ヨハネの黙示録19章10節~11節           2017.3.12

黙示録
19:10そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

ここで、ヨハネは明らかな間違いをおかした。
御使いを拝もうとして、足元ひれ伏した。
それに対して御使いは、「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。」と言った。
これは、教訓がある。この事に限らないが、黙示録に書いてある事は、愚かな事や、言うまでもない失敗も、我々に対して語り掛けて来る事がある。
「御使いを拝む」行為は、この箇所だけではない。2度もやっている。

22:8これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。
22:9すると、彼は私に言った。「やめなさい。私は、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書のことばを堅く守る人々と同じしもべです。神を拝みなさい。」

黙示録に2回書いてあるのが事実。
やはりこれは意味がある。
「ヨハネの黙示録」を書いたのは、ヨハネ本人。
黙示録の中に書いてある、いろんな警告や、教えと関連する事と理解出来る。
何故なら、黙示録の中で「神の怒り」が書いてあるが、その大きなポイントは、いくつかあるが、その1つの大きな原因は、神を拝まないで、人、御使いを拝んでしまうという問題が起きていると思われる。
そうはっきりと書いてはいない。
新約聖書の時代の偶像崇拝というのは、明らかに「器崇拝=人を拝む」事であると理解出来る。
旧約聖書の十戒を思い出すべし。
「私の他に、何者をも神としてはならない」と書いてある。
どんな形の像であっても。
今の新約の時代に我々は、教会に行きながら、尚且つ仏像を作り、拝んでいる人は殆どいない。
カトリックではあるらしいが・・・。
像を自分で刻まなくても、それは型。
どのような像を造ってはいけない。
新約のクリスチャンが1番陥りやすい偶像崇拝は、やはり「器崇拝。人間崇拝」
だから、「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。」
だから、自分の兄弟である神のしもべを拝んでしまうという誤り。
明らかに器崇拝に関して語っている。
それに対して、神の怒りは下って来る。
10節では、「そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。」
と書いてある。
「ひれ伏す」というのは、偶像崇拝、器崇拝と関係している。

マタイ
2:11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」
ここで、「幼子を見、ひれ伏して拝んだ。」これは正しい。キリストは神の子だから。そして神ご自身だから。
偶像崇拝と、拝むという事は関係している。

4:9言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
これはサタンが言っている。「ひれ伏して拝む」ひれ伏してから「拝む」
「倒れる」とか「ひれ伏す」というのは、礼拝するという事に関係する。
ひれ伏すのが、神の御前なら問題は無いが、サタンの前にひれ伏すのは問題。
これに関して興味深い事が、ペンテコステ系をはじめとした集会の現象にある。
ペンテコステ系の集会に出たことの無い人は知らないが、その集会によくある現象というのが、
集会の器が、ベニーヒンとかが手を当てると、みんな倒れてしまう。
ここでまさに「倒れる」という言葉が使われる。
「ひれ伏す」という言葉と「倒れる」という言葉は同じ。
集会においてなぜ倒れるか。 当初は解らなかったが、聖書を通して解るようになって来た。
要は「器崇拝」
だから、「倒れる」という現象は「器崇拝」
アナコンディアなど、いろいろな器がいるが、皆、「倒す」という事をする。
それは他でもない器崇拝に通じるという事柄。だから気を付けなければならない。

