ヨハネの黙示録16章17節~18節        2016.10.2

 

 

 

16:17第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。

 

 

 

七つ目の鉢。空中にぶちまけた。

 

7つの鉢、7つのラッパなど、災いが来ているという事は、明確に語らなければならない。

 

今のキリスト教会は、あらゆる意味で道が曲がっている状態であり、色々 真理が曲げられている時代。黙示録の時を「これは祝福の時だ」などと言っている牧師がいるが、希望とか祝福を強調する様な誤解、間違いをしている。

 

災いは、災いと理解しなければならない。

 

明らかに7つの鉢も災い。

 

旧約において、鉢に小麦粉を油をまいて捧げた。

 

これは、喩えであり、意味がある事。

 

その鉢と、同じ鉢がここでも出て来る。

 

旧約の鉢というのは、神の前の奉仕であり、小麦粉はパンの事。御言葉の喩え。

 

今で言うメッセージ。そして、油は聖霊の喩え。

 

だから本来は、メッセージは、神の前に聖霊に満たされ導かれて、捧げて行くもの。

 

ところがその鉢が、今は災いの為に用いられる。  これは神の示し。

 

なぜ災いの為に鉢が用いられるかというと、神は、黙示録の時代に捧げられる小麦粉、メッセージに関して怒りを持っておられる。

 

聖霊ではなく悪霊が働いており、麦も毒麦。

 

本来、神が言われているのとは違うメッセージが語られていて、それに対しての怒りが、まさに表明されている。

 

それを暗示するために、鉢という言葉が使われている。

 

黙示録の時代は、災いが明らかに教会や、背教のクリスチャンに対して下っている時なので、

 

直すべきところ、正すところは正し、歩みを変えるべき所は変えて、その上で神の祝福を望んでいくという事が、正しい。

 

何一つ歩みを変えようとしないで、ただ祝福を言っているような人は盲目な教師。

 

聖書にあるように、盲目な教師や導き手は、二人ながら穴に落ち込むという事が書かれている。

 

「すると、大きな声が御座を出て、」

 

御座は、王が座る場所。

 

「大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。」

 

その後大きな声や地震が出て来る。 地震は祝福ではない。

 

王の座から災いが出て下る。

 

王の座に座っている方はイエス・キリスト。

 

なぜ災いが御座から下るのか。

 

他でもない教会の王は、イエス・キリスト。

 

キリストの歩みとちがう事に対して、キリストの怒りが御座から来るという事。

 

神は憐れみ深く、また、忍耐深い方。

 

しかし、怒りが爆発する時が、まさに黙示録の時。

 

忍耐強い神の怒りが爆発する時。

 

だから、ここでは御座という言葉が使われている。

 

キリストに逆らっている事を今の教会は成し続けており、さらに背教は拡大し、最後の黙示録の時には、王の怒りが爆発するという事が書かれている。

 

なので我々は歩みを正さなければならない。

 

もう1つは、「大きな声が、聖所の中から出て来た」という事。

 

聖所とはKJVでは神殿。

 

今のキリスト教会の歩みというのは、神の怒りを引き起こしつつあり、黙示録の時には押さえようのない神の怒りが出て来る。  我々はそういう時代に入っているという事は覚えておく。

 

段々と神様の態度が変わって来つつある。

 

さらにもう1つは、「聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。」という事。

 

 

 

マタイ

 

1:21マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

1:22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

 

1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 

 

 

こういった預言が成就するために、マリヤを通して、イエス様がお生まれになった。

 

これがまさに聖書に書かれた預言が成就だという事。

 

「成就」この言葉がまさに黙示録の中で、同じ原語が使われている。

 

「事は成就した」とは、まさにこの事を言っている。

 

預言が成就したとか、そういった意味合いで、使われている言葉と同じ。

 

預言された事が、黙示録のこの日に成就すると、まさにこの事を言っている。

 

黙示録の時を、今現在のこの時代と比べるなら、近未来である感じがするが、今の時点では、まだ先の事。

 

今はまだ、完全成就ではないが、黙示録のこの時には、予てから言われていたあらゆる災いに関しての預言が成就するという意味合いで、こう言う事が書かれている。

 

黙示録の時には、予てから、終末に関して言われているあらゆる預言が、成就する。

 

この事を理解しなければならない。

 

どれ程、黙示録に書かれていることと、今の常識がかけ離れていようとも、想像すらできなくとも、書いてある事は成就する。

 

そこを押さえなければ、ずれてしまう可能性がある。

 

「艱難前」と言う人達というのは、本当の意味では、黙示録に書いてある事は、本当に成就するという認識が無い感じがする。だからそういう教理に入る。

 

つまり、聖書に書かれている事を信じられない。

 

