ヨハネの黙示録19章15節~18節           2017.4.2

 

 

 

黙示録

 

19:15この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

 

 

「諸国の民」という言葉は明らかに喩えが使われている。

 

これは、キリスト教会の各宗派の事。 各教団。

 

だから、カトリックと言わず、同盟教団と言わず、日基教団と言わず、ペンテコステ派と言わず、あらゆる教団の、偽りの教理に関して、神の言葉であるキリストから、厳しいさばきの時が来る。

 

今の時代、あらゆる教団が、御言葉と違った事を言っているという事は、理解しなければならない。

 

「艱難前携挙説」に賛同する人の方が、数からいえば多いが、聖書の真実は多数決ではない。

 

イエス・キリストの初降臨の時を見ても、キリストを信じた人よりも信じなかった人の方が遥かに多かった。

 

多数決で言えば、イエス・キリストは偽キリスト。

 

しかし、真理はイエス・キリスト。

 

今は、曲がった時代。 特に神の御言葉に関してはさらに曲がっており、それに対して神の厳しい裁き、罰、災いが来るという事が、まさにここで言われている事。

 

「鋭い剣が出ていた。」

 

「鋭い剣」は、御霊の剣すなわち神の言葉。

 

御言葉に関する偽りに対して、神から災いが来る。

 

「鉄の杖をもって彼らを牧される。」

 

だから、主は、今の時代も、教会の真の王はイエス・キリスト。

 

旧約の時代も然り。

 

人の王を立て、真の王である神を蔑ろにしている事の災いは、黙示録の時代も来る。

 

イエス・キリストが、十字架につけられた時に、罪状書きに書かれていたことが非常に象徴的。

 

「ユダヤ人の王」・・・象徴的なのは、ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語で書かれていた。

 

ギリシャ語、ヘブル語、ラテン語は、聖書が書かれた言語。

 

新約はギリシャ語。旧約はヘブル語。そしてラテン語も聖書に関係がある。

 

1000年位、カトリックにおいて、聖書はラテン語だった。

 

ユダヤ人達は、自分たちの「王」を十字架につけた。

 

同じように、世の終わりの時も、本当の真の王はイエス・キリスト。

 

「鉄の杖をもって彼らを牧される。」

 

「鉄の杖」とは、厳しい杖。  つまり、厳しい牧会があるという事。

 

イエス様による、厳しい牧会が始まるという事。

 

「神の激しい怒りの酒ぶね」・・・霊的な事に関係する。

 

 

 

19:16その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。

 

 

 

イエス・キリストは、王の王。主の主。

 

言わんとしている事は、世の中に王はたくさんいるという事。

 

喩えの意味合いもあるので、この世の王を裁くという意味合いもある。

 

基本的に、聖書はクリスチャン向けに書かれているので、クリスチャンの間にあっての王というのは、各教団のリーダー達。

 

沢山の王がいるけれども、その王達を束ねる王だという事。

 

また、いろんな主(偉い人)がいるけれども、その中の1番のトップがイエス・キリスト。

 

言わんとしている事は、色んな王、主がいるが、その上に1番の王がイエス・キリストだという事。

 

万一、人の王(教団のリーダー)が、キリストとぶつかったら、王の王であるキリストに従うべきだと理解出来る。  1番のトップはキリストであるから。

 

この様にわざわざ書いてあるのは、人が、それを認めないから。

 

結局人は、見える人間、見えるリーダーとか、まして、自分の所属に関係すると、どうしても、

 

見える人の事が気になるから。

 

しかし、聖書に書かれている以上、人の方を取らないで、キリストを真の王として、取るという事に祝福がある。

 

往々にして、そういう選択を主が迫る事がある。

 

取りづらい選択を迫られることが、時々ある。

 

そういう時に、教団のいう事に従わないと役職に任命して貰えない。

 

かつて、エレミヤ牧師も、「任命したいが、御言葉の解釈がダメ。霊的な解釈をしてはダメ」と言われた。  しかし譲らなかったため、話だけで終わった。

 

そして最後には教団を追い出されてしまった。

 

そういう事を経過して、エレミヤの召しに入ったので、必要な教えを主から受けるようになったので、逆にそこで人の方を取ってしまうと、人間的にはどこかに任命されるかも知れないが、

 

教団のそこそこの奉仕も出来たかも知れないが、本来の神からの召しは来なかったと思う。

 

どうしても御言葉に関わって、何でもかんでも上の人に反抗しろというわけではない。

 

神の言葉、聖書の真理を取るのか、それとも、人の権威とか、リーダーを尊重してしまうのか、

 

微妙な問題だが、正解は、王の王、主の主はキリストご自身なので、こちらを取る方が正解。

 

もし、人とキリストの言葉、聖書の真理ととぶつかる場合は、後者を取る方に祝福がある。

 