7:25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

ここでの「倒れる」というのも、「ひれ伏す」という言葉と同じ。
「倒れませんでした」=「ひれ伏しませんでした」と言う事も出来る。
「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いて」・・・霊的な事柄の喩え。
リバイバル集会などで、クリスチャン達が「すごい器だ」とか、「すごい霊の働きだ」と言いながらパタンと倒れて行くので、それが結局「器崇拝」になってしまうという事。
この箇所の後半で、「倒れませんでした」と書いてある。
つまり、「ひれ伏しませんてした」という事。
被造物である、自分と同じ兄弟に「ひれ伏さなかった」
その理由は、「岩の上に建てられていたから」
「岩」は、英語で見ると、単数形、つまり、たった「1つの石」。
岩はキリストの事。
だから、キリストの上に根差し、キリストの上に歩み、また、キリストの霊すなわち聖霊によって歩んでいく時に、そういったおかしなリバイバル現象に、万一遭遇したとしても、「器を拝んでしまわない」というように理解出来る。
そもそもその類の集会に行かない方が良いと思う。
変なリバイバル集会に行って、「倒れない」ため。
ポイントはやはり、キリストに根差しているという事。
聖霊にあるという時に、そういった器崇拝に入って行ったり、拝んでしまうという事が無いという事。
単数形で書かれているこの「岩」は、他でもない、隅のかしら石であられるイエス・キリストの事。
黙示録に出て来る、神の怒りのポイントはいくつかある。
御言葉を曲げてしまうとか、悪霊のリバイバルに入って行くとか、もう1つ大きなポイントは、
神以外の器を強く崇拝してしまうという事。それは大きな間違いに入って行く。
たとえ、神の名前を語っていたとしても、人を選ぶのか、神の器を選ぶのかという微妙な差に見えるが、どちらも同じように見える。
「神の器」が、「神はこうです」と言っているのだから、尊敬するのは当たり前のように思えるが、シビアな事に、器の事を見て行く時に、神の言葉が消えてしまったり、神の霊の声かけが消えてしまうことがある。
解りやすく言えば、例えばローマ法王はカトリックの中で大きな器。
しかし、ローマ法王の言葉を見てしまうなら、「マリアはキリストと共同の贖い主だ」とか、
そんな事を言っているので、贖いがぼやけて行ってしまう。また、「地獄は無い」とか言うので、神の言葉は消し飛んで行ってしまう。  どっちかを取るしかない。
それでイコールなら良いが、事実は違う。  どちらかを選択しなければならない。
カトリックだけの問題ではない。
結局我々が、神の言葉よりも、器の言う事「地獄は無い」「クリスチャンは決して裁かれない」とか、結局それで災いに入ってしまったり、神の怒りを買ってしまうので、微妙な差で「器」を拝んでしまう。
カトリックの人がよく言う事が、「マリア崇拝ではなく崇敬だ」しかし、これは言葉のあやに過ぎない。結局はマリアを拝んでいる。
神はそういった、人の心の奥を探るので、結局、神の裁きは正しい。
警告されている事に関しては、目を止めるべき。

黙示録
19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

これは他でもない、キリスト。
1つは、白い馬が出て来る。

6:2私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。

ここは、1つの流れ。 馬は、白い馬だけではなく、その後に、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬とかが出て来る。
「白い馬」の意味合いは、勝利の上に勝利、これは福音とか、神の義の勝利、キリストの勝利なので、そういう意味で言うなら、4つの馬というのは、終末すなわち黙示録の時代に関して、あらゆる災いや裁きが書かれているが、その手始めに、神の働きがまず大きく広まって行くという、1時あるという事は、覚えておく。  災いだけが来るわけではない。
これは旧約聖書のヨセフに関してもそう。
ヨセフの夢は、終末の預言だと思うが、7年間のききんが来る。
しかし、その前に7年の大豊作があった。
だから、リバイバルや、神の働きが広まる時は、災いの前にある。
初めは良くても、段々と悪くなる。ヨセフの夢にも、初めの7年の大豊作があるが、その後に7年のききんが(迫害、艱難時代)来るわけだが、そういう意味では、終末に関しては、1つ我々が知らなければならないのは、神の働きが、これからあるという事。
他の聖書箇所も言っている様に、前の雨(ペンテコステ)と後の雨が来るというのは事実。
その働き人が今、集められている。
我々は備えをしなければならない。
これから、白い馬の時代がやって来るので、これは未曽有の大チャンスなので、我々は、その為の備えをして、訓練をして行かないと、それに用いられない。
今、前もってメッセージの訓練をして行かなければならない。
だから、今はやっている。
そういう意味で、神の働きは来る。  白い馬が来る。
しかし、我々は一面希望を見て行かなければならないが、冷静に、神の言われた順も見て行かなければならない。

