ヨハネの黙示録19章3節~6節              2017.2.19

 

 

 

19:3彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」

 

19:4すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。

 

 

 

「彼女の煙」とは、バビロンへの裁き。

 

黙示録はどのように読んでも、否定できない事は、「彼女は火で焼かれる」とか、「彼女の煙は永遠に立ち上る。」と書いてあるように、明らかに黙示録は、裁きとか、報復の時代。

 

勘違いして、人間的な事を言う教師は、「黙示録の時代は勝利の時代」とか、言っているが(勝利の時代なのだが)、聖書に書かれている事は、忠実に、語って行かなければならない。

 

明らかにバビロンの特徴は、教会の特徴がある。

 

それを見て行かないと、殆ど黙示録の警告の意味合いがなくなって、殆ど意味が無いような解釈になってしまう。

 

バビロンの事が、大きく取り上げられている。

 

バビロンというのは架空の存在でも、幻の存在でもなく、聖書に書かれている事は、どれもこれも喩えではあるが、必ず成就する未来。

 

今までの聖書の過去の歴史を見て見ても、聖書の中で神の言われた事はみな成就して来ている。

 

主が十字架につけられる時も、「私の事で嘆くな。」 「エルサレムはいずれ滅ぼされる日が来ると」言われた。

 

本当に、正確に、イエス・キリストが十字架につけられて40年後、ローマを通して成就した。

 

聖書で、言われている事、書かれている事というのは、どれも必ず成就する事なので、恐れをもって見るべき。

 

そして万が一にも、我々がそういう事に巻き込まれて行かないようにするのが、聖書を読む時の態度。

 

バビロンは明らかに教会の特徴がある。

 

「不品行のぶどう酒」とか「杯」

 

ぶどう酒、杯は、聖餐式に用いられる。

 

我々は、バビロンは、アメリカのキリスト教会だと理解している。

 

「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」

 

だから、非常に厳しい、火で焼かれるような裁きに入って行く。

 

神の目と、今のクリスチャンの見る目とは、かなりギャップがあるというのが正直な認識。

 

何故なら、我々も、「角笛ニュースレター」で書いているが、

 

「アメリカのキリスト教会が裁かれる」とか、「そこまで神の怒りを買っている」とかを思っている人はあまりいない。

 

聖書、黙示録で神様が書かれている事は、意味があって、必ず実現するから書かれている。

 

具体的に言うと、アメリカのキリスト教会に対して、神の怒りを買っているという事を理解するなら、それは幸いなことと思う。

 

4節で、「二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。」

 

24人の長老とは、黙示録の前の箇所に出て来る。24人の長老は、1つ類推出来る事は、24という数は、聖書の数字から言うと、「12+12

 

だから、旧約も12人の長老がいて、12支族がある。

 

新約も、12人の使徒、長老がいる。

 

黙示録はやはり、旧約も新約も含めた、集大成とも言えるかも知れない。

 

「四つの生き物」とは、黙示録の前の箇所に出てくるが、

 

 

 

エゼキエル書

 

1:5その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。

 

1:6彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。

 

1:7その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。

 

1:8その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。

 

1:9彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。

 

1:10彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。

 

1:11これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。

 

1:12彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。

 

 

 

聖書のあらゆる記述、主が「喩えによらないで話す事は無かった」とあるように、あらゆる記述が喩えであると思うので、それぞれの言葉に意味がある。

 

それを通して、我々に必要な教え、語りかけがあると思うので、この四つの生き物に関して主

 

が語っている事を、喩えを通して語っている事を、主の憐れみを通して理解で来たらと思うが、

 

1つは、「四つの生き物」・・・・本当に生きている者だと思う。

 

ここに大きなポイントがある。

 

こちらの理解だと、ある種のクリスチャン。

 

主に喜ばれるようなクリスチャン。

 

だから、24人の長老と一緒に登場して来るのだと思われる。

 

もう1つは、「その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。」

 

「人」というポイントは、エデンの園の箇所で書いてあるように、「神の息を吹きかけられて、生きる者となった」とある。つまり、「神の霊()」を受けている者であるという事。

 

それを持って人としての歩みをしている。

 

ある種のクリスチャン、主に喜ばれるようなクリスチャン、また、弟子の歩みをしているクリスチャンではないかと思うが、そういった、あるべきクリスチャンの姿だと思う。

 

「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、」

 

