ヨハネの黙示録15章3~6              2016.7.24

 

 

 

15:3彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。

 

 

 

神ご自身は、万物の支配者。

 

「あなたの道は正しく、真実です。」と書いてある。

 

要は、真理であるという事。

 

「真理」という言葉はよく聖書に出で来るが、「本物」だという事。

 

「偽物」「まがい物」など、色々あるが、主の言われた言葉、また、その教えは、「真理」だという事。偽物ではないという事。

 

そういう意味で、逆に言える事は、聖書の中に度々「真理」という言葉が出て来る。

 

これを裏返して言うと、「偽物」が多いという事。

 

だから、ビックリしない事。

 

教会で、あらゆる教理、いろんな人が、いろんな事を言っている。

 

終末のキリストにいたっては、100人いたら100人が色々違う事を言っている。

 

しかし、100個答えがあるわけではない。

 

「真理」は1つ。

 

神が語られた事は、たった1つの真理。

 

残念ながら、曲がった道、違ったもの、偽物が、キリスト教会に多い。

 

神の言葉だけが真実。「あなたの道は正しく、真実です。」 真理である。

 

なので、色んな事を、色々言う人が多いが、我々が真理を掴まないと、キリストの道は「真理」なので、入るべき所、すなわち天の御国に入れない。

 

道は狭い。

 

キリスト教会で、あらゆるインチキな教理がはびこる事が許されている。

 

マタイの13章では、麦と毒麦の話がある。

 

神が、畑に良い麦の種を蒔いたのに、悪魔も来て、毒麦の種を蒔いたので、良い麦が育ってきたが、毒麦も育ってきた。  これは、神によって許されている事。

 

しかし、そういう毒麦に入らず、真理の道へ入って行くのが正しい。

 

「あなたの道は正しく、真実です。」    「真実」とは「真理」

 

なので、我々が真理を掴めば命の道に入る。

 

しかし、「艱難前携挙」や、「獣の国はヨーロッパ」だとか偽りを掴むと、狭い道を通り、入るべき所に入るのが難しい。

 

正しく真理を得て行くのが正しい。

 

神の言葉を真実とし、真理とする人は、今の時代を見分ける。

 

イギリスの、「クリスチャンポスト」というものがある。

 

それは、世界最大のキリスト教ポスト。

 

色々ニュースを見て、分かる事は、明らかに色々悪い所に世界を持って行こうとする人達は、

 

力を入れて、同性愛を推進している。

 

イギリスの学校で、先生に対して通達が出ている。

 

「性的マイノリティに配慮せよ。 我々は、慈悲深いから、愛があるから」

 

「男性のかっこうをしているが、心は女性だから、そういう人達を『he』と言ってはいけない。

 

また、女性のかっこうをしていても、心は男性という人もいる。そういう人達を『she』と言ってはいけない。『xe』と呼ばなくてはならない」

 

冗談のような話だが、学校の先生はこれを守らなければクビになるらしい。

 

そうやって、どんどん同性愛が入って来ている。

 

アメリカはもっとひどい。 同性愛を盾にして、色々教会に規制をかけている。

 

教会は公共の場、という事を政府が認めて、「誰もが来る公の場とし、そうである以上、xe向け(男でも女でもない)のトイレも設けなければならない」と言われている。

 

いわゆる同性愛用のトイレ。  それが法律になっている。

 

しかし、聖書は同性愛を認めていない。

 

これは、ある意味では、聖書が預言している事。

 

終末に関連して、黙示録には、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」と書いてあるが、教会にどんどん同性愛的な事が入って来るというのは、聖書が預言している事。

 

望ましくはないが、これは御言葉の成就。

 

ソドムは明らかに同性愛と関係している。  「都」は教会をさす。

 

我々が御言葉を全く真理とし、正しいと見るなら、今の時代、現象を見分ける。

 

我々は、あらゆる御言葉と、黙示録のみ言葉と、無縁の時を生きているのではない。

 

もう、12歩先の事。

 

「ソドムやエジプトと呼ばれる都」 ほんの近未来の事に見えて来ている。

 

かなりのスピードで御言葉が成就して来ている。

 

「もろもろの民の王よ。」とある。

 

他でもない、王なるイエス・キリストの事を言っている。

 

我々が理解しなければいけない事は、キリストは、教会の王。

 

王はたった1人しかいない。

 

ローマ法王は全くの勘違い。「イエス・キリストが肉体を持っていたころは王だったが、もうキリストはおられない。その代わり、法王がキリスト教会を治める。」などと言っている。

 

聖書にはそんな事は書いていない。その上「地獄は無い」「他の宗教とも対話しなければならない」、極めつけは「キリストの十字架は失敗」とまで言っている。

 

黙示録の153節には、「もろもろの民の王よ。」と書いてある。

 

キリストに関して言っている。

 

「キリストは、かつて王だったが今は違う」などとは書いていない。

 

なので、黙示録の時代も、「もろもろの民」・・・もろもろの教団、教派、宗派の事を言っている。   聖書の1つの表現。

 