今のキリスト教会の問題というのは、結局キリストを「王」、「主」とか言いながら、人を取ってしまう事。 カトリックはまさにそう。

 

全く聖書と違う事をローマ法王は言っている。

 

「マリヤはキリストと共同の贖い主」とか、聖書のどこにもない事を言うので、それを受け入れてしまうと、キリストよりローマ法王を、自分の真の王にしてしまう。これはまずい事。

 

そこには祝福が無い。 でも結局、カトリックは人を王にしてしまったために、あらゆる惑わし、偽り、間違い、混乱の中に入っている。

 

しかし、プロテスタントも無関係ではない。

 

結局、カリスマ的なった人とか、リーダーとか、それはそれで尊いかも知れないが、御言葉と違っても人の方を取ってしまったり、祝福から外れた歩みをしてしまう可能性が大いにあるので、こういったところは見て行きたい。

 

 

 

19:17また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、

 

19:18王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」

 

 

 

全ての「鳥が集まれ」という事。

 

「鳥」に関しての意味合いがある。 この鳥は何か。

 

「鳥」の意味合いは、

 

 

 

18:2彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。

 

 

 

ここに「鳥」という言葉が出て来る。  それと同じ言葉が先ほどの19章に出て来る。

 

だから、霊的な事と関係がある。「悪霊の住まい」「あらゆる汚れた霊どもの巣くつ」「あらゆる汚れた霊どもの巣くつ」「あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつ」というように、霊的な事が言われている。

 

だから「鳥」は、霊的な事に関しての喩え。

 

「聖霊」も「鳩」に喩えられる。

 

イエス・キリストが洗礼を受けられた後、御霊が「鳩」の様に下られたと書いてある。

 

ここでは、あらゆる汚れた霊とか、鳥どもとか書いてあるように。

 

鳥は、霊に関して、ある一面を現す。

 

聖霊も、鳩の様に我々の所に下って来て下さるが、我々がいい加減な歩みをしていると去ってしまわれる。 その様な意味合いがある。

 

「鳥」は霊的な事に関しての喩えであるという事を理解しなければならない。

 

それに対して、悪霊的な災いが来るという事を言っている。

 

「口から鋭い剣」とあるように、御言葉に正しく従わない、または盗んでしまったり、全然偽りの教理を語っているような人々に対して、災いが起きて来るとの警告が語られている。

 

それは、今の時代に起きつつある。  既にある意味では黙示録の事と無縁ではなくて、その走りが、キリスト教会において見える形で出て来ているのではないか。

 

「遠い先」とか「全く無関係な事」と言うように見えているなら、かなりずれていると思う。

 

キリスト教会に、主の怒りによって災いが来ていると言うなら、そして徐々に本当に見えて来ていると言うなら、「鳥」すなわちおかしな霊の働きが出て来ている。

 

特にペンテコステ系では、おかしな事がいっぱい起きている。

 

おかしな霊に惑わされている人もいる。その中には牧師もいる。

 

おかしな霊は既に来ている。

 

この事は、遠い未来の事では無く、黙示録1917節では「太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。」とある。

 

この鳥が、先ほどの悪霊と関係するが、そういった鳥、霊の働きというのは、既に起きつつある。  こういったところは見て行く。遠い先の事ではない。そういった事は徐々に成就しつつある。 17節で、「神の大宴会」とも書いてある。

 

この「大宴会」という言葉が使われている個所がある。

 

 

 

第一コリント

 

11:20しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。

 

 

 

「大宴会」と「晩餐」が、ギリシャ語では同じ言葉が使われている。

 

 

 

11:23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

 

 

 

これは聖餐の言葉。

 

 

 

11:24感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

11:25夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」

 

 

 

なので、言わんとしている事は、黙示録は神の知恵で書かれているので、ある意味我々の意表をつく。また、思いがけない事が書いてある。

 

そもそも、7つの封印で封じられている。 神様が、作った謎解きみたいなものなので、しかも神の知恵によって書かれた謎なので、結構難しかったりする。

 

それでも、ペテロの手紙にあるように、「私的解釈をしない事」つまり「その箇所のみから解釈をしないこと。他の聖書箇所を参照せよ」という事。

 

他の聖書箇所を参照していく時に、たとえ知恵が無かったりしても、解って来る。

 

言わんとしている事は、大宴会を日本語で見ると、関係ないように見えるが、他でもない、「主の聖餐」の事を言っている。  それは、「聖餐式」だけに頭が行ってしまうと、喩えの理解が中途半端。  聖餐式は、パンとぶどう酒が渡される。

 

パンは、いのちのパン、神の御言葉に関している。 メッセージがまさにそう。

 

ぶどう酒は聖霊の働き。 だから、礼拝を通して聖霊が働く。

 

それが「ぶどう酒」の喩え。

 

聖餐式の本当の意味合いというのは、礼拝で語られる御言葉であり、また、そこで働く神の霊。

 

