ヨハネの黙示録20章12節~15節            2017.5.14

 

 

 

黙示録

 

20:12また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

 

20:13海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

 

 

 

へブル書には、「人には一度死ぬ事と、死んだ後にさばきを受ける事が定まっている」とかいてあるが、まさに神の御前での裁き。

 

その時に、我々が、大事なポイントとして、「行ないに応じて裁かれた」という事を理解しておく。

 

確かに、「信仰によって義とされる」と聖書に書いてあるのは事実。

 

反面ヤコブ書の中では、「行ないの無い信仰は死んだものである」とも書いてある。

 

もし行ないが無いのなら、「死んだもの」と書かれているのも事実なので、行ないの無い信仰ではなくて、行ないに気を付けて行くというのが大事であると思う。

 

今のキリスト教会は、いろんな意味で曲がっている。

 

そして、「信仰によってさばかれた」とは書いていない。

 

「行ないによってさばかれた。」とある。

 

サルデスの教会に関しても、主は、「わたしはあなたの行ないを知っている。」と書いてある。

 

だから、行ないに注目しなくてはならない。それは、律法主義でも何でもない事。

 

あくまでも聖書が言っている事る

 

逆に今のキリスト教会では、聖書にいてある事を否定してまで、「信仰だ、信仰だ、福音の総合理解。」などと言っている。

 

行ないについて、

 

 

 

ルカ

 

10:25すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 

10:26イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」10:27すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

 

10:28イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 

 

 

書いてあるように、「実行=行ない」

 

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と、信じるのではなく、実行して、いのちを得るという事。

 

われわれは、永遠の裁きの前に立つという事を、前提とするならば、やはり、備えが必要であると思う。

 

学校の試験でも、備えをしなければ良い点は取れない。

 

同じように、「行ない」という事を考えなければならない。

 

 

 

10:29しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

 

10:30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

 

10:31たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 

10:32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

 

10:33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、

 

10:34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

 

10:35    次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

 

10:36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

 

10:37彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 

 

 

「行ない」とは何かというと、このサマリヤ人みたいにする事が、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」を実行するという事。

 

ここで、良く理解しなければならない。

 

これは、我々が、永遠のいのちを得るために、解りやすい形で、聖書が語っている。

 

祭司とレビ人が出て来るが、祭司は今で言うと、礼拝に仕えている人。場合によっては牧師。

 

レビ人は献身者。神の前に仕える人だから。

 

今で言うと、神学生と言うべきか。  牧師、神学生。

 

牧師であろうと、神学生であろうと、行ないがあるかと言うと、「見て見ぬふり」実行が無い。

 

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というのを実行したのは、よきサマリヤ人だけだったという事。これは永遠のいのちに関しての問題。

 

まさに神の前で、火の池に入るか、入らないか。

 

「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」という問答で始まっている。 その結論が、「よきサマリヤ人の行ない」

 

では、レビ人、祭司はどうなるか・・・・。 「行ない」が無いので微妙だという事。

 

レムナントは、今は、「あなたも行って同じようにしなさい。」という事を実行し始めている。

 

レビ人や、祭司の誤りというのは、他人事ではなく、クリスチャンが陥りやすい誤り。

 

聖書も教えも解っているが、隣人が困っていても見て見ぬふり。これは明らかに、御言葉を行なっていない。「自分にしてほしい事」をさっぱりやっていない。

 

だから、すべて、あらゆる事は出来ないが、1歩でも2歩でも、行なって行くと、永遠のいのちに近づいて行くので、そういう習慣を身に着けた方が良い。

 

これを契機に、出来る事、行なえる事はやって行った方が良い。

 

その先は、永遠のいのちだと思う。 しかし、毎回見て見ぬふりをしているのは、永遠のいのちから外れるような気がするので、それは避けるべき。

 

今までがそうだったかも知れないが、悔い改めて行こうかと思っている。

 

そうしたら、歩めば歩むほど、永遠のいのちに近ずくと思う。

 

「行ないによって裁かれた」とあるので、そういった事を徐々に見て行きたい。

 

 

 

黙示録

 

20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

 

 

ここでわかる事がある。

 

「死」と「ハデス」、これらがまとめて火の池に入るという事。

 

これからわかる事は、我々が聖書でいう、「死」の中に入っている時に、我々も火の池(第二の死)に入ってしまう。

 

肉体の死は仕方がないが、聖書でいう「死」は避けて行きたい。

 

「ハデス」はKJVで見ると、「ヘル(地獄)」と書いてある。

 

地獄に行った人も、火の池に入る。地獄派は避けたい。

 

そういうクリスチャン生活を送るという事が、いのちに入る1つのポイントになると思う。

 

「死」という事を見て行きたい。

 

 

 

ヨハネ福音書

 

5:24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 

5:25まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

 

 

 

