ヨハネの黙示録18章23節~24節           2017.2.5

18:23ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。
18:24また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」

淫婦バビロンに関しての事柄。
これは何かというと、喩えを理解していく時、この女は、1つは、教会であると思う。
パウロは「結婚の奥義は偉大である」と言っている。
これは、キリストと教会を指す。
男はキリストの象徴であり、女は教会。
ただ、このバビロンは淫婦なので、神に憎まれている。
なので、言い方を変えれば、背教した教会、堕落した教会という意味合いがある。
バビロンに関しては、聖書を読んでいる限り、教会に関しての特徴は、色々書かれている。
例えば23節で「花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。」とある。
これは、バビロンは他でもない教会だと言っている。
結婚式は教会の中で行われる。
明らかにバビロンは、神の怒りを買っている。
背教とか、堕落とか、淫婦とかが書いてあるので、本来の教会の夫は、キリストだが、キリスト以外のモノと関係を持っている。そんな意味合いがあると思う。
今は、我々の理解では、黙示録は確かに7つの封印で封じられているのだが、それは、永遠に封じられているわけではなくて、「ダビデの末が、勝利を得られたのでそれを開くことが出来る」と書いてあるように、開くことが出来るというのも真実。
我々の理解では、この封印が開かれつつあると理解している。
自分たちが神様に開かれているか否やという範囲で、示されている事は語って行く。
当たっていようが、外れていようが。
示されて、神に開かれたと思う範囲で、啓示はかたっているし、これからも語って行く。
我々の終末理解では、獣の国は明らかにアメリカであると理解し、バビロンは、アメリカと関係している教会、キリスト教会であると理解している。
「アメリカは聖書に載っていない」という変な教理がある。
何か意図があるのか。
本当は解っている人達が結構いる。
隠そうとするが、態度が怪しいのでバレる。
バビロンは、アメリカのキリスト教会だという理解で話している。
「ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。」
真理がアメリカのキリスト教会からなくなるという事。
無くなりつつある。     ドナルドトランプは怪しい奴だと思う。
アメリカでは、クリスチャンの支持を得なければ、大統領になれない。
トランプは、オバマの同性愛の政策を支持しないという事で当選した。
しかしその前言を翻した。 理由は娘からどうこう言われた事。
同性愛に対しての真理の光が、どんどん消えて行く。
アメリカのキリスト教会では、真理を語る事が出来なくなって行く。
すなわち、ともしびの光が消えて行く。
全世界の教会が、そのトレンドに引っ張られて行く事が言えると思う。
それがまさに「ともしびの光」が消えて行くという事の語り掛け。
「花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。」

マタイ
25:1そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。

ここに出て来る花婿はまさに、黙示録に出て来る花婿と、同じ言葉。
花婿は、明らかに再臨のキリスト。
花嫁は、キリストに迎えられる教会だと言える。
教会と言っても色々あるが、「おとめ」はまだ花嫁ではない。
あくまで花嫁候補。  愚かなおとめは、結婚が成立しない。
ここでは、5人のおとめが失敗している。

