ヨハネの黙示録19章13節~15節       2017.3.26

黙示録
19:13その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

聖書は、その箇所のみから解釈してはいけない。
「血に染まった」は、エドムの血に染まったという事。
エドムへの裁き。 エドムは、クリスチャンと無関係ではない。
クリスチャンは、新約におけるイスラエルだが、旧約のイスラエルは、旧名ヤコブ。
ヤコブの兄がエサウ、エドム。
エサウ、エドムもアブラハムの子孫であり、イサクの子供であるので、ある種のクリスチャン。
思うのは、正しい解釈。
聖書は他の箇所で、「エサウのような俗悪な者」と書いてある。
サルデスはまさに「赤いもの」     エドムは赤いもの。
サルデスの教会は、まさに俗的なクリスチャン。 どうもプロテスタントくさいので、その人達に対する警告であると思う事。
これは、血に染まった着物と書いてあるように、「復讐の血」が、衣に降りかかっている。
だから、凄まじい神の怒りを、エドムは買ってしまう。
新約においては、サルデスが買ってしまう、こう言うポイントがまさに聖書には書いてある。
これは正しく理解して行きたい。
そうでないと、黙示録は、「見るには見るが悟らず」になってしまう。
折角黙示録を読むので、それを見て、読んで、悟って行きたいと思う。
もう1つの事が、13節には書いてある。
それは何かというと、「その名は神の言葉」とある。
「血に染まった」とは明らかに「裁き、報復」  穏やかではない。
ここは、穏やかではない事が書いてある。  その様に読むべき。
背教したり、エドムの道を歩むという時に、凄まじい裁きが大いに関係して来る。
ここでは「神の言葉」という事が言われている。
「神の言葉」という事を通して、聖書が言わんとしている事、ポイント。
神様が、言わんとされていると思う事は、1つは、神の言葉に関しての、神の怒りが来る。
別の言い方をするなら、神の民が、神の言葉に関して曲がった事とか、ずれた事、他の言葉では、「神の言葉を盗んでいる」、そういった事に関しての神の怒り。
黙示録の他の箇所で、「諸国の民を打つための鋭い剣が出ていた」
剣も、神の言葉に関しての喩え。                                                    
御霊の剣、すなわち神の言葉を取れ。この剣をもって諸国の民を打つという事。
暗示、喩えで言っている事は、御言葉に関しての偽り、不正、そして真理とかけ離れた事が、
キリスト教会で言われているので、それに対して神の怒りが臨もうとしている事が、ここで書かれている事が解る。
今は残念ながら、神の御言葉が第一になっていない。
名目だけになっている。
御言葉が第一になっていれば、本当に良い。
明らかに聖書が語っているのは、今の時代というのは、耳触りの良い事、つまり、会衆第一。
世の中では、顧客第一だが、教会はそうであってはいけない。
何故なら、明らかにそれに対して、神の怒りが臨もうとしている。
どうして「神の言葉」と言う方が出て来るかと言うと、神の言葉に関しての偽りが広がっているので、その事に関しての神の怒りが臨む。
