ヨハネの黙示録15章8節。16章1節 2016.8.7
15:8聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。
ペテロの手紙には、「私的解釈はいけない」と書いてあるが、この言葉のギリシャ語の原語の意味合いは、「そのテキストのみから解釈してはならない」
黙示録なら、黙示録のみで解釈せず、「聖書の他の箇所をも参照せよ。」という事。
「聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、」
「煙」という言葉が出てくる。
黙示録のみの中では、いくら考えても分からない。
黙示録を理解するには、該当する旧約聖書を見よ、というメッセージが隠されている。
「煙」に関して見て行く。
出エジプト記
19:18シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
日本語でも「煙」、同じ言葉が使われている。
黙示録15章8節に出て来る「煙」と、同じ。
この箇所において、黙示録が語っている事の意味合いが見えて来る。
この箇所がどの様な箇所か見て行きたい。
19:10主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。
19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。
この聖書箇所でわかる事は、この箇所は、主ご自身が、民の目の前に降りて来られるという事。
しかも「三日目」。
千年は一日と言うと、「三日目」は3つ目のミレニアム。
起点は、イエス・キリストの時から。
今がまさにそう。
2001年以降は、3つ目のミレニアムだから。
なので、ここは、「再臨」に対しての預言だと思われる。
そう理解していく事が正しい。
勘違いしているクリスチャンは多い。
「旧約の神は、裁きの神だが、新約になって愛の神に変わった」など。
まるで、「違う神様」のように言うが、そんな事であるわけがない。
聖書のあらゆる、キリストの再臨に関しては、聖書は、はっきり書いていないようで、実はあちらこちらで、ヒントや、教えや、暗示、隠された御国の奥義の事を書かれているが、主イエス・キリストの一面が、この出エジプト記の19章に出て来ている。
その場合の大事な事は、19章の10節で、「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。」
「着物」は洗われなければならない。 「着物」を聖霊の水で洗うという意味合いで、我々が
聖霊の清めに与る、罪や咎から洗い清められること。
3日目に降りて来られる神と会う備えをせよという事。
19章で、「彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。」
降りて来るのはシナイ山。
シナイ山が何故有名かと言うと、モーセが十戒を与えられた所だから。
なので、言わんとしている事、語っているという事は、イエス・キリストの再臨に関してもそうであるから。
キリストの再臨の時に、ある人は義とされ、ある人は義とされないという時に、ポイントは何かというと、「律法」
この時も、律法に関連して、同じ意味で、我々が再臨に備えるという時に、大事な事というのは、旧約においては、モーセの十戒をはじめとした律法であると共に、新約の時の再臨の時に、
キリストの前に「義」とされる、しないという時に、要は「御言葉を守ったか」という事。
イエス・キリストの再臨も、その時の裁きというのも、全て、イエスキリストの語られた言葉(聖書)に従って、なされるという事は理解しなければならない。
今は、あらゆる形で、キリスト教会が曲がりつつある。
なし崩し的に、アメリカを起点とした欧米が、同性愛はOKというようになって来ている。
ローマ法王は、「クリスチャンは、同性愛者に謝罪しなければならない」などと言っている始末。 あの男が何と言おうと、そんな事は基準ではない。
主が、律法のシナイ山に降りて来られた様に、キリストの言葉(聖書の言葉)に従っているかどうかが、再臨の日の、大きな区分の基準になるので、そこだけを見なければならない。
人間はみな「人」を見てしまう。
19:18シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
ここに出て来る「煙」も、黙示録にある「煙」と同じ字が使われている。
何を暗示しているのか。
