ヨハネの黙示録16章1節~2節          2016.8.14

 

 

 

16:1また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」

 

16:2そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

 

 

 

黙示録は、普通に読んで、誰にでもわかる事は、「黙示録は祝福の書」とか言うが、メインは、神の激しい怒り。   悪く言えば物騒。 明らかに災いの時。

 

その理由ははっきりしている。

 

1節で、「神の激しい怒り」と書いてある。

 

黙示録に多く出ている言葉は殆どが「神の怒り。」

 

獣の怒りも少しだけあるが、メインは「神の怒り」

 

黙示録に、なぜ災いが来るのかは、はっきりしている。 神の怒りである。

 

もう1つ、今のクリスチャンがはっきり分かっていないところがある。

 

それは、神が誰を怒られているのか分からない。理解していない。

 

黙示録は、教会時代の終わりに起きて来る事柄。

 

教会は、初代のうちは良かったけれども、教会時代の終わりに、背教に至って、最後には癒しようが無くなって、その故、神の怒りがさく裂するというのが、普通に考えれば、普通の話。

 

残念ながら、旧約時代もそう。   始めはアブラハム、イサク、ヤコブなど、祝福があった。

 

また、モーセに引率され、律法を与えられ、それに従って歩んでいたけれども、最後は背教に至り、ダビデ王朝の最後には、バビロン捕囚にせられ、約束の地から引き抜かれてしまう。

 

あらゆる災いが起きて来る。

 

主イエス・キリストの時も、ある意味では、世の終わりの型。

 

神の子であるキリストを十字架につけ、神の怒りがさく裂して、主の言われた通り、エルサレムは異邦人によって席巻され、そして宮も崩壊し、1つの石も、他の石の上に残らないような

 

徹底的な崩壊が行なわれた。

 

この事も、終末の日に再現されるが、曲がった教理、インチキな事を言う人達は、「ユダヤ人が艱難に遭うのであって我々には関係ない」と言う。  だが真実は全く違う。

 

世の終わりは、教会時代の終わり。

 

そもそも黙示録は新約聖書の終わりに書いてある。

 

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ。  これを読むのはユダヤ人ではなく、クリスチャン。

 

使徒、ロマ書、コリント、エペソ、・・・これらはみなクリスチャンが読む。

 

教会時代は続く。  黙示録23章で書かれている手紙は、7つの教会に当てて書いてある。

 

ユダヤ人の歴史云々は書いていない。

 

7つの教会の事が書かれており、その後で災いについて書かれている。

 

明らかに、教会の背教の中の災い。これを理解しないと基本の基本が分かっていないので、神の怒りがどこに向けられているのか分からない。

 

多くのクリスチャンが勘違いをしているので、全く警告が警告にならない。

 

読んでも読んでない。  「聞くには聞くが悟らない」と、イザヤ書に書いてあるが、意味の無い警告と受け取るのは良くない。

 

 

 

16:2そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

 

 

 

「鉢」は、旧約聖書では、神の御前に捧げものを捧げている時に用いられている。

 

そのささげ物には、油塗られた麦や穀物が入っていた。

 

ここは明らかに、今の新約の喩えの意味合いとしては、穀物や麦は、パンに通じるので、御言葉をささげる事。

 

「油をまいた」とは、聖霊をささげる事の意味合い。

 

その鉢が使われているという事は、「鉢」は、旧約聖書では、神の御前に捧げものを捧げている時に用いられていた。その鉢が、今の新約の時代に、教会において捧げられている、穀物、

 

御言葉、メッセージに関して怒りを持っているという事。

 

だから同じ鉢を用いて災いが来ている。

 

それは、隠れた意味合いだが、黙示録はやはり、神の知恵、喩えによって書かれているので、

 

そういう意味では、単純な御言葉ではない。

 

しかしまた、主の知恵をもって、我々が悟るなら、意味合いが分かってくるので、明らかに今の教会に捧げられているメッセージとか、奉仕に関して、リバイバル(悪霊の)とか、これに関して、神の怒りがさく裂しているという事。 だから、我々は愚かであってはならない。

 

目先の事にとらわれ、「人が沢山来ればいい」とか、「面白い話をするからいい」など、「牧師がイケメンならいい」とか。 しかし優先順位というものがある。

 

