ヨハネの黙示録16章12節~14節        2016.9.18

 

 

 

16:12第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。

 

 

 

黙示録は、謎や喩えで書かれている。

 

一読しても何が何だか解らない。

 

黙示録の中でも、7つの封印で封じられていると書いてある。

 

しかし、主から知恵が与えられるなら理解できるかもしれない。

 

ユーフラテス川は、喩え。  

 

旧約聖書をよく読んでいないと、突然黙示録から「ユーフラテス川」が出て来ても、解らない。

 

例えば小学生のころから、足し算も引き算も出来ていないと、中学に行っても難しい。

 

同じように、やはり旧約聖書も、読んで初めての所がある。

 

ユーフラテス川は、旧約の神の民であるイスラエルと、異邦人の境を流れている川。

 

川が境界線。

 

「わたしを信じる者は、その腹から生ける水の川が流れ出る」

 

その「川」がまさにユーフラテス川。

 

イエス様を信じる者の内に流れる聖霊をさす。

 

16章の12節では、ユーフラテスは枯れてしまったと書いてある。

 

水が無くなってしまったという事。

 

これ川が「聖霊」をさすなら大変な事。

 

しかし、枯れてしまったと書かれている。

 

水が枯れてしまったと書かれていれば、そう読まなければならない。

 

そう書いてあるのだから。

 

残念だが、黙示録の時代というのは、この世にも災いがあるけれども、教会は次第に背教に向かい、その故に、災いが来てしまうというポイントは見て行かなければならない。

 

一般的な話として、教会から、聖霊の水が枯れてしまう・・・

 

聖書を読んでわかる事は、教会の背教。

 

旧約の時代に、イスラエル12部族があったけれども、新約も、12使徒、ヨハネから教会の時代が始まっているが、残念ながら歴史は繰り返す。

 

旧約の歴史も新約の歴史も、繰り返していく。

 

その様に見える。

 

我々が、旧約聖書を読み、福音書を読んでわかる事は、イエス・キリストの初降臨、そして再臨。

 

キリストはエルサレム入場の時は、熱狂的に迎えられたが、最後は、群衆は、パリサイ人、律法学者に扇動されて、「十字架につけろ」と、熱狂的に叫んだ。

 

これは、現実に起きた。  これは、背教以外の何物でもない。

 

我々はキリストの再臨の近い時にいるが、どうも上記の事が、繰り返されそうだという事。

 

これからユーフラテス川は枯れて来る。聖霊の働きが次第に教会から消えて行く。

 

全てのクリスチャンから聖霊の働きが消えるわけではない。

 

正しく主に歩む人には、聖霊は留まる。

 

エリヤの時にも、エリヤが祈った時、3年半雨が降らなかった。

 

まさに水が枯渇している状態。ユーフラテスが枯れた様な状態。

 

しかし、奇蹟的に助かった人がいる。それは、エリヤを助けたやもめ。

 

子のやもめは、なけなしのパンをエリヤに言われた通り、エリヤに提供した。

 

そうしたら、エリヤが言った通り、瓶の粉は尽きず、油も尽きる事が無かった。

 

この油は聖霊の喩え。

 

水が枯れた様な時代だが、やもめは助けられた。

 

そのやもめの様な人達も出て来る。

 

これから、ユーフラテスが枯れた様な時代でも、守られる。

 

だから、2面も見て行かなければならない。

 

一般的に教会から、聖霊が消え去るような背教の時代が来る。

 

やもめのように、忠実な歩みをしていく時に、飢饉の時、雨の降らない時でも、やはり、瓶の粉は尽きない。また、瓶の油も尽きない、聖霊、神の働きは絶えない。

 

1つは、これから起きる事に対し、警戒を持って行く。 もう1つは、神は真実な方なので、

 

忠実に歩む者を守って下さる。  そういう信頼を持たなければならない。

 

そんな時でも、神に頼るべきという事は、全く変わりがない。この事は事実。

 

 

 

16:13また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。

 

16:14彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

 

 

 

ここに書いてあるように、黙示録の時に、現われて来る者は、「しるしを行なう悪霊」だという事。   明らかに、そう書いてある。

 