それに対して、黙示録1917節では、「神の大宴会に集まれ」そこに、すべての鳥(悪霊の)

 

が集まって来る。だから、現代から未来に関して恐ろしい事が語られている。

 

教会の集会、礼拝のメッセージを通して、悪霊的な事が働いてしまったり、また、そこで働く霊を通して、別の霊に触れてしまうという、恐るべき災いの日について語られている。

 

そういう言葉を、ある人は受け入れる事が出来るし、ある人は、受け入れられないかも知れないが、レムナントでは幸い、神様は現実を見せて下さった。

 

トロントビデオがそれ。

 

キリスト教会の集会の中で、ベニーヒンなどの器が、クリスチャンがみな集まって、神の名、キリストの名のもとに集まっている中で、「デーモン」を連呼して悪霊を呼び出している。

 

ケネスコープランドが、「獣の印をつけろ」などと言っている。

 

まさにこの御言葉の成就。「大宴会」

 

これは他でもない、教会の集会。

 

キリストの名によって集まる筈の聖餐式。

 

キリストの名によって集まっての御言葉、聖霊が働くはずの集会、聖餐のその場所で、まさに、悪霊、汚れた霊が働いて、多くの人に、肉を食べろと言っている。

 

それは現実に成就している。

 

クリスチャンが、「神の集会」と思って行ったら、そこで悪霊にやられてしまうという現実。

 

エレミヤ牧師もかつて、カルロスアナコンディア、ハンター夫妻、ベニーヒン、ピーターワグナー(聖霊の第三の波を言い出した人物)、シンディジェイコム等の集会に行って来た。

 

その時は解らなかったが、後に解った。

 

その中で、「倒れる」という現象を、「良い事」と思っているが、実は悪霊的なものがある。

 

人によって、そのような霊で、霊を受ける人は、敬虔な人は神の霊を受けて、行ないが悪かったり、心が曲がっている人は、悪い霊を受け、影響を受けるという事があると思う。

 

だから、神の霊でなく、実は変な霊を受けているという事。

 

倒れている人は明らかに様子がおかしい。

 

黙示録19章の17節、18節、全ての鳥、悪霊が来て、「王の肉、千人隊長の肉」等を食べる。

 

食べられたら殺される。つまり、悪霊にやられてしまうという事。

 

そういう事は明らかに、喩えで成就しつつあると思う。

 

もう1つの事を見たい。

 

18節には、「王の肉」「千人隊長の肉」「勇者の肉」。

 

これは、王とは、カトリックはローマ法王、プロテスタントでは、教団のリーダー、トップがまさに「王」。

 

「王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉」

 

これは、罪の奴隷とか、それから自由になっているとか、そういう意味合い。

 

そういうあらゆる人(クリスチャン)が、正しく歩んでいない人はみな災いに遭うという事。

 

全てのクリスチャンが災いに遭うかというと、そうではない。

 

ここで、象徴的な事が書かれている。

 

18節を見ると、繰り返して書かれている事は、「肉を食べよ」と繰り返し書いてある。

 

ここでは色々な肉「王の肉、千人隊長の肉・・・」

 

この様に繰り返されている事は、意味のある言葉だと思う。

 

「肉」が問題。

 

 

 

ローマ

 

8:12ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 

8:13もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。 

 

8:14神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 

 

 

「肉を食べよ」という事を通して、神の災いに遭い、悪霊にやられてしまっている人の特徴として、「肉によって歩んでいる人」というように理解出来る。

 

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」と書いてある。

 

「肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。」

 

そう書いてあるが、自分の肉によって歩んでいる人は、悪霊の餌食になってしまうと理解出来る。   聖書が、繰り返し言っている事は、意味がある。

 

なので、終末の時代、悪霊のリバイバルとか、そういった事が、教会の中で起きるかも知れないが、全てのクリスチャンが害を受けるかは別。

 

ここの主なポイントは、「肉に従って歩んでいる」クリスチャンは、悪霊の虜になったり、惑わされたりするという事。

 

「肉」とは何か。 それは、肉体に関わる事。

 

「何を食べたい、飲みたいとか、褒められたい」

 

そういう、肉体に関わる事で「良く見られたい」とか。

 

そちらを優先し、そればかりを、自分の歩み方の行動指針にしてしまい、肉の欲するままに歩むクリスチャン生活をする時に、我々は悪霊の虜になってしまう可能性がある。

 

この事は覚えておく。確かに御言葉が正しい。

 

肉的な歩みをしている人は、悪霊がやって来ても、「神の霊が来た」と思ってしまったりする。

 

御言葉は無意味に書かれていない。

 

「肉を食べよ」 つまり、肉的な歩みをしていく時に、やはり、悪霊の惑わしに入って行ってしまうという、1つのポイントがありそうなので、この辺りは是非気を付けて行きたい。