まさに、黙示録の時であるという事を明らかに示している。
我々は、何をすべきか。 
本当に、神の言葉を1番にして行く事にポイントがある。
あらゆる所で、神の言葉の本質が曲げられたり、変質させてしまったりという事が、まさに今の時代の問題。
バプテスマのヨハネの時がそう。
「主の為に、道を用意せよ」「道を真っ直ぐにせよ」という事は、「道が曲がっている」という事。  教理が曲がっている。「地獄は無い」「艱難前に上げられる」など。
また、「全ての山は低くされ、谷はうずめられる」というのは、本来、平らな御言葉が、高く上がり過ぎたり、低くされ過ぎたりしている、あれもこれも行き過ぎた状態を是正して行く。
それが、バプテスマのヨハネの役割。
また、イエス様は、「私の家は、祈りの家と呼ばれるべきなのに、あなた方はそこを強盗の巣にしている」
強盗は盗人。 言わんとしている事は、御言葉が盗まれているという事。
あの言葉もこの言葉も盗まれて、本来の意味合いと違っているという事。
イエス様は、律法学者、パリサイ人に対し、「よくも自分たちの言い伝えに従って、神の言葉を蔑ろにしている」と怒られた。
それは、今の時代こそ実現している事。
イエス様の時代も、ユダヤ人は注解書も持っており、タルムードをも持っていた。
神の言葉を読んではいるが、実はタルムードしか読んでいない。注解書を読んでいるにすぎず、聖書よりもそっちを優先している。
同じように、今のキリスト教会も、神の言葉から教えられるよりは、注解書から学んでいる牧師が多い。
本当に御言葉のみを読んでいたら、「艱難前」など出て来ない。
主は言われた。
「これらの苦難が起きる」「苦難の前に、太陽は暗くなり、・・・」と。
それを「苦難は無い」とか言ったら、キリストの御言葉が嘘になってしまう。
しかし、注解書を読み、それを神の言葉よりも優先して、御言葉を蔑ろにしてしまっているというのは、まさに起きている事。
そういう事柄に対して、神の怒りが下ろうとしているという事は、理解しなければいけない。
主ご自身が神の言葉。
我々は、神に関しては、「主は言葉」であるという事を強調して来た。
神は像だとか、キリストの像とか、その像=キリストなどとは言っていない。
我々が神の言葉を使うという事は、神ご自身を扱う事にイコールになり得る。
「言葉は神」だから。
なので「言葉」を蔑ろにして、注解書を取ってしまうというのは、大変な冒涜だったりする。
だから、見えない。
我々は幸い、喩えを理解する。
すごく気になっていた箇所があった。
「イエスはたとえによらないで話されることは無かった」
御言葉だけを真理とした時、あらゆる喩えや、奥義が開かれて来た。
御言葉のみを真理とした。・・・・分岐点はそこだった。
それを始め、これを始め、多くの御言葉に関して、人間的なものが入って、道が曲げられたり、
「言葉」が盗まれたりしている。
これらに対する神の怒りが臨む時が、まさに黙示録の時。
だから「神の言葉」と書いてある。
神の言葉に関連して、御言葉に正しく従う者は祝福を受けるが、あえて、御言葉を盗んだり、あえて全く違う事を唱えている人達は、裁きや怒り、罰が来るというのが、黙示録が語っている事。

