、今のキリスト教会のトレンドは、この世について行っている。

 

キリスト教のゴスペル、ミュージック一つ見ても、どんどんこの世化している。

 

日本でも、ゴスペルの歌手が、この世の歌をカバーしたり、この世の歌を歌ったりしている。

 

この世的な方法とか、この世的な考え方とか、マインドなどが、どんどん教会に入って来るけれども、これは神に喜ばれない。

 

他の聖書の箇所にあるように、「世をも、世にあるものをも愛してはいけません。」とあるように、神に敵対する事になってしまうので、我々は、この世に関しては適切な関係を持って行きたい。

 

今のキリスト教会のトレンドは、どんどんこの世の色んなものが入って来ているが、最終的には、エジプトと呼ばれてしまう。   この世のものだという事。

 

我々は、その様な教会に、最終的には留まる事は出来ないと思われる。

 

最終的に我々は、ソドム、エジプト化した教会に留まる事は出来ない。

 

モーセも出エジプトをした。  エジプトから出て行った事にポイントがある。

 

そういう意味合いでは、最終的に、ソドム、エジプト化した教会を出ていく事が正しいが、教会は、世界全体として教会は、ソドム、エジプト化するというポイントは覚えておく。

 

黙示録11章の8節後半で、「都の大通りにさらされる」と書いてあるから、この世についた教会は、正しい二人の預言者、こういった人たちが殉教する事を「良し」とする。

 

イエス・キリストの福音書における生涯を見ても同じ。

 

旧約の神の都であるエルサレムにおいて、神が遣わされたキリストの十字架で死ぬ事を、エルサレムにいる人々は、皆全員一致で賛成した。

 

異邦人であるピラトが、「この人には何の罪も無いから十字架につけたくない」と言ったら、

 

皆、「十字架につけろ」と叫んだ。

 

神の民が、自主的かつ熱狂的に、正しい人を十字架につけた。

 

それは、旧約の神の民の背教、堕落のきわみであったから。

 

同じように、世の終わりの時には、新約の神の民の背教や堕落のきわみの中で、正しいクリスチャンたちの殉教が許されて行く。

 

我々は、どちらにつくかと言うと、どう見ても二人の預言者側についた方が良い。

 

8節の後半で、「彼らの主もその都で十字架につけられたのである。」とある。

 

ここも、アオリストという方法が使われていて、「つけられたのである」と、過去形で書いてあるが、アオリストの方法を使えば、過去、現在、未来の事もありうる。

 

だから、「つけられるのである」と読む事も出来る。

 

今から見れば、未来。

 

その様に理解すると、これから、我々の主であるキリストが、背教の教会の真ん中で、十字架につけられることが起きて来るという事。 聖書が語っている現実というのは理解しなければいけない。

 

多くのクリスチャンは、残念ながら、自分の好き嫌いで物事や教理を決めてしまう。

 

他の聖書箇所では、「耳触りのいい話を聞くために教師を集める」とある通り。

 

しかし、それでは真理は見えてこない。

 

ここに書いてあるように、この事は理解しなければならない。

 

世の終わりの時には、キリストの十字架が再現する。

 

かつての日には、キリストは肉体を持って十字架につけられたが、世の終わりの時には、一つは、キリストの教理が十字架につけられると思われる。  キリストの贖い、死後に裁きを受けるなどの、そう言った教理も、教会の中から否定されるようになる。

 

「地獄も無い」とか。

 

もう一つは、キリストの霊である聖霊も、教会の中から追い出され、逆にしるしと不思議を行なう悪霊のリバイバルとか、聖霊もどきの働きをしている霊を「神の霊」であるという風に、

 

聖霊の代わりに悪霊を受ける人々が現われて来る。それがまさに、「主が十字架につけられる」という事の再現ではないかと思われる。

 

肉体を持って再びやってきた主が、再び十字架につけられるというのはあり得ない事。

 

 

 

黙示録

 

11:9もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。

 

 

 

「もろもろの民族、部族、国語、国民」とは、あらゆる国のクリスチャン。

 

「三日半の間」  一週間の半分。一週は七日間なので、これは七年の象徴なので、「三日半」は、三年半の艱難時代の象徴ではないか。

 

「その死体を墓に納めることを許さない。」とは意味のある事。

 

これは、二人の預言者をクリスチャンだとは認めないという事を表している事だと思われる。

 

 

 

11:10また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。

 

 

 

「地に住む人々」というのは、二人の預言者と敵対する。

 

そして、預言者が殺されたりすると、大喜びをする。

 

堕落、背教した旧約の民が、熱狂的にキリストを十字架につけたように。

 

その日の再現かと思われる。

 

「地に住む人々」というのは、地に定住するというニュアンスがある。

 

