ヨハネの黙示録19章11節~13節                2017.3.19

 

 

 

黙示録

 

19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

 

 

 

「忠実」という言葉は、ギリシャ語原本では「信仰」と同じ言葉が使われている。

 

忠実に行なっていく事こそ、他でもない信仰。

 

忠実にやっていく人こそ信仰があるといえる。

 

「「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。」

 

「さばき」というのは、裁判を実行されるという事であり、この方(イエス・キリスト)は裁判官の様に、全ての人を裁く方として来られるという事を覚えておく。

 

義をもってさばきをする。 「さばき」という言葉は、裁判所の「裁」

 

我々が知らなければならない事は、イエス・キリストは確かに「愛」であり、また、ご自分の

 

いのちを捧げるほどに、我々を愛して下さった。これは事実。

 

しかしそれは一面。

 

キリストには、いろんな名がある。

 

1つは、裁き主として来られるという事は、理解しなければならない。

 

主ご自身が、ご自分が裁き主になるという事を話されている。

 

裁判官というのは、極端な話、自分の息子が悪い事をして連れて来られ、裁判になっても、人を殺しても無罪にするわけには行かない。

 

正しく裁かれるお方。  クリスチャンも、キリストに裁かれる。

 

正しく行なっていれば良いが、不忠実だと、情状酌量の可能性が無い可能性がある。

 

 

 

ヨハネ福音書

 

5:27また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

 

 

 

ここで明確に書いてあるように、「父はさばきを行なう権を子に与えられました。」

 

これは、イエス・キリストが初降臨に来られた時には、あまり実現していない。

 

裁きはこれから行われる。

 

はっきりしている事は、全ての人がイエス・キリストによって裁かれるという事。

 

「さばきを行なう権を子に与えられました。」

 

父なる神が裁くというよりも、キリストが裁判官として判断される。

 

それを聖書は語っている。

 

その理由として、「子は人の子だからです。」と27節に書いてある。

 

聖書は1回読むだけでは分からないが、繰り返し、繰り返し通読して来ると、「さばき」という事に関連して似たパターンで書かれているのが解って来る。

 

それは、経験した人が「さばく」ということ。

 

人間生活を経験した方、神であるキリストが、人を裁く。

 

と、言うのは、同じ経験をしているから、言いわけがきかない。

 

イエス・キリストも、大工という人間の仕事をしながら、神の働きに入っている。

 

だから、同じ経験をした人は、「さばく」。 どうも聖書はそういうパターンを持っている。

 

全然やった事の無い人は、裁く権利が無い。

 

同じような言葉がね「さばき」という事に関して書かれている。

 

二ネべの人々が、この時代の人々と共に、裁きの座に立って、この時代の人を裁くという。

 

何故なら二ネべの人達は同じ経験をした。 ヨナが3日3晩、大魚の腹の中に閉じ込められていた。しかし解放された。

 

このヨナを見て、二ネべの人達は「神のとんでもない業」だと思い、ヨナの言葉を信じ、悔い改めた。

 

しかし、同じ事を、キリストが3日目に甦ったが、信じようとしない。似た経験をしながら、

 

尚且つ信じようとしないので、二ネべの人達が裁く。

 

似た経験をした人たちが裁くという、聖書の原則がある。

 

「シバの女王が、この時代の人と共に裁きの座に立って、この時代の人々をさばく。何故なら彼女は、知恵を聞こうとしてシバの国からやってきて、知恵を聞いた。しかし、ここにソロモンに勝る知恵が出ているのに、聞こうとしない。」

 

また、12弟子に関しても言っている。

 

「あなた方も、わたしと一緒に裁きの座について、12の部族を裁く」

 

12弟子は、イエス・キリストが初降臨した時に、男だけで40005000人のパンを食べた群。最後には裏切って、「こいつは十字架につけろと」といった群衆と、同じ経験をしている。

 

3年半キリストの福音を聞いて。

 

ある人達は、最後に「こいつはインチキだ」と言って、福音も、神の言葉も、キリストも退け、

 

殺害に至らしめた。

 

しかし、同じ経験をしながら、ペテロ、ヨハネなど12弟子たちは、キリストに従い続けた。

 

同じ経験をした人が裁く。そういうポイントがある。

 

だから、キリストは、人の子として、裁くようになる。

 

同じ言葉を聞いても、ある人は受け入れ、ある人は受け入れない。

 

それは、今の時代にも言える。

 

レムナントから「角笛ニュースレター」を色々な教会に送って、ある人は真剣にとらえ、ある人は、「こんな物送って来るな。迷惑だ」と言って来る。

 

