ヨハネの黙示録14章6~8          2016.6.19

 

 

 

14:6また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。

 

 

 

黙示録によく出て来る言葉。

 

「地上に住む人々」  英語では、「定住する」という意味。

 

地上に住む人々は、ろくな事が無い。

 

獣の像を拝んだり、獣の印をつけたりなど。

 

地上に住む人々の意味合いをはっきり捉えて行きたい。

 

黙示録は、あらゆる形で喩えや謎が使われている。

 

神の知恵によって書かれたものであり、主イエスご自身がマルコ4章で「たとえによらないで話す事はなかった」と、言っておられる。

 

あらゆる形で聖書の中で、喩えや謎が使われている。

 

黙示録に関しては、7つの封印で封じられていると書いてある。

 

なので、知恵を求めず、喩えや謎の理解をしようとしないでは黙示録は理解できない。

 

だから、今の時代は、黙示録が分からなかったり、開けなかったりしても仕方がない。

 

喩えを理解したい。

 

「地上に住む人々」は、少し謎が使われている。

 

地において、旅人、寄留者であったアブラハム、イサクなど、信仰の先祖達とは対称的な人々。

 

我々が歩むべき道というのは、アブラハムやイサクの様に、地上において、「旅人」「寄留者」であるという事が、あるべき姿。 「天の住まいがある」と言っている。

 

天の住まい、御国の住まいを望んでいた。

 

それと対照的なのが、「地に住む人々」  彼らは、旅人でも寄留者でもなくて、地に「定住」してしまっている。

 

だから、この世の常識、トレンドがすっかり入り込んでいる。

 

これは、赤信号であり、非聖書的。

 

今のキリスト教会で、具体的に言うならば、「この世がそうだから」といって、同性愛を受け入れて行っている。 これは、「地に住む人々」であり、「定住者」

 

あと、「仏教、イスラム・・・それぞれの宗教と仲良く」など。

 

それは、確かにこの世の友好的なフレーズかも知れないが、「地に住む人々」の戯言であり、

 

聖書とは無関係な、この世の考えに過ぎない。

 

そういった人たちに対して、黙示録は、あらゆる災いが来るという事を語っている。

 

この事は理解しておく。

 

キリスト教界のトレンドには気をつけるべき。

 

LGBT(性的少数者)を受け行けるべきだ。」などと、得意になっている。それはこの世の最先端を行っているだけであって、全く聖書的ではない。まして御心の先端など行っていない。

 

14章の6節で、「あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。」

 

福音に関して、「永遠の福音」と書かれている様に、我々は、福音を信じており、GOODNEWSを信じており、良き知らせを信じているが、この事の結末は、永遠に関わる問題だという事を覚えておく。 我々が今、正しく聖書を知る、知らない、というのは、一時的な事ではなく、永遠に至る事柄であるという事は、見て行きたい。

 

 

 

ルカ

 

20:35次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。

 

20:36彼らはもう死ぬことができないからです。彼らは御使いのようであり、また、復活の子として神の子どもだからです。

 

 

 

この中で書いてあるように、これから我々は、ちゃんと復活すれば、永遠の世界に入って行く。

 

「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは・・・」とあるので、まず、認められなければならない。

 

晴れて、復活することになれば、もう結婚は無いという事。

 

聖書的に言うなら、何故人は結婚するかと言うと、寿命が短いから。

 

精々100年くらいしか生きないから。

 

子供を産まないと、次の世代に続かない。

 

めとり、とつぎ、子を産むとは、人間は死ぬ事を前提としているから。

 

次の世界は誰も見た事が無い。信仰の世界。

 

信じるかどうか・・・。 しかし聖書にはそう書いてある。

 

我々は、死ぬ事が出来ない世界に向かおうとしている。

 

なので、この世の軽い艱難だとか、一時的な事にぐらついて、永遠の事を失ってしまっては意味が無い。永遠に向かっているが故。

 

あらゆる犠牲を払っても、得る価値のあるもの。

 

「次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは」、復活し、その場合は永遠なので、めとることもとつぐ事もしない。

 

しかし、その前に「認定」がある。

 

やはり、命に至る門は狭い。

 

 

 

黙示録

 

14:7彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

 

 

 

ここに、「神のさばき」とある。

 