まっすぐ歩いている。 曲がった道を進んでいるわけではないという事。

 

「子牛の足の裏」、牛はきよい動物。1つは、反芻するという事。

 

これはいのちのパン、神の御心に関しての事。

 

だから、繰り返し何度も御言葉を読む人は、この牛であり、反芻する人。

 

反芻して、初めて見えて来る事がある。

 

これは、やった人でなければわからない。

 

あらゆる御言葉の中で、数をこなしている中で、いろいろ見えて来る。

 

聖書は全体を読んで行かなければ、牛とか子牛とか、意味合いが理解できない。

 

聖書だけは反芻しないと理解できない。

 

神様が画した意味が、解らないようになっている。

 

もう1つは「蹄」が分かれているという事。

 

8節、9節で、「その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。」

 

向きを変えないとか、度々この四つの生き物のことが書かれているが、だから、途中で道を曲げないという事。

 

主の再臨は、明らかに艱難の後なのに、どんどん教会の姿勢が変わって来ている。

 

「艱難前携挙」とか。それは、道を曲げている。

 

10節「彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」

 

これは、聖徒の性格を、こういった動物を通して語っているのだと思う。

 

「人間は、神の霊を受けて生きた者となった」そういう意味での人でもあるし、また、右側に獅子の顔が書いてある様に、恐れなく御言葉を行なっているという意味合い。獅子は闘う動物。

 

「左側に牛の顔があり」とは、反芻したり、蹄がわかれていたり(この世と分離しているという意味合い)、と思う。

 

もう1つは、「後ろに鷲の顔があった」とある。

 

低い、この地についた歩みではなく、霊的に歩むという事。 これが、各生徒の性格を表している。クリスチャンのあるべき姿とか、こういった性格を持ったクリスチャンが、「生き物」として、神に喜ばれている。

 

11節「これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。」

 

12節「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」

 

前を向いて真っ直ぐ。主に示された道を曲げないで、真っ直ぐに進んで行く、あるべき姿が書かれている。

 

「霊が行かせる所に、彼らは行く」という事。彼らはやはり、聖霊が語られている所に行くという事。

 

レムナントも、あまり行動は早くなかったけれど、野外の伝道に関してどうも、聖霊が語られているようで、結構時間をかけて吟味したが、抵抗しているとろくな目に遭わないと思ったので、行なったら恵みがあった。

 

行ったら、神様がちゃんと道を開いて下さったり、語る場所を与えられたり、語るメッセージも与えられたり、我々も、そうやって伝道の場所が備えられたりなど、思ったより大変ではなかった。1時間足らずではあったが、レムナントは十数年まともに伝道が出来ていないので、結構画期的だった。

 

結局は聖霊が働かれた。  恵みがあった。 ここに大きなポイントがある。

 

聖徒らもそう。聖霊が語っている所に歩む。

 

そして、「行くときには向きを変えなかった。」

 

「伝道」と聖霊が語っているのに、全く関係ない奉仕に入ってしまったり、挫折してしまったり、やめてしまったり、それは違う。

 

我々も、「いく時には向きを変えなかった」幸い奉仕の所へ行くところがあって感謝。

 

こういった歩みがまさに四つの生き物の歩みであり、神に喜ばれる歩みなので、生きた聖徒の、

 

神が望んでおられる聖徒の歩みなので、ここに歩みたいと思う。

 

 

 

黙示録

 

19:5また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」

 

 

 

ここでは、バビロンは裁かれる事に関連して言われている。

 

「あなた達は喜びなさい」と言われている人達は、どういう人達かというと、ポイントは、「神のしもべ」に対し、喜べと書いてある。「バビロンの裁きを喜べ」という事に関連して言っている。

 

逆に言うと、アメリカバビロンの裁きというのは、逆説的な言い方をするなら、アメリカのキリスト教会というのは、「神のしもべ」としての歩みをしていなかった。それゆえ、他のモノのしもべになったりして、それでもって神の怒りを受けているという事。

 

大きな区分がこれから出て来る。

 

我々が、神のしもべとして歩むかどうか。 それ次第で、場合によっては、バビロンみたいに、

 

凄まじい神の怒りを受けてしまう。

 

今はインターネットを介して、日々ニュースが来る。

 

明らかにアメリカのキリスト教会全体が、別のモノのしもべになってたり、自分の考えを優先したりというのが見えて来ている。

 

要するに自己中。

 