25:11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

だから、花嫁になっていない。
聖書は、その箇所のみから解釈してはならない。
花婿、花嫁というキーワードが聖書の他のどの箇所で使われているか。
今は、コンピューターの時代で、検索が簡単に出来る時代。
聖書はまさに、検索して読むべき書だと思う。
ペテロの手紙にある、「その箇所からだけで解釈してはならない」
同じ言葉で、花婿は花婿で、検索せよという事。
今は、最も聖書に関する学びとかには、最適な時代。
日本ではあまり言われないが、聖書のあらゆる単語には、全て番号が着いている。
旧約聖書は、ヘブル語で書いてあり、その中の、7000か8000くらいの言葉も全て。
同じ言葉は、検索していると出て来る。
新約聖書はギリシャ語だが、5000くらいの言葉。全部番号がふってある。
だからどこに、花婿という言葉がどこで使われているかを調べる時に、知的な、自分の思いを抜きにして、まさに聖書を書かれた神が、どう言う意図で、書いたのがわかる。
同じ言葉が同じ番号をふっている事を、誰が検索しても同じところが出て来る。
自分の私的な考えを入れずに、客観的に出て来る。
初めは見えなくても、検索しているうちに見えて来る。
神がどういう意味で語っているかが解って来る。
そうすると、自然とメッセージが見えて来る。
黙示録に書かれた花婿というのは、単数。  つまり1人。
聖書に出て来るたった1人の花婿に、たくさんの花嫁がいるという意味合いではない。
聖書でいうたった1人の花婿とは、キリストの事を言っている。
黙示録の18章23節の「花婿の声」が聞かれなくなるというのは、結構大きな意味となる。
堕落したバビロンの教会の中で、花婿であるイエス・キリストの声も聞こえないという事。
黙示録には、「耳のある者は御霊が諸教会にいう事を聞きなさい」と書いてある。
これは、「もうこの教会ではキリストの声は聞かれない」という意味。
深刻な状況。
色々な人間の声、常識の声とか、同性愛など、「性的マイノリティーを受け入れろ」とか、「キリスト教のみが正しいというのは、他の宗教に対して云々、イスラム教の人が気を悪くするので、それを言わないようにしよう」とか、そういう声ばかり聞こえて、キリストの声が聞こえなくなっているという、深刻な状況を表している。
そしてもう1つの事が言える。
「花嫁の声も聞こえない」と書かれている。
おとめは、花嫁ではない。候補ではあるが。
バビロンの教会の中では、キリストの花嫁はいないという事。
愚かなおとめ達は、キリストの花嫁になる事に失敗している。
キリストに「知らない」と言われているから。
そういう声があっても、真に、キリストの花嫁になる教会は、ここには無いという事。
非常にシリアスな、深刻な状況を、黙示録は語っている。
花婿、キリストの声も聞こえない。
キリストの真の花嫁になる者の声も無いと語っている。
黙示録13章の23節で、「おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」  と書いてある。
「地上の力ある者」は、どういう意味かというと、
「力ある者」について見て行く。

マルコ
6:21ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、

ここに書いてある「重臣」という言葉。
重臣というのは、えらい役職についている。大臣とか。
黙示録で、「力ある者ども」という場合、「偉い」という意味。
言わんとしている事は、キリスト教会、特に地上だから、この世的な、キリスト教、教団の中の偉い人達。
この世的な教会のトップにいる人達。 これを通してわかる事は、これから、キリスト教会のトップ、リーダーが、どんどんこの世的になり、どんどんこの世的なトレンドを受け入れるようになる。
この御言葉を通して、そういう警告が来ていると思われるので、その時我々はどうすべきかというと、世についたトップは信用しないという事。
イエス・キリストが模範。
律法学者、パリサイ人、祭司長、大祭司などにやみくもに従うのではなく、おかしい時には、やはりぶつかっている。
我々もそこはやはり、似たような事をして行くしかない(イエス・キリストと)
どんなに教団のトップであろうと、ローマ法王であろうと、やはりこの世的な教えに関して、ぶつかって行き、正しく間違いを指摘して行くというのが正しいと思われる。
やみくもに、長いものに巻かれろ、とか、ぶつかったり、自分が非難されないために口をつぐんでしまうのは間違い。
ここに書かれているのは、我々に、語り掛けるメッセージは何かというと、この世についたキリスト教会のトップがどんどん、キリストに憎まれるような教会と、どんどん妥協していくという事。
だから、そういうトレンドを横目で見て、我々は正しい位置に留まるべき。
そういう事をまさにこの箇所が語っていると思われる。
それと、「魔術」
黙示録18章の23節の終わりに、「なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」
これは大事。
全ての国々の民が、魔術に騙されている。
聖書の中で、魔術というのは、神の働きと似た事をする。

出エジプト記
7:10モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。
7:11そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。
7:12彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

「それが蛇になった」
神は、不思議な業をなさった。
魔術者は、同じ事をした。杖を投げると蛇に変わった。
これを通して学ばなければならない事は、神のわざは、驚くべきものだが、魔術も負けていないという事。
神のわざが行なわれた時に、同じ事を魔術はする。
だから、神のわざと似たような事をするという事。
そして、区分がつかない。

7:20モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
7:21ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
7:22しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。

ここでも「水が血に変わる」という大変なわざを神はしたが、エジプトの呪法師たちも同じ事をした。

8:6アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。
8:7呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。