黙示録は、これからの時代。 

 

その時、理解しなければいけない事は、この世の中にも、悪霊が下る。

 

例えばハリーポッターとか、そういう本を読んでいると、変な霊とかかわりを持つと言われている。

 

黙示録は、この世の人にも警告していると思うが、基本的には、クリスチャンに向けて書かれた警告の本。

 

何故かというと、そもそもこの世の人々は、黙示録を読まないから。

 

聖書の最後に黙示録がある。

 

黙示録は、クリスチャン向けに書かれた警告だと理解した方が良い。

 

しるしを行なう悪霊の事に対応する御言葉がある。

 

 

 

マタイ

 

24:23そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 

24:24にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 

 

 

ここに「しるし」と書いてある。

 

これがまさに、黙示録で言っている、しるしを行なう悪霊だという事。

 

マタイの福音書を読んでわかる事は、にせキリスト、にせ預言者に惑わされるのはクリスチャン。偽キリストや、にせ預言者は、教会に出て来る。

 

クリスチャンを惑わすように、悪霊が働く。

 

明らかに、「自分がキリストだ」という事を言って来る。

 

その裏に働いているのは、神からの霊ではない。  それは悪霊。

 

悪霊を信じたら、天の御国には入れない。

 

「できれば選民をも惑わそうとして」とある。

 

選民とは、特別に選ばれたクリスチャン。

 

例えば、ペテロやヨハネは選民。

 

群衆が4000人、5000人と集まったが、彼らは選民ではない。

 

12弟子は選民。

 

にせ預言者、にせキリストは、そういう人さえも騙す。

 

一般人はもっと騙されやすい。

 

非常にシビアな惑わしが、教会に来る時代だという事。

 

聖書に書いてある事は、見て行かなければならない。全て書かれている通りになる。

 

具体的に言うなら、プロテスタントでは、ピーターワグナーらが起こす、色々なリバイバル現象ではないかと思う。  そして、「すごい神の御業だ」などと言って、金粉が舞ったり、歯が金歯になったりなど。  それは、しるしと不思議。

 

しかし、うかつにそれを喜んではいけない。

 

何故なら、マタイ福音書の24章に書いてあるように、「にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。」

 

だから、ちゃんと御言葉を読んで行かなければならない。

 

「そういう時代が来る」と書いてあるし、今のキリスト教会で起きているリバイバル現象は、「神の業」だという人が多いが、どうも怪しい。

 

おかしな器が、「デーモン」を連呼して、悪霊を呼び出している。

 

表では「神の祝福」「サンキュー・ジーザス」などと言いながら。

 

この事は、見て行かなければならない。

 

その時に、理解しなければならない事は、人間は、何の得も無いのに騙されることは無い。

 

逆に「エサ」で、儲かるとか、得をするだとか、「素晴らしい祝福に入る」とかで引っ張られる事がある。

 

世の終わりの時に、にせ預言者、にせキリストに騙される人は、騙されるなりの理由がある。

 

そういう意味で、しるしと不思議を通して(クリスチャンに対するエサ)、「素晴らしい神の御業だ」他の器が出来ないような癒しを行なうとか、すごい預言の賜物が与えられたとか、「他のクリスチャンとはレベルが違う」とかが罠となって、引っかかって行く様なので、そのあたりは見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

16:14彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。

 

 

 

黙示録は、7つの封印によって封じられた書。

 

封印に封じられている書であるから、見えない。

 

だから、読むのが困難。

 

喩え、謎、知恵をもって読んでいく時には解る。

 

14節の中で言われている1つは、「全世界の王たち」

 

これは、1つは、この世の王たちが騙されるという事もあるかも知れないが、喩えの意味合いもあると思う。

 

喩えの意味合いとしては、各教団、教派、教会のトップ。

 

その人達が、世の終わりの時に、悪霊によって惑わされてしまうという事。

 

「彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。」その結果が、「万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」どのような戦いが行なわれて、どういう結末になり、どういう問題になるのかというという事を見たい。

 

御言葉は、「私的解釈をしてはいけない」とあるが、このギリシャ語の意味合いは、「その箇所だけから解釈してはいけない」という事。

 