要は「死からいのちに移っている」と書いてあるように、また、「死人が神の子の声を聞く時が来ます。」とあるように、人は皆死んでいる。

 

身体は元気かも知れないが、アダム以来の罪を持っている。

 

しかし、その私たちが、この短い人生にあって、「死からいのちに移る」と書いてあるように、

 

神を信じた人は、死からいのちへ移るという事。

 

死やハデスに入らないというので、我々は、永遠のいのちに入って行くという事。

 

だから、今の時代に、我々がキリストを正しく信じ、永遠のいのちにきちんと入って行くというのが大事。

 

 

 

5:25まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

 

 

 

どんな人も皆死んだ。  しかし、我々も死人であったが、神の子の声を聞いて、生きた。

 

その歩みはそのままいのちに入って行くので、「死」、「ハデス」の範疇に入らないので、火の池に投げ込まれることは無いので、我々の信じた事は、大きな行ないとなって助けになってい

 

る。

 

 

 

8:51まことに、まことに、あなたがたに告げます。だれでもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」

 

 

 

「死」を見る人が、まさに先程の、第二の死(火の池)に入るが、我々も「死」の範疇に入っていたかもしれないが、「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」

 

肉体の死は見るが、後の世でも死を見る事が無い。

 

ラザロがそうであるように、我々の死は、眠る様なもの。

 

何故、「死」の事を「眠る」と言うか。

 

キリストを信じている人は、神の前に死んではおらず、眠っているだけ。

 

我々がキリストの言葉を守るようにしていれば、いのちに通じる。

 

艱難前携挙説は拒否する、同性愛も拒否する、「地獄は無い」という教えも拒否する。

 

キリストの言葉を、死守する事。

 

今は死守しづらい時代。  日本においても同性愛が認知されつつあり、これは、正しいクリスチャンを圧迫する材料になるが、それでも我々は、御言葉を死守しなければならない。

 

いのちや死に関わる事だから。

 

「わたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません。」とある通り。

 

死やハデスを見るのは、第二の死(火の池)に通じるので、これは断固拒否。

 

ここは、譲ってはいけない。弱気になってはダメ。

 

戦うべき時がある。

 

どうでも良い事で戦わず、キリストの言葉に関しては、決して妥協してはいけない。

 

いのちに関わるから。

 

然りは然り、否は否でやって行きたい。

 

そういった事に気を付けて行くなら、我々は、「死」のコースには入らない。

 

そして火の池に入ることは無い。

 

だから、「いのち」の事柄に気を付けねばならない。

 

肉体の命ではない。聖書でいう、いのち、死。

 

「死を見ることは無い」とあるから、我々はどこまでも御言葉を守るべき。

 

これは、永遠のいのちに通じるから。

 

「ハデス」を見て行きたい。

 

ハデスは何かというと、KJVで見ると、「ヘル(地獄)

 

ハデスに入る人は、火の池に通じる。

 

 

 

ルカ

 

16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、

 

16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

 

16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

 

16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

 

16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 

16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

 

16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

 

16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

 

16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 

 

 

ここに書いてあるように、「ハデス」は、どの様な場所か。

 

KJVでは、「ヘル(地獄)」と書いてある。

 

やはりハデスは地獄。

 

対称的に、ラザロは、アブラハムのふところに入っている。

 

23節では、「その金持ちは、ハデスで苦しみながら」と書いてあるから、明らかに苦しみの場所。  我々は、死後、そこに入らないように気を付けたい。

 

しかもハデスはそのまま、火の池に通じているようなので、気を付けたい。

 

「死、地獄」に入る人は、そのまま火の池に入ってしまうという事なので、これは避けたい。

 

金持ちは、どうしてハデスに入ってしまったのか。

 

この金持ちの問題というのは、アブラハムが父。と、いう事は、アブラハムはイスラエル民族の父なので、この金持ちも、イスラエル民族の1人。

 

新約で言うなら、新約のイスラエルであるクリスチャンだと理解出来る。

 

だから、アブラハムの子孫ならば、「私の父はアブラハムだから、決して、間違っても、ハデスとか苦しみとかには入らない」というのは、間違いであると思う。

 

金持ちは、「父アブラハム」と言っている。

 

これは、旧約のイスラエル人に対してのメッセージ。

 

新約聖書のルカによる福音書は、クリスチャンが読む。

 

クリスチャンに対してのメッセージ。

 

それは、新約のイスラエルである我々も、ハデスに入る可能性があると言うメッセージを感じる。    ここは気を付けなければならない。

 

ラザロと金持ちが、どう違うかと言うと、金持ちの問題は、神の御言葉を行なわない、信じない、耳を傾けないなら、たとえその人が、アブラハムの子孫、イスラエル民族であってもやはり、滅びに入ってしまうという事。

 

御言葉に耳を傾け、なすべき事をなして行かないなら、クリスチャンであっても「危ない」というメッセージ。

 