だからアロンのわざは、明らかな神のわざだが、呪法師(魔術師---黙示録でいう魔術師)も同じ事をした。
これを通して解る事は、確かに魔術は、神のわざと似た事をするというのが、聖書が語っている事。
魔術と聞くと、全くキリスト教とか、教会で行われている事と、全く違うものであると思いがちだが、神のわざを行なう人と、魔術師は、同じ超常現象を行なう、同じ事をする。
なので、見た目は区分がつかないというのが結論。
バビロン化した教会の特徴は、神のわざと似たような事が起きているが、由来は魔術、サタンの霊から来てるわざが、行なわれる。
それがまさに、バビロンの特徴。  それを理解しない限り、黙示録に書いてあるバビロンを理解できない。
常識ではなく、聖書に従って今の時代を見分けて行かなければならない。
今は、キリスト教会のど真ん中で、「デーモン」を連呼して悪霊を呼び寄せたり、「獣の印をつけろ」と按手して来る器が働いている時代。
しかしそれは、御言葉と合っている。
しかも黙示録には「お前の魔術に騙され」とも書いてあるから、アメリカのキリスト教会の1つの特徴は、魔術が大いに用いられている。
教理にも魔術的なモノがある。  「ヤベツの祈り」は魔術の祈り。
同じ言葉を毎週、毎月、毎年繰り返して、神に強制する祈りであって、聖書的にも魔術の祈り。
そして霊が違う。
そういう意味では、アメリカで起きている教理、また、アメリカのキリスト教会で語られている事、また霊に関しては、聖書的な視点で吟味しなければならない。
もう1つは、「そんなはずがない、自分は騙されない」とか、言ってはいけない。
何故なら、黙示録に書いてあるように、「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされて」
「全て」
黙示録はそういう日を預言している。
だから、キリスト教会に広がる魔術に、「すべての国々」と書いてあるから、イギリス、フランス、ドイツ、スウェーデン、中国、韓国、台湾、日本、どこの国のクリスチャンも、惑わされて行く人は、みな、キリスト教会に働く、魔術的な霊、リバイバル、教理に惑わされて行く事が預言されている。
神の許しのもとで起きている。
ふるわれたり、惑わされるべき人は、惑わされて行く。
「とりこにされるべき者はとりこにされて行く」
そういうシビアな、厳しい現実が、今キリスト教会に起きつつあるし、予てから聖書で預言されているという事を理解しなければならない。
どんなに我々の常識とかけ離れていても、神が語った事は成就する。
そのように取るのが正しい。
我々は、トロントビデオをもって、一生懸命警告した。
しかしペンテコステ系の人はみんな怒っていた。
「ベニーヒン様がそんな事するわけない」「お前のビデオはインチキだ」
しかし、彼らは聖書を知らない。
すべての国々のクリスチャンが、魔術に騙されるというのは、悲しいが、神の言葉で預言されている現実。
その様な事が起きるというのが聖書的。
何故そういう事が起きるかというと、結局は個々のクリスチャンの歩み。
テサロニケの手紙では、神は、惑わす霊を送り込む、それは、真理を愛する愛をうけいれなかった全ての者が惑わされるためだと書いてある。
我々は非常に厳しい時代に入っている。
もう1つは、アメリカ・バビロン由来の惑わしというのは、非常に巧妙なものであり、多くのクリスチャンを惑わす者であり、聖霊だか悪霊だかわからないような、微妙な働きだという事。結果として、全ての国々が魔術に騙されるという事が、現実に起きる。
そういう事がみな預言されているので、そのように見なければならない。
我々がもし、アメリカ由来のリバイバルとか、教理とかを、吟味し、見抜き、免れるなら例外的な事だったりする。
厳しい神の怒りの中で、惑わしが許される時代にね我々は入りつつある、現に入って来ているという事を理解しなければならない。