19:14天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。

これは何か。
これも喩えなので、本当に意味している事を見て行かなければならない。
「天にある軍勢」とは、正しいクリスチャン。
それと対照的に、「地に住む者」というものがある。
しかし、「天に住む人々」がいる。
黙示録13章に、「天に住む者たちをののしった」と書いてある。

13:6そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。

天の御使いの事ではない。
「天に住む者」と「地に住む者」は、対称的な人々。
地に住む者たちは、この世についてしまった人達。
旅人は天に住む者達。これは、天的なクリスチャンの事を言っている。
「天にある軍勢」というのは、天的な人々。
天にある軍勢は、キリストに従う。
その後に、「鋭い剣が出ていた」と出ている様に、「これから戦いが来る」という事を言っている。
何に対しての戦いか。 それは、御言葉に関する戦い。
我々は、どちらかの軍勢について行く。
中立は無い。
然りは然り、否は否で良い。
ちゃんとキリストの側についた人が、自分のいのちを救う。
イエス・キリストが初降臨した時もそうだった。
ペテロは、キリストが逮捕される時、文字通り剣を持って戦った。
キリストにつき従っているので、方向性は正しい。
御言葉の剣を持って、この戦いに参戦して行くという事は、大事なポイント。
戦いに入って行き、キリストの側につく人は、真理を得たり、いのちを得たり、御心を行ったりする事。
クリスチャンでも、偽善的な人達は、「こんな事で戦うなんて」というかも知れないが、黙示録では、明確につき従う者、「軍勢」、と書いてあるので、軍勢は戦い、戦争に関しての言葉なので、我々は、その時、御言葉の剣の戦いがあった時には、主が先頭に立った時には、我々はついて行く。 この14節のポイントは、「彼につき従った。」という事。
自分勝手に戦いに行くのではない。
キリストが行く方向の戦いに、我々はくっついて行くという方向。
レムナントは、誤解を恐れず、自画自賛みたいになってしまうかも知れないが、我々も大いに、
HPの「エレミヤの部屋」のメッセージとかを、初期から今に至るまでずっと戦い続けている。
「角笛」とか。
しかし、ポイントは、やっている事は、主が始めた戦いについて行くという事。
例えば、「艱難前携挙説」に対して、これを拒否する。
そうしないと、もう終末のあらゆる教理とかが見えなくなってしまう。
黙示録の時代は、明らかに神の民とか、教会の裁きに入っている。
「艱難前」に教会が上げられて、教会は何一つ苦難に入らないと言うなら、根底が覆ってしまう。  これに対しての戦いを、主が挑んでるという感覚を受けた。
しかも、エレミヤ牧師が前にいた教会を追い出されたのは、終末に関しての試験で、「キリストが2度再臨する」という答えを書かなかったから。
しかし、この事に関して、主から戦うように語られているような感じがした。
その教団に文句を言っているつもりはない。
この戦いの事を「エレミヤの部屋」に書いた。
「これは、終末の空想話である」と。
誰も読まないと思っていたら、読んでいる人がいた。
丁度、空想話の「レフトビハインド」の宣伝が、どんどん広がって来た頃。
その本は世界中で6000万部以上売れている。
アメリカですごく売れ、日本でも「いのちのことば社」を通して、たくさん売れた。
「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。」
と書いてある。
我々は一太刀しかないとしても、短い太刀しかないにしても、その太刀を浴びせるかどうかで、
結果は変わって来る。
やって良かったと教えられた。  結構、効果があった。
どこかで太刀が効いてくる。 信仰の様なもの。
最初が、レフトビハインドに対する戦いだった。
一太刀というものは効く。
やはり、主に示された奉仕とか、太刀を浴びせる時は浴びせて行かなければならない。
どこで用いられるか、分からないから。
そういう意味では、出来る事を我々はやっている。
レムナントは、人気こそ無いが、「角笛ニュースレター」を出しているし、ビデオもだしているし、あらゆる出来る事はやっている。
それが、具体的には、天の軍勢がキリストに従うという事。
しかし、艱難前携挙説に関しては、日本のキリスト教界は狭いので、多少でも用いられる。
自分だけがやっているとは言わないが。
いろんな事が相乗効果を生み出したりする。
日本で、「艱難前携挙説」を広めたのは、名前で言うと、高木慶太という牧師。
それで、この牧師の広めた事が、終末のスタンダートのようになった。
ハルリンゼイの本を読んで、影響を受けたとも言える。
しかし、最近では、「艱難前」に同調しない人が多くなって来た。
だから、逆転しつつある感じ。
我々のやった事は、どこかで用いられている。
形勢が変わって来ているのも事実。
そういう意味合いでは一太刀というのは、用いられる。
主に示された事は、やって行くのは正しいと見て行くのが正しい。

