ヨハネの黙示録2章8~11         2015.10.11

 

2:8また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。

 

黙示録には、七つの教会があるが、今はおそらく七つ目の教会の時代。

スミルナは、二つ目の教会であると思うが、過去に殉教などが起きた教会かと思われる。

何故我々が黙示録を学ぶのか、また、聖書を学ぶのかという事柄だが、クリスチャンにとっては、我々の理解では、一つは、世の中には、人が書き、作った本は数え切れないほどあるが、唯一、聖書のみが、神が著者。神が公言されている本。

テモテの手紙には、「神の霊感によって書かれたものである」と書いてある。

聖書以外にそのような本はどこにもない。

神が書かれた聖書は、一つは、色んな意味で、聖書独特の面があるが、端的に言えば、黙示録は未来に対する預言。 なぜ我々がこれを学ぶ必要があるかと言うと、一つは、他の聖書の預言も、大げさではなく、今まで全て歴史において成就してきた。

黙示録には、未来の事が多く語られているが、これも成就すると、我々は理解して学んでいる。

イエス・キリストの誕生に関しても、キリストが生まれる600年、700年も前に書かれた、旧約聖書の預言。マラキ書など。

「キリストの来臨」は、こういったかたちで来るという預言が、200300もある。

「処女から生まれた」、「ベツレヘムで生まれる」とか、死ぬ時は、「罪人の一人として数えられる」とか、新約聖書を見れば、みな成就している。

我々は、聖書の学ぶところ、未来に関して、唯一、正しく、信頼できる本であると理解して学んでいる。

他の人間の書いた預言は、外れてしまう。

さて、スミルナの預言に関して見て行きたい。

 

2:8また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。

 

スミルナという言葉。

これは、「没薬」という意味。それは死んだ人にかけるもの。

スミルナの教会は、明らかに、喩えの意味合い、黙示録は七つの封印で封印されているので、

隠れた謎とか喩えが使われているが、明らかに暗示されていて、何となく「こうかな」と分かる。 死者にかける香料なので、明らかにこの教会は、殉教とか、苦しみを経る教会。

キリスト教会の中で、ローマ帝国時代のキリスト教の苦難とか、殉教の時代があったが、まさにスミルナの教会は、そういった教会と思われる。

苦しみ、殉教は、遭わないですめば良いかと思うが。

やはり物事の考え方。 

ここで主が書かれている「初めであり、終わりである方、」

「初め」は、歴史の初め。「初めに神が天と地を創造した」とか、アダム、イブが造られた、その時もおられる方。また、「終わりである方」なので、世の終わりにもおられる方。

人間はそうではない。 人間は、ほんの一瞬。100年と言っても、長い歴史から見ると短い。

御使いも、初めにいたのではない。

これは、唯一神ご自身である、「初めであり、終わりである方、」歴史の初めであり、終わりである方。その方がキリストであるという事。

もう一つ、「死んで、また生きた方」これもキリストをさしている。

キリストをさす色んな表現があるが、その一つとして、「死んで、また生きた方」

この事も、我々は理解しなければならない。

イエス・キリストの生涯を福音書で見て行くならば、我々が、福音書で理解することは、イエス・キリストは、残念な事に、ご自分の民に受け入れられず、最後には、犯罪者として逮捕され、何の罪をも犯していないのに、有罪とされ、死刑宣告をうけ、十字架で命を失った。

これは、明らかに聖書に書いてある事。

しかし、それだけで終わりではない。

聖書の全ての福音書に必ず書いてある事は、死んで三日目によみがえったという事。

これは、歴史的事実。  そういう意味で、我々はそれを、その言葉を通して理解しなければならないのは、一つはイエス・キリストは、死んだのは事実であるけれども、三日でよみがえった事も事実であり、大事な事。死んで、また生きたという事。

しかも、永遠のいのち。

我々に関して教えられている事も、こういう事。

スミルナの教会は、苦難とか殉教を明らかに経る教会。  殉教は命を失う事。

主も、ラザロと同じように、生きている間、良いものを受けていない。

カルト扱いを受け、追われ、さんざん言いがかりをつけられ、パリサイ人、律法学者に色々質問されて、逮捕され、裁判にかけられ、無罪なのに、全員一致で死刑判決を受け、十字架で殺された。しかし、ラザロの様に入るべき所に入っている。