具体的に言うと、黙示録のみから解釈すると、間違える。

 

旧約聖書を参照しながら見て行くと、正しい事が見える。

 

「全世界の王たちの」戦いとはどういう事なのか、

 

 

 

詩編

 

2:1なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。

 

2:2地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

 

2:3「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」

 

2:4天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。

 

 

 

「地の王たちは立ち構え」

 

先程の黙示録箇所の、「彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。」

 

どのような戦いをし、どの様に王たちはが逆らって来るのかが、ここに書いてある。

 

それは、「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。」

 

「主」とは神ご自身。

 

主に油を注がれた者が誰かと言うと、イエス・キリストの事。

 

「キリスト」という言葉自体が、「油そそがれた者」という意味。

 

その方に対して、「地の王たち」、はっきり言えば、この世についたクリスチャン、教団。

 

この世的な事柄を受け入れた教団。  この世の常識に合わせたような、神の言葉より、この世の常識を優先する様な教団。

 

「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」

 

ここで言っているような意味合いは、1つは、かせを砕くという意味。

 

「綱を、解き捨てよう」

 

「かせ」とは、足枷だとか手枷、要するに動かないようにさせている道具。

 

簡単に言えば、この世についたクリスチャンや、教団。

 

要は、今まで、「自分たちは、聖書の教えだとか、律法を守って来たけれども、もうそういうものにとらわれないぞ」という意味。「綱を、解き捨てよう」というのもしかり。

 

今のキリスト教会は、まさにそういう方向に来ていると思う。

 

同性愛しかり。明らかに聖書は警告している。

 

ペテロも、ソドム(同性愛の罪)やゴモラを、神は赦さず、火をもって滅ぼし、今に至るまで見せしめにされている事が聖書に書かれている。

 

代々、教会や、クリスチャンは、恐れおののいて、この罪から離れて来た。

 

しかし、近年、話が変わって来ている。

 

同性愛を受け入れる傾向が多々出て来ている。同性愛者の牧師すらいる。

 

これは何かというと、「枷を打ち砕く」

 

今まで、クリスチャンが付けていた枷を打ち砕いて、「そんなものにとらわれないぞ」という動き。  つまりは、「同性愛のクリスチャンも問題ない」し、「それは牧師でもOK」だという。 男が男同士で「好きだ」という牧師もいるし、女性司祭が同性愛者だったり、しかも指導的な立場にいる。しかもそれを公に語っている。  それでもクビにはならない。

 

そういう時に、我々は来ている。

 

まさに、「枷を打ち砕き、綱を解き捨てる」、そんな状態。

 

黙示録16章でも、ハルマゲドンという場所に王たちが集まったとあるように、これからわかる事は、神に対して、また、聖書の教えに対して、大いに、クリスチャンが反抗して来る時代が来るという事。  「もう、そんなものには囚われない」と。

 

その時、我々はどの様に歩むかという事が問われている。

 

だが結論ははっきりしている。

 

ある意味では、それも神様の想定内。

 

詩編の2編を読めばわかる。

 

前はあまり理解できなかったが、今は、良くも悪くも、時代が進んできているので、時代と照らし合わせれば、何となく解る。

 

もう、教会が、神やキリストに、従順に従うような時代ではなくなりつつある。

 

それが先ほどの、悪霊が、全世界の王たちを導いて、あの教団と言わず、この教団と言わず、

 

地についた様な教団はみんな、軒並み、神、キリストの教えに逆らって行くという時代が来る可能性が大いにある。

 

その事が、別の言葉でも使われている。

 

先程の黙示録16章に出て来る、「万物の支配者である神の大いなる日の戦い」

 

この、「戦い」という言葉が、

 

 

 

マタイ

 

24:6また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

 

 

 

ここで、「戦争」というのは、黙示録16章にある、悪霊が、「万物の支配者である神の大いなる日の戦い」のために、王たちを集める。

 

「戦いの日」というのは、まさに今の、マタイ246節の「戦争」という言葉が、これと全く同じ。

 