シナイ山に降りて来た神の恐ろしさが、再現する事をキリストの再臨の時を暗示している。
それを理解しないと、殆ど読んだ事にならない。
キリストの再臨に関して本当に理解するつもりならば、「煙」は1つのキーワードで、まさにこの箇所に戻らなければならない。
出エジプト記を正しく理解すれば、キリストの再臨を正しく理解する事に通じる。
19:14それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。
ここでも「着物を洗わせた」とある。
明らかに、聖霊の水による清め。
19:15モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」
女は教会の喩え。 要するに、背教の教会に近づいてはならないという事。
カトリックの様に「地獄は無い」などと言っている教会には近づくなという事。
19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
義人がかろうじて救われるので、恐れをもって再臨を迎える、という態度が正しい。
18節で、「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」
煙に関しては、ここに書いてあるように、「かまど」「煙」。
「かまど」は、麦など、パンに関連している。
かまどの火、煙で、恐ろし気に書いてあるが、要するに、御言葉に関しての裁きを予表していると思われる。
正しく御言葉に従わない、パンとか麦とか、そういう関係。
人々は、主の再臨の日には、厳しいさばきや罰があると暗示されている。
だから、かまどの煙という言葉が書いてある。
「かまど」は明らかに、麦、パンと関連している言葉。
聖書は神の知恵によって書かれているので、あちらこちらに隠れた意味合いとか、連鎖している所がある。
御言葉の中に「これらの小さな者一人をつまづかせる者は、石臼を首にかけられ、海に投げ込まれた方がましである」
石臼は、麦などと関連する。
要するに、御言葉で躓かせる者は、その様な厳しい目に遭えと言われている。
「かまど」も、御言葉を正しく行なわないために、神の厳しいさばきが来るという事が暗示されている。
だから、二重三重にそう。
本当に主の再臨に備えるつもりがあるなら、その大事なポイントは、日にちを特定する事ではない。
本当に備えるつもりがあるなら、御言葉を正しく行なって行くという事が、最も大事な備え。
キリストの再臨は御言葉に関連しての事。
ここにポイントがある。 御言葉を行なって行く事。
黙示録
15:8聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。
「聖所」は、他の箇所では、「神殿」と書いてあるので、エルサレムの神の神殿の事を言っている。
分かる事は、「神殿」から「災い」が出る。神殿が災いで満たされる。
15:6そしてその聖所から、七つの災害を携えた七人の御使いが出て来た。彼らは、きよい光り輝く亜麻布を着て、胸には金の帯を締めていた。
神殿は、祝福ではなく、明らかに災いになってしまっている。
なので、黙示録15章が繰り返し語っている事は、神の聖所、神殿から災いが来るという事。
なぜ災いが来るのか。
我々が神殿、聖所に対して、罪を犯したという事だから。
明らかに暗示されるのは、背教のクリスチャン、教会が、神の神殿に対して、罪、冒涜、背教を犯しているという事が言える。
今における神殿とは、我々の体。御霊の住まい。
なので、神殿からの災いは、背教の時代になり、クリスチャンが、神殿であり、そこに住まわれている聖霊に聞き従わないので、災いが来るという事が暗示されている。
だから、神殿から災いが来る。 その事が暗示される。
今の時代、色んな人が、色んな事をキリスト教会で言う。
ある人は、ローマ法王に注目して、「この人のいう事を聞いていれば間違いは無い」と言う。しかし、それは、御霊のいう事と違う事がある。
どちらを取るかの選択。
御霊に聞き従わない人に、災いが来る。
聖霊の声に聞き従う事を徹底した方が良い。
それがまさに、黙示録への備え。
聖霊の声に聞き従おうとする時、人間的には葛藤があったり、ぶつかり合いがあったり、否が応でも、いろいろジレンマに遭ったり、御霊の声に聞き従う時に困難に遭ったりという事は、
無いでもない。牧師も前の教会で、散々な目に遭ってきた。
しかし、そこから今のエレミヤの奉仕が始まっている。
御霊に聞き従おうとするなら、誰でもきっと、困難や、ぶつかり合いや、葛藤がある。
サタンは色々言って来る。
