ヨハネの黙示録16章3節~6節            2016.7.21

 

 

 

16:3第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。

 

 

 

黙示録は、喩えや謎で書かれている。

 

なので、文字通りに読んでも分からない。

 

悲しい事だが、今のキリスト教会の現状は、真理から懸け離れているので、解釈の方法に関しても違っている。

 

マルコの第4章では、「喩えによらないで話される事は無かった」とある。

 

人間的な注解は、本気にしてはいけない。

 

今のキリスト教会が、盲目になっているのは、わけの分からない注解書や、チェーンバイブルの余計な注解とか、そういった物に目を留めて、御言葉に目を向けようとしないので、結果として、わけの分からないものとなっている。

 

やはり、喩えを理解しなければならない。

 

「第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。」

 

「鉢」は、旧約聖書に出て来る。鉢は、神に捧げものをするための器。

 

その中には、穀物、油をまいた穀物などが捧げられている。

 

今で言うなら、御言葉のメッセージに関しての喩え。

 

しかし、それを神は、黙示録の時代において、その鉢を用いて災いを下した。

 

言わんとしている隠された事柄は、明らかに、黙示録の時代(今の時代)に、神に捧げられる穀物、喩えで言うなら「メッセージ」に関して、神は凄まじい怒りを持っておられるのは明らか。

 

だから、「鉢」をもちいておられる。

 

黙示録は、神の知恵を持って書かれているので、主の知恵があり、喩えを理解して初めて解る。

 

浅はかな注解書によらないで、喩えを理解し、御言葉に沿って見て行く時に、

 

たとえ我々が愚かであっても、徐々に見える箇所は見えて来る。

 

「鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。」

 

「海」は当然水のある所だけれど、これは、魚の住む、聖霊の中に住む、クリスチャンの喩えという風に理解する。

 

クリスチャンは魚に喩えられる。「魚」の意味は、魚は、どんなに元気のいい魚でも、海から釣られると、いずれ死んでしまう。

 

祈らない人は、水から出た魚と同じ。

 

祈る事は、身に着けないと、ほとんど役に立たないクリスチャンになる。

 

これは、雨が降っても、雪が降っても引いてはいけない。何が何でも祈る習慣をつける。

 

祈って初めて聖霊が働く。  これを死守する。

 

そうすれば、そこから色んな事が始まる。  神の働き、導き、教えなど。

 

「海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。」

 

我々クリスチャンは、海の中に生きるようになっている。

 

海は明らかに聖霊の喩え。  ところが、黙示録の日の災いというのは、「水が血になる」これは、異常事態。  きのうまで、祝福になっていた聖霊の水が、変わって、血になり、呪いなってしまう。これは、霊的な事に関しての呪いであると思う。

 

それでもって、「いのちのあるものは、みな死んだ。」とある。

 

具体的に言うと、聖霊によって生きるつもりのクリスチャンが、聖霊のいのちの息があった者がみな死んでしまう事。

 

ここで理解しなければならない事、また、喩えで語っている言葉は、キリスト教会に下る、「霊」に関しての事。

 

既に今は、キリスト教の時代が変わっている。

 

数十年前は、教会へ行き、集会に行き、また、聖会に行けば、聖霊が働いて、神の恵みに触れるというのが常識だった。  実際そうだった。

 

しかし、1990年代から、話が変わって来た。

 

「聖霊の第三の波」とかが言われるようになってから、リバイバル集会、ペンテコステ系の集会に行く事によって、それまで、聖霊の水すなわち海の水だったのが変わって、それこそ血に変わり、別の霊が働く時代になって来た。

 

1番ビックリしたのが、トロントブレッシングのビデオの中で、器が、「獣の印をつけろ」とか、「デーモンデーモンデーモン」とか、悪霊を呼び出していたり、実際にそのビデオを見て、

 

その後ペンテコステ系の教会に、12回行くと、これは確かに悪霊が働いていることが実感できた。

 

なので、今は、「霊」が変わって来ているという事柄を理解しなければならない。

 

特に、聖霊を強調し、霊的な事を強調する、ペンテコステ派をはじめ、おかしくなって行くという、このような事柄を理解しなければならない。

 

ユーチューブを見ると、結構、悪霊のリバイバルを警告している人がいる。

 

「獣の印に気を付けろ」など。

 

あと、キリスト教会でスキャンダルが多いのは、ペンテコステ派。

 

勿論、聖霊が悪いわけではない。 「聖霊」と言いながら変な霊に触れて行く可能性がある。

 

それが、罪に誘ったりする感じがある。

 

今はそういう時代。

 

「神の働き」と言っている筈なのに、別の霊が働く。

 

「水が血に変わった」と書いてある。しかも「死んだ」と書いてある。

 

ロマ書の810節は、「からだは罪のゆえに死んだ」と書いてある。

 

