ヨハネの黙示録17章2節~4節            2016.10.23

 

 

 

17:2地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」

 

 

 

世の終わりの時に、主が封印を開く。

 

主が開いた話にしたがって見て行きたい。

 

「女」は教会の喩え。  パウロは結婚の奥義は偉大であると言った。

 

キリストは男であり、教会は女。

 

「この女」は教会であるが、残念ながら、不品行とか、背教に至ってしまったという教会。

 

「淫婦バビロン」はアメリカのキリスト教会であると、我々は理解している。

 

「これはカトリックだ」とか、ものみの塔などは、「これは、今のキリスト教会だ」と言っている。

 

みんな、自分の所が正しく、他は間違っていると言っている。

 

2節で、「地の王たち」とか、「地に住む人達」に大きな問題があるという事は、理解しなければならない。

 

「地」は「天」の反対語。

 

アブラハムの子孫であるクリスチャンは、新約のイスラエルであり、信仰的な意味合いでは、

 

教会のクリスチャンも、アブラハムの子孫。

 

パウロが言うには、新約のイスラエルは我々。

 

そういう意味合いで、アブラハムの子孫は、天の星、地の砂のようと言われている様に、クリスチャンには、天的なクリスチャンもいれば、この世についた地的なクリスチャンもいる。

 

どちらもクリスチャン。

 

問題はやはり、地に住む地の王とか、地に住む人々。「地の王」はやはり、キリスト教会のトップ、リーダーに値する人たち。   カトリックをはじめ、英国国教会をはじめ、長老派、救世軍であろうと、福音派であろうと、日本キリスト教団であろうと、リーダーがいるが、「地の王」、この世についた様なリーダーは、みんなアメリカ由来のものを受け入れて行くという事。「地に住む人々」はこの世についたクリスチャン。

 

みんな、アメリカ由来の教えとか、ぶどう酒=霊的なものまで魅かれて行くという事。

 

アメリカのキリスト教会こそ、バビロンだと理解している。

 

結構ひどい問題。

 

日本のキリスト教会も、他の国のキリスト教会も、どこの教団も、アメリカに関係している。

 

そういう意味合いでは、影響を受けていない教会は無いという事。

 

誰でも影響は受けるが、その中で、アメリカ由来のおかしな霊に惑わされて行く、というのは、

 

この世的な事柄に、どんどん魅かれて行く人は、やられて行ってしまうという一面がある。

 

 

 

17:3それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

 

 

 

御使いが、聖霊に感じたヨハネを荒野に連れて行った。

 

こう言う事柄を覚えて行きたい。

 

言わんとしている事は、ヨハネ、要するに正しく神について行こうとする人に関しては、霊的に荒野に、入って行くべき。

 

荒野というのは、牧師の理解では、「都」  都は、教会の中心地。

 

そこではなく、都の外、荒野。 そういう意味で言うと、メインのキリスト教会の中心部分がやはり、どんどんおかしな霊でやられて行く。

 

我々が正しく、主の御心を行なって行くなら、これからの時代、霊において、聖霊にあって、

 

荒野に行くという事が、大事なポイントであるという事を理解しなければならない。

 

それは、霊にあってであり、肉体で必ずしも荒野に入って行くのではないと思う。

 

あくまでも霊的に。

 

だから、我々は、霊的な部分において、「都」の中に入って行ったり、今のキリスト教会の中で、まさに用いられている、霊だとか、霊のリバイバルだとか、おかしな器だとか、そういう所に巻き込まれないという事が大事。  そこから離れて、霊的に荒野に行き、都のあらゆる惑わしの霊の働き、要するに、今のキリスト教会で働く、あらゆるおかしな霊のリバイバルから

 

離れて行くべき。

 

牧師も昔は、そういう器のリバイバル集会にまめに言っていた時期があった。

 

やはり、そういった集会のど真ん中に行くと、どんどんおかしな霊にやられて行く。

 

しかし、主の憐れみで、ある時を機会に「やはりこれは少し違う」と思うようになり、そこから離れ、そういう意味では、霊的に荒野に住んでいる。それによって、霊的な惑わし、インチキから守られて来たと思う。

 

霊的に、荒野に連れて行かれる。  荒野に行く様になって、そういうものから離れて、導き、歩みが、正しくなって行った。 あらゆる変な霊の惑わしから解放されて行った。

 