だから、かつてもそうであるし、今も、王は、イエス・キリスト。

 

それを勘違いして、ローマ法王を王としてしまい、ローマ法王のインチキに従って、真の王であられるキリストの言葉をないがしろにしている人達は、厳しい裁きに遭う。

 

プロテスタントも、ベニーヒン、フランクリングラハムなど、わけの分からない事を言う人達の言葉を優先して、王であるキリストの言葉をないがしろにするなら、災いに遭うという事を理解しなければならない。

 

王は、裁きをする。

 

悪事を働いた者を捕えて罰を与える。

 

そして主は、今でも王。

 

それを理解しないクリスチャンは多いが、恐れなければならない。

 

王は、イエス・キリストただお一人。

 

この方を真理とし、この方に忠実に仕えるなら、話はシンプルであり、単純であり、非常にはっきりする。   レムナントはそれを徹している。

 

話も、時代も、すっきりと分かる。

 

今の世の中は、異常に同性愛が強調されているが、これは黙示録に預言されている事。

 

残念な事だが、いずれ公の教会は、果てしなく同性愛を受け入れて、最後には、「ソドムやエジプトと呼ばれる都」つまり背教の都として神に見なされるようになって行く。

 

これは、神が聖書に書かれた事なので、変えようがない。

 

こういった事は見て行かなければならない。

 

 

 

15:4主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

 

 

 

キリスト教会でも結局は人を恐れてしまう人が多い。

 

教会、教団のリーダー、またカトリックではローマ法王のいう事に一喜一憂したり、キリストの言葉をすっかり忘れてしまったり、勘違いをしている。

 

「主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。」

 

主はイエス・キリストであり、この方以外に存在しない。

 

この方の言葉を恐れて行く者が、全く正しい。

 

レムナントも、それを求めて行ったが、結果は良かった。

 

御言葉、今の時代の事が開かれて、時代を正しく見分けられるようになった。

 

神を恐れたら、正しい事に関して、目が開かれたという事に過ぎない。

 

これは誰に対してもそう。

 

箴言には、「主を恐れる事が知識の初め」とある。

 

主を恐れる事が、知恵、知識、悟りと関係している。

 

それは本当だと思う。

 

頭のいい人、知能指数の高い人が、悟ったり、理解できると、この世的には多いけれど、聖書的には違う。

 

神を恐れる人が、本当の事を悟る。  これは1つの大きな原則。

 

「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」

 

「さばき」について、ここで書いてある意味合いを見たい。

 

 

 

ルカ

 

1:6ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。

 

 

 

ここに出て来る「定め」という言葉が、先程の黙示録に出て来る「さばき」と同じ原語。

 

「さばき」とは、神様の要求事項・・・どのように教え、どのように律法を定めたとか、どの様な事を守らなければならないか、という意味合い。

 

黙示録の「あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」というように、我々が守らなくてはならない事とか、神の前に順守する事柄とか、それらを神は明らかにされる。

 

それを我々が正しく来なって行くのが良い。

 

主は明らかに今の時代に関して、同性愛に関して言われた神の戒め、教え、警告を正しく守るように、明らかに神の民に関して語られている。

 

ロマ書の1章、2章でパウロは、強調している。

 

「彼らは男同士で、道ならぬことを行ない・・・」「その当然の結果をその身に負った」

 

例えばエイズなどはそうかも知れないが、厳しい事を言っている。

 

それとか、他の箇所(ペテロの手紙)では、「神はソドムとゴモラの地を火で滅ぼして見せしめにされた。」と、書いてある。

 

神の正しい「さばき」と定めは、同性愛をあえて行ない、ソドムのような道を選ぶなら、天からの火によって焼き滅ぼされるという事が、定めであり、掟であり、教え。

 

神に恐れを持たずに、あえて同性愛に進んできたのが今の世であり、教会。

 

後に、大きなしっぺ返しがあるし、神の厳しい裁きに遭う。

 

ペテロの手紙には、「天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまう」とある。

 

これは、ソドムやゴモラのさばきの火に準ずる。

 

全世界的に、同性愛を受け入れるようになり、結果は、太陽も地球もそこに住んでいる人も焼け溶けてしまう。 正しいクリスチャンは、その前に栄光の身体に変えられているので、大丈夫だと理解する。

 

神の掟を正しく守って行くのが正解。

 

ソドムとゴモラは火で滅ぼされたけれども、義人ロトは、天使に手を引かれ、救い出されている。  ノアの時も、神に従って行ったノアと、その家族、選ばれた動物達は助けられた。

 

滅びは来るが、主を恐れていれば、脱出の道はある。

 

神のさばきは明らかにされた。

 

今は、次々と、あちらの教会、こちらの教会でも同性愛を受け入れるトレンドになって来ているが、神のさばき、定めは、変わる事が無い。

 

明らかに、聖書を通し、主が言われている、ソドムとゴモラに対する厳しいさばきを知っているので、何があっても(投獄など)があっても、神の掟を守ること。

 

神が我々に神の裁きを明らかにされるのは、幸い。

 

 