6:4すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。

これは教会に来る災い。   「火」は霊的な事をさすので、リバイバルなどの霊的な現象。
多くの惑わされたクリスチャンは、「これは神の素晴らしいリバイバルだ」と言う。
しかし、神からの霊ではないので、これは、災いとか争いを指す。
主は、「わたしは、地に火を投ずるために来た。この火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていたら」と言われた。
また、「平和をもたらすためではなく、剣を投ずるために来た」
「この後、2人は3人に、3人は2人に分かれて争う」とも言われた。
何故、主の言われた、「火」、これは聖霊の火だが、聖霊の火が下ってどうして争いが起きるかというと、神の霊とともに、別の霊も働くから。
これは熾烈な戦いとなって行く。
そして、主イエス・キリストと、対して、律法学者、パリサイ人とか、何故敵対するかというと、これは霊的な戦いだから。
「火」の問題。
イエス・キリストが聖霊にあって語って、しかし別の霊に導かれている人達は、全然受け入れない。
理屈はともかく、その裏には、霊的な事柄がある。
後の雨が来るのは事実だが、その後また、霊的な戦いがあって、惑わしの霊に入っている人達は、怒り、また正しい人を訴えるようになる。
「地上から平和を奪い取り、互いに殺し合うようになるため」
「地上から平和を奪い取り」 これは何を言っているのかというと、これからキリスト教会は、リバイバルの後、お互いを訴えるような時代になって行く。
主イエス・キリストの時もそうだった。
ピラトに訴えて、「死刑にしてくれ」と群衆は叫んだ。
これが、これから再現する。
理屈は良く、いかにも聖書から語っている様でも、裏に霊が働いている。
この事を覚えておかなければならないし、まさに聖書が語っている事。
「赤い馬」は、霊的な事柄に関する事。

6:5小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい。」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
黒は、罪や死。

6:6すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」

1デナリは結構な金額。 1~2万円くらい?
小麦は3袋くらいしか買えない。   麦が高くなる。
麦はパンに通じ、御言葉に関する。だから、「御言葉のききん」が来ることが考えられるし、オリーブ油やぶどう酒は聖霊の働きに関する。
御言葉のききんが来、また、聖霊の働きもどんどん消えて行く時代が来る。

6:7小羊が第四の封印を解いたとき、私は、第四の生き物の声が、「来なさい」と言うのを聞いた。
6:8私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。
結局その教会は災いに入って行く。
「剣」は御言葉の剣であり、教理。
地上の獣は、アメリカとか、獣の国の色んな法律とか、色々な災いが起きて来る。
残念ながら黙示録が語っている事は、神の業が起きるけれども、艱難やききんも来る。
そういった事柄は見ておく。

19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

白い馬の「白い」という事に関して見て行きたい。
「白」は、正しい義を表す。
黙示録の3章4節で、「勝利を得る者は、白い衣を着せられる」
我々クリスチャンは、「白い衣」を着る事は、必須事項。

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。
3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

怖い箇所。白い衣を得るのは必須条件。
そうでないと、「いのちの書から消す」と言われている。
その様に読める。
だから、ここに書いてあるように、勝利を得る者は、白い衣を着せられる。
そして、「勝利」とは何か。
ギリシャ語で、「勝利」という言葉が使われている所を見て行きたい。