得るべき永遠のいのちを受けている。

ここで言われている事は、我々も、主のような歩みをして行くならば、もしかすると死ぬような目にあうかも知れないし、自然の寿命で死ぬかもしれない。

しかし、「死んで、また生きた」 ここにポイントがある。

我々はそのあたりを目指して、得るべき永遠のいのちを得るというのは、大事なポイント。

キリストの様に歩むなら、我々も、得るべき永遠のいのちを得る。

 

2:9「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。

 

一つは、主は、苦しみと貧しさを知っておられるという事。

だがここで「しかしあなたは実際は富んでいる」と書かれている。

この様な事を、正しく我々は見て行きたい。

人間的な目だと、どうしても見えるもので測ってしまう。

人間的な視点では貧しくても、主が言われている通り、「しかしあなたは実際は富んでいる」こちらの方が、遥かに価値がある。

真の意味で、神の前に富んでいる事柄というのは、分かる事は、表面には見えない、見た目には絶対に見えないという事。

神の視点と、人の視点とは、全く違う。

でも我々は、大事な事は永遠に残ったり、真に残ったり(真の富とは神の視点で)、我々は、そちらを求めて行きたい。

逆に、七つ目のラオデキヤの教会では、「富んでいる、豊かになった、乏しい事は何もない」と言っているけれども、「実際は、自分が惨めで、愚かで、裸の者であることを知らない」と書いてある。

なので、見える所の事柄ではなく、神の前の富というのを求めて行きたい。

それは、必ずしも目に見える事柄ではない。

レムナントはそちらを目指したい。

「苦しみと貧しさとを知っている。」

残念ながら、日本語の聖書は、どれと言わず、おかしな聖書をそのまま反映している。

ダービーの聖書とか、スコフィールドの聖書など、アメリカの聖書、既に変えられてしまっている聖書がそのまま忠実に反映されている。  改ざんされたものがそのまま日本語に反映されてしまっている。  大事なポイントが反映されていない箇所がある。

そんなところは一応チェックした方が良い。 具体的に言うと、KJVが基本だと思うので、それと比べておいた方が良い。

この9節の中で、「苦しみと貧しさ」とあるが、「苦しみ」と言うと分からないのだが、この言葉は、艱難時代の「艱難」と、全く同じギリシャ語の原語。

だからここでは、艱難時代について学ぶことが出来る。

今のキリスト教界では「艱難前携挙説」が席巻している。

それをもって、キリスト教界の中では、多くの教会が「艱難の前にキリストが来て、上に挙げてくれ、艱難が終わったらそっと降ろしてくれるから、やさしい神様だ」と言っているけれども、それはインチキの教えだと、度々レムナントでは語っているが、この面からも言えると思う。 何故なら、ここで「苦しみ」という言葉をもう一度言うが、艱難時代の事を言っている。

その時に、キリストは、スミルナに艱難が来るけれども、「その前にキリストが秘密の再臨をして、スミルナの教会を持ち上げて、艱難が終わったらそっと降ろす」などという約束は書いていない。実際にそういう事は起きなかった。もし起きれば、歴史として残っている筈だが、

聞いたことは無い。  良くも悪くもそういう事は起きなかった。

同じ意味合いで、同じ言葉が使われているので、これから起きる艱難時代も同じ事。

マタイ24章でも、主はそんなことを約束していない。

「かつてなく、今後もない艱難がある」と書いてあるが、その後書かれている事が「その前に挙げられるから大丈夫」ではなく、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書いてある。

キリストは恐らく、艱難時代の終わりに来る。

この面から見ても、「艱難時代の前に挙げられる」というのはインチキ教理。

9節の後半で「またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」

これは、黙示録の時代に、これから起きる時代という事を考える時に、結構大事な言葉であるというように思う。

エレミヤ牧師もかつてはこの言葉を本気にしなかった。

聖書に書いてあるからと言って、あまりユダヤ人の悪口を言ってはならないと思っていた。

しかし、歳を経て、話が変わって来た。特に小石牧師の本を読むようになってから。

偽ユダヤ人、自らをユダヤ人だと嘘をついてる悪魔礼拝者と書いてあるが、それはあると思い、

しかも、これは、クリスチャンの艱難時代にも大いに影響するし、この世のあらゆる陰謀、

3.11の津波や原発も、ユダヤ人が関係している、など書いたが、福島の原発は、イスラエルのBSPマグナ社・・・日本のあらゆる原発を管理しているが、地震が起きる一週間前にいなくなった。

