ヨハネの黙示録15章6~7           2016.7.31

 

 

 

15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。

 

15:7また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

 

 

 

黙示録のあらゆる箇所が、旧約聖書からの引用。

 

なので、黙示録が暗示している事は、ペテロの手紙の中で「私的解釈」をするなと書いてあるが、それは、今一つの日本語訳。

 

言わんとしている事は、そのテキストのみから解釈をしてはいけないと。

 

黙示録のみで考えず、他の箇所も参照せよという事。

 

正しく黙示録を読もうという時に、黙示録で使われている、それぞれの旧約聖書の言葉の意味合いに戻って見て行く時に、はっきりした、神様が言わんとしておられる事柄が見えて来る。

 

表面的な事柄だけ見ていると、殆ど見えない。

 

「七つの災害」という事柄は、出エジプト記の中に出て来る。

 

それを見て行く時に、この黙示録15章、16章に出て来る、7つの災害。

 

言わんとしている神様の意図という事が分かる。

 

 

 

出エジプト記

 

11:1主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。

 

 

 

「なお一つのわざわいを下す。」とある。

 

黙示録で使われている「災い」という言葉と同じ。

 

黙示録で語られている、「神の災い」という言葉の意味合いを、本当に理解するつもりがあるなら、全く同じ言葉が使われている旧約聖書の箇所を見て、初めて見えて来る、という事がある。  手を抜くと、見えるものも見えてこない。

 

聖書は、表にも文字がかいてあり、裏にも文字が書いてある。

 

1つのポイントは、黙示録を読む時に、立ち戻り、振り返って、旧約聖書に戻って、そのことばを使われている箇所 、新約で使われているのと同じ言葉を旧約で探すというのは、結構難しい。  特に難しいのは、新約聖書の中では、わりと見つけやすいが、新約聖書で使われている言葉と、同じ言葉が、旧約のどこで使われているか。 探すのは難しい。

 

どこかで妨害されている感じすらある。

 

いのち、真理に至る門は、本当に狭い。

 

出エジプトでは、10の災いがあるが、黙示録で使われている「災害」と同じ言葉。

 

 

 

出エジプト記

 

7:9「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」

 

7:10モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。

 

 

 

ここで災いが起きて来るが、最初に、「杖が蛇になった」とある。

 

これも、語り掛けがある。

 

「杖」は、人の歩みを助ける者として、「教師」を指す。すなわち「杖」は教師の喩え。

 

教師は本来、人を助ける者だが、エジプトの災いにおいては、「杖」が「蛇」に変わる。

 

「蛇」はろくでもないもの。

 

エデンの園の出来事を見ても、蛇が、アダム、エバを騙して、いのちに至る門を閉ざし、惑わし、「取って食べる時、必ず死ぬ」実を食べさせ、そして、永遠のいのちを奪った。

 

だから、エジプトの災いの1つというのは、杖が蛇に変わる。

 

具体的には、教会がエジプト化する。  背教の教会の事。

 

エジプトの災いは、再現する。

 

その災いの1つが、杖が蛇に変わる。

 

教師が、命に通じる道を説きながら、インチキな、滅びに至るような、インチキな教えを説くようになる。

 

イエス様は、「あなた達は、天地をへめぐり歩いて、1人の改宗者をつくると、自分より倍もひどいゲヘナ(地獄)の子にする」と言った。

 

(教師)にインチキ教理を教え込まれ、酷いゲヘナの子になってしまう。

 

これは、聖書のいう事なので、正しく捉えなければならない。

 

知恵をもって、喩えを理解しなければならない。

 

ローマ法王は、「地獄は無い」「キリストの十字架は失敗だった」などと言っている。

 

キリストの贖いを否定したり、とんでもない事を言っている。まさに蛇のわざ。

 

こう言った災いは、エジプト化した教会に起きて来る。

 

 

 

7:17主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、7:18ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」

 

7:19主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」

 

災いの1つが、「水が血に変わる」出来事。

 

聖霊の働きが、悪霊の働きに変わる。

 

水は飲めるが、血は飲めない。

 

魚はクリスチャンの喩え。

 

ペテロやヨハネは魚を獲っていた漁師。

 

水の中で魚は生きられる(聖霊の水の中ではじめて我々は生きられる)。 

 

しかし、血の中では生きられない。

 

エジプト化した教会には、「水が血に変わる」事が起きて来る。

 

理解が正しければ、今の教会に、それは起きつつある。

 

ベニーヒン、ロドニーハワードなど。(ベニーヒンは、「デーモン」を連呼し、悪霊を呼び寄せている)  また、「獣の印をつけろ」などと言っている聖会屋もいる。

 

今は、教会がエジプト化しており、それらの災いは起きている。

 

 

 

8:2もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。

 

8:3かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。

 

 

 

「かえる」も悪霊の働き。

 

「あなたのこね鉢に、はいる。」

 

こね鉢とは、麦の粉をこねてパンを作る道具。

 

だから、御言葉のメッセージの中にも悪霊的なメッセージが入って来る。

 