正しい御言葉を優先した方が良い。何故なら、神の怒りを買ってしまう。

 

「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。」

 

とある。

 

ここでは、「悪性のはれもの」という事を見て行きたい。

 

「はれもの」は、旧約聖書の中に出て来る。

 

 

 

出エジプト記

 

9:8主はモーセとアロンに仰せられた。「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱいに取れ。モーセはパロの前で、それを天に向けてまき散らせ。

 

9:9それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」

 

 

 

「腫物」と書いてある。

 

この言葉がまさに、黙示録による「腫物」と同じ言葉。

 

同じギリシャ語が使われている。

 

日本語の聖書訳読んでも解らない箇所。

 

黙示録で言う「腫物ができた」という時、どんな意味合いか、やはり旧約聖書に戻ると、正確な意味合いが分かって来る。

 

なので、ペテロの手紙に「私的解釈をしてはいけない」

 

子の意味合いは、「そのテキストからのみ解釈してはならない」という事。

 

黙示録のみから解釈して行く時に、間違いに入ってしまう。

 

例えば黙示録を読んで意味の分からない箇所が出てきた時、手間はかかるが、旧約聖書で使われている同じ言葉を調べる時に、丹念に見て行くと、正確な意味合いが見えて来。

 

預言の解釈は、他の箇所を引用して行く事が、基本で大事。

 

ここから分かって来る。

 

「はれもの」がどうして出て来たかと言うと、出エジプト記において、エジプトの民に災いが来る。 エジプトの民は、終末の日も無関係ではない。

 

黙示録の中で、「ソドム、エジプトの都」が出て来る。

 

ソドムは同性愛を意味しているが、エジプトは、理解が正しければ、「この世」ではないかと思う。

 

なので、ここに書いてあるエジプトの民に下った災いが、この世についたクリスチャンに対して起きて来る災いが、まさに出エジプト記に、エジプトに起きて来る災い。

 

だから、黙示録の時代に、「はれもの、腫物」が出て来るのは、根本的な問題は、その人が、この世につく。この世のカウンセリングなど。  この世的なものを色々教会に持ち込む事に対する災いではないか。

 

出エジプト記では、エジプトに10の災いが来るが、ここでの災いは、人と獣に、膿の出る腫物が出るという事がある。これは霊的な意味合いの災いの喩えではないかと思われる。

 

その時に、1つ象徴的だと思うのは、9章の8節に出て来る、「かまど」

 

これは、御言葉に関しての喩え。

 

要するに、御言葉に関しての災いが来ている、という事。

 

神は、今の時代のクリスチャンに対し、あらゆる方法で御言葉を捻じ曲げたり、違った事を言っている事に関して、凄まじい怒りを持っているという理解は基本の基本。

 

なので、この辺りが分からないと、いくら黙示録を100回読んだとしても解らない。

 

災いは、かまど=御言葉に関する神の怒りが、さく裂する。

 

だから、今の時代、神さは何も言っておられないようだが、実際、怒っておられる。

 

これらを通してわかる事は、やはり、単純でも、言われた通り語るのが正しい。

 

神の怒りを買ってしまっては、何の意味も無い。

 

黙示録16章の2節で、「はれもの」に関して。

 

「ひどい悪性の腫物」の「酷い」「悪性」

 

参考までも見て行きたいが、「ひどい」という言葉は、

 

 

 

マタイ

 

21:41彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」

 

 

 

「悪党ども」というのが、まさに「ひどい」という言葉と同じ。

 

要するに、悪性のはれものが出来たという時、「悪党になってしまう」

 

だから、罪とか、クリスチャンが変な霊を受けた時とか、正しく歩めなくなってしまう。

 

すなわち悪い者になってしまう。

 

もう1つ、「悪性」を見て見る。

 

「悪性」は

 

 

 

5:11わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

 

 

 

「悪口」、この言葉が、黙示録に出て来る、「悪性」と同じ言葉。

 

悪口、悪人、すなわち神の災いによって、クリスチャンが、どんどん悪い方向に入って行く。

 

罪にどんどん入って行く。  「義」に入って行かない。

 

その様な災いに入るという事。

 

それがまさに、黙示録の中で、「ひどい悪性のはれものができる」という時に、クリスチャンが、正しい道からずれている。

 