自分の好きなように歩みたいから、同性愛、中絶、離婚でも、たとえクリスチャンであろうとも、同性愛、中絶、離婚に反対する人に怒りを持つとか、神の言葉より、自分の思いにぐっと突き進んでいる。しかもそれを神の言葉と合わせてしまう。

 

これは神のしもべではなく、逆に自分の考えに神を従わせようとする。

 

逆転現象。

 

自分の欲望のしもべだったり、やりたい事のしもべだったり、別の霊のしもべだったりする。

 

それであるが故に、バビロンに災いが来たりする。

 

なのでこの時代に関連して黙示録が語っている事は、その様な背教の時代。

 

アメリカだけではない。

 

アメリカバビロンは世界中に影響を及ぼしており、あらゆる国のクリスチャンが、そういったトレンドにどんどん進んでいる。

 

それゆえに、逆にその様な時代であっても、神のしもべとして立つ人にポイントがある。

 

自分の行きたい方向に進むのは、神のしもべではない。

 

そういう時代だからこそ、それでも御言葉にとどまる人にポイントがある。

 

これは覚えておく。だからここで書いてある。

 

5節で「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」

 

「全てのクリスチャンよ、神を賛美せよ」とは書いていない。

 

多くのクリスチャンが、背教に至ったり、バビロン的な歩みに入って行く。

 

そういう時代であっても、神のしもべとして歩んでいく事に、大きなポイントがあるという事を理解しなければならないと思う。

 

我々も、何とか主のしもべとしての歩みを求めたいと思う。

 

ある教会の牧師は、「我々が神を使うのではなく、我々は神のしもべとして主が言われている事を行なう」と言っていた。 これは、当たり前といえば当たり前だが、「我々は、こういう伝道をしたい」という理想がある。しかし、「しもべ」というのは、神様がどう言う人にどの様に働きかけて、どの様に行なって行くかを聞いて、主が言われた事を行なって行く。

 

そういう意味で、ホームレスに伝道するのは、正直、葛藤が無いわけではないが、主が言われた事をやっていく。  結果としては良かったと思う。

 

レムナントにそういう伝道の道が開かれ、我々も、そういった事を具体的に携わるようになったり、少しずつ働きが進んで行ったりしているので、神様の方法だと思う。

 

アメリカバビロンのトレンドは、他のものを閉め出して、自分の考え、自分の欲望のしもべ

 

であって、神のしもべではない。そこにポイントは無い。

 

「小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」

 

要は、神を恐れる。

 

神を恐れるものは、神を賛美せよという事。

 

キリスト教会ではよく、「神を恐れよ」と言うが、本当に神を恐れたりするのはまた別の事。

 

特にバビロンに関しては明らかに、バビロン、アメリカのキリスト教会への裁きというのは、

 

明らかに、神を全く恐れない歩みをしているので、凄まじい罰を受けるようになるというのが、

 

現実。 バビロンは、見せしめの様にして滅びる。

 

なので、我々もそこから教訓を学ばなければならない。

 

バビロンへの裁きの1つは、1つは神のしもべではないという事。自分の欲望とか思いに従っているだけに過ぎない。

 

もう1つは、神を恐れていないという事。

 

もちろん、アメリカのキリスト教会は広いので、「神を恐れよ」と言う人は、多少はいると思う。

 

しかし、行ないが、その人の思いを現している。

 

言っている事とやっている事が違う。

 

そういう意味で、アメリカで起きているという事というのは、客観的に物事を見て行く時に、

 

アメリカのキリスト教会は明らかに神を恐れない方向に行っている。

 

神を冒涜しているのか、ないがしろにしているのか、バカにしているのか、そんな方向に来ている。

 

少しビックリするのが、アメリカのゴスペルシンガーとか、ロック調でしかもイレズミをしている。

 

聖書はイレズミを禁じている。   やはり神を恐れてはいない。

 

また、同性愛など。ペテロの手紙には、「ソドム、ゴモラは火で滅ぼされた。それは後の人々に対する見せしめ」であると書いてある。

 

「同性愛を行なう者は火で滅ぶ」と書いてあるが、全く気にしないで、罪を犯し続けている。

 

統計によるとアメリカのクリスチャンの半分以上が同性愛を受け入れている。

 

全然御言葉に忠実ではない。  やはり、神を恐れていない。  おののいていない。

 

しかし、それに対して、聖書に書かれているような罰が下るという事が、聖書が預言している事。

 