残ったのは、日本人ばかり。 しかも、モニターでちゃんと分かってて、日本の原発が爆発したのも、遠いイスラエルから爆発の映像を確認していた。これは、かなり怪しいのではないか。

しかも、カメラ型原爆を仕掛けられているのではないかと書いたけれども、そういう意味合いでは、残念ながら、この世の陰謀を含めて、この言葉は正しいのではないかと思う。

牧師はかつて、そうは思わなかったが、我々の知識は聖書には及ばない。

我々の知っている事は有限。

しかし、この箇所に限らないけれども、おすすめは、自分の常識が及ばないにしても、聖書の

言っている事が正しいとする。  そうすると、いつか自分の知識が聖書に追いついて来ることがある。

今は別に、親ユダヤ、反ユダヤとか、そういう事ではなくて、我々は聖書を信じる者なので、

聖書の中で、黙示録で名指しで非難されているのは、この偽ユダヤ人だけ。

現在、ユダヤ人だと言われている人達は、具体的に言うと、アンネ・フランクだとか、色の白いユダヤ人、またはキッシンジャーのような色の白いユダヤ人だと言っている人達、具体的にはイスラエル、またアメリカで、ロックフェラーとかロスチャイルドとか、白人だが、聖書的に言えば、血族的に言うなら、ユダヤ人である筈がない。

何故なら、ユダヤは、アブラハム、イサク、ヤコブ・・・イスラエルの子孫だが、彼らは聖書的にはセム族。  セム族はアジア系。中国人も韓国人も日本人も、黄色人種。

セム系は皆、アジアに住んでいる。

アジア系は、黄色人種。  だから、日本人がユダヤ人という事はあり得る事。

ユダヤ人は白人だという思い込みはある。しかし聖書を調べて行くと、血族的にはあり得ない。

今ユダヤ人と呼ばれている人達の歴史を調べて行くと、すり替わっているらしい。

それは、紀元8世紀頃、ヨーロッパの黒海の近辺には、ハザール人種という民族があったが、

その人達が、民族はそのままで、イスラエルの血族ではないのだが、ある時を境に、そこの王を初めとして、全員がユダヤ教に改宗した。

そして彼らはユダヤ教のあらゆる文化、宗教、教え、言葉をも受け継いだ。

しかし、血族は違う。

本物のユダヤ人はどこへ行ったかはよく分からない。

「ユダヤ人だと嘘をついてる」

確かに嘘をついている。  血族が違う。

そういう事を書いてある本もある。

13氏族」という本が出ている。  宇野正美氏が訳している。

問題は、血族云々ではなく、サタンの会衆という事。

悪魔を礼拝している事。

会衆という言葉。 日本語を読むと、原語では、シナゴーグと書いてある。

シナゴーグはユダヤ教の会堂をまさに指している。

そして、ユダヤ人の内情を語った文書を色々調べてみると、どうもサタン礼拝をしている可能性が高い。

ユダヤ教の教典は、タルムードという。

タルムードは、秘密の書。  何故かというとタルムードは、ユダヤ人自身が、他の人には見せない。 「もし、タルムードに書いてある言葉を、他の異邦人に知られたら皆怒って我々を殺すから、絶対に見せてはいけない」

何が書いてあるかと言えば、あらゆるキリストに対する呪いとか、クリスチャン殺害とか、とんでもない事がたくさん書かれている。(キリストは地獄でこのような苦しみに遭っているとか、キリストは救い主でも神の子でもないとか色々)

最も最上のクリスチャンも皆殺さなければならないなど、あらゆる呪い、キリスト教やキリストに対する呪いが書かれている。

これは、内容から見ても悪魔教典。

また、カバラには、悪霊召喚の方法が書いてある。魔術に関係している。

サタンの会衆(シナゴーグ)というのは、まさに現実を反映している。

我々の常識で物事を考えてしまってはいけない。

やはり聖書は、神の言葉を、我々の常識と違っていても正しいとせよ。

そして、何でこんなことが、七つの教会の中に出て来るのか。

それは、このスミルナの教会の迫害とか、苦難とか、殉教と明らかに関係している。

こういった者達が暗躍して、正しいクリスチャンを牢に投げ入れたり困難に投げ入れている可能性がある。

今のキリスト教界では、そんな事は言わない。

親ユダヤが、平均的キリスト教会のパターン。

聖書の方を正しいとするのが正しい。

もう一つ、さらに積極的に知らなければならない事は、スミルナの教会もそうであるが、サタン礼拝をしている偽ユダヤ人のことは、七つの教会の手紙の中にさらにもう一つ出て来る。