黙示録16章では「獣の刻印を受けている」とある。

 

「獣」という事を見て行きたいと思う。

 

黙示録の中で、色々災いをもたらすのが、獣の国であったり、獣の像であったり、獣が度々出て来る。

 

「獣」という言葉も、意味なく出て来るわけではない。

 

この言葉も旧約聖書に使われている。

 

 

 

エゼキエル書

 

5:17わたしはあなたがたにききんと、悪い獣を送る。彼らはあなたに子を失わせる。疫病と虐殺とがあなたのうちに起こる。わたしはあなたに剣を臨ませる。主であるわたしがこれを告げる。」

 

 

 

悪い獣なので、ライオンとか、豹とか、狼とか、人に害を加える。

 

神の怒りによって、獣が送られて来る。

 

どうして獣が送られて来るのか、教会でクリスチャンが、信仰を失うために、獣が送られて来る。

 

終末に獣を贈られて来るという意味合いで、クリスチャンが、永遠のいのちを失うような災いを、獣の国アメリカが、反キリストを贈って来るという意味合い。

 

なぜ獣が来るのか。

 

 

 

5:6エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。」

 

5:7それゆえ、神である主はこう仰せられる。「あなたがたは、あなたがたの回りの諸国の民よりも狂暴で、わたしのおきてに従って歩まず、わたしの定めを行なわず、それどころか、あなたがたの回りの諸国の民の定めさえ行なわなかった。」

 

5:8それゆえ、神である主はこう仰せられる。「今、わたしもあなたを攻め、諸国の民の目の前で、あなたにさばきを下す。

 

 

 

この「さばき」が、「悪い獣を送る。」という所に通じる。

 

神は、理由も無くこのような仕打ちをなさるわけではない。

 

ちゃんとした理由がある。

 

同じように黙示録の時代もそう。

 

この辺りを読んで、察せよという事。

 

同じように、新約の時代の民も、神の定めに従って歩まず、むしろ、周りの民よりも悪いと書いてあるから、未信者より悪いという事。

 

アメリカがやっている事は、キリスト教国でない、例えばインドとか、イスラム教国よりもっと悪い事をしている。

 

平気で原爆を落としたり、地雷をまいたり、あらゆる悪事を働いている。

 

不道徳であったり。 なので、それに対して、例えアメリカがキリスト教国であるにしても、災いが下って、獣が、アメリカのキリスト教をはじめ、送られてきている。

 

そういう事柄。

 

また同性愛もしかり。

 

キリスト教国である筈のアメリカが、同性愛に対しても、そういう罪に関しても1番進んでいる。 アメリカは同性愛を法律で認めている。

 

「エルサレムは諸国の民よりも悪事を働いて、わたしの定めに逆らい、その回りの国々よりもわたしのおきてに逆らった。実に、エルサレムは、わたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてに従って歩まなかった。」」

 

キリスト教国の方が、他宗教の国々よりも悪事が進んでいる。

 

「人を殺すな」という律法を1番破っている。

 

それに対し、神は沈黙せず、不誠実なクリスチャンに対して、獣を送られた。

 

黙示録は、結論だけしか書いていないけれども、獣の到来についても、あらゆる旧約の聖書箇所が、黙示録に引用されているので、たどって行く時に分かる。

 

難しい事ではない。

 

なぜ黙示録で獣が大活躍して、獣の国、獣の像が用いられているかと言うと、クリスチャンが、未信者よりも悪い事を率先して行なっているから。

 

書かれている通りに物事は起きているので、黙示録に起きている事は、ショッキングだったり、大変な事だが、意味なくこれらの災いが来るわけではない。

 

神はご自分の御言葉を執行している。

 

我々は、そういう風に見て行くべき。  これは暗黙の了解。

 

黙示録の日に獣の災いが起きたり、悪性のはれものが出来ているというのは、翻って旧約聖書を見て、まさに、旧約の言われた通りの災いが、新約で今起きているという事は、旧約の民に臨んだのと同じような災いが、神の定めを全くひっくり返して、いう事を全く聞かなくなってしまっている、そういう事が、裏返して語られている言葉を見て行くべきだという様に思われる。

 

    

 

黙示録

 

16:2そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。

 

 

 

「すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、」と書いてある。

 

獣の像ということを見て行きたい。    獣の「像」と言うと、表面的に見るならば、仏像や銅像を見るようなもので、そういった物を拝むというように思われたりするが、これには隠れた意味合いがある。

 

像という言葉は、

 

 

 

第二コリント

 

4:4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 

 

 

神のかたちである「かたち」

 

これがまさに、獣の「像」という言葉と同じ原語が使われている。

 

「獣の像」は明らかに、喩えの意味合いがあり、反キリストを指す言葉であると理解出来る。

 

何故ならキリストは神のかたちであり、もし別の言葉を用いるなら、「神の像」と訳す事も出来る。原語が同じゆえに。

 

そういう意味で、反キリストは、「獣のかたち」

 

ここで言っている事は、「獣の像を拝む」というのは、木の像、石の像を拝むという意味合いではない。      人を拝むようになるということ。

 

これからキリスト教会は、次から次へと背教に行って、我々の想像を絶するような背教に行きつくと思われる。

 

すごい勢いで教会に対する攻撃が今ある。

 

その時に行きつく最終的な形というのは、聖書に書いてあるように、キリストが追い出され、

 

「神ではない」という事になって、そして、逆に反キリストが、教会の神として立つ。

 

それを指して「荒らす憎むべきものが聖な所に立つのを」というのは、聖なる所とは何かというと、キリストの座。教会においては、それ以上聖なる所は無い。

 

キリストを追い出し、1つしかないキリストの座に、反キリストが座る。その事を指している。

 

獣の像だからと言って、物にこだわってはいけない。人を拝むようになるのを理解する。

 

人を拝む事は、そのまま反キリストを拝む事。

 

だから、今人を拝む人達は危ない。

 

ローマ法王にすっかり心酔してしまい、法王の言葉を優先して、神の言葉を投げ捨てる人達というのは、結局神の御前で、ローマ法王を拝んでいる事になる。

 

ローマ法王の前に行って、香をたく事は、神の御前に偶像崇拝になる。

 

「どんな形のものも造ってはならない」とは、まさに人の事を言っている。

 

「人を拝むな」と、神は言われる。

 

最も明らかに語っている聖書がいう偶像礼拝は、本来の本質的な部分は、「人」を神の代わりに拝むという事が明らかに目的として言われているので、ものにこだわってしまうのはダメ。

 

ビリーグラハムは、実はフリーメーソンだというし、リックウォレンも裏では反キリスト的な事をしているという。

 

教会の中で、用いられている人について行くのもいけない。そこにも、教会の中にも裏があるような時代なので、気を付けて行きたい。

 

反キリストについてもう少し見て行きたい。

 

 

 

第二テサロニケ

 

2:3だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。

 

 

 

ここに書いてある「不法の人」とは、反キリストの別名。

 

「不法の人」は、英語では「罪の人」

 

なので、反キリストの特徴は、聖書が罪であるとみなす事を、積極的に行う人。

 

そして、あらゆるクリスチャンを「これは正しい」「これを行なえ」と言いながら、聖書に書いてある罪を、行なわせるような人物であると理解出来る。

 

そういう意味では、ローマ法王は、反キリストの型。

 

「マリアはキリストと共同の贖い主」だとか、聖書に無い教理を言うし、「地獄は無い」とか、聖書に書かれている事の反対の事ばかり言う。

 

最近では、同性愛者を受け入れるような事まで言っている。

 

ローマ法王は、「罪の人」の型。

 

美味い事を言って、人の人気を得て、結局はクリスチャンに、神に逆らうような事を平気でやらせるようになる。

 

反キリストは、それを徹底する様な者だと思われる。

 

反キリストを理解するに、ローマ法王は分かりやすいかと思う。

 

リックウォレンは分かりにくいが、欧米で、この男の色々なメッセージとか、教えを調べている人は、明らかにクリスチャンを惑わして、罪に入らせるメッセージを巧妙に含んでいる。

 

リックウォレンも罪の人、反キリストの型だと思われる。

 

「まず背教が起こる。不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ない・・」とある。

 

反キリストは、滅びの子。

 

滅びの子は、みんなを引っ張って、「滅び」に連れて行く。

 

地獄の底まで連れて行く。

 