アメリカのトレンド、バビロンのトレンド、それらに対して神が怒りを発するのは、明らかに、

 

神を恐れもせず、御言葉をも恐れず、尊重もしていない、それに対して神は、聖書に書かれた通りの方であるという事をはっきり現すのが、バビロンの裁き。

 

黙示録にそれは書いてあるが、誰も読まない、読めないという事。

 

アメリカのキリスト教会に対して、明確な裁きが書いてあると読めるが、誰も読まないので意味が無い。  誰も恐れを持たない。

 

我々の理解では明らかにバビロン、アメリカのキリスト教会に対しての裁きであるというように理解出来る。

 

神を恐れる時に、恵みが来るという事を理解しなければならない。

 

知恵はどこから来るか。  それは神を恐れる事が知恵の初め。

 

これは本当。

 

IQを高くするとか、塾へ行くとか、1番優秀な学校に行くとか思ったりするが、それは違う。

 

知恵は、神を恐れる。

 

レムナントでは、他の人が見えないものを見たり、他の人が受けていない啓示を受けたり、終末に関して正しい啓示を受ける。

 

神を恐れ、神の言葉を恐れていく時にやはり、主が啓示して下さるという事。

 

ある時、聖書のメッセージを読み始めた時から、神とその言葉に対して恐れを持つようになった。

 

たとえ自分に不都合でも、やはり神様がどう言っておられるかを尊重し、神の言葉を自分の都合に合わせるのではなく、神の言葉に従いたいと、自分で思った。

 

神の言葉は本当に「艱難前」と言っておられるのなら兎も角、そうでなくて、自分の都合だけで間違えてしまうという事を恐れた。

 

改めて、あらゆる教理を忘れて、虚心坦懐になって、改めて御言葉を読んで行った時に、どう考えても「艱難前」ではない事が解って来た。

 

逆に大事な、正しい方向が見えて来た。  それは知恵は、神を恐れる事によって来ている。

 

我々が神を恐れるか否か、それを単に言葉として「神を恐れる」と、どんなクリスチャンも言う。言う事は1つだが、本当にそれを実践するかはまた別。

 

アメリカのクリスチャンもそうだが、全然実践していないし、その行いは神を愚弄、馬鹿にしているとしか思えない、全く神を侮ってるとしか思えないような行ないをしているが、それに関しては、神は、人の心を見分ける神なので、厳しい対応があると思う。

 

神を恐れて行った時に、正しい啓示が来たり、示しが来ている。

 

この事はみな同じだと思う。

 

なので今の時代、バビロンの裁きは、神を恐れないが故に、来る。

 

なので我々がアメリカとかバビロンの裁き、災いに巻き込まれないと考えた時に、ポイントは、1つは「しもべ」の歩みだったり、もう1つは、神を恐れる歩み。

 

神を恐れる事は、益をもたらす。

 

段々と物事が解って来る。 例えば黙示録にあるサルデスの教会の箇所では、クリスチャンでも「いのちの書」から名が消される事があるという事がわかった。

 

衣を汚さない「数人の」人達に関しては、いのちの書から名を消すことは無いと書いてある。

 

それ以外の人達は、次々といのちの書から名が消されるという事。

 

恐ろしい事が書いてある。

 

神を恐れた時に、そういう真理が見えて来る。

 

この事は、覚えておく。

 

 

 

19:6また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。

 

 

 

主イエス・キリストが、王となられるという事。

 

キリストが王となる時、我々が理解しなければならない事は、キリストを王として受け入れている人は、恵みを受けるという事。

 

王が変わると、状況は一変する。

 

これからキリストが王となられるので、はっきりわかる事は、やはりキリストについている人達は、恵みを受ける。  今はそうでないが、これから王位につく。

 

これから、形勢が逆転して来る。

 

これから、キリストが王となられる時が来る。

 

我々は、周りのクリスチャンからよく言われようが、悪く言われようが、主が言われた事を行なって来たつもり。

 

「角笛ニュースレター」も、教会からはこれを通して、そんなに良い評判はない。

 

逆に怒りを買ったりする。しかし、神は明らかに、こういう警告をなしているので、「角笛ニュースレター」を発行し続けたりしているし、書かれている事はみな成就すると示されている。キリストが王となるという事は、いろんな状況が変わるという事。

 

形勢が変わる。

 

この方に、忠実に仕えている人はその時、恵みを受ける。