(教会)の真中に、反キリストが来て、立ってはいけないところ(キリストの座)に立って、そこまで教会が堕落するとか、変質するとかを信じられないし、自分の常識の方を優先させてしまっている。聖書に書かれている事が、成就するとは思っていない。

 

しかし、ここに書いてあるように、神が書いた事は、全部成就する。

 

宮の崩壊に関しても、必ず成就する。

 

教会の土台である、使徒、預言者の教え、隅のかしら石であるイエス・キリストの贖いなど、

 

ひっくり返され、土台石が崩されて、教会が、教会ならぬものになって行く。

 

想像できなくても、書いてある事は成就する。

 

だから、「事は成就した」と書いてある。  しかし、クリスチャンが信じない。

 

書いてある事なのに、本気で受け取らない。

 

しかし、成就するという意味合い。

 

我々は、常識、希望観測にしたがって、聖書を読んでしまってはならない。

 

「クリスチャンは艱難に遭わない、艱難の前にクリスチャンは引き上げられ、艱難が終わった時に降ろされる」これは希望観測であって、作り話。

 

書かれてある事は成就するという視点で見て行かないと、理解出来ない。

 

聖書に書かれた世の終わりの事というのは、どれもみな実現する。

 

「背教」も実現する。

 

獣の国に関しても、アメリカが獣の国として全世界を支配し、クリスチャンを迫害するという事も、あってほしくないけれども、成就する。

 

あらゆるどの御言葉、キリストの言葉は、天地が過ぎ去っても、決して過ぎ去らない。

 

我々はそれを理解しなければならない。

 

そうでないと、これから起こって来る事を理解出来ない。

 

「事は成就した」という言葉を通して、聖書が言わんとしている事は、あらゆる言葉、終末に関してのみ言葉は、成就して来る。

 

 

 

黙示録

 

16:18すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

 

 

 

いなずまと声と雷鳴について見て行きたい。

 

いなずまと声と雷鳴、出て来る箇所がある。

 

聖書は、その箇所のみから解釈しない事。

 

 

 

出エジプト記

 

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

 

19:19角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

 

 

 

まさにこの中に、雷とか稲妻、雷鳴がある。

 

黙示録のこの箇所によく似ている。

 

 

 

 

 

19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 

 

 

三日目に神が民の前、シナイ山に降りて来られた。

 

これは喩えであり、預言。

 

「1日は1000年のごとし、1000年は1日のごとし」と書いてあるから、ここで書いてある事は、3つ目のミレニアムである可能性がある。

 

そういう意味では、今は、キリスト以来3つ目のミレニアムだから、まさにこのミレニアムの時に、神が天から降りて来られる。

 

まさに、キリストが再臨する時の事を預言していると理解出来る。

 

その時に大事な事が、まさに喩えで、出エジプト記の19章で書かれていると理解出来る。

 

大事な事は、

 

 

 

19:10主はモーセに仰せられた。「あなたは民のところに行き、きょうとあす、彼らを聖別し、自分たちの着物を洗わせよ。

 

 

 

聖別が大事。この世についてしまっている人達は、神が三日目に降りてきた時、災いに遭う可能性がある。

 

「着物を洗わせよ。」着物は洗わなくてはならない。

 

小羊の血によって着物を清くする。贖いによって清くする。

 

 

 

19:11彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。

 

 

 

だから、再臨に備えなければならない。

 

キリストが再臨したその時に、「義」と認められなかったら殆ど意味が無い。

 

 

 

19:14それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。

 

 

 

喩えで言わんとしている事は、キリストの血によって、着物を洗わせる事。

 

洗った着物を着るという事。

 

 

 

19:15モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」

 

 

 

再臨に備えるというのが、クリスチャンとして正しい。

 

「女に近づいてはならない。」これは、喩えがある。

 

「女」は、箴言で見たように、偽りを語る教会とか、違った教理を語る教会に関して、色々箴言の中でね災いが書いてあったが、まさにその意味での「女」(教会)と理解出来る。

 

 

 

19:16三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。

 

 

 

この時、神が降りて来たので、民は震えあがったが、これがあるべき姿。

 

そういう意味でも、今の教会、クリスチャンは、勘違いしている。

 

キリストの再臨があるという時に、ほんわかして「何でも許される」様な事を言う人がいるが、

 

事実と違う。

 

「民が震えあがった」とあるように、恐れおののいて再臨を待つというのが正しい。

 

 

 

19:18シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

 

 

 

キリストの再臨は、このような形になる。

 

なので我々は恐れを持ってなしていくべき。

 

 

 

19:19角笛の音が、いよいよ高くなった。モーセは語り、神は声を出して、彼に答えられた。

 

 

 

「角笛の音が、いよいよ高くなった。」

 

これは、神が降りて来られる前、警告が増すという事。

 

