ヨハネの黙示録2章12~17           2015:10:18

 

2:12また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。

2:13「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。

 

七つの教会には、それぞれの教会の特色があり、これらは小説ではなく、実際に未来に対しての預言。だから我々は、世の終わりの時代にいる。七つ目の教会あたりに来ている。

ある意味では、ペルガモの前のスミルナとかは、過去の教会。

スミルナは「没薬」

過去のローマ時代の迫害時代の教会。

ペルガモの教会もそういう意味では過去の教会だと思うが、何を指しているかは、御言葉の中で見て行くしかない。 黙示録に限らないが、聖書は、それぞれの御言葉に意味合いがある。

ペルガモという、この言葉自体に、教会の特色が現われている。

ペルガモは、ギリシャ語の意味合いで、塔だとか、固い建物とか、そういう意味合いがある。

堅固な建物。塔とか建物は、聖書の中で、家とか教会の事。なので、堅固な教会だとか、キリスト教界に君臨している教会だとか、そういうニュアンスがある。

一つは、「塔、建物」= 教会という事。 「神の家」など。

しかも、君臨している。

もう一つは、この教会に関連して、「鋭い両刃の剣を持つ方がおられる方がこう言われる」と書いてあるが、主の剣はあらゆる所で、聖書は喩えとか、隠された意味があるが、特に黙示録は、「七つの封印で封じられてる」と御言葉そのものが言っている事なので、七倍もの喩えとか、謎が使われているけれども、この「両刃の剣」もやはり喩え。

剣は、神の御霊の剣、御言葉に関しての事。

しかしここでは、御言葉は、いのちのパンという意味合いもあるが、剣という事柄もある。

剣は、当然だが食べるものではない。剣は戦いの道具。  自分の剣で相手を刺せば相手は死ぬし、逆に相手に剣で刺されれば、自分が死ぬ。  御言葉のそういう面に関して書かれている。

この事は、正しくりかいしなければならない。

教会というのは、この世と違って、殺伐とした世と違って、暖かかったり親切に迎えてくれるかも知れないが、それは教会の一面。 変な教理を聞いて行ったり、変な教えに捕まってしまう時に、それは、永遠のいのちを失わせる。 御言葉とか教理が剣になって、いのちを失う。

実際そういう教会は多い。教会とは呼べないが「ものみの塔」などは命を失う。

「キリストは神ではない」と言っている。  救いの最も大事なところが無い。

カトリックも大いに危ない。

こういう面は見て行きたい。

そして、ペルガモはわざわざ「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」と言うのは、「教理的に危ない」教会だという事が理解出来る。

ペルガモの中で、変な教理を掴んでしまったりとか、おかしな教えを掴んで、永遠のいのちを得るために教会に来たのだけれど、その教理を行なって行ったら、図らずも永遠の滅びに入ってしまったりする。そういう可能性のある教会。

13節を見ると、びっくりすることが書いてある。

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」

サタンの王座のある教会。誰も日曜日サタンを礼拝しに行く人はいないと思うが、ペルガモの教会に行っている人達も、そうは思っていない。  しかし結果としてサタンの王座がある。