聖書には実現しない事、我々クリスチャンと関係の無い事は名にも書いていない。

 

必要最小限の事が書いてある。

 

ハデスに入ってしまうと、そのまま火の池に直行という事。

 

気を付けるのは「金持ち」のパターン。

 

贅沢に暮らしているが、聖書の教えに耳を傾けない、あれもしない、これもしない・・・危ないという事。

 

我々はやはり、行なうように気をつけていく。

 

そうすれば、そういう心配などは無い。

 

 

 

黙示録

 

20:14それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

 

 

 

死とハデスは火の池に投げ込まれたので、死から逃れるように(肉体の死ではない)、聖書が語る死。キリストを信じ、霊的に甦るような経験をして行くべき

 

「死」のままではダメ。  だからサルデスは危ない。境界線にいる。

 

「生きているとされているが、実は死んでいる」

 

キリストご自身に宣言されている。 だから危ない。

 

これは、明らかにクリスチャンに対しての警告。

 

今は、残念ながら、耳触りの好い福音が語られている時代。

 

耳が痛いメッセージでも、それを聞いて永遠のいのちを得る事にポイントがある。

 

2つ良い事は無い。 1つしかない。

 

 

 

20:15いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

 

 

火の池は、最終的な場所なので、ここに入らない事を目指すべきだが、答えがはっきり書いてある。

 

「いのちの書」に名が記されていれば、火の池に入ることは無い。

 

いのちの書に名が記される事を求めて行きたい。

 

そのために、どうしたら良いか。

 

1つは、狭い道を歩んで行くという事。

 

 

 

マタイ

 

18:8もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 

18:9また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

 

 

 

「いのち」の反対は、「永遠の火、燃えるゲヘナ」

 

キリスト教は、両極端。

 

しかし、聖書に書かれているのだから、そう言わなければならない。

 

絶対に「いのち」に入った方が良い。

 

その時に、1つは、「つまづき」をあらゆる面で排除すべき。

 

「つまづき」になるものは、捨て去るくらいの気持ちを持っていた方が良い。

 

それぐらいシビアな気持ちを持っていた方が良い。

 

悪い事も良い事も全部持ったままで、永遠のいのちに入るという事はあり得ないので、もし、明らかに自分のクリスチャン生活を躓かせる場合、躓きとなるもの切って行く。

 

それがたとえ友達でも。  ギャンブル、パチンコなどでも。

 

そういう意味ではシビア。

 

しかし、そうやって「いのち」に入って行く。

 

それが永遠のいのちに通じるという事。

 

 

 

ヨハネ福音書

 

12:24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 

12:25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 

12:26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 

 

 

自分のいのちを愛する・・・魂(プシュケー)・・自分の好きな歩みをしていく時に、それを失うという事。

 

しかし、この世で自分の命、魂を憎む者は、それを保って永遠のいのちに至るという事。

 

自分の好きな事だけで生きるのではなくて、場合によってはそれを犠牲にする事もあるが、御心を行っていく時に、永遠のいのちに至るという事を、聖書は一面で語っている。

 

黙示録が言っているポイントは、「いのちの書」に名を記されていない者は、みな火の池に投げ込まれたと書いてあるので、我々は何はともあれ、いのちの書に名を記される事。そして名前が記されたら、サルデスみたいに、消されてはダメ。

 

我々が、キリストの義を、正しい歩みとか、正しさを受けたが、結局色々な罪とか、この世の問題とかに巻き込まれて、その衣が汚されて行く時に、いのちの書の名が危なくなるので、そういったところも気を付けて行きたい。

 

今回は楽しいテーマではないが、どんな人も、必ず1度死ぬ事と、死後に裁きを受ける事が必ず、どんなクリスチャンも通る所。

 

しかし、その時になって「そんな事聞いてない」というクリスチャンはいっぱい出そう。

 

逆に、教師が仇になって、それで信者が惑わされるパターンがあまりに多いと思う。

 

「あなたがたは、天地を経めぐり歩いて、一人の改宗者をつくると、彼を、自分の倍勝るゲヘナ(地獄)の子にする」

 

キリストが非難していた教師は、そんな感じだった。

 

それを21世紀の我々が読むという事は、今の時代にも大いにそれがある。

 

耳触りの好い話を聞いていて、最後はゲヘナに入ってしまうという事があり得るので、気を付けなければならない。 

 

聖書に書かれている事を超える必要は無い。

 

しかし御言葉の範囲で、ラザロやサルデスの教会の範囲でも、御言葉の範囲でそれらを捕えなければならない。

 

自分の目で見て、自分の頭で考えて、悟らなければいけない。

 

今回のメッセージも1つのきっかけに過ぎない。

 

今回の聖書箇所も、自分で読んで、自分の納得しない事は、自分の意味の無い事なので、自分で読んで納得するのが良いと思うので、それによって、主にある正しい歩みを示されて行きたいと思う。