「歩みを正せ」という事。

 

気を付けなければならない事は、降りて来られた神はこのように言われた。

 

 

 

20:1それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。

 

20:2「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 

20:3あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 

20:4あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 

20:5それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

 

 

 

神が降りて来られ、十戒を初めとした律法を民に与えた。

 

まさに同じ箇所が、黙示録の中の、教会時代の終わるという時に、出て来るという事は、どういう事かというと、キリストの再臨というのは、まさにこの事に関しての、さばきの時。

 

神が与えた十戒を、ある人は正しく守り、それによって祝福を受けるが、ある人は守らず、行なわずして、再臨のキリストによって罰を受ける。

 

そういう時だという事を暗示している。

 

なので我々は、原点に立ち上って、再臨の時に備えをするつもりがあるなら、この出エジプト記で書かれている、モーセの教えようとしている十戒を、きちんと守るという事が、再臨の備えになるという事を理解しなければならない。

 

十戒もまた、喩えが使われている。

 

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」

 

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」

 

これは、教会に関係している。

 

これは、器崇拝の罪について言っている感じがする。

 

物理的な金や木の偶像は造らないと思うが、今の教会で行なわれている、他の物を神とする、

 

器崇拝に関して、神は、明らかに怒りを発して来るものと思われる。

 

カトリックはローマ法王が偶像になってしまい、聖書の言葉をほっぽり出して、法王の教えに従って行く時に、これは偶像崇拝の罪になって行く。

 

例えば前のローマ法王は「進化論は否定できない」と言った。

 

つまり、創世記に書いてある神の言葉を「間違いだ」と言っている。

 

神の言葉以外のものを優先し、神の言葉を捨て去る。これは偶像崇拝。

 

プロテスタントでも、ビリーグラハム、リックウォレン(クリスラム、キリスト教もイスラム教も同じ神だと言っている)の言う事を優先して、インチキな教えを真に受ける。これも偶像崇拝。それに関して神が怒りを発する時だという事を理解する。

 

 

 

黙示録

 

16:18すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。

 

 

 

ここで、黙示録の時代には大地震が起きるという事が、書かれている。

 

かつてない大地震に対する大事な備えは何か。

 

黙示録は喩えが使われている。

 

地震の喩えは何か。

 

地震が起きると家が倒壊する。

 

家は教会の喩え。  つまり、教会を揺るがす揺るがし。

 

もっとはっきり言えば、迫害とか、状況が変わる。

 

日本においても戦争の頃にはキリスト教会が、色々弾圧に遭った。

 

「天皇陛下とキリストとどちらが偉いんだ?」と詰め寄られたり。

 

正しいクリスチャンはその時に逮捕されたり、獄中で殉教した牧師もいた。

 

世の終わりの時に、「大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。」

 

他の聖書箇所では、「かつてなく、今後とも決してないような苦難がある」と書いてある。

 

聖書に書いてあるように、そういう時が来ると聖書に書いてある。

 

しかも、例外とか、それを免れるクリスチャンは、1人もいない。

 

黙示録でも「全世界に及ぶ試練の時にあなたを守ろう」と書かれている。

 

全世界の全てのクリスチャンに試練は来る。

 

しかし、試練の時にも守っていただけるのが聖書の約束。

 

それは、フィラデルフィアの教会に対して言われている言葉。

 

世の終わりに来る、大地震つまり大迫害について聖書は、色んな箇所で語っている。

 

理解すべき事は、これを逃れるクリスチャンは誰もいないという事。

 

しかし、正しく歩んでいるクリスチャンに関しては、助けがある。

 

 

 

へブル書

 

12:25語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。

 

12:26あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

 

12:27この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

 

12:28こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

 

「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

 

揺り動かすのは地震。  だから、ここでも地震があるという事が語られている。

 

天地は教会の喩え。

 

アブラハムの子孫たちは天と地に住む。

 

アブラハムの子孫は、天の星と喩えられている。 星はクリスチャンであり、天は教会。

 

「地の砂の様になる」と書かれているが、地も教会。砂がクリスチャン。

 

しかし、天地を揺り動かすというのだから、地的な教会(この世についた教会)も、天的な教会も、迫害、揺り動かしが来たりする。

 

そういう時が来る、という事。

 

それらしい兆候は既に見え始めている。

 

アメリカの状況を見れば、解る。

 

クリスチャンはあらゆる形で迫害されている。

 

地震に関して、なぜそのような事が起こるのかは、

 

 

 

12:27この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。

 

 

 

神様は、敢えて地震を起こす。   迫害などの。

 

神は、揺れ動いたり、倒れてしまう者には、あまり興味が無い。

 

主が臨んでおられるのは、揺り動かされずに残る者に興味を持っておられ、愛着を持っておられる。その為に敢えて揺り動かしが許される。

 