だから、「罪のゆえに死んだ」のと、同じ意味合い。

 

つまり、おかしな霊の惑わしにあるという事。

 

本当に神から来ているリバイバルなら良いのだが、今は世の終わりであり、明らかに警告されている様に、聖霊の海と思っていたら、水が血に変わっていたり、命ある者も死んでしまうという時代になりつつあるので、これらのリバイバル運動とか、「聖霊の働き」と言われているものも、気を付けて行くべきというのが、正しい結論であると思う。 

 

聖霊ではない、違う霊を受けている器もいる。  しかし、メッセージは聖書的だったりする。

 

しかし、「感覚として違う」という事がある。

 

語っているメッセージが教理的には良くても、霊が違う事があり、そういう意味で見分けづらい。   しかし、聖霊に聞き従っている人は分かると思う。

 

とある教会で、そこの牧師に按手してもらったら、癒される筈が、別の霊を受けてしまい、悪霊的な結果になってしまった例もある。そこの牧師には、プライドの塊の様なものを感じ、違う霊だと感じた事がある。

 

残念ながら、時代は変わってきており、語っている教理は、聖書から正しいようであっても、

 

違う霊に従って歩んでいる可能性がある。

 

そういう時代に生きている。

 

 

 

16:4第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

 

 

 

ここにも同じような事が書いてある。

 

「川」とは、

 

 

 

ヨハネ

 

7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

 

 

これは明らかに聖霊。

 

 

 

4:14しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

 

 

ここに「泉」という言葉が出て来る。

 

これも明らかに聖霊。

 

キリストの与える水は、聖霊であって、泉となり、永遠のいのちへの水がわき出でる。

 

しかし、残念ながら、聖霊がわき出でる泉だったものが、水の源()が、血に変わる。

 

霊が変わってしまう。 聖霊の働きが、悪霊のものに変わってしまう。

 

本来なら、教会へ行って、神の霊を受ける筈だが、別の霊が働いていたりする。

 

よくよく気を付けて行く。

 

それによって、罪を聖霊によって清められる筈が、さっぱり清められなかったり、また、その霊を受けたために、増々罪に深入りしてしまったり、増々怒りっぽくなってしまったり、災いに入って行ったり。

 

霊は、人を生かす。「生かすのは霊」という御言葉があるが、その人の一番根本的な部分、我々は、飲むものによって違う。

 

例としては、水によってお腹をこわしたりする。

 

人は、飲む者によって、身体に影響を与える。

 

人間の身体の水もそうだが、「霊」もそう。

 

我々は受けている霊によって、物凄い影響を受ける。

 

だから、別の霊を受けると、結局その人の歩みとか、祈りとかが変わって来る。

 

イライラしたり、自己中になったり、そういう霊に導かれている牧師もいる感じ。

 

色々良い事を言うが、自分のためだったり自分を上げたいだけだったりする。

 

我々は、受ける霊によって、クリスチャンとしての歩みが全く変わる。

 

よくよく霊には気を付ける。

 

そして、霊は、大抵按手によって来るので、器からの按手には、よほど気を付けなければならない。

 

この事は覚えておく。 そして、リバイバル聖会も今は、吟味無しに加わるべきではない。

 

 

 

黙示録

 

16:5また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。

 

 

 

これは、KJVでは、「昔いまし、今いまし、のちに来られる方」と書いてある。

 

これは、キリストのことを言っている。

 

過去であり、現在であり、未来である方が、黙示録の時代には、裁きを下し、判決を下す。

 

「あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。」

 

言わんとしている事は、要は、主イエスは昔おられた方であるけれども、教会時代の初めにおられた。

 

その時は、裁きは下さなかった。そして、僅か100年前も裁きは下しておられなかった。

 

しかし、黙示録の時代には明らかに、水を血に変えたり、裁きを下しておられる。

 

明らかに、黙示録の時代になった時に、裁きに相当するレベルになっている。

 

今の時代、それ程に罪のレベルが増してきているという事。

 

今は、明らかに、昔に比べて、裁きにふさわしい時代になって来ている。

 

黙示録の時代において、神の下される罰は、ここに書いてあるように、「あなたは正しい方です。」というのは、「裁きは妥当」だという事。

 

神が不公平なのではなく、目に余る、教会の背教といい、不信仰といい、歩みの正しくない事が目に余るほどひどいから。

 

理解しなければならないという事は、聖書の判断基準は1つであって、同じ量り、同じ物差しが、昔のペテロやヨハネの時代のクリスチャンに対しても、今の時代のクリスチャンに対しても、同じ量りが使われる!      違う物は使われない。

 

今の時代にもハンデは無い。

 

我々は、同じ基準で裁かれるので、そういう意味では、かつての信仰の先祖とか、聖書に書かれた基準に目を留めなければならない。

 