しかし真理であるなら、同じ人が、裁くようになる。

 

これが聖書における裁きのパターンの1つ。

 

ここに書いてあるように、主は、何故「人の子」と言っているか。

 

それは人間経験を経験していないと裁きようが無いという事。

 

しかしキリストは、我々と同じように朝食を取り、大工仕事などをしておられた。

 

聖書も忠実にと読んでいる。

 

律法学者もみなビックリするくらい。しかも子供の頃。

 

だから、「今週も忙しく、1章しか読んでいない」とか、弁解にならない。

 

イエス・キリストは子供の時から、律法学者を言い負かしていた。

 

言いわけ無用。  弁解の余地が無い。

 

 

 

5:28このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。

 

 

 

全ての人は、死んでそれで終わりではない。

 

生前の行ないは、良くも悪くも報いを受ける。

 

だから一生懸命やっている。

 

善を行なって、良い報いを受けたい。

 

参加したらよい報いを受ける。

 

 

 

5:29善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 

 

 

善を行なった人に対する大いなる報いは「永遠のいのち」

 

しかし、悪を行なった者は甦って裁きを受ける。

 

色々妨害をしたり、悪を行なう人は危ない。

 

今の人生でやった事というのは、永遠の報いを受けるので、悪を行なうよりも善を行なった方が良い。

 

善を1つ行なうよりは、2つ行なった方が良い。

 

そういう日が来ると聖書に書いてある。

 

ここに書いてあるように、主は、裁き主として来られる。

 

これははっきり書いてある。

 

同じ経験をした者に裁く権利がある。

 

裏切って裁かれるというのではなく、裁く方が良いと思われる。

 

黙示録の1911節で、「義をもってさばきをし、戦いをされる。」とある。

 

「戦いをされる」という事を見て行きたい。

 

黙示録の時代、世の終わりの時代というのは、「戦い」の時代であるという事は覚えておく。

 

銃を持って戦うのではない。  剣の戦い。黙示録の中で、はっきりと主が、黙示録の時代には、

 

戦いをされると書いてある。

 

 

 

5:30わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。

 

 

 

黙示録

 

19:14天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

 

 

 

天使の戦いではなく、我々が天的なクリスチャンの歩みをしているなら、我々の事を言っている。   我々はこれを目指している。

 

天的な歩みをしているクリスチャンは、キリストの御言葉に従って行く。

 

だから、そういう意味で、終末の日の別の特徴を言うなら、それは「戦い」の日だという事。

 

我々は、どこかで、気持ちを定めて覚悟をしなければならない。

 

御言葉に関しての戦いに入って行く。

 

曖昧で、また、変なキリスト教団の常識で、「愛だ、愛だ」と言って、プロテスタントもカトリックもOKだと言っているのは良くない。

 

牧師は、キリスト教のニュースをチェックしているが、日本語で「クリスチャントゥデイ」というものがあるので、良かったら目を通していただきたい。

 

最近見てびっくりしたのは、鎌倉八幡宮に、各宗教の人が集まって何かをしていた。

 

八幡宮は神道系。そこでは仏教の人も来て、神社の人も来て、カトリックの神父も来て、写真も写っていた。みんなビックリしていたよう。

 

それは、愛でも何でもなく「背教」

 

そういうモノに戦って行く。

 

今のトレンドはやはり、異を唱えたら我々の方が文句を言われる。

 

日本でも「同性愛」に反対していたら、今の調子では、特に若い人たちには非難される。

 

しかし、戦いはそういうもの。

 

やはり、心を定めて、霊的な戦いに行くという事だから、然りは然りで進む。

 

「艱難前」は異端の教えだという事をはっきりと言って行くわけだから、そういう意味で主は戦いをされるというので、御言葉すなわち神の言葉に逆らった働きに関して、これから主の働きの一環として「戦い」が起きて来る。

 

これは1つの明確なメッセージなので、我々が本当につき従って行く気があるなら、我々自身もどこかで心を定めて、戦いに行く。然りは然り、否は否、間違った事は指摘して行くという

 

つもりが無いと、少し反対されるとヘナヘナになったり、「もうやめておこうか」とか弱きに

 

なったりしてしまう。

 

 

 

19:12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

 

 

 

「その目は燃える炎であり」と書いてある。

 

キリストに関するあらゆる描写は、喩えが使われていたり、隠れた意味合いがある。

 

「燃える炎」について見て行きたい。

 