裁きは、一面は、裁判や、罰を下すという意味合いがある。

 

罰は、悪い事をした者が受けるもの。

 

黙示録の時代は、神の怒りがはっきりとさく裂する時。

 

根本的な事を、今のクリスチャンは勘違いしているので、黙示録の初歩の基本の基本が分かっていないと思う。

 

基本の基本は何かというと、誰が神の怒りを買っているかという事を間違えており、理解していない。  クリスチャンはみんな、自分たち以外の者が悪いと思っているが、違う。

 

終末の日に、災いに入るのは、明らかにクリスチャン。

 

教会に対して災いが来る。  それを理解しないと、基本の基本が理解できない。

 

黙示録は、いろんな事が、謎や喩えで書かれているけれども、多くの災いというのは、教会に来る災いがメイン。  もちろん、世の中の人々に来る災いも書かれているかも知れない。

 

666のバーコードが無ければ、売り買いが出来ないとか、その可能性も無きにしも非ずだが、メインは黙示録は、クリスチャン向けに書かれている事を理解しなければならない。

 

何故なら、聖書はそもそも、クリスチャンが読むべきもの。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ・・・毎週礼拝で、クリスチャンにメッセージされている事であり、毎週礼拝で、クリスチャンが読むところ。

 

その跡のローマ書、コリントの手紙、使徒行伝もしかり。

 

最後に、黙示録が出て来るが、これもクリスチャン向け。

 

クリスチャン向けに、警告として書かれている。

 

なので他人事ではない。他人事と思っている人は、全くこの書を理解できないと思われる。

 

教会に、災い、罰が下る。

 

そういう基本の基本を理解しなければならない。

 

そもそも、あらゆる災いが「7」の数字で書いてある。

 

7つのラッパ」「神の怒りの七つの鉢」など。

 

そして「7」は教会の数。

 

ここに、教会に災いが来る事を、謎を通して暗示している。 しかし誰も理解しない。

 

しかし、あらゆる暗示、黙示録の啓示は、教会への災いを暗示している。

 

例えば「七つの鉢」が出て来る。

 

「鉢」は、最後の晩餐で出て来る。

 

主は「このうちの1人が私を裏切る」と言われた。

 

「それは誰ですか」と、親しいヨハネが聞いた時、「同じ鉢に食物を浸している者」と答えられた。

 

その「鉢」と同じ。

 

教会と「鉢」は関係がある。

 

なので、「7つの鉢の災い」は、教会へ来る災いを語っている。

 

 

 

6:8私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

 

 

 

これも基本的には、教会、クリスチャンに来ている災いに関して語っている。

 

青ざめた馬の「青」

 

これは、牛、羊が食べる「緑の草」の「緑」と同じ。

 

青と緑は、日本語では違うが、原語では同じ言葉が使われている。

 

これは食物。

 

我々は、神の羊として、クリスチャンであるが、その「食べ物」に対する災いに関して言っていると思う。

 

「これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。」と書いてあるが、

 

ハデスは英語では、「ヘル=地獄」と書いてある。

 

教会に災いが来て、死や地獄に落ち込むという事が、広がって来るという事を言っている。

 

「彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。」

 

とある。

 

「剣」は、御言葉や教理にに関しての事。

 

なので、教理によって惑わされ、教会が滅びに入って行く。

 

「ききん」も、御言葉のパンと関係している。

 

「御言葉を聞く事のききん」という言葉があるように、まともなメッセージや、御言葉のパンが教会から消え失せ、ききんになる災い。

 

死病・・・クリスチャンが次々と霊的な病になる。

 

「地上の獣によって殺す権威が与えられた。」

 

獣はアメリカ。

 

アメリカ由来のあらゆるおかしな教理、おかしな霊でやられていってしまうという災い。

 

教会に背信のゆえに下って来る「罰」

 

黙示録にある通り、裁き、罰の時が来ている。

 

そういう意味合いで、あちらこちらに、災いが起きているといえる。

 

この世の事言うなら、クリスチャンと関係なしに、どうも日本も罰が来ている感じがする。

 

九州の地震、これも罰が来たかと思う。

 

九州は、多くのキリシタンが殉教で命を失っている。

 