そして、全世界のトップリーダーになると思われる。

 

 

 

2:4彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

 

 

これが獣の像であり、反キリスト。  これは明らかに人間。

 

何故なら、キリストは神のかたちで、神の像であったが、人間として来られた。

 

反キリストは、明らかに人間。

 

そして、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗する。

 

だから、あらゆる宗教のトップに立つ。

 

事実今、宗教が統合されようとしている。 イスラム教も、仏教も、キリスト教も1つだと。

 

統合したうえで、その上で、トップに反キリストが立つと思われる。

 

「神の宮の中に座を設け、」すなわち教会の中で、キリストの座に座る。

 

そして、「私こそは神」と宣言する日が来る。

 

そういう意味で、反キリストという者は、サタンは、神に対して敵対心を持ち、キリストがやった全ての事を、自分もやろうとする。

 

そして、自分を神の様に高く上げたいと思っている。

 

サタンの願いが満たされるような日が来る。

 

背教とは、教会が神に逆らって行く事。これはわざわざ「背教」と書いてあり、他の箇所では、主が、宮の崩壊について語られ、「一つの石も、他の石の上に乗る事が無い」とまで言われているので、今風の言葉でわかりやすく言えば、キリスト教が、教会が破壊されて、壊滅してしまうという事。

 

反キリストを拝むようになったら、もはやキリスト教ではない。 サタン教。

 

教会とか、キリスト教とは言えない。

 

それではどうしたらいいかと言うと、主も言われている様に、「畑にいる人は、家に戻るな」と言われているので、やはり、仮庵の祭に大いにポイントがあると思われる。

 

なので、そういった所を是非見て行きたい。

 

 

 

2:6あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。

 

 

 

引き止めておられる方は「聖霊」

 

教会で聖霊が働いておられる間は、反キリストがキリストの代わりに立つという事はあり得ない。

 

しかし、あろうことか、教会が聖霊を追い出すという時が来る。

 

 

 

2:7不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。

 

 

 

パウロが、この手紙を書いてある時には、まだ教会に聖霊が働いておられる。

 

だから反キリストが現われる余地が無い。

 

しかし、聖霊が取り除かれる時が来る。 「取り除かれる」とは、離縁されるというニュアンスがある。

 

教会と聖霊とクリスチャンとの結婚関係が、解消されてしまう。

 

離縁とか、離別とか、離婚というニュアンスがあるから。

 

これは、クリスチャンが、聖霊との契約を解消してしまうという事。

 

なので、今起きている、しるしと不思議のリバイバル、「聖霊の第三の波」は、非常に要注意。なぜならこれは、聖霊を追い出す事になってしまう。

 

クリスチャンが、別の霊と関係を持つようになる。

 

しるしと不思議に惑わされて、そんな霊を掴む人は、他でもない聖霊との契約を破棄している事になる。 しかも、当人には分かっていない。

 

しかし聖書的にはそういう事を行なっている。

 

それが顕著になっているのが、「自分が取り除かれる」時。

 

聖書に書いてあるなら、そういう時は必ず来る。

 

反キリストが現われる時は、聖霊が教会から追い出される時。

 

これは、個々のクリスチャンの事でもあるし、教会全体の事でもある。

 

ここのクリスチャンが、しるしや不思議、すごい賜物に引っ張られ、変な霊を掴み、聖霊をシャットアウトしてしまう。

 

教団としてもペンテコステ系を中心に、ビリーグラハム、ベニーヒン、ビルハモン、ロドニーハワードなど、悪霊のしるしをすっかり喜んで、聖霊を追い出してしまうという、それは書いてある通り、必ず実現する。

 

そういう目で見て行かなければならない。

 

今のクリスチャンの盲目というのは、恐ろしいものがある。

 

まさにここに書いてある事が、おかしなリバイバルの中に実現しているけれども、何が起きているか理解しない。またもう1つは、クリスチャンが自己中になって、牧師にしても、隠れた欲があり、そこが罠となり、変な霊を掴む。 そういう時が、聖霊が追い出される時。

 

そういう事は起きつつある。

 

今起きているのは、ペンテコステ系をはじめとして、起きているしるしや不思議は、神によって起きているのではなく、聖霊が追い出されつつある事、悪霊がどんどん教会に浸透しつつある。