教会に関しては、神のみ言葉にしたがって見て行く。

我々の常識とか、キリスト教界の常識ではなく、御言葉に従って見て行くというのが正しい。

サタンの王座がある。 そして、「しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」

おそらく教会は曲がっている。その中で、アンテパスが正しい事を言ったために、殉教までした、そういう類の教会。

アンテパスの名前も、この教会の一つの特徴を語っている。

アンテパスの「アンテ」は「アンチ、対抗するとか、反する」などの意味合い。

「パス」は、「父」という意味合いがある。   参考までに。

これは、ローマ・カトリックに関係しているように思える。

テアテラもカトリックだと言われるが、ペルガモもという名前が大きい。

教会と言ったらカトリック。  そういう意味では、大きな、固い、世に君臨しているような教会。カトリックには大いに当てはまる。

「アンテパス」という名前が、大いに意味ありげ。

カトリックの中で一番トップはローマ法王。みんな、「パパ様」と呼んでいる。

主は、地上の誰をも父と呼んではならないと言われた。

アンテパスは殉教しているようだが、ローマ法王に従わなかったから。

アンテパスの代表的なのは、ルターかも知れない。ローマ法王に反抗して、色々指摘している。

ルターは殉教はしていない。  ペルガモは、ローマ・カトリックに大いに関係しているように思える。その理解で御言葉を見て行きたい。

一つは、ローマ・カトリックは、特殊性。

「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。」

とんでもない教会だと思うのだが、そういう教会はあると聖書には書いてある。

そういう視点で見ると、ローマ・カトリックを調べれば調べるほど、サタン的である。

レムナントはカトリックの人からはあまりいい目にあわされていない。

カトリックは、かなりおかしい。

それだけではなく、カトリックに関連して、もしこれがカトリックであって、「そこにサタンの王座がある」と言っているなら、それが聖書に書いてあるなら、我々に対しての警告であると思うので、この言葉を通しての警告というのはちゃんと受けたい。

一つは、掛値なしに、そういうサタンの座のある教会はあるという事。

もしそれがカトリックであるならば、サタン的な働きになって行くという事。

新約聖書は、ギリシャ語で書かれていたが、エラスマス以来、ずっと正しいギリシャ語原文が

使われていたが、19世紀になり、とんでもないインチキな学者がイギリスに現われて、彼らを通して、正しい原典が否定されてしまい、インチキな写本2つをもとに、インチキな聖書が出来上がってしまった。その一つは、「バチカン写本」というカトリックで使われている聖書のもと。

日本語の聖書は、どんな訳であろうと、みんなおかしな原文が元なので、どんどんおかしくなる。だから、聖書はどんどんカトリック化していく。

全ての新約聖書のギリシャ語の原本は、バチカンが使っている、ローマ・カトリックの原文を使っているから、そのまま忠実に使っていると、外典がついてきてしまう。

外典は、全く正しい教えと異なったねわけの分からないものだが、どんどん入って来ている。

そういう意味で、カトリックの影響というのは、教会を富ませたり、真理の方向へ来ていない。

今の聖書の翻訳とかを調べて行くと、そういったエキュメニカル的なカトリック系の人々が、どんどん聖書翻訳の方で活躍している。  これから増々この方向に行くだろうと思う。

プロテスタントも、カトリックの聖書翻訳においても、カトリックを通した聖書しか、これから読めなくなる。

そういう意味合いでも、サタン的な事柄であるし、倫理は殆ど変えられていく。

書かれている事は、無意味に書いてあるのではない。

カトリックのおかしな所と言うのは、バルナバ書簡というところがあって、そこに、水のバプテスマで救われるというのがあって、カトリックはかなり洗礼にこだわる。

しかし、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」と書いてあるけれども、何でも水で受ければ救われると書いてあるが、そういうおかしな教理を掴んでいる。

それも外典に入っているから。

そういう意味合いで、言いたい事、意味合いは、七つの教会の事で、聖書がはっきり言っている事は、サタンの座のある教会があるという事。

それは昔の事で、今の我々には関係が無いと思うかもしれないが、もしそれがカトリックだとするならば、大いに影響している。

我々の持っている聖書は、バチカンの、全然おかしな原文がもとになっている。

大いに影響している。これからも、カトリックの影響で、どんどんプロテスタントに入って来ると思う。そういった事柄が、ある意味では預言されているという事。

我々が理解しなければならない事は、良くも悪くも、サタンの座がある教会があって、今でも

プロテスタントが段々不忠実になって来ているが故に、その影響が強くなってきている。

それがプロテスタントの背教にも大いに影響している。

それに関連して、忠実な証人、アンテパスと書いてある。

アンテパスは、明らかに褒められている。キリストの忠実な証人。なので、教会が曲がったとしても、聖書が言っているように、カトリックの影響がどんどん来ている。

その時、我々はどうするのがいいのかと言うと、アンテパスが模範。

「アンテパス」は「父に反対する」という意味。

ローマ法王がどう言おうが、(キリストがおられた時はキリストが主であったが、その後はローマ法王がキリストの代わりなどと言っている)  そういう事に関して、アンテパスは反対した。 これが正しく、しかも、場合によっては殉教してたけれども、主に忠実であった。