それに関してちゃんとした研究がなされていないという事で、ユネスコから却下されてしまった。  これは1つのいい例で、日本においては、どのようにクリスチャンが殺されたかが曖昧にされていたり、誰も、明らかにしないけれども、神はそれを覚えておられ、この事に罰が下されていると聖書にあるが、もしかしたら今回のはそうだと思っているけれども、どちらにしても、神はその様に、えこひいきなく、あらゆる罪に関して罰が下される。

 

こういう所は見て行きたい。

 

黙示録の147節では「天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

 

クリスチャンは天の星、地の砂にも喩えられる。

 

星は天に住み、砂は地に住む。

 

だから天地は、クリスチャン、すなわちアブラハムの子孫の住む所として「教会」の喩え。

 

教会(天地は)、もちろん、神によって物理的にも、太陽を造られたが、教会を造られたのも神による。

 

背教の恐るべきことは、それこそ、その方と全く違った事を言うようになって来ている。

 

神の言葉と、全く違う事を言い出しているのが、今の教会。

 

同性愛に関して、聖書は明確に禁止しているが、「同性愛は、聖書的に正しい」などと言っている。  そのような、あらゆる反抗に関して災いが起ころうとしている。

 

「天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」

 

水の源は、

 

 

 

第二列王記

 

2:21エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」

 

2:22こうして、水は良くなり、今日に至っている。エリシャが言ったことばのとおりである。

 

水の源。 水は霊的なものに関しての喩え。聖霊や、他の霊も、水に喩えられる。

 

 

 

ヨハネ福音書

 

7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

7:39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 

 

 

聖霊も水に喩えられる。

 

しかし、我々のいのちの水の源は、聖霊だが、世の終わりの時、背教の教会が、聖霊を冒涜したり、ないがしろにしたりする事によって、源から災いが来る。

 

霊的な、リバイバル集会で、神の霊に触れようと思ったら、悪霊を受けたりする災い。

 

なので、神を恐れなければならない。

 

何故なら、水の源を支配しておられるのは、神ご自身なので、水の源が苦くなったり、別の霊になったりする。

 

 

 

黙示録

 

14:8また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」

 

 

 

ここに、「大バビロン」が突然出て来る。

 

大バビロンに関しての事柄を見て行きたい。

 

牧師の理解では、大バビロンとは、アメリカのキリスト教会。

 

もしそうであるなら、アメリカのキリスト教会にタッチしたり、深入りするのは危険。

 

今も危険だが、今後もっと危険になって行く。

 

 

 

14:9また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、

 

14:10そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。

 

14:11そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。

 

 

 

これは、「獣の刻印」とか、「火と硫黄とで苦しめられる」とか、この言葉の前に、突然バビロンが出て来る。

 

言わんとしている事の趣旨は、

 

我々が、世の終わりになった時に、色々気を付けなければならないポイントがあるが、特に淫婦バビロンには気をつけなければならない。

 

この御言葉の色んなニュアンスから見ると、バビロンこそが、獣の像を拝む事を推進し、獣の刻印を受ける事を推進して行き、それをどんどん広めたり、あらゆるクリスチャンにその事を推進して行くような感じがする。

 

バビロンとは何のことであるか、正しく見極め、それを避けるようにしていく事が、まさにこれからの時代においては必須。

 

封印が明らかに封じられているが、主の憐れみにより、これらの封印が解かれて、正しい警告が開かれ、それを逃れて行くというのが大いに大事。

 

1つのポイントは、バビロンに関わるものは、いずれ、獣の刻印が、押されそうだという事。

 

獣の刻印を受けると、火と硫黄とで苦しめられ、昼も夜も休みを得られない。

 

まさに最悪。

 

両極端な未来が、クリスチャンを待っているので、間違った事を掴む事が無いようにしたい。黙示録を見る時に、淫婦バビロンとか、バビロンに関しては、結構な章を使ってくわしく説明している。非常に多くの記述をもっている。

 

ここでも登場して、獣の印をつける事と関係がありそう。

 

終末の一つの大きなポイントは、淫婦バビロンとは何か、まず正しく理解し、そこから離れていく事が大事。

 

黙示録にも、「私の民よ、この女から離れなさい。その災いに巻き込まれないため」と書いてある。

 