第一ヨハネ
2:13父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

「打ち勝つが」、勝利という言葉。 また、「悪い者」とはサタンの事。
我々がクリスチャン生活で、勝利を得る時に、「サタンに打ち勝つ」という事が、まさに勝利。これは覚えておく。
サタンは、いろいろな惑わしを語って来る。
例えば「キリストは復活してない」とか、語って来る。
我々が正しく神の言葉を語って行こうとしても、サタンが色々ちょっかいを出して来る。
御霊の実には、「愛」「平和」とかあるが、何かあった時、つい悪い言葉が出そうになったりする。  悪い者は来る。
怒りを起こさせたり、悪い言葉を出させたり、不満を言い出させたりする。
それに「打ち勝つ」という事。
悪い者というのはしつこい。
イエス様の生涯を見る。
我々が霊の目が開ければ、あらゆる悪い者がキリストにさえ罪を犯させようとして、工作して来る。イスカリオテのユダを入れたり。
イエス様を逮捕した後、いろいろ裁判にかけたり、あげつらげて、「3日で神殿を建てると言っていた」とか。 しかしイエス様は、一言もお答えにならなかったというように、悪い者のいろんな誘惑に勝っている。
そして、十字架にかかられ、贖いをするという時にも、悪い者はしつこく言って来た。
「お前が神の子なら、十字架から降りてみろ」とか。
そういう意味で、悪い者はしつこい。
しかしそれに勝つことが、勝利を得る事であり、白い衣を着せられる事。
主の導きで1つの模範だが、悪い者に勝つことが、我々の勝利。

5:4なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。

「勝つ者」は、白い衣を与えられると書いてある。 白い衣が無ければ、我々はいのちの書から、名を消されそうなので、勝利は必須だが、何に対しての勝利か。
1つは、悪い者に対する勝利。 もう1つは、世に勝つという事。
今もそうだが、これから、どんどんこの世がクリスチャンに対して、色々なちょっかいをかけて来たり、この世の論理で攻撃して来る時代になって来る時代になって行く。
アメリカのクリスチャンがまさにそう。
この世が次々に同性愛を受け入れているので、それを教会に求めて来る。
クリスチャンの市の職員が、聖書的な信仰に元づいて、「同性婚の許可証は出せない」と言って、何万ドルという罰金?で訴えられてしまった。
この世の価値観が次々とクリスチャンに押し寄せて来る。
それに打ち勝って行くか、という事。
そんな中でも御言葉に留まって行くかという意味。 世に勝つ者。
または、この世のトレンドとか、罪、誘惑などに負けて行ってはいけない。
それでは、世に勝っていない。

黙示録
19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

「忠実また真実。」という言葉を見たい。
「忠実」という言葉を見て行く時に使われている、原語の言葉は、「信仰」という言葉と同じ言葉が使われている。
なので信仰という事に関して、教えられる。
神の前に信仰を持つ人は、何処までも忠実に行なって行く人。
「信仰」とは「忠実」!
3日坊主では、信仰とは言えない。何年でもずっと忠実に歩んでいく事こそ「信仰」
「信仰」の1つの大きなポイントというのは、我々が、ちょっとした事で、2、3回くらいでやめてしまわないで、ずっと困難な中であっても、また揺るがしの中にあっても、ずっと留まって、「忠実」に行なって行くのが「信仰」

マタイ
24:45主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。
24:46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。
24:47まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

ここでいう「忠実」とは、ちゃんと食事の用意を出し続けて行くという事。
具体的に言うなら、パン。御言葉に関しての事。
その時に、今のキリスト教会のトレンドは、御言葉よりも優先して「艱難前携挙説」の立場に立とうとか。 それは忠実ではない。御言葉に関して不忠実。
自分の都合で、御言葉、教理を変えてしまうから。
そういう意味で、忠実なポイントは、神の言われた事を勝手に変えず、自分の思惑や都合で変えたりしないで、然りは然り、否は否と言って行くことが、忠実。
レムナントでは、艱難前は間違いだと言っているし、獣の国はアメリカだとも言っているし、実際そうなって来ている。
誰かが警告しなければならない。
黙示録は明らかに、教会やクリスチャンに対する裁きを語っているという事を言って行く。
2つ良いことは無い。
神に喜ばれ、尚且つ人からも拍手喝采で、どこの教会に行っても大満員だったりすることは無い。
しかし、そこに忠実が問われる。
人気が無かったり、石が飛んで来そうでも、言うか、言わないか。
明らかに黙示録は、教会やクリスチャンに対する裁きを語っている。
語らなければ滅びる。
やはり語って行く。  そういうのが「忠実なしもべ」。
ちゃんと食物を与える。
1人でも、2人でも、ちゃんとしたパンを与えたいと思っている。
耳触りは好くないが。
ただ、それが「信仰」だという事。
これは、人受けは良くないが、主に喜ばれる。