「燃える炎」という言葉が使われている箇所。

 

 

 

マタイ

 

3:10斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

 

 

厳しい御言葉だが、聖書に書かれているので尊重する。

 

ここも喩えで書かれている。

 

良い実を結ぶかどうか。

 

イエス様は「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」

 

ぶどうも、甘い実をならせてこそ意味がある。

 

酸っぱいぶどうはダメ。

 

我々は御霊の実を結ぶべき。

 

そうでない時には、やはり災いが来る。

 

「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」

 

「火に投げ込まれます。」の「火」こそ、黙示録19章で書いてある「燃える炎」という言葉と同じ。

 

キリストが、燃える炎の目を持つという事は、さばきもキリストから来るという事を言っている。

 

だから、裁き主として来るのであり、裁かれた人が、火に投げ込まれる意味合いの裁きに入って行くという事。

 

我々は、初降臨の時のキリストと、再臨の時のキリストと言うのは、完全に分けて考えなければならない。

 

同じように見ていくなら、勘違いになってしまう。

 

キリストの再臨の明らかな事は、背教のクリスチャンに対する裁き、災いの日だという事。

 

勘違いしてしまっている人達がいる。

 

初降臨の時は、裁きに来ているのではなかった。

 

しかし、再臨の時は裁きのために来る。

 

情状酌量の余地は無いような感じなので、歩みを正していくのが正しい。

 

良い実を結ばないなら、それこそ「火に投げ込まれる」厳しいさばきに入って行く可能性がある。

 

 

 

5:22しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

 

 

教会において、兄弟に向かって、怒鳴り散らすのは危険がある。

 

まして「バカ」というのはダメ。禁句にすべき言葉。

 

「燃えるゲヘナ」の「燃える」も、黙示録19章の「燃える炎」と同じ言葉。

 

キリストの裁きの日には、我々の歩みが正しくないなら、「燃えるゲヘナ」に投げ込まれる可能性があると、まさに語っている。

 

情状酌量の余地が無かったり、なあなあが通用しない。

 

やはり我々は恐れをもって、御言葉を行なって行きたい。 御言葉は行なってこそ意味がある。

 

「兄弟に向かって腹を立てる」のは、理由があったとしても非常に危険な事。

 

やはりこの事は恐れなければならない。

 

「兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。」

 

この事も気を付けたい。

 

この様に神が書かれた事を恐れるのが正しい。

 

気を付けて行きたい。

 

そういう意味合いで書かれている。

 

 

 

黙示録

 

19:12その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

 

 

 

キリスト以外、誰も知らない名が書かれていた。

 

だから、この事の意味合いは、今のところ想像の域だが、言わんとしている事は、我々の知らない面が、キリストの名前、性格、行ないの中にあるという事。

 

特に、再臨のキリストに関しては、我々の常識を超えるものがあると思う。

 

福音書の中に書かれているイエス・キリストという方は、確かにそう。

 

これは「知られている名」  キリストは愛であり、また、姦淫の女に愛をもって接したとか。

 

ペテロが溺れそうになった時に助けたとか。こういったところが福音書で、よく知られている名であり、また、事柄。

 

これはみんなキリストの一面であり、事実。

 

確かにキリストはそういう方。

 

また反面、「誰も知らない名」があるという事。

 

想像だが、それは、「裁きの面」ではないかと思う。

 

明らかに、キリストの再臨は裁き主として来られるので、知っておいた方が良い。

 

知られていない名があるという事を通して、我々クリスチャンの意表を突く様な、再臨のキリストにある面がある。 だから、多くのクリスチャンは、キリストの再臨という事に関して勘違いしている。

 

それは正しく知っておいた方が良い。

 

 

 

19:13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

 

 

 

「血に染まった衣」というのは、旧約聖書の中に出て来る。

 

黙示録は、あらゆる旧約聖書から、5百か所も6百ヶ所も引用されていると聞く。

 

だから、本当の意味で、黙示録を読むつもりがあるなら、それぞれの、旧約の参照箇所を読んで行って初めて見えて来る。

 

「血に染まった」という箇所も出て来る。

 

 

 

イザヤ

 

63:1「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

 

63:2「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」

 

63:3「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

 

63:4わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。

 

63:5わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。

 

63:6わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」

 

 

 

恐い事が書いてある。

 

キリストの再臨は、裁き主として来られる。

 

裁きの対象は、クリスチャン。 その時が来る。

 

ここでも本当に聖書を読んでいるなら、解るように書いてあると思うが、

 