今の時代は残念ながら、盲目な時代となっており、黙示録の解説書も多く出ているが、どれもこれも的外れであり、殆どポイントをついておらず、警告にもなっていない。

 

バビロンに関してもかなり的外れな事を言っている。

 

「プロテスタント」「カトリック」だという人もいる。

 

バビロンを通しての意味合いというのは、旧約聖書の中で、度々バビロンに対してのあらゆる

 

啓示が書いてある。

 

同じバビロンという言葉が使われている。

 

ペテロの手紙にあるように私的解釈(その箇所のみからの解釈)はいけない。だから黙示録のみから解釈するのは、私的解釈。 要は他の箇所を見て行けばよい。

 

バビロンに関しても、旧約聖書から大いに引用していく時に、私的解釈の誤りから免れる事が出来る。

 

 

 

第二歴代誌

 

36:10年が改まるに及んで、ネブカデネザル王は使者を遣わし、彼を主の宮にあった尊い器とともにバビロンに連れて行った。そして、エホヤキンの兄弟ゼデキヤをユダとエルサレムの王とした。

 

 

 

バビロン王は、ユダの最後の王、ゼデキヤ、エホヤキンをバビロンへ連れて行ったり、捕囚してしまったという事が書いてある。

 

 

 

なぜバビロン捕囚があったか。

 

それは、

 

 

 

36:12彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。

 

36:13彼はまた、ネブカデネザルが、彼に、神にかけて誓わせたにもかかわらず、この王に反逆した。このように、彼はうなじのこわい者となり、心を閉ざして、イスラエルの神、主に立ち返らなかった。

 

36:14そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。

 

36:15彼らの父祖の神、主は、彼らのもとに、使者たちを遣わし、早くからしきりに使いを遣わされた。それは、ご自分の民と、ご自分の御住まいをあわれまれたからである。

 

36:16ところが、彼らは神の使者たちを笑いものにし、そのみことばを侮り、その預言者たちをばかにしたので、ついに、主の激しい憤りが、その民に対して積み重ねられ、もはや、いやされることがないまでになった。

 

36:17そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。

 

36:18彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。

 

 

 

バビロン、バビロン捕囚に関して学ぶことは、大事な事柄がある。

 

旧約の王朝の最後に、バビロン捕囚が起きた。

 

バビロン捕囚というのは、約束の地から追い出されて、異邦の地へ行くという事。

 

同じ意味合いで、新約の教会の最後に(教会時代の最後に)、バビロン捕囚は起きる。

 

その結果、天の約束の地に入れない。

 

聖書は私的解釈(その箇所のみからの解釈)をしても、分からない。

 

旧約聖書のバビロン捕囚という事柄を見て、それと共に黙示録のバビロンという事を考えると、少し見えて来る事がある。

 

旧約の時代の第二歴代誌の36章でバビロン捕囚のことを言ったが、これは、旧約のダビデ王朝の最後。歴史から消え去ってしまった。

 

何故その様な事が起きたかと言うと、旧約の神の民の反逆が極みに達したためであると明らかにいう事が出来る。

 

「彼はその神、主の目の前に悪を行ない、主のことばを告げた預言者エレミヤの前にへりくだらなかった。」

 

悪を行なっていた。

 

「そのうえ、祭司長全員と民も、異邦の民の、忌みきらうべきすべてのならわしをまねて、不信に不信を重ね、主がエルサレムで聖別された主の宮を汚した。」

 

背教の極みであり、主の宮が汚された。

 

これが今まで決して起きなかったバビロン捕囚が、神に愛されたユダに起きた、その理由。

 

そして今、我々は新約の終わりにいるので、この事から、学びをしなければならない。

 

明らかにこれから類推出来る事は、何で新約聖書の一番最後の黙示録に突然バビロンが出て来るかと言うと、暗示している事があるから。

 

バビロン捕囚が再現するという事。

 

これは、旧約のダビデ王朝の最後にこの様な事が起きたように、新約の教会時代の最後に教会が背教に至るので、「王も、民も、祭司も」みな罪を犯したと書いてあるように、今の教会でもそうなりつつある。 牧師と言わず、神父と言わず、罪を犯し、また信徒も罪を犯している。

 