 

黙示録

 

15:5その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。

 

15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

 

 

 

「あかしの幕屋」とは何か。

 

 

 

出エジプト記

 

25:16わたしが与えるさとしをその箱に納める。

 

 

 

注釈のついている聖書では、「さとし」の部分に「あかし」と書いてある。

 

すなわち「あかしをその箱に納める。」

 

契約の箱の中に「あかし」が入っている。

 

「あかし」は、我々が礼拝で行っているあかし。

 

言わんとしている事は、あかし=証言という事。

 

「証言」は裁判用語。

 

証言によって、有罪、無罪、無実が決まる。

 

旧約聖書の中には、契約の箱とか、幕屋に、「あかし」と書いてある。

 

旧約聖書に書かれている事柄は、みんな喩えであり、未来の予表。

 

契約の箱は、神が臨在されている所であり、今で言うなら、聖霊の臨在の喩え。

 

聖霊は、我々を、あかし(証言)するという事を、例えている。

 

だから契約の箱や、幕屋にあかしを入れるとは、要するに、聖霊は、その人の歩み、正しさ、

 

または忠実さを、神の御前に証言する。 良い事ばかりでなく悪い事も。

 

忠実にやっていれば、良い証言があるが、そうでないと、悪く証言される。

 

 

 

第一ヨハネ

 

5:7あかしするものが三つあります。

 

5:8御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。

 

5:9もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。

 

 

 

ここで「あかし」と書いてある。

 

「あかしするものが三つ」という事は、証言する者が3つあるという事。

 

それは、「御霊と水と血」だという事。

 

御霊は聖霊を現わしている。

 

水は何かというと、聖霊を喩える喩え。

 

血も、ぶどう酒に喩えられるが、これも、聖霊を示す喩え。

 

聖書は3つだと言っている。

 

なぜ3つかと言うと、他の箇所で書いてあるように、証言という事は、2人または3人の証言という事が大事。  2人または3人の証言は有効。  1人ではダメ。

 

だから、裁判的にも、御霊の証は有効。数的にも有効。

 

あかしするものが3つあるから。

 

聖霊は、我々に与えられた。

 

それは、我々がどの様に主の声に従って、忠実に歩んで行ったか、裁判の日に証言して下さる。

 

御霊の証言は完全。

 

それをさして、旧約では、契約の箱の中にあかしを入れるという事。

 

契約の箱は御霊の臨在の喩え。

 

だから、正しく歩んでいるか、忠実に歩んでいるか、全て聖霊がご存じであり、裁きの日に、きちんと証言して下さる。

 

 

 

黙示録

 

15:5その後、また私は見た。天にある、あかしの幕屋の聖所が開いた。

 

15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

 

 

 

「あかしの幕屋」

 

我々の証言をする聖霊の型。

 

そこから、災いを持った御使いが出て来るとはどういう事かと言うと、証言をする聖霊の前に、

 

不忠実な歩みをし、明らかに罪や背教を起こしている人達に対しての災いが下される。

 

しかもこれは、忠実な証言なので、言い逃れは出来ない。

 

聖霊の証言には間違えが無い。

 

なので、ここに出て来る災いというのは、聖霊の前に罪があるから。

 

明らかに聖霊に逆らって、悪霊のリバイバルを受けたとか、明らかに聖霊に従わず、艱難前携挙を都合だけで受け入れたり。

 

それを聖霊が証言する。

 

そういう意味合いで、「あかしの幕屋」が、7つの災いと関係して来る。

 

言い逃れは出来ない。

 

そういう意味で我々は、正しく歩んで行くなら、聖霊の証言は、我々の益となり、また、我々を誰一人弁護する人がいなくても、神の前に弁護される方がおられる。

 

結論ははっきりしている。  人の声に従わず、1人1人に語られている御霊の声に従って歩むのは、大正解。  証言されるのは御霊の声だから。

 

悪霊の声や惑わしの声に聞かず、御霊の声に聞き従ってきた人は、その日は大正解。

 

7つの教会についてもこう言われている。

 

「耳のある者は御霊が諸教会に言われる事を聞きなさい」

 

ちゃんとききしたがっていれば、裁きの日に、恐れることは無い。

 

しかし、いつまでも聖霊の声に聞き従わない人は、かなりやばい。

 

御霊は、良くも悪くも証言する。

 

良い事だけを証言するとは書いていない。

 

要は忠実に歩めば良い。 恐れることは無い。

 

やばいところを持っている人は、改めれば良い。

 

あかしするものが3つあるという事を正しく見て行きたい。

 

主にある歩みを、神の前に、正していきたい。

 

色んな黙示録の言葉は、意味無く書かれているわけではない。

 

黙示録に「あかしの幕屋」という言葉が出てきた時に、やはり意味合いがある。

 

我々の歩みを証言する方がおられるのは明らか。

 

「あかしするものが三つ」これは聖霊の事。

 

聖霊の声に従って歩むなら、何の問題も無い。何故なら聖霊が、裁きの時に証言して下さるから。我々が正しくても、正しくなくても。