24:46主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

だから御言葉に忠実に、聖書の語っている通りに、「クリスチャンは艱難を通る」と言っている。  「アメリカは明らかに獣の国だ」と忠実に語ったという事で。主人からの誉れを受ける。

24:47まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。

そういう可能性がレムナントには、大いに残っている。
ここに真理があるなら、これらの事は成就して来る。
ただ、繰り返すが、2つ良いことは無い。
神からも人からも称賛されるという事は無い。
そして、忠実で真実という言葉もあるが、聖書の中で「真実」と書いてあるところは「真理」だと思っていただきたい。
「真理」は何かというと、嘘ではない、偽りではないという事。これは覚えておく。
逆にこういう言葉が、黙示録の中でたびたび真理という言葉が強調されるという事は、「嘘が多い」という事が逆に、暗示している。
そして、終末の時代のキリスト教会の大きな問題点は、聖書が語られなくなるというわけではない。   教理やメッセージが、偽りだったりする。
黙示録は、クリスチャンや教会に下る裁きが、明らかに、明確に書かれていると思うが、その様な事は、一般の教会では言わない。
何処の教会でも聞かない。
ペテロの手紙でも、「裁きは神の家から始まる」と書いてある。
テサロニケの手紙でも、「背教が起きる」と書いてあるから、普通の事だと思うが、結局、耳触りの好い方向に教理が行ってしまい、人受けのよい偽りの教えが強く出回っている。
その事を見越して「真理」と言っている。
今の時代のクリスチャンの大事なポイントというのは、初代教会のものとは違う。
初代教会の頃はキリストの真理が当然のように語られていたが、もうそれから2000年ほどを経て、今は、良くも悪くも末期。
他の聖書箇所では、「俗悪な年寄女」と、教会を指して言っている。
あらゆる教理が曲がってしまっている。
その時に大事な事は、我々は真理を語る、という事。
レムナントが言っている事は、あらゆる意味で、あらゆるポイントにおいて、他の教会で言っている事とは違う。
「終末には、教会に対する裁きがある」←そんな事は他の教会では言っていないし、他の教会では「獣の国はヨーロッパ」だといっているが、違う。レムナントでは「アメリカ」だと言っている。
真理はこちらにあると思っている。
曲がっているのはキリスト教会全体だと理解している。
今は「真理」「本物」だという言葉が強調されている時代。
あらゆるインチキ、偽り、間違っている教理が、あちらもこちらもねじ曲がっている時代。
バプテスマのヨハネの働きというのは、終末の時に再現して来る。
何故なら、主が言われたように、「彼こそ来るべきエリヤだ」と言われたように、終末の時にもエリヤの働きは再現する。
バプテスマのヨハネに関してはこう言われている。
「主の道を備えよ。その道を真っ直ぐにせよ。」
なぜ「まっすぐにせよ」と言われているか。それは、曲がっているから。
「谷はうずめられ、」とある。谷はへこんだ地。だから「うずめられ」と言っている。
「山も低くされ」・・山が高すぎるから。
あらゆるキリスト教会の道が曲がっている。
また、高くなり過ぎてしまったりしている。
また、へこみ過ぎてしまってもいる。
それを正すのがバプテスマのヨハネ。
初降臨の時、彼は来た。
なぜヨハネが来たのかというと、曲がっている現実があるから。
これはまた、再臨の前に来る、エリヤ、モーセの働きの予表でもある。
だから、バプテスマのヨハネの働きも終末の時にも来る。
何故かというと、曲がっているから。
だから我々が、曲がっている所を正したり、正しい事を語るというのは、全く正しい。
しかし、人ウケはしない。 教会からも受けないが、でも、そんなもの。
「真理」という言葉に関しては、教会や、語られている事が曲がっている事を前提として語られている。 こういう事は見ておく。