聖書のパターン、書いてある事を理解しなければならない。

 

我々クリスチャンというのは、全部自分の都合で物事を見ている。

 

神の御心は、真に揺れ動かされない者を選びたいというのが正直な本音。

 

全ての人が残るとは、神は思っておられない。

 

 

 

ハガイ書

 

2:6まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。

 

2:7わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。

 

2:8銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――

 

 

 

6節で同じ事が書いてある。

 

「しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。」

 

理解しなければならない事は、世の終わりになると、かつて無かったような、キリスト教界を揺り動かすような、試練が来る。  どのクリスチャンに対しても。

 

聖書の複数の箇所が預言している。

 

こういう日は必ず来ると思った方が良い。

 

黙示録の3章では別の表現で、地上に住むすべての人を試みるためにやって来る試練、逃れ得る人は誰もいない。

 

黙示録の時に来る試練とか、迫害を逃れる人は誰もいない。

 

全てのクリスチャンがこれを経過する。

 

その目的は、

 

 

 

2:7わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。

 

揺り動かす事によって、倒れるべきクリスチャンは、みな去って行くという事。

 

そして背教になり、宮の中で反キリストを拝むようになってしまったりする。

 

それらの人達は、初めからそうなるべき人々だったから。

 

しかし、それであっても、そういう試練の中に留まる人は、神の言う「宝」

 

7節で、「すべての国々の宝物がもたらされ」の宝物とは、留まるクリスチャン。

 

揺り動かされても留まるクリスチャンが「宝」

 

あらゆる教団から留まるべきクリスチャンがそれぞれもたらされて来る。

 

8節で「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ。――

 

銀とか銀というのは、火を通って、精錬されて尊い金や銀になる。

 

火は試練。

 

ペテロの手紙の中では、「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちて行く、金や銀よりも尊い。」

 

信仰の試練を通して尚且つ残るのが本当の、信仰の「金」

 

それが、神の御前に尊い。

 

そういう意味で我々は理解しなければならない。

 

神の前に尊い者として残る時に、やはりどのクリスチャンも試練を通るという事。

 

例外は無い。 それが、昔からの神の方法。

 

試練が来るとか試されるというのは、正しく聖書を読んでいるなら、旧約の時代から、イエス様の時代から今の時代に至るまで、延々と続いている、聖書の方法。

 

これを理解しなければならない。

 

良い例は12使徒。

 

キリストの12使徒というのは、みなここで言う「宝」

 

もたらされた宝物。

 

彼らは、他のユダヤ人とか、キリストの話を聞いた群衆と同じ所を通っている。

 

群衆は、揺り動かしの中で、去って行った。

 

主は最後の晩餐の時に言われた。

 

「あなた達は試練の中でも、最後まで私に着いてきてくれた」

 

これが宝物。

 

ハガイ書で言う、「すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。」

 

「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」

 

こういう人達の事を言っている。

 

そういう意味では、新約聖書のパターンが繰り返される。

 

イエス・キリストの時も、3年半の生涯の中で、キリストを信じた人達はみな、揺れ動かしや選り分けがあった。  3年半で最後まで残ったのは、ほんのわずかだった。

 

艱難時代の3年半もそう。

 

初めは多くても、3年半後には、殆ど残っていない。しかし、残った人を、神は「尊い」と言われた。

 

 

 

マタイ

 

13:44天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

 

 

 

この「人」とはキリスト。    持ち物を全部売り払ってとは、キリストの命とか持ち物。

 

それを売り払って買い取る。贖うという事。

 

「宝」だけを買えばよいのに、畑全部を買っている。

 

畑とは、全てのクリスチャン。しかし、この人は、畑全部が宝とは言っていない。

 

宝は全部の一部。クリスチャンは全て、キリストの血で贖われたので、我々は畑。

 

しかし、この人が目を留めているのは宝。

 

神も全てのクリスチャンを贖うが、目を留めておられるのは、畑のクリスチャンではなく、「宝」のクリスチャン。

 

揺り動かしの中に、最後までとどまる人に、神の目は注がれている。

 

そこは理解しなければならない。

 

変な平等主義が、教会の中にはびこっているけれども、神の視点と人の視点は違う。

 

贖いは神の視点でなされているので、結局は我々もその視点で見ないと惑わされてしまう。

 

神は明らかに、「宝」に目が言っている。

 

我々は、それを目指さなければならない。  艱難で、大地震の中で、倒れてしまう者は、「宝」ではない。

 

レムナントは少なくとも、方向としては、地震は来るが、それでも留まるという事を目指している。

 

12弟子のような宝として。

 

必ず、揺れ動かしは来る。 これは聖書に書いてある。

 

しかし、その後、「残る」というのが目的。