試しや、選り分けが来る。 その時にちゃんと歩めるかどうか。
途中でやめてしまうとそれきりになってしまう。
やるかやらないかどちらか。
御霊の声に聞き従うという事に関しても、道は狭い。
しかし、狭い道を通って行く中で、いのちがあり、祝福があり、神のみ心があるので、御霊の声に聞き従って行く事に大きなポイントがあるという事を覚えておく。
16:1また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」
黙示録は、神が怒っておられる聖書箇所だという事を、理解しなければならない。
この時期は、教会の祝福だとか、素晴らしい神の愛だとか、基本的には、そういう時ではない。
逆に、クリスチャンや教会の背教に対して、神が怒りをもたらすという時。
それが原則。
我々も、残念ながら、そういう時代に突入して行くという事は、覚えておく。
言わば、戦争の中に入って行く。爆弾が落ちてくる中を通って行く、そういう時。
その時に、とばっちりを受けないように。
ペテロも、「裁きは神の家から始まる」と言っている。
我々は、1つは背教の教会には巻き込まれないようにする。背教のトレンドに入らない。
基本的に、教会に対して、神の怒りが爆発する様な時なので、我々も、同じような事をしているなら、同じように滅ぶ。
ロトも、ソドムから出たので命を長らえた。
ロトがどんなに義人でも、ソドムから出なかったら、火で滅ぼされてしまう可能性がある。
同じ意味合いで、我々も背教の教会から出る事が大事。
もう1つは、1節で、「七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」とある。
「地」という言葉に関しても意味がある。
「地に住む者たち」という言葉が、聖書に何度も出て来るが、「地に住む」という言葉は、地に「定住する」という意味合いがある。
これは、アブラハム、イサク、ヤコブの歩みとはやはり違う。
彼らは、天幕生活をしていた。 「定住」はしていなかった。
この地にずっと腰を落ち着けながらすむのか、それとも、我々がアブラハムの様に、この地においては、寄留者、旅人だという歩みをするかで、違って来る。
我々はやはり、この地で、「ここには永遠の都は無い」という歩みで徹して行くならば、災いには入らない。 しかし、自分が、「この地で認められたいとか、この地での生活が1番」だというと、つけ込まれてしまう。 歩みが試される。
アメリカにおいては、その教会、そのクリスチャンが、「地に住む」者なのか、この世と迎合して行くのかという事が試されたり、試練を受けたりしている。
501C3教会法。これが今段々効を奏して来ている。その法律で、認められた教会は、税が免除される。その代わり、政府のいう事に全部従わなければならない。
そういった教会では、「同性愛者の為のトイレを作れ」などの指示が来たりしている。
同性愛を受け入れているという暗黙の了解になってしまう。
また、キリスト教の学校でも、「同性愛者を受け入れろ」など、どんどん政府からの圧迫が来る。そこで、どうするのかという、選り分けが来る。
「我々は地上の者ではないから、喩え、学校の認可を取り消されても、神の言葉に留まる」というか、それとも、政府による認可、税金免除がなくなったら、経営が出来ないので、政府のいう事を優先する、という結構シビアな選択が、アメリカにおいては、起きている。
しかし、ポイントはやはり、「地に住む者」に災いが来る。
「七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」 「ぶちまけよ。」 災いの鉢がぶちまけられる。
だから、答えははっきりしている。 我々が今の、一時的なこの世においての、多少の経済的な事とか、評判とか、いい子ぶったりするなど、そちらの方を優先すると、結局地に住む者として災いに遭うので、はっきりしなければならない。
しかりはしかり、否は否で。
これから、どんどん地に住む者たちに対して災いが来る。
それは、はっきりは見えない、いきなり天から火が降って来て焼けてしまうとか、そういう形ではないと思われる。
しかし、見えない形でどんどん、変な霊の惑わしに入ったり、変な災いに入ったりするので、
地上の寄留者、旅人としての歩みをしないクリスチャンに対しては、これから次々と災いが来るので、我々はそれを理解する。
御言葉が正しいので、選ぶのは1人びとり。
レムナントキリスト教会
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