世の終わりの時に、聖書が明らかに強調している事は、我々クリスチャンの歩みだが、アブラハム、イサク、ヤコブの様に天幕生活をしていて、地上では、旅人、寄留者として歩むのか、すっかりこの地に根を下ろして定住する人として歩むのかで、歩みが大きく異なってしまう。「地に住む人々」は、この世では旅人、寄留者であったような、アブラハム、イサク、ヤコブとは反対の歩みをしている。

 

そう言った人々は、聖書的な事を理解できない。

 

逆に、良かれと思いながら、結局は、正しい人々を迫害したり、正しい人が逮捕されるような事を喜ぶようになる。

 

我々の歩みがどの様なものかで、大きな違いが出て来る。

 

しかし、地に住む人々は、結局、反キリストを拝み、滅びに入って行くので、そこには何の御心も無い。

 

今は、キリスト教会の中では、地に住む人々、この世の価値観とかを受け入れる人々の声が大きくなっている。  アメリカで、クリスチャンの間でも、同性愛を受け入れている人が多い。

 

こういった人々は、この世の洗脳の中で変えられていく。

 

日本においても同性愛の権利が強調されているが、アメリカはもっとすごい。

 

同性愛に反対したり、同性愛の集会に対して、デモで反対したクリスチャンがそれだけで逮捕されたり(求刑懲役47)、その中で、クリスチャンの常識が変わって行く。

 

イスラム国という国が、過激な事をして、自分の宗教だけが良いといっている人達が、原理主義者とか、その様に言われる風潮が来ている。

 

だから、イエス・キリストのみに救いがあり、他の宗教には救いが無いと言っている人達は、原理主義者だと言われる。

 

地に住む人々は、そういう細かい事は言わない。 「どの宗教でもいいじゃないか」

 

アメリカでは、有名なリックウォレンという牧師がいる。

 

パーパスドリブンチャーチで、日本でもたくさん本が売れたらしいが、目的主導型教会、その人が、クリストラム・・・キリスト教とイスラム教を一つに合体させたような宗教。

 

すると、「イエス・キリストのみに救いがある」という教えがぼやけて見えるようになる。

 

まさに、地に住む人々の、典型的な方法。

 

アメリカの教会ではどんどんトレンドが来ている。

 

この様な人達が、正しいキリスト教徒を迫害するようになって来る。

 

「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。」

 

この、贈り物を贈り合うというのは、象徴的な言葉。

 

聖書の中で「贈り物を贈り合う」というのは、あまり出てこない。

 

しかし、旧約聖書のエステル記に出て来る。

 

 

 

エステル記

 

9:21それは、ユダヤ人が毎年アダルの月の十四日と十五日を、

 

9:22自分たちの敵を除いて休みを得た日、悲しみが喜びに、喪の日が祝日に変わった月として、

 

 

 

祝宴と喜びの日、互いにごちそうを贈り、貧しい者に贈り物をする日と定めるためであった。アダルの月の十四日と十五日  プルとかプリムの祭りとか言っているが、

 

 

 

9:26こういうわけで、ユダヤ人はプルの名を取って、これらの日をプリムと呼んだ。こうして、この書簡のすべてのことばにより、また、このことについて彼らが見たこと、また彼らに起こったことにより、

 

 

 

プリムの祭はまさに、「贈り物を贈り合う」日。

 

エステル記のこの箇所は、黙示録の「贈り物を贈り合う」

 

ちょっと見では、あっても無くてもいいような贈り物だが、隠された深い意味合いがある。

 

一つは、艱難時代というものは、このプリムの祭が再現される日だと思われる。

 

偽ユダヤ人が色々、正しいクリスチャンに対し、色々画策して、そいつらが滅びるように仕掛けて、見事に成功する時がそうだということ。

 

だからここで贈り物を贈り合う。

 

惑わされた地に住む人々は、すっかりユダヤ人に惑わされて、自分たちの兄弟姉妹を売り払ったり、それを喜んでいる、情けない状態になる。

 

もう一つは、プリムの祭がまさにこれと関係しているものだけれど、簡単に言うと「くじ」

 

ハマンという悪者が、ユダヤ人を全員殺す日を定めて、「くじ」を投げて決めた。

 

ここで類推出来る事は、おそらく聖書が語っている事は、正しいクリスチャンを絶滅させようと、おそらく艱難時代において、定めるのだと思う。

 

だからここでプリムの祭の事が出て来る。

 

アダルの月の十三日、年の初めの頃、くじを投げて、年の初めのアダルの月。

 

想像できることは、その日が近付いて来ると、段々脱落者が出て来るということ。

 

最後の脅かしが来る。

 

最後の最後まで、サタンはろくでもない事をする。

 

イエス様が、「人の子が来た時、地上に信仰が見られるだろうか」と言われた。

 

脱落者は多く出るだろうが、こんなものに脅かされてしまってはならない。