フィラデルフィアの教会の中にも出て来る。

だから、彼らは、悪い意味で、黙示録の中で大活躍している。

むしろ、キーワード。

「ユダヤ人だと嘘をついている悪魔礼拝者」

終末の時代のキリスト教会においても、終末の時代にいろいろ起きて来る事に関しても、やはりキーワード。  この辺りが理解できないと、何故こういう事が起きるかが分からない。

もっとはっきり言うならば、黙示録は、獣の国が起きて来ると、その獣の国が全世界を支配するようになる。その下で、悪魔礼拝が奨励されたり、正しいクリスチャンが逮捕されたり、反キリストがキリスト教界のトップになったりする。そういう事を誰が押し進めるかというと、はっきり今理解できることは、明らかに偽ユダヤ人。

アメリカも、知る人ぞ知る事であるけれども、今はオバマ、その前はブッシュであったが、知る人ぞ知ることだが、アメリカの真の黒幕は、やはりユダヤ人()が支配している。

この事は、よく調べた人は皆そう言う。実際にアメリカの1%の富裕層はみなユダヤ人()

財閥もしかり、政治といい、軍事といい、メディアは特にそうだが、ユダヤ人()の意図しない事は載らない。  要は、アメリカを動かしている。アメリカには強制収容所があるし、そこに人々を収容するための列車もある。 また、ギロチンもある。

用意させたのは、偽ユダヤ人。

彼らのキリスト教に対しての憎しみは、サタンの怒り。

ここは理解しておく。

クリスチャンは何もしていないのに恨まれている。

積年の恨みが、あらゆるクリスチャンに対して来る。

それが日本人であろうと。

恨みが、迫害の原動力になっている。強制収容所をなぜ秘密義に建てるかというと、積年の恨みを晴らすため。

そして、タルムードとかに書いてあるけれども、ユダヤ王が、全世界を支配する。

要は、キリスト以上の者になるという。

反キリストと言うのは、おそらく偽ユダヤ人が、キリスト教界のトップになるという事だと思う。 君臨する。

そういう意味合いでは、聖書の色んな預言と、ユダヤ人()が密かに計画している悪い企みは、

マッチしている。

艱難時代というのは、誰かが用意しなければ、艱難時代は実現しない。

反キリストも誰かが用意しなければ、立ち上がらない。

獣の国の世界支配といっても、誰かが用意しなければ、実現しない。

そういう事を一生懸命やっている人達がいる。

結局はサタンの働きを協力しているだけなので、最終的にはサタンと一緒に地獄の滅びに入って行くので、何もいいことは無い。

ただ、惑わされてやっている人達がいるという事を理解しておかなければならない。

すると、あらゆる事柄の筋道が立って来る。

恐らく「艱難前携挙説」をキリスト教会に入れて来るのもおそらくユダヤ系()

彼らは多くキリスト教界に、巧妙なやり方で入って来ている。  彼らは聖書に詳しい。

語学、ギリシャ語、ヘブル語も詳しい。

聖書の改ざんもお手の物。

言いたくないが、それが現実。

 

2:10あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

 

残念ながら、苦しみを通ったり、また、牢に入れられたりする。

しかし、結局、試しが、悪魔によって許される。

これは、艱難時代に通じる。  同じ意味合い。

やはり、悪魔は個々のクリスチャンが、本物かどうか、試しを持って来る。

それがまさに艱難時代。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

という事。                       

なので、全員がどうか分からないけれども、主が言われている事は、「死に至るまで忠実でありなさい。」という事は、殉教もありうるという事。

キリスト教という宗教とか、クリスチャンがなるという事柄の、意味合いは、我々は正しく理解して行かなければならない。

それぞれの人には、許容範囲というものがある。  クリスチャンでも。

それは仕方がない。

しかし、キリストの教えというのは、我々の小手先の事柄ではない。

そうではなく、永遠のいのちにかかわる事柄なので、その中に、「キリストへの従い」というのは、ここに書いてあるように、掛値なしに、「死に至るまで忠実であれ」ここをも含む。

それは、強制ではない。

我々が永遠のいのちを得るという時に、何もしないで得られれば良いのだが、スミルナの教会は、そういう苦難の教会なので、肉体の命も関係するという事。

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

こちらが大事。

永遠のいのちに関する事柄はやはり、極端な場合には、自分の肉体の命を場合によっては犠牲にするという事がありうるという事は、聖書の教えの一かんだという事をよく覚えておく。