19:15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
「鋭い剣」というのが出て来る。
剣は「御霊の剣」すなわち神の言葉。
「鋭い剣」というのは、刺し通す。
他の箇所で、「神の言葉は生きていて、私たちの魂と霊とを切り分け」とか書いてあるが、その様に神の言葉を正しく用いていく時に、優勢になって来た「艱難前」とか、世界中を席巻しているレフトビハインドとか、そういったモノを鋭く切り裂くような剣を、主が与えて下さる。
例えば、「角笛」の記事を書いている時にも、主が鋭い剣を与えてくださったり、必要な事を教えて下さる。
イザヤ書の44章では、神は、別の霊からの示し、しるしを打ち砕く。また、人の霊から出た預言も打ち砕くという事が語られている。
これはまさに、「艱難前」の預言に関して、適応できるというように、主の示しがあった。
ハルリンゼイの本をあらためて見て見ると、それに書いてある預言は、尽く外れている。
それは明らかに神が、「これは人からの預言だ」という事を語っておられる。
生きた証拠。
これを用いて行くと説得力がある。
そういった方向を、神様が示して下さる。
鋭い剣。言い訳は出来ない。
例えば、ハルリンゼイは、当時ソ連という、非常に大きな悪の帝国みたいに決して滅びることの無い共産主義の帝国のように見えた。
そして、「ソ連こそ、反キリストの国になる」と言った。
しかし、1980年代に消えてなくなった。 全く外れている。
「イスラエル建国は、1948年だから、その一世代でキリストが再臨する」とまで言っている。
つまり、1948年から一世代、「1988年までにキリストの再臨がある」とまで言ってしまっている。  しかし、起きなかった。
そして80年代には、大変な事が起きると書いてある。
「ハルマゲドンのカウントダウン」という本の中に、艱難時代や大変な事が起きるとも。
しかし、何も起きていない。
そういう事を通しても、「鋭い剣」を持って神の説得力をもって、そういった教理に対する攻撃方法、剣を与えて下さっていると思う。
それを用いて正しく語って行くのが1つの方法であり、主ご自身が先頭に立って、あらゆる偽りの教理に対して戦いを挑んでいる時であるというように数年前から感じている。
レムナントの原点は、あらゆる人間的な人間の都合で書き換えられている教理に対し、怒りをもって戦いを挑んでいるという感じがある。
だから、戦いにつき従っている。
この御言葉はまさにそういう事を言っている。
我々もつき従っている事にポイントがある。
どちらかに付かなければならない。中立は無い。
どちらかについて、どちらかに勝つか負けるかするけれども、そういう意味では我々は、正しくそれを見て行くのが良い。
「この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。」と書いてある。
「諸国の民」とは何を言っているのかと言うと、具体的に言うと、キリスト教会の各宗派、あらゆる教団の事を言っている。
エレミヤ牧師が記事を検索していたら、腹の立つ記事があった。それはバプテスト系のどこかの牧師が書いたものだった。
それは、「マルコによる福音書は必ずしも本当に起きている事ではない、マルコの意志を書いたに過ぎない。個人的な意見を書いたに過ぎない。だから本気にしてはいけない」という内容だった。  はっきり言って、牧師がそんなことを書くかという感じ。
全く神の言葉を否定している。  少なくともこのバプテストはダメ。
「諸国の民を打つため」とは、あらゆる教団を打つため。
あらゆる教団が、曲がった道に入っているという事。
我々は、正確に言うなら、主があらゆる教団に対して戦いを挑んで行くなら、我々も、神の言葉と違う事を語っているあらゆる教団に対して、戦いを挑んで行くという事が、まさに正解だと思う。
レムナントは、あらゆる教団から憎まれる事をやっている。
ベニーヒンのリバイバルは悪霊からのモノだと言ったら、ペンテコステ系の人はみな怒り出した。  「艱難前は間違いだ」と言ったら、福音派もみな怒る。
どこからも好かれていない。
主が、あの教団、この教団に問題があると言って、剣で戦うなら、我々もそれに従うしかない。
選択肢は無い。  今は、そういう時。
理解に間違いが無ければ、あらゆる教団の中で、御言葉が曲がっている。
友達が出来ないのは仕方がない。 主ご自身がその様にされている。
「この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。」
神の怒りが、御言葉に関して、偽り、不正の教理に関して怒りが積み上がっているという事を、
理解しなければならない。
そういう意味で、教師の仕事は本当に厳しい。
もろに神の怒りを買う可能性がある。「艱難前」とか偽りの教理を説いたりすれば。
ヤコブ書に書いてある。  「あなた方の多くは教師にならない方が良い」と。
教師に対していろいろ厳しい喩えが乗っている。
「舌は、不義の世界」・・・これは教師の喩え。
「人生の車輪を焼き、自らもゲヘナの火で焼き尽くされる」とも書いてある。
レムナントにても、一歩間違えれば、厳しい面がある。
正しく主につき従って行くなら、逆に、恵みが大いにある。
ここでは、「神の激しい怒りの酒ぶね」と書いてあるから、我々は、1つ知らなければならないのは、御言葉を曲げたり、自分中心に曲げてしまったりする時に、「酒ぶね」は「ぶどう酒」に、「ぶどう酒」は霊的な事に関係するので、おかしなリバイバル、おかしな霊にやられてしまう可能性がある。
その人が正しく御言葉に従っているなら大丈夫だが、そうでない場合、変なリバイバルに引っかかってしまう可能性がある。
今、おかしなリバイバルが、キリスト教会に広がっているというのは、神の怒りによる。
神の怒りの内に許されている。
前代未聞の時が来ている。
悪霊のリバイバル。 トロント、ペンサコーラ、第三の波など、そういったものが、どんどんキリスト教会を席巻しているが、これは明らかに神から来た霊ではないが、神が、それを許している。
それだけ、今の教会に対して、神の怒りが積み上がっているという事が、まさに根底にある。
なので、今のクリスチャンの常識と、黙示録の言っている常識は、全然違う。
しかし、聖書の言っている事が正しいので、我々は、恐れをもつべきであり、間違いに入って行く事はポイントではない。
今は、神の怒りが積み上がっている時代。
そういう所を是非、見て行きたい。