黙示録
18:24また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」

ここには「血」が書かれている。
「血」は、本当の血であると思う。
ここが暗示している事は、「殉教」
現にアメリカの強制収容所にはギロチンが沢山ある。 おびただしい数の棺桶もある。
意味無しに棺桶は積まれない。
全てのクリスチャンが殉教するとは思っていない。
本当に主について行く人とか、主にいのちを捧げるという思いで、表明した人は殉教する可能性がある。
こちらの理解に間違えが無ければ、殉教というのは、本人の意志と関係がある。
12使徒はことごとく殉教しているが、彼らは自分で表明している。
殉教に関しては、自分の意思に反してという事は無いと思われる。
ただ、我々が自分でそういう気持ちになり、主に、自分のいのちを捧げるのは尊い事であり、
主に喜ばれる事。
しかし、何が何でも殉教しなければならないという事ではない。
18章の24節で、預言者、聖徒たちの血とか、地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中で見出されるという事は、明らかにこのバビロン、アメリカのキリスト教会の中で、殉教が起きるという事。  アメリカ=獣の国の中で殉教が起きるというよりは、アメリカのキリスト教会の中で、正しいクリスチャンが訴えられたり、死刑に処せられたり、結果としていのちを失うという事が起きる。
それは、他の聖書箇所でも言われている。
「私の名のゆえに、全ての人から憎まれる」とか、「兄弟が兄弟を訴えて死に至らしめる」とか、残念だが、キリスト教会の中で、お互いを訴えたり、醜態をさらす時がこれから来る。
それは、まずアメリカに来るだろうと思う。
アメリカのキリスト教会はそういう方向に向かっている。
日本でも起きるかも知れないが、まずアメリカから起きると思う。
バビロンで正しいクリスチャンの血が流される。
だから、アメリカはこれから、正しいクリスチャンが殉教する時が迫って来るかと思う。
アメリカは訴訟大国。しかしこれはの事の道備え。
本来は、教会では、兄弟姉妹が愛し合うべきなのに、教会の中で訴えたりとか、法律沙汰とか、
裁判沙汰とか、「あいつらカルトだから捕まえてくれ」とか、その様な事が起きて来る。
聖書に書いてある事というのはみな実現する。
「兄弟は兄弟を・・」は、喩え。
教会における兄弟姉妹が、教会における兄弟姉妹を訴える。
世の中でも迫害が起きるかも知れないが、問題はバビロン。

18:24また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」

都とはバビロンであり、それはアメリカのキリスト教会。
教会の中で、クリスチャンが迫害されたり、訴えられたり、死刑に追いやったりする時代が来る。  それはアメリカに留まらないかもしれない。
全世界でこういうトレンドが広がってくるかもしれないが、まずアメリカで起きる。
今、アメリカで起きている事は、この日を目指している。
アメリカはクリスチャンであろうがなかろうが、訴訟沙汰が多い。
弁護士も多い。
今は、おかしな教理が多い。  同性愛など、平気で受け入れられている。
そういう人達が、正しい人たちを訴えたりしている。
そういうメッセージを聞いて、我々が理解しなければならない事は、残念ながらもう、クリスチャンと言うだけでは、信用できない時代に入って行く。
別の霊に導かれたり、この世的な常識に従って、他のクリスチャンを訴える事が起きて来るので、単にクリスチャンと言うだけでは、信用できない。
喩え、同じ教会とかでも、やはり聖霊にあって吟味する。
残念ながら、「選ばれる者は少ない。」
主イエス・キリストがおられた時に、ペテロやヨハネ達も経験した事だと思う。
彼らは同族から訴えられたりなど、大いにありそう。異端視されたり。
でも彼らは従って行った。
我々は、これから教会の中にいるクリスチャンからでさえも、理解されないという事が有り得る。  それであっても、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
我々は、そういう事を想定内として歩んで行って、攻撃などが多少来たからと言ってがっかりしないで歩む。
その為に聖書は書かれている。
こう言う事を前もって聞いてないで、そういう事態に遭遇したら、やはり躓いてしまう。
前もってこのように書かれているのは、そういう日が来た時に、想定内に来た時に、やはり神は正しい未来を、未来だけでなく過去も現在も神のみ知っているというのがわかる。
我々は、苦難は苦難だが、やはり神の手の中にある事だから、神への信頼というのは、覆されない。
聖書はそのために書かれている書。
これからは、やはり残念ながら、あらゆる聖書の御言葉が、終末に集中している。
ある意味聖書は、終末を目指した本。
それは逆に、それだけ躓く人が多いという事。
あらゆる警告がこの時代に来ているという事は、それだけひっくり返る人が多いという事。
なので、主を頼みとし、聖霊の声に聞いて、主の歩みを求めて行きたい。