他の人と比べる基準ではなく、神の御言葉を基準とした歩みが出来るように。

 

今は、学校と言い、会社といい、世の中と言い、道徳基準も歩みも、どんどん変わってきているが、我々は、かつてのクリスチャンと同じ量りで量られるので、歩みを糺していきたい。

 

 

 

16:6彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」

 

 

 

預言者達の血を流したのは誰なのか。

 

理解が正しければ、世の中の人もある程度は関わっているだろうが、黙示録は、クリスチャンにあてて書かれたものであるから、クリスチャンこそが「彼ら(聖徒たちや預言者たちの血を流した者たち)」に当てはまるのではないか。

 

黙示録が、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒行伝、ロマ書などの書簡の最後に最後に載っているという事は、それらの書簡を読むのはクリスチャン。

 

黙示録は、教会のクリスチャンに宛てて書かれた警告の書簡。

 

だから、ここでは、背教に至ったクリスチャンに対して書かれている。

 

そして、聖霊が悪霊と変わり、害を受けるのはクリスチャン。

 

世の中は、聖霊も何も受けていないので、あまり関係ないかもしれないが。

 

そういう意味では、教会で聖霊を受けていると思ったら、悪霊を受けるようになっていたというのは、クリスチャンに対しての災いを語っている。

 

なので、聖徒たちや預言者たちの血を流すという事は、残念だが、教会の中で、こういった事に加担する事が出て来る。そういう時代になって来る。

 

これは、イエス・キリストの公生涯にも起きている事。

 

キリストは誰によって、有罪であると宣告され、誰によって十字架につけられ命を失ったかと言うと、律法学者やパリサイ人が集まって「この人は有罪だ」と全員一致で宣告した。

 

そして、ピラトを嚇すような形で、死刑を頼んだ。

 

ピラトは、「この血は私と関係ない」と言って手を洗った。

 

律法学者、パリサイ人は、「この人の血は、我々と我々の子孫に降りかかっても構わない」と言った。 だから、血の責任は神の民にある。

 

我々は、理解しなければならない。

 

セミナーでも語ったが、「あなたがたは、自分の両親や、兄弟姉妹や親族からも裏切られ・・・」と聖書にある。

 

だから我々は、これから正しく主について行く時に、理解しなければならない事は、この世の法律で次々と、圧迫されるが、もう1つは、この世についたクリスチャンから裏切られたり、訴えられたり、有罪にさせられるという、そういう時が来る。

 

なので、ショックを受けてはいけない。  何故なら、「想定内」だから。

 

全員という事はないと思うが、6節で「聖徒たちや預言者たちの血を流しました」と書いてあるが、我々が聖徒として正しく歩んでいく時に、「中には殺される者もいる」と書いてあるように、殉教をともなう迫害もあるように思える。

 

なので、この辺りは望ましくないかもしれないが、想定して歩むのが良いと思われる。

 

聖書を読んでわかる事は、花嫁の選びというのは、結構シビア。

 

12弟子を見ても、最初は4000人、5000人といたが、最後の晩餐の時には12人になっている。

 

明らかに減っている。 これは、花嫁の選びの一環。

 

花嫁にならない人は、自分の方で去って行く。

 

キリストが追い出した人は1人もいない。 イスカリオテのユダでさえ。

 

明らかに12弟子の選びというのは、ある意味では、困難や、艱難に遭っても、キリストに従って行くかという選びもある。

 

明らかにその頃、ユダヤ人たちがイエス様を探していたり、追っていたりしていた。

 

ペテロは「あなたもあの人の仲間じゃないのか」と言われた時のような、不穏な空気。

 

それでも従って行くかどうか。

 

事象を察したり、頭が良かったり、自分の身の危険とか、それらを優先させた人達は、どんどんキリストから離れて行った。

 

しかし、11使徒は選びに入った。  イエス様が「あなた達のために場所を備えに行く」と言われたが、これは明らかに、花嫁に対する備え。    男であっても花嫁。

 

主ご自身も、我々の為に命を捧げて、贖いをしたが、はっきり明確には書いていないが、主に選ばれる人も、ある意味では、同じように、命がけで主に従って行く人は選ばれるという意味合いが、明らかにあるかと思う。 明言はされていない。

 

これは御国の奥義みたいなものだが、そういう事である。

 

エレミヤ牧師自身も主に色んなものを捧げて歩むということが、自分なりに分かって来た。

 

残念ながら黙示録の時代は、正しい人の血が流される時代。

 

殉教するも、しないも、本人次第だが、主イエスご自身も、我々の為に犠牲になられたので、主につく者は、多少の犠牲を払って行くのが、ある意味では主の求めておられる歩みではないか。  主が強制するという事は無いと思う。

 

これからそういう時代に入って行く。