そこに、ポイントがある。

我々も、カトリック教会に行っている訳ではないが、あらゆるカトリック、サタンの王座があるような教会に関して、反対していく。

また、おかしな教理に対応していく。

わらって受け入れたりしない事。

それは、親切、愛などとは全然違う。

やはり、御言葉が正しい。

アンテパスの様に父に反対していく。

レムナントでは、カトリックのおかしなところを「角笛HP」などで書いて行く。

日本のプロテスタントの教会ではあまり言わないが、我々は、外国の記事を読んで、その中で、

カトリックがあまりにも大きな問題を起こしているので書いてきたが、これは正しいと思う。

それどころか、これから増々、それにはっきり反対するかしないかが鍵になって行く。

なので、この面に関して正しく、行なって行きたい。

 

2:14しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。

 

ここでも、バラクとかバラムが出て来る。

その意味合いを見て行きたい。

「バラム」という言葉。

「バラム」の意味合いは、「民ではない」「外国人」という意味合いがある。

なので、聖書は、言葉自体に隠された意味合いがある。

「バラム」という言葉自体で、言わんとしている事柄が見えて来る。

だから、外国の教えを奉じているという事。

カトリックには、本来のキリスト教に無いような教えをどんどん入れているという事。

マリア崇拝、これはプロテスタントの我々から見れば奇異。

マリアはカトリックが言うように昇天もしていないし、無原罪でもない。

異邦の神々ではね女神崇拝がある。

バラムの教えというのは、カトリックの一面を語っている。

外国の教えがどんどん入って来る。

「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置く」

それで、本来の信仰からどんどん躓いて行ってしまう。

これは、良くない事。

我々も、ここから学ばなければならない事というのは、外国的なものとか、カトリックは何でもOKみたいな教会だが、そんなものは入れてはいけないという事。

プロテスタントにおいても、「カウンセリング」云々とか、本来聖書が言っていないものを入れて行くのは良くない事。

「イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」

「偶像の神にささげた物を食べさせる」・・・この言葉にも、意味合いがある。

「食べる」という事にも、喩えが使われているけれども、パンに影響する。

パンは、御言葉。 だから言わんとしている事はこういう事かも知れないが、文字通りこれを取れば、仏像の前に捧げたパンを持って来て、教会のみんなに食べさせるというようにとれるが、さすがにそれは、みんな食べない。

だから、喩えの意味合いがあるように思える。

「食べる」とはパンに通じるけれども、それはまた、御言葉とかメッセージにつながる。

その時に、メッセージの中でも、聖書が言っている事、一つは、同じメッセージでも、神に捧げられるメッセージと、偶像の神に捧げられるメッセージがある、という事。

なので、我々は今の、人間崇拝、器崇拝という事もあるので、人に捧げられたり、また、人を崇めるだけのメッセージと言うのは、ある意味では、偶像の神に捧げられた食べ物という事がある。それは、神は喜ばれない。

具体的にどういう事か。

メッセージの中で、マリア様の事をぐっと上げて、褒めたたえるとか、それは偶像に捧げた食べ物。

また、ローマ法王を褒めたたえる。  これもまた、偶像の神に捧げた、食べ物、メッセージ、パンという事になる。

我々も、メッセージをしている時に、誘惑や試練というのは、ある。

偶像の神にどうしても捧げなければいけないという事もある。

具体的に言うと、過去にエレミヤ牧師が所属していた教会の神学校で、キリストは2度再臨するという、2段階携挙説、そういうメッセージをしなかったために、追い出された。

だからと言って嫌な事ばかりではない。それを通して恵みも来た。

それを機会に、「エレミヤの部屋」とか、レムナントキリスト教会で示されているような色々な真理とか、終末の啓示が示されるようになった。

どういう言葉でも、主の言葉を守って行く。

「偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」と、書いてあるので、偶像の神に捧げたものを捧げない。そういったところに大きなポイントがある。

しかし妥協すると、神に捧げるというより、人に捧げるという事になる。

厳密に言うなら、偶像の神に捧げるようなメッセージになる。

結局、人を喜ばせたり、人の方を向いてしまう。  それは良くない事。

 