主ご自身も言われた。

「自分の命を得ようとする者はそれを失う。しかし、私のために捨てる者はそれを得る」

他にも、「一粒の麦が地に落ちて死なないならば、そのままである。しかし、もし死ねば豊かな実を結ぶようになる」

だから、「受けるために捧げる」という事がある。

大事なものを得るために、捧げる、という事がある。

肉体の命もそう。一粒の麦。

全く捧げないで、永遠のいのちをゲットと言うのは、あまりない。

その様な場合、やはり、そういった事も考慮していくのも良い。

なので、この辺りは個人個人の自由。

究極の選択に会わないですめば良いが、会った時に、自分はどうするべきか、どこかで定めておいた方が良い。

 

2:11耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』

 

第二の死とは何か。

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

第二の死は14節に書いてある。  火の池に投げ込まれるのが第二の死。

肉体の死を経験するのも一つだが、大事な事はその後、第二の死に入ってしまうという事。

これは聖書に書かれている事。 聖書の中のどの預言も必ず成就する。

黄金門に関しての預言も成就している。エゼキエル書にも、「この門は閉じておけ」と書いてあり、やはり成就している。

キリストが通った時には、この門は開いていた。 イエス様はそこからエルサレムに入場した。

ただその後、聖書の預言通り、10世紀頃、イスラム教徒によって閉じられた。

「それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」

火の池に入るのが、第二の死。

そんなところには入らない方が良い。しかも、永遠に続くので、たまったものではない。

そんな所に入らないためには、

 

20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

我々は、クリスチャン生活を色々やって、入るべき所に入って何ぼ。

火の池に入ったら失敗。

いのちの書に、名前を記されていない者はみな入るというので、いのちの書に名前が記されるという事は、マスト。

サルデスの教会で、「勝利を得る者を、いのちの書から名前を消すことはけっしてしない」という預言がある。消される人もいるという事か・・・

名前がはっきり記された人は、消されないように気を付ける。

名前が載っていないという人は、載るように気を付ける。名前が載るように求めて行く!

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

ここに書いてある事は、数々の書物が開かれた。

ここに自分の行いが記された書物。

そういう意味では、我々の行ないは、みな書かれている。

 

20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

どんな人もこの裁きを受ける。

へブル書には「人には一度死ぬ事と、その後裁きを受ける事が定まっている」とある。

裁判は、有罪になる事と、無罪になる場合がある。

我々も裁きを受ける。

裁判の席に立つが、問題は、やはり、いのちの書に名が記されている時に、(我々は確かに罪を犯すが)あらゆる罪、キリストが我々の罪のために十字架にかかられたし、我々が受けた葡萄酒は、キリストの血の象徴だが、血によって罪を贖われるので、それによって、名前が、いのちの書に記される。キリストを真実に受け入れるなら。

そういう意味では、ここでは若干恐怖ではあるが、また、いのちの書に名前が記されている事の大事さが分かる。 だから我々は、一生懸命福音を伝えている。

我々が勝利を得る時に、第二の死によって損なわれる事は無い。

だから決して、第二の死(火の池)に入ることは無いという事が約束されている。

聖書にはあらゆる約束とか、永遠のいのちに関することが多い。

七つの教会があるが、勝利を得る者に対する約束があるけれども、それも永遠のいのちに関することが多い。

エペソの教会は、最初の教会。 この教会では、勝利を得る者に対する約束は、「いのちの木の実を食べる事を許す」これも、表現が違うが、永遠のいのちを与えられるという事。

スミルナも、第二の死に入らないという事は、やはりいのちの書に名が記されているという事。それを通して知らなければならない事は、我々は、神が、キリストが、大事にしている事というのは、本当に大事な事柄。

真に分かっておられるのは、キリストであり、神である。

その方が七つの教会の約束の中で、繰り返し永遠のいのちに関する事を強調しているという事は、本当にこれが大事。

それを第一にゲットするという気持ちになっていくなら、正しい方向に来ている。

しかし、別の方が見えたり、クリスチャンでありながら、別のものが大事に見えてしまったりするのは、勘違い。

この世の人は大いに勘違いしている。

しかし、聖書の言っている事は正しいので、こちらを求めて行きたい。

我々は違ったものを得る者ではなく、勝利を得て、得るべきものを得る。