我々は、これからの時代において、ヨハネがそうであったように、都に入るのではなく、都から離れて、霊的に荒野に入って行く。

 

そして、17章3節の後半で、「すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。」

 

7つの頭と10本の角、そこに女が乗っている。

 

1つは、この女は「教会」   

 

牧師の理解では、アメリカのキリスト教会だと思っている。

 

アメリカのキリスト教会こそバビロンであり、アメリカこそ、世界のキリスト教会中心であり、アメリカのあらゆるキリスト教会のトレンドが、全世界に影響を及ぼしている。

 

キリスト教会の中に、あらゆる汚れを広めるという意味では、アメリカのキリスト教会こそバビロン的な位置にあるというのは、当たらずとも遠からずだと理解している。

 

その「女」に関して、「獣に乗っている」と表現している。

 

この事の言わんとしている事は、「獣に乗っている」事によって、どうしても獣が行く方向へ

 

行く。女が獣に乗っているという事は、獣の国の方向、獣の国の影響というのは、女に大いにある。

 

そして、獣が行く方向に、女も教会に行くという事を、まさに語っているのではないか。

 

そういう視点で見る時に、アメリカのキリスト教会で起きている事は、まさにそういう事。

 

アメリカの教会の色んなトレンドを見てみると、やはり、アメリカという特殊な国の影響を大いに受けている。   クリスチャンも、次第にアメリカナイズされて行く。

 

アメリカは離婚が多いが、牧師や、その息子、娘であっても、結構平気で離婚する。

 

ビリーグラハムの娘も離婚しているし、ハルリンゼイは3度も離婚している。

 

聖書的にはあり得ない。

 

聖書は、女性の再婚を禁じている。  離婚した女性が、再度別の男性と結婚するのは、聖書を読む限り、あり得ない。  パウロも言っている。 離婚した女性は、そのままでいるか、もとの男性に戻るか、さもなければ姦淫になると。

 

イエス様も、「離婚した女をめとるのは、姦淫になる」と。

 

アメリカでは普通に離婚したり再婚したり繰り返している、という事は、獣の論理の方が、聖書の論理よりも優先している。

 

アメリカのキリスト教会は、獣に引っ張られている。

 

また、聖書は明らかに「殺すな」と言っている。

 

しかし、アメリカの牧師、キリスト教会は結構、聖書よりも、アメリカの政府とか、国の方針に引っ張られ、人を殺すのが正しいと思っている。  イラク戦争の時に、志願して出かけて行った牧師がいたが、何か勘違いしている。 強制的に、徴兵だとかで連れて行かれるのはまだ分かるが、自分から志願して「人を殺すな」と言っている牧師が、イラクへ行き、人を撃ち殺しているのはどういう事かと思う。

 

そういう意味で、聖書の教えより、獣に引っ張られている。

 

同性愛しかり。明らかに聖書では禁止されているが、アメリカではどんどん同性愛を受け入れるクリスチャンや教会が増えているが、まさに、獣に女が乗っている。

 

大いに獣に引っ張られ影響されている教会。

 

アメリカという国に、アメリカのキリスト教会は影響されている。

 

まさに獣の上に女が乗っている事を現していると理解出来る。

 

どんどん影響されている。

 

そのトレンドは進んで行く。

 

アメリカでは501C3教会法があるが、これは何かというと、教会の税を安くする代わりに、政府のする事に、決して文句を言ってはいけない。そうやって次第に教会に政府が介入している。

 

国が牧師を任命する・・・・アメリカはそういう方向へ行きたがっている。

 

獣にどんどん影響されたり、コントロールされたり、方向に引っ張られたり、そういう風に教会はなって来ている。  切っても切り離せない方向になって来ている。

 

この事がまさに、「女が獣に乗っている」という表現で語られている。

 

こう言った事柄は見て行きたい。

 

3節の後半で、「その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。」

 

この獣が「神をけがす名で満ちており、」とある。

 

アメリカには、隠された面があって、建国の秘密など、陰謀の話だが、結構ある。

 

アメリカの大統領の殆どがフリーメーソン。 フリーメーソンは悪魔崇拝者。

 

アメリカの指導部は、その様に、裏がある。

 

神のピューリタンによって建国されたと言うが、その裏には、結構悪魔的なものとか、秘密とか、獣的なものがある。

 

今までは、それは見える形ではなかったが、ここ最近、非常にはっきり見える形で、アメリカの隠れていたものが、露わになって来ているように見える。

 