 

 

9:18さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。

 

9:19それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。』」

 

 

 

結論から言うと、雹も悪霊的な働き。

 

雹はもとは水の塊。大きな雹だと災害になる。

 

聖霊は、水であり、恵みであったが、ここでは悪霊的なものが災いだと言っている。

 

 

 

10:4もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。

 

10:5いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。

 

 

 

ここでは「いなご」の災い。

 

いなごが何をするかと言うと、草や麦を食べてしまう。

 

麦はパンに通じるので、これは御言葉を食べる災い。

 

だから、エジプト化された教会においては、正しい御言葉の教理はみな食い尽くされてしまう。

 

とんでもない悪霊的な教えとか、違った教えに次々と喰い荒らされる。

 

「艱難前携挙説」や、「地獄は無い」など、全く正しい聖書の教えが喰い荒らされている。

 

まさに、エジプト化した教会では、成就している事柄。

 

最後の災いは、

 

 

 

12:29真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。

 

12:30それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。

 

 

 

初子が打たれるという事。

 

この意味合いは、喩えの意味合いとして理解している事は、「贖いが失われる」という事ではないだろうか。

 

我々の贖い。 罪が赦され、買い取られるという事は、小羊であり、神のひとり子であるイエス・キリストの血が流されて、それによって我々は贖われた。

 

過ぎ越しの祭の時は、イスラエルの人達は、守られる。

 

死の使いが回って来るが、自分たちの家の鴨居に小羊の血を塗っていれば、死の使いはその家を過ぎ越す。 だから「過ぎ越しの祭」という。

 

しかし、エジプトの家は過ぎこさなかった。これは、小羊の血が、効をなさないという事。

 

贖いが通用しない。  だから、エジプト化した教会には恐ろしい事。

 

クリスチャンは小羊の、すなわちキリストの血で贖われて何ぼ。

 

それで、永遠の滅びに入らない。

 

ところが、エジプト化した教会では、その血が無効。

 

次々と災いが入って来てしまう。

 

「初子が打たれる」というのは、要は贖いが効をなしていない。だから、永遠の刑罰を免れ得ない。すなわち、1万タラントの借金が戻ってきてしまう。

 

我々も、自分に罪を犯した人を、心から赦さないと、1万タラントが戻って来るので、心して赦すべき。

 

「ソドムやエジプトと呼ばれる都」とは、終末の日の背教の教会の事を言っているが、その災いは大変なものがある。

 

黙示録でまさに、災いとか幸いという言葉が使われている。

 

エジプトの災いが再現する事を暗示している。

 

 

 

11:1主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。

 

 

 

災いに入らないためには、「ソドム、エジプト」の都(教会)に留まっていてはいけないという事。     出なければ、滅びに入る。

 

なので、「出る」という事がポイント。

 

それは、エジプトに関しても同じ。

 

「ひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。」と書かれている通り。

 

そしてこれは、ソドムの話に通じる。

 

終末のキリスト教会が「ソドムやエジプト」とよばれる背教に至った時に、正しいクリスチャンのポイントは、その教会を出るという事。

 

イエス様も「畑にいる者は、家の中に戻るな」と言われた。

 

これは、「教会から出よ」という事。

 

そこを覚えておきたい。

 

結論は、「仮庵の祭」で言われている様に、「出る」という事。

 

そのように定められた教会は、エジプト化し、ソドム化する。

 

ソドム化。今、同性愛が次々と教会に入って来ている。これが現状。

 

創世記のソドムに関して、ロトの場面では、「戸口」が強調されている。

 

今のキリスト教会の現状を見ると、戸口がどんどんソドムの人達に押し破られている。

 

アメリカでは、トイレまでおかしくなっている。

 

元来、男女だけで分かれているものだが、オバマが、「たとえ体が男でも、本人が、『私は女』と言ったら、それ用のトイレを利用できる法律を作る」と言っている。

 

そういう流れがあり、教会に関しても同じ事を要求して来ている。

 

男でも女でもない人用のトイレを、公共の場である教会に作れと要求して来ている。

 

早い話がオカマ用のトイレを作れという事。「教会は、公共の場所だから義務だ」と強要して来ている。

 

聖書は、同性愛を禁じているので、同性愛者の為のトイレなんか本来あり得ないものだが、法律的に作らなければならない方向に来ている。

 

色々な方法で、同性愛が、教会に入って来ている。

 

これは、サタンの巧妙な方法だが、御言葉の成就でもある。

 

ソドムで、人々が、ロトの家の戸口を破ろうと押し寄せて来た。

 

その預言の成就。   家は教会の喩え。

 

残念だが、そのように定められた教会はどんどんソドム化してしまう。

 

ある意味では、神の裁きであり得ると思う。

 

神の怒りと罰の中で、公の教会がどんどんソドム化して行く。

 

ソドム化は、以前は、理論、教理に過ぎなかったが、今は実現してきており、ニュースにまでなっている。

 

結論としては、残念ながら多くの教会がソドム化して行く事は近未来の事として有り得る。

 