2:15それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

 

ニコライ派は、聖書のみ言葉の専門家。

専門家のいう事ばかり聞いていると大変な事になる。

専門家ばかりに聞くことを、ある意味、聖書は憎んでいる。

そういった惑わしに入る事が無いようにしていきたい。

 

2:16だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

 

主が怒って剣を持って戦う時、みんな、おかしな教理を掴むようになる。

なので、決して、この事を侮ってはいけない。

おかしな教理を掴んでいる人は本当に多い。

しかし、主の御言葉に忠実に歩む時に、剣の害を主から受ける事は無い。

 

2:17耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』

 

ここにも書かれているように、御霊がどの教会にも語られているので、その声を聞いていく時に、色んな問題からの解決がある。

御霊の声を聞いていく事に大きなポイントがある。

「勝利を得る者に隠れたマナを与える。」ということ。

この事の意味合いも見たい。

マナは何かと言うと、荒野にいた時の、天からのパン。

これは、御言葉のパンであり、いのちの御言葉。

ところが、パンとマナには違いがある。

どこが違うかというと、パンは、パン屋に行けば売っており、地上的な物。

しかしマナは、天から降ってくる物なので、神様が天から降らさない限り、降りて来ない。

メッセージをどこの礼拝でも、日曜日にはある。そういう意味でパンは与えられるのだが、それをもって、「よし」としてしまうのは違う。

パンとマナは違う。

ここで「隠れたマナを与える。」と言われた以上、違ったメッセージがある。

メッセージでも、「天からのマナ」の類がある。

レムナントでも、奉仕をしたり、御胸に適った奉仕をしていく時に、皆が皆、気づくわけではない。 隠れた喩えとか、謎とか、そんな意味合いもあるのではないか。

少し前、黙示録のメッセージに入る前、ヨハネの手紙において、大事な教えだという事を教えられた。

第一ヨハネの5章の7節、8節に、「あかしする者が三つある。御霊と水と血である」と、書いてある。

言わんとしている事は、「証人」とは裁判用語。

聖書はどんな人も、「人には一度死ぬ事と、死後に裁きを受ける事が定まっている」

裁判を受ける事が定まっていると言っている。

ある人は裁判を経て、無罪で、または褒められたりするかも知れないが、ある人は裁判によって、滅びに入ったり、火の池に投げ込まれたり、とんでもない事になってしまう。

その時に、証言という言葉はね要は、「御霊と水と血」が証言するというのは、御霊が証人になるという事。  我々の正しいか正しくないかは、御霊が証言されるという事。

そして、何で「3」の数になるのか・・・・。

しかし、主が教えて下さった。

「二人、または三人の証言」

証人が3人いれば、聖書的には、もう十分。

明らかにこれは、我々が受ける裁きの日に関して、その日に真に、我々の、歩みを証言して、我々に、「この人は確かに聖霊に従って歩んできた。色々失敗もあったが、何とか忠実な歩みをして来た」、それを聖霊が証言して下さる。

かなり大事な事を言っている。我々が後の世で受ける裁判の時に、真に我々を有罪か、無罪か、

滅びに入るか、いのちに入るか、そういう事も含めて、正しく証言して下さるのは聖霊なんだという事。

我々のクリスチャン生活は、聖霊に従う事のみに集中して行けば、ほぼ間違いは無いと言ってよい。

しかしこれは、表のテキストからは出てこない。

隠れたマナだったりする。

その様に、大事な事が、隠れた形で聖書に書かれている。

ある人は、特に新改訳しか読んでいない人は、貰えなかったりする。

それは、えこひいきと言えば、そうかもしれない。

何故かは、先ほどのテキストで、「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。」

だから、勝利を得ないで、いい加減な歩みをしている人はもらえないという事があるが、そういう約束があるので、我々は、隠れた事を求めて行きたいと思う。

実際に、レムナントでは、隠れたものを貰う事もある。

隠れたものは、絶対に注解書などには出てこない。

しかし、我々が惑わしなどに入らずに、正しく歩んで行く時に、主は約束通り、隠れたマナとか、隠れた教えとかを与えて下さる。