具体的には、ヘイトクライム、憎しみ犯罪法などと言い、マイノリティーの権利を守るとか言い、要はクリスチャンを逮捕する様な法律を作り、具体的には同性愛者が少しでも嫌な気分になったら、クリスチャンを逮捕してもいいという事。

 

「私たちはクリスチャンなので同性婚カップルの為にケーキを焼くことは出来ないから、他へ行って下さい。」 これが、憎しみ犯罪法に引っかかる。

 

同性愛者の権利をどこまでも増大させて、難癖をつけ、訴えさせて、高額な罰金を科し、ケーキ屋をつぶしたりしている。

 

同性愛をどんどんアメリカは増長させている。

 

オバマは、同性婚は合法などと言っている。

 

これは何かというと、神を汚している。あらゆる冒涜とか。  聖書の教えから真っ向から対抗して来ている。

 

だからアメリカのはっきりした特徴というのは、神を冒涜する国。

 

あらゆる神の教えや、戒めに対して真っ向から反対をとなえ、そして、あらゆる冒涜的な事を言っている。

 

「その獣は神をけがす名で満ちており」と一致している。

 

こういった1面をも見て行きたい。

 

 

 

17:4この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。

 

 

 

「紫と緋の衣を着ていて」という事。

 

紫の衣という事だが、それは、他の聖書箇所でも使われている。

 

 

 

マルコ

 

15:16兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。15:17そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、

 

15:18それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。

 

15:19また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。

 

 

 

紫の衣というのは、兵士たちが、イエス様を嘲ったり、ののしったりなど、その時に着ていた衣。 まさに、イエス様を嘲る、それと関係している。

 

それをまさに、「この女」が着ている、イエス様への嘲りなど、そういう方向に来ている。

 

そして「緋の衣」 

 

 

 

マタイ

 

27:27それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。

 

27:28そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。

 

 

 

緋色の上着が出て来る。そしてここでも「嘲り」

 

紫の衣も、緋色の上着も、どちらも主を嘲ったり、愚弄したり、バカにしたり、そういった事と、関係している。 だからこの女はまさに、イエス様を愚弄したり、バカにしたり、嘲ったりという方向に行く。

 

そして、もう1つの事。 「緋色」というのは、

 

 

 

へブル書

 

9:18したがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。

 

9:19モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、

 

9:20「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である。」と言いました。

 

 

 

ここでは、契約の血に関して「赤」という言葉が出て来る。

 

「赤い色の羊の毛」の赤は、緋という言葉と同じ。

 

これは血を表す。  契約の血。

 

「血」はまた、喩えでもあって、今の時代で言えば、聖霊の働き。

 

つまり、この女は聖霊を冒涜するようになると言える。

 

世の終わりの時になると、御霊を冒涜する罪、聖霊を冒涜する罪というのが、どうも出て来そうな予感がする。

 

へブル書にも書いてある通り、「自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなす者」に関しては、どれほどの刑罰に値するかなど、また、「人の子に逆らう者はゆるされるが、聖霊を汚す者は今の世でも、後の世でも罪を赦されない」と、厳しい事が聖書に書かれているが、

 

その事はあり得ると思う。

 

主が言われた。「家の長でもベルゼブルと呼ばれるくらいだから、あなた方は何と言われるだろう」とある。

 

聖霊が悪霊呼ばわりされたり、汚れた霊呼ばわりされるというのは、これからおそらく出て来るのだと思う。

 

それはバビロン、アメリカのキリスト教会を起点として起きて来ると思われる。

 

今起きている、聖霊の第三の波とか、ピーターワグナーや、ベニーヒン、ピーターワグナーは、

 

みんな神からの霊ではないと思われる。

 

それが広がった暁にどういった事が起きるかと言うと、おかしな霊を「聖霊」と思い込んだ人達は、逆に聖霊からのものを受け入れないで、逆に聖霊を汚れた霊と見なしたり、聖霊によって働いている人をカルト呼ばわりしたり、悪霊呼ばわりする逆転現象が起きたりする者と思われる。それはまさに、この女、緋色の衣(契約の血)の冒涜と関係している様に思われる。

 

 

 

黙示録

 

17:4この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。

 

 

 

この女は教会であり、冒涜的ではあるが、教会らしい形は残っている。

 