イザヤ書631節で、「エドムから来る者」とある。

 

エドムが裁きの対象。 エドムという事に関しても喩えが使われているが、旧約聖書の中のエドムは誰かというと、「エサウ」

 

他のところでは、「エサウのような俗悪な」と書いてあるが、「エサウ、エドム」の事に関して言っている事は、エドムも新約で言うならクリスチャンの喩え。

 

何故なら、アブラハム、イサクの息子が、エサウ(エドム)だから。

 

アブラハムは、全てのクリスチャンの先祖だから。

 

エドムもエサウも、ある種のクリスチャンを通して言っている。

 

御言葉で、自分たちの都合の悪い箇所はみな、「これは未信者に対して行っている」とか、「これはカトリックの事で、私たちには何の問題も無い」などと言う人もいるが、全く自己中で見えていない。

 

エドム、これは、この世についたクリスチャン。

 

イザヤ書63章に書いてあるのは、終末の日に、俗悪なクリスチャンに対して、災い、さばき、罰が来るという事に関しての明確な警告。

 

それを読まなければ、殆ど意味が無い。

 

「解る者は解れ」という、神様のクールで、厳しい姿勢が、黙示録に関しては、神様の方法。

 

黙示録を読んでも、誰に対する裁きか、殆ど解らない。

 

エサウ、エドムは、ある種のクリスチャン。

 

エドムの意味合いは、やはり見て行かなければならない。

 

エドムは、「赤い物」

 

エサウは空腹時、ヤコブの作った赤い食べ物を欲しがり、長子の特権を売り払った。

 

それで、エドムは赤いものと呼ばれた。

 

これには意味がある。

 

しかもエドムの「赤い物」というのは、黙示録の中にも出て来る。

 

サルデスが、「赤い物」

 

また、赤メノウ=サルデイン

 

だから、サルデスの教会の箇所は、エドムへの裁きの事を書いてある可能性がある。

 

サルデスはプロテスタントであるとの解釈が多い。

 

だから、プロテスタントは危ない。

 

一般的なプロテスタントは、エドムの様に神様に見なされている可能性がある。

 

俗的な所から逃げ出した方が良い。

 

 

 

63:1「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」

 

63:2「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」

 

 

 

「赤」という言葉が強調されているが、それは、エドム=赤い物と共通する。

 

だから、エドム=赤い物と言われた事は、「裁き」をあたかも預言された事柄。

 

裁きとか死とか、そう言う事の関係。

 

我々は、エドムの道を歩むべきではないという事は明らか。

 

そしてまた、サルデスの道はエドムの道に通じるし、俗的な歩みをして行くというエドムの裁きに通じるので、警告を受けていかなければならない。

 

そうでないと、黙示録を読んだ事にならない。

 

 

 

63:3「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

 

 

 

やはり裁きとか、いのちを失うという事柄。

 

なので、キリストの再臨の日に、こういった裁きに入るという事。

 

エドムの具体的な問題を言うなら、例えばアメリカなんかで、俗的になってしまったクリスチャンがたくさんいる。

 

ゴスペルシンガーが、平気でイレズミを入れている。

 

聖書を一読するなら、「イレズミは入れるな」と書いてある。

 

同性愛を容認している教会は多いが、同性愛は、ソドム、ゴモラの裁きを受けると書いてある。しかし、この世のトレンドに従い、俗的になってしまい、クリスチャンでありながら俗的なものを受け入れて行くというのは、最終的には、この様にエドムの裁きを受けるという事を理解しなければならない。

 

その日になってからでは遅いので、黙示録、イザヤ書は前もって警告している。

 

聖書にこのように書いてあっても、馬耳東風で意に介さない人も多いが、我々は時間を使って、日曜日に集まり、黙示録を学んでいるので、ここを読まないのなら、悟らないのでは、意味が無い。  読んだ事にならない。

 

これは明らかに、俗的なクリスチャンに対して、裁きの日が来るという事を、御言葉は明らかに語っているので、読み取らないと、読んだ事にならない。

 

 

 

63:4わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。

 

 

 

やはり、俗的なクリスチャンに対して、たとえ遅くても、キリストの再臨の時には神、キリストは復讐をなさるという事。

 

恐れをもって、この事を見なければならない。  

 

俗的な歩みは、明らかにこの裁きに直結している。

 

もう1つの事は、3節で、「酒ぶねを踏んだ」という事。

 

「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。」とか、ぶどうの血のしたたりとかが書いてある。

 

酒ぶねは、ぶどうを踏んで、ぶどう酒にする。

 