既にそうなりつつある。 それがやはり、背教の教会に対する神の裁きだったり、火と硫黄の裁きだったりする。  神の凄まじい怒りが臨んでいる。

 

結論は、「ソドムを出よ」

 

 

 

黙示録

 

15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。                

 

 

 

7という数にも意味合いがある。

 

災いを持って来る御使いはみんな「7

 

災いの数も「7

 

そしてこれは、7つの教会に関して書かれている。

 

教会に関する数が「7

 

暗示している事が、明らかに、これは表では見えていないが、裏では、背教の教会に対する罰が書かれている。 それが黙示録。

 

御国の奥義だったり、隠されている事だったり、または、表にも裏にも文字が書いてあるので、

 

裏の文字であったりするが、我々に知恵が与えられたら見て行かなければならない。

 

この辺りを見ないので、多くの教師の黙示録に関しての解説は、意味をなさず、警告にもならない。

 

 

 

15:7また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

 

 

 

ここでも、御怒りに満ちた、金の鉢が出て来る。

 

黙示録というのは、神の知恵によって書かれているので、あらゆる言葉、現代に、神様が、隠れた意味合いとかがある。

 

何故、災いが「鉢」に入っているのか、

 

旧約の箇所で、「鉢」が使われている個所がある。

 

 

 

民数記

 

7:13そのささげ物は、銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、聖所のシェケルによる。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。

 

 

 

ここで「鉢」が出て来る。

 

鉢に何が入っているかというと、穀物のささげ物で、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。   小麦粉は、パンの素。

 

それは、神のいのちのパン。 すなわち、御言葉とか教理に関してのもの。

 

油は聖霊。 これは、ささげ物。

 

神の御前に捧げられるもの。 みな、喩えの意味合いがあって、本来言わんとしている事は、

 

麦は、御言葉、メッセージ。 だから、聖霊によるメッセージに関しての喩え。

 

これがまさに神へのささげ物。

 

教会において、聖霊にあって、正しい御言葉の穀物(メッセージ) を御言葉に沿って、正しく捧げて行く。

 

 

 

7:19彼はささげ物をした。銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、聖所のシェケルによる。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。

 

 

 

7:25そのささげ物は、銀の皿一つ、その重さは百三十シェケル。銀の鉢一つ、これは七十シェケルで、聖所のシェケルによる。この二つには穀物のささげ物として、油を混ぜた小麦粉がいっぱい入れてあった。

 

 

 

銀の「鉢」が出て来る。

 

どの部族も、鉢の中に、油を混ぜた小麦粉を捧げている。

 

小麦粉はパンに通じ、すなわちメッセージ。

 

今の時代に関して言うならば、教会で、神の前に、正しく御言葉を説き、正しく神の御言葉を語り、聖霊にあるメッセージを神に捧げて行くという事が、神へのささげ物であり、また、ささげ物であり、プレゼントなので、本来は、神に喜んでいただく物。

 

ところが、神へのささげ物で使われた鉢が、黙示録の中では、神の御怒りと災いに満ちた、「金の鉢」として使われている。

 

民数記で使われた「鉢」と、同じ言葉が、黙示録に出て来る「鉢」として使われている。

 

隠された意味合いは、こう理解出来る。

 

神の怒りは、背教の教会が捧げているメッセージとか、また、下されている油()が、全く神の言葉とは逆な事を言っていたり、神の言葉をひっくり返したりするインチキなメッセージだったり、悪霊に導かれたメッセージであったりする。

 

それに対する神の怒りが、黙示録の時には爆発している。

 

そういう隠れた意味合いがある。

 

神の怒りが何故起きたかと言うと、他でもないささげ物で、神に喜ばれる筈の穀物のささげ物が、神の言葉と正反対な事を言っており、それに関しての神の怒りが満ちている。

 

爆発寸前である。

 

何故神が、黙示録で怒っておられるのか、はっきりした理由は書いていない。

 

しかし、暗示はされている。

 

知恵をもって読んでいくなら、明らかに、神の怒りに関して書かれている。

 

あらゆる間違ったメッセージを、今、この時代、人間しか見ていない人は、牧師であっても語る。  「艱難前に上げられる」とか。

 

神の怒りは増していく。 何故なら、御言葉は、神の言われた通りに語らなければならない。

 

自分勝手に解釈して、自分だけ霊性が上がれば良いというわけではない。

 

そういう意味では、黙示録の日は、明らかにメッセージに関して、教会で語られている、神へのささげ物は、逆に神の怒りを招いている。

 

それを現わしているかと思う。

 

正しいメッセージを語れば良い報いが来るが、そうでない時には、厳しい罰を受ける。

 

気を付けなければいけない事柄。  聖書と相いれない事を言えば、神の怒りを買う。

 

我々が学ばなければならない事は、御言葉を書かれた神ご自身を恐れて行くのが1番良い。

 

背教の教会においては、大事な事が忘れ去られているかも知れない。

 

神の怒りは恐ろしい。