金の杯というのは、聖餐式で使われているあの杯。

 

聖餐式は行なわれているし、金だから信仰もある。

 

ただ、信仰はイエス様に対して用いるべきだが、器崇拝や反キリストを信じるような方向に用いて行くなど。

 

また、「金と宝石と真珠とで身を飾り」と書いてあるが、これは賜物とか、御霊の賜物に似通ったもの。だから、賜物がある筈。   預言、悪霊追い出しなど。

 

そういう意味では、御霊の賜物と言われる物が、起きて来る筈。

 

霊の見分けが出来ない人達は、結局それに惑わされて行く。

 

「憎むべきもの」とある。  これは特殊な表現。

 

 

 

マタイ

 

24:15それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

24:16そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

 

 

 

ダニエル書に預言されている「憎むべき者」

 

これは他でもない、反キリストに通じる。

 

教会の中の最も聖なる場所は、キリストの御座であって、神の座。

 

神をも聖霊をも、キリストをも追い出して、代わりに反キリストが、「自分こそ教会の王」だと言って立つ。 確かにこれは、冒涜。

 

しかし、この「憎むべき者」という言葉が、淫婦バビロンと共に出て来るという事は、反キリスト礼拝とか、教会の中に反キリストが入って来るとか、きっかけ、手順、道筋とかはあると思うが、それはこの御言葉に言うなら、明らかにアメリカのキリスト教会を経由して行なわれて行く可能性がある。

 

アメリカを起点として、世界のキリスト教会に、反キリストが入って来る。

 

アメリカのキリスト教会がまさに最初に反キリストを受け入れる様になって来る可能性が高いというように思われる。

 

「忌むべき者」とはまさにその事を語っている。

 

 

 

第二列王記

 

21:2彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。

 

21:3彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。

 

 

 

2節にある、「忌みきらうべき」が、まさに、「荒らす憎むべき者」と原語の意味合いでは同じ。

 

忌みきらうべき者と具体的に何かというと、バアル神。

 

偶像であるバアル。  バアルとかアシェラ像。あと、天の万象。

 

天の万象は、器崇拝の型。

 

バビロン(教会)は偶像崇拝を勧める。

 

もっとはっきり言うなら、器崇拝。

 

色んなキリスト教会の器を、神の位置、キリストの位置に置いてしまう事。

 

そして、そちらを優先して、聖書の教えをないがしろにしてしまう。

 

例えば、フランクリングラハム(ビリーグラハムの息子)が、イスラムの神は悪の神だから、そこを爆弾でやっつけるのが正しいだとか言っているが、そちらの方に引っ張られてしまい、殺人、戦争に賛成するなど、神の言葉、「殺すな」をないがしろにして、器の教えを取ってしまう。 これは偶像崇拝。

 

バビロンは、偶像崇拝、器崇拝、最終的には、反キリスト崇拝に行きそうだという事を聖書は語っている。   この事は覚えておく。

 

こういった事柄が語られている。

 

黙示録の174節で「憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。」

 

「不品行」という言葉は具体的に言うと性的な事柄、配偶者がいるのに、他の男と関係を持つ。

 

そういう事柄。

 

教会なので、本当の夫はキリスト。 だからキリスト以外の者と関わりを持つという事。

 

他の霊と関わりを持ってしまったり、他の教えと関わりを持つ事。

 

アメリカの中で用いられている事は、形とか、名目は「イエス」という名が使われているが、

 

どんどんこういった別の霊や、別の教えが入って来つつある。

 

この言葉は、アメリカで成就されつつあるので、どうすれば良いかと言うと、アメリカの教会こそ不品行のバビロンの教会だと思うので、出来る限りそういった影響から免れた方が良い。

 

何でもかんでも受け入れたり、リックウォレンが本を出したらすぐそれを教会で配るとか、ベニーヒンを喜んで招くとか、そういう集会へ行くとか、そういう事からは脱却して、バビロンからは縁を切って行くのが正しい。

 

レムナントも、十数年、そういったおかしなリバイバルへは行かないし、教理的にもアメリカ由来のものを受け入れないようにしている。

 

結果としてかなり健全となっている。

 

信仰的にも霊的にも、教理的にも。

 

これは神様の憐れみだと思う。

 

バビロンによる惑わしとか、いつわりは、聖書で預言されている事なので、我々はバビロンから縁を切って行くというのが正しいと思う。