葡萄は赤いから、血の様に見えるが、明らかに裁きを語っている。

 

それを通して語っている事は、その災いとか裁きというのは、血の滴りとか、酒ぶねとか、ぶどうとかが入っている様に、霊的なものが、裁き、罰になっている。

 

終わりの日には聖霊の働きが消えて、悪霊的なリバイバル集会が席巻して来る。

 

これは、エドムへの裁き。

 

俗的になったクリスチャンに対しての、神の裁きだという事。

 

だから、祝福ではない。 今のクリスチャンは全然勘違いをして、「すごい神の働きが進んでいる」とか、「ベニーヒン様が来て、癒しが起きてる」とか、歯が金歯になり、「これはすごい奇跡だ、恵みだ」・・・違う。

 

それは、ぶどうの血のしたたりであって、悪霊の災いに、俗的なクリスチャンは入って行ってる。   はっきりしている事がある。 我々は、俗的な歩みをしていくなら、神のものと思って、悪霊のモノに飛びついて行くという事になる。

 

しかし、我々が俗的な者であったとしても、「悔い改めて」、すんでのところ歩みを正していくなら、そこから立ち返れば、聖霊が戻って来られると思う。

 

歩みによって、結果が変わって来る。

 

サルデスについて見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

3:1また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。

 

 

 

サルデスは「赤い物」 ギリシャ語でその言葉はどういう意味合いかというのは大事。

 

日本でも大分注解書があるが、こういう大事な事は、本を見ても出てこない。

 

「サルデスはどういう意味か」とか。

 

聖書には言葉の意味合いというものがある。

 

どんな方法を用いても、意味合いは解った方が良い。

 

サルデスは「赤い物」なので、エドムに通じるものがある。

 

「あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

 

名目だけは生きているが、実は死んでいるという事。

 

「死」は「永遠の死」に通じる。

 

永遠のいのちには通じない。我々は、罪と死の歩みをしていくなら、当然のように後の世において、永遠のいのちを得ることが出来ない。

 

だから、我々は、神の前に、実質、生きている歩みに入って行くのが大事。

 

 

 

3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

 

 

「死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」

 

他の人も次々と死んできているという事。

 

どんどん衰退して行ってる状態。

 

日本の教会も、そういう状態らしい。毎年100以上の教会が消えて行ってるとの事。

 

それはやはり、死にかけている状態かも知れない。

 

サルデスは、既に死んでいて、しかも他の人も次々と死に入って行くという、良くない状態。

 

問題は、「わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。」

 

だから、行ないが足りないという事。

 

クリスチャン生活では、行なって初めて、生きる、生きないという事と関係する。

 

僅かながらも、行ないに入って行く時に、力が湧いて、体力がついてくる。

 

だから、ヤコブ書は大事。

 

「行ないの無い信仰は死んだもの」・・・この箇所は大事。

 

ルターの「ヤコブ書はわらの書簡」という見解は大間違い。

 

行なって、ずっと強められるという事がある。

 

「生きているとされているが、実は死んでいる。」と、「行ないが全うされていない」という事が、リンクしている。 明らかに関係している。

 

だから、惑わされて、「全然行ないなどしなくて良い」と、勘違いしている人は、そのまま「生きているとされているが、実は死んでいる。」ようなクリスチャン生活をしていて、結局永遠のいのちが危ない可能性があるので、この辺りは気お付けなければならないと思う。

 

 

 

3:3だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。

 

 

 

方向を転換せよという事。  サルデス、プロテスタントの方向は、もう滅びに向かっているというのは明らか。

 

歩みを正さない時には、いのちに入らないという事が、まさに言われている。

 

「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」

 

だから、今のプロテスタントの、平均的な教理を信じている人は、主の再臨がわからない。

 

再臨は「艱難後」にある。

 

「艱難前携挙」、レフトビハインドなどを信じている人達にはわからない。

 

 

 

3:4しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。

 

3:5勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。

 

 

 

白い衣を着ている人は少ないという事。幾人かいる程度。

 

例外的に白い衣を着ている人は、いのちの書から名が消されないが、そうでない一般的なサルデスは、いのちの書から名を消されてしまうという事を、逆に読める。

 

恐ろしい事が、ここには書いてある。

 

さりげなく、衣を汚すという言葉が出て来る。

 

だから、エドムという事は、サルデス、プロテスタントの事を言っている様に読める。

 

これらの警告をきちんと受けていきたいと思う。

 

それを通して真理を見て行きたい。