そんな状況なので、バビロン捕囚は実現すると理解出来る。

 

アメリカでは、神父が、残念ながら、スキャンダルを起こしてあちらこちらで訴訟を起こされ、

 

お金が払えなくなって破産した教区がいくつもあるとの事。

 

今の、キリスト教会の現状は、バビロン捕囚が来てもおかしくない状態。

 

その事を、人の目ではなく、神の目で理解しなければならない。

 

バビロン捕囚のもう一つの意味合いは、旧約の神の民が住んでいた、カナン・・・約束の地、

 

特別な意味合いがある。

 

それは、アブラハムもそうだったように、カナンに戻ろうとしたけれども、それは、約束の地・・・故郷というけれども、真の天の都を目指していたというように、実は、それは象徴。

 

神が我々に約束された、天の御国を象徴している。

 

旧約の神の民は、バビロンへ引かれて行って、約束の地から引き抜かれた。

 

この事の信仰的な意味合いは、新約においては、我々クリスチャンがバビロン捕囚されるという事を、我々が、クリスチャンに約束された天の御国、入るべき約束されたその地から引き抜かれるという事。

 

入るべき天の御国に入れないという事。

 

バビロンに捕囚されて行くという事は、そういう事。

 

そして、黙示録にバビロンが出て来るという事は、かつてのバビロン捕囚が再現する。

 

その結果、多くの神の民がバビロン捕囚されたために、入るべき天の御国に入れない。

 

その様な事が暗示されている。

 

第二歴代誌の3618節では、

 

「彼は、神の宮のすべての大小の器具、主の宮の財宝と、王とそのつかさたちの財宝、これらすべてをバビロンへ持ち去った。」

 

あらゆる神の宮の器が、バビロンに持ち去られた。

 

バビロンはアメリカのキリスト教会だと思う。

 

アメリカは国としても、バビロンの特徴を備えている。

 

アメリカには、自由の女神の像があるが、あれは、バビロンの女神イシスの再現ではないかと言われている。

 

アメリカのキリスト教会を、まともなキリスト教だと思ってしまってはいけない。

 

これは異邦の教えであり、異邦の霊だから。

 

教えも、本来聖書が語っているものではない。

 

「ヤベツの祈り」も含め、魔術的なものが入って来ている。

 

レフトビハインドもそうだが、「艱難前携挙」など、本来聖書が語っているのとは違う教理が語られている。

 

これに引っ張られて行くという事は、本来聖書が語っている教えではなく、異邦の教え、魔術的な教えに入って行くという事。

 

その霊も、ベニーヒン、ロドニーハワードのリバイバルを見ても分かるように、神の霊ではない。

 

だから、アメリカこそ、現代のバビロンであり、アメリカに感化されて行く人達、引いて行かれたり、「ここに素晴らしいものがある」と言っている盲目なクリスチャンが、バビロンに捕囚されて行く。

 

なので、バビロンに関して、「我が民よ、この女から離れなさい」という、要はアメリカのキリスト教会の、あらゆる異教的なものから離れよ、距離を置け、というように理解出来る。

 

覚えておくべきは、聖書は、バビロン捕囚とか、バビロンに関しての災いは、明確に、黙示録の中で何度も何度も語られているという事は、旧約のバビロン捕囚は、予表に過ぎない。

 

旧約聖書でバビロンに連れていかれたのは大変だが、それはあくまで前兆であり、模型に過ぎない。

 

本番は、現代の、終末の時代に再現していって、それこそまさに多くのクリスチャンが、永遠のいのちを失い、入るべき約束の地に入れなくなるという事柄に関しての明らかな警告。

 

なので、封印は開かなければならない。

 

これは、我々の永遠のいのちに関わる事なので、「黙示録は難しいからほっとく」わけには行かない。  「見て」行かなければならない。

 

黙示録にバビロンが出るという事は明らかに、旧約のバビロン捕囚が、新約の終わりに再現するという事。

 

これは、決して神からの祝福ではない。

 

そしてバビロン捕囚は、異邦人、未信者とは何の関係も無い。

 

黙示録は、クリスチャンの背教に対しての、神からの災い、裁きに関して書いてあり、未信者には関係が無い。  ここを理解しないと、何一つ理解できない。

 

このポイントを見て行く。