だから、他でもない黙示録の「ハルマゲドン」の説明は、マタイの福音書のこの「戦争」の事かも知れない。

 

戦争は何かというと、先ほどの詩編の2編で見たように、神、キリストに対しての戦争。

 

「神やキリストの教えには、もう束縛されない、我々は自由なんだ」という戦いと理解出来る。この世についたクリスチャンが、そういう戦いを仕掛けて来る。教団が行なうようになる。

 

 

 

24:7民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

 

 

 

これはこの世の民族や国の戦いの意味もあるだろうが、喩えの意味合いでは、キリスト教会でいう、民族や国、つまり教団教派が別れて争うという事。

 

なぜ別れて争うかは、今のところは一枚岩だが、「救いはキリストのみにある」「同性愛を聖書は認めていない」とか。 しかしこれが次第に変わって行く。

 

それで、同性愛を認めて行く教団も出て来る。「全然問題なし」と。

 

一方では、同性愛を認めない。 それでぶつかり合いになって、訴え合いになって来る。

 

これが「戦争」

 

正しく残る人々と、それに対して逆らって来る人たち。

 

 

 

24:8しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

 

24:9そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

 

 

 

何故、戦争の時に、苦しい目にあわせたり、み名のために全ての人に憎まれるかというと、これからキリスト教会が、キリストの名を否む様になるから。

 

神の枷も解き放ち、キリストが救い主である事を否定している人達の前で、「否、イエス・キリストこそ救い主だ」といえば、前者に対し、目の上のたん瘤のようになる。

 

神の教え、キリストの教えに縛られたくない人達というのは、逆にどこまでも神の言葉に留まる人達を憎むようになる。

 

また、無神論者は、クリスチャンを憎む。

 

アメリカで、今、訴訟が行なわれている。   ラグビーの試合で、アメリカの試合の時に、牧師(チャプレン)が、開会の祈りをするが、無神論者がそれに異を唱えて訴える、「憲法に違反している」などと。「試合の前に祈るのは反対だ、訴えてやる」と。

 

だから、神に従っている人達は、尊敬されるのではなく、憎まれ、訴えられたりしている。

 

同じように、キリスト教会の中では、憎しみ合いが起きるのではないかと思う。

 

堕落したり、この世についたクリスチャンというのは、どこまでも御言葉に従うクリスチャンに対して、敵意を抱いて来る。「あいつらタダじゃおかない、訴えてやる、殺してやる」と。

 

それは、キリストが訴えられたり、十字架につけられたのと同じ意味合い。

 

それに対して書かれているのが、マタイ249節「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」

 

そういう時代がこれから来る。

 

根本は何かというと、教会が全体として、聖書の教えに従わなくなってしまう。

 

そして、どこまでも聖書に従う人々は、目の上の瘤となる。

 

 

 

24:10また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

 

 

 

法律に訴えたり、「あいつらは犯罪者だ」くらいに、裏切る人が出て来る。

 

「大ぜいつまずき」・・・キリスト教の信仰に躓いてしまう。

 

「復活なんて無かったんだ」「福音書は嘘だ」と言った具合に。

 

「互いに裏切り、憎み合います。」と書いてあるように、裏切る。

 

正しく御言葉に留まる人は、背教の人々から憎まれてしまう。

 

残念ではあるが、そういう時代が来る。

 

しかしそれは、良くも悪くも、クリスチャンの本音が現われる時。

 

我々は、外がどうなのかより、我々自身がどうなのかという事が問われる。

 

その歩みが、砂の上に建てる歩みなのか、岩の上に建てる歩みなのか、問われる。

 

砂の上に建てても、何事も無ければ倒れない。

 

しかし、洪水が来るとひどく倒れる。

 

岩の上に家を建てるのは、弟子の歩み。

 

レムナントとしてのおすすめは、何もまだ現実に、日本ではまだ、信仰者に対する迫害は起きていない。(アメリカはやばい。伝道トラクトを配って逮捕された牧師はいるし、同性愛に反対して懲役47年の判決を受けている人もいる。)

 

今の日本はまだそこまでは行っていないので、この時は、備える時。

 

石垣を築き、土台を備える時。