ヨハネの黙示録3章7~13         2015.11.8

 

3:7また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。

 

七つの教会のフィラデルフィヤの教会に関して見て行きたい。

言葉の意味が大事。

フィラデルフィヤは、意味合いとして、「兄弟愛」という。

兄弟を愛する。

七つの教会の中でも優劣がある。

フィラデルフィヤの教会に関しては、名前からしても、実態からしても、おそらく七つの教会の中で、一番ベストな、最も素晴らしい栄光の教会ではないかと、研究者達は口をそろえて言っている。

311節で、「わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」

とあるように、すでに冠を持っている。

既に持っているものをただ持っていればいい。

フィラデルフィヤの教会は、具体的にどう良いのか、正直な事を言うと、今一つイメージがわかない。

テアテラはカトリック。ペルガモもカトリック系、サルデスはプロテスタント。

そして、フィラデルフィヤは、素晴らしい教会だが、どこの教会か分からない。

これは、どこの教団教派というものではないと思う。

主はかつて、サマリヤの女と話した。

サマリヤという言葉を知らなければならない。

サマリヤは、北イスラエルの首都。

なのでサマリヤという言葉には、北イスラエルのあらゆる歴史とか、そういう事が裏にひかえている。

サマリアの女は、「あなた方が礼拝する所はエルサレムにあると言います。私たちは、この山で礼拝をしてきました。」

「この山」は、サマリヤ。

北イスラエルの方に本当に礼拝する所があると、サマリヤ人は思っていた。

しかし、エルサレムの人は、「エルサレムこそ真の礼拝所」と言っている。

今の時代で言うなら、カトリックとプロテスタントが言い争っているような話だと思う。

ローマ法王が正しい、否、ルターが正しいといった具合。

その時に、主はこう言われた。「この山でも、エルサレムでもない」「真の礼拝者が、父を礼拝する時が来る、父は、そのような礼拝者を求めている。神を礼拝する者は、霊とまことを持って礼拝すべきである」 そういう意味で言うと、プロテスタントでもカトリックでもない時が来る。真の礼拝者を神は求めておられる。

フィラデルフィヤは、真の礼拝者の歩みではないだろうか。

物理的にどこがフィラデルフィヤか、また、どこの教団かとかは言えないのではないだろうか。

今の言葉で言えば、サマリヤでも、エルサレムにも、真の礼拝者がいたのではないかと思う。

イエス・キリストの時代で言えば、十二弟子のように、真に主について行った人達が、「真の礼拝者」ではないだろうか。

そういう意味で、フィラデルフィヤは、どこか、どこの教団かは言えない。

「兄弟愛」の意味。

 

ヨハネによる福音書

21:17イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

注釈のついている聖書では、「愛する」という言葉に注釈がついている。

ギリシャ語で、「フィレオー」

フィレオー = これが正に兄弟愛の「愛」という意味。

なので、フィラデルフィヤの中で、フィレオー()という言葉が使われている。

この言葉と、まさにフィラデルフィヤ(兄弟愛)には関係があると思う。

「わたしを愛しますか」と主は3度ペテロに聞き、ペテロも「愛します(フィレオー)」と答えているが、要するに、真の兄弟であるキリストを愛する教会。そういう意味合いではないだろうか。

真の兄弟であるキリストを愛する。

主イエス・キリストは、われらの為に命をお捨てになり、これによって我々は愛を知った。

また、他の聖書箇所では、「人がその友のために命を捨てる。これより大きな愛は無い。」とあるが、極端な事を言えば、最も大きな愛は、殉教にもなりうる。

真の兄弟であるイエス・キリストを愛して行く教会の歩みではないか。

その時に3度聞いたというのがポイント。  ペテロは3回聞かれている。

このペテロの言葉が本当に大事になって来る。

キリストを真に愛する教会。それは3つ目のミレニアムの時ではないか。

まさに今こそ、真にキリストを愛する歩みが大事。

ペテロがキリストを否定する時も、3度否定している。

ペテロは、良い意味でも、悪い意味でも預言的。

代々のローマ法王は、皆ペテロの後継者。

イエス・キリストを裏切るローマ法王を代表とするローマ・カトリックが、キリストを裏切る時も3つ目のミレニアム。

今のローマ法王は、「キリストの十字架は失敗だった」などと言っている。

我々も兄弟愛すなわちフィラデルフィヤの歩みをしたい。

レムナントは、プロテスタントであるが、理想は、フィラデルフィヤの道を歩んで行きたいと思っている。

この歩みをしていく時に、大事なポイントはやはり、キリストを愛する歩み。

最も極端な愛は、「人がその友のために命を捨てる。これより大きな愛は無い。」

いのちは最も大事なもの。極端でないにしても、要は、自分にとって大事なものを、主に捧げて行くというのが、「愛」なのではないか。  それが、結果として、フィラデルフィヤの歩みに繋がって行くのではないかと思う。

祈り、聖書を読むのに時間を割く。それが奉仕につながって行く。

この世のものより、聖書を読んでいく、それが大いに主を愛する働きの一環。

聖書を読まずに奉仕はありえない。

これからレムナントは、弟子の歩みの人は時間、エネルギーを割いてメッセージをして行こうと思うが、これも、大いに主を愛する働きの一環。

黙示録の3章7節に「聖なる方、真実な方、」とある。

真実、要は「真理」

「真理」という言葉が、終末においては非常に大事になるという事をよくよく理解する。

終末の日の特徴というのは、あらゆる偽り、インチキが、大量生産するように、周りを覆って行くという事。

神学校も油断ならない。

某神学校へ行った人に、「主の日に関して良い学びがありましたか」と聞いたところ、全くダメだった。「優しい優しい天のお父様」、こればかりだった。

父なる神が、優しくないとは言わないが、大分違う。

今は偽りが、グッと、キリスト教界を覆って行く時代。

主は、真理なる方なので、我々は真理を求めて行く。

なので、残念だが、正直な事を言うと、キリスト教界の中の常識は、大抵疑った方が良いと思う。結構偽りが入っている。

なので、やはり真理は非常に大事。  そういう意味では、残念ながら、インチキが大いに、あれもこれもという感じで来ている時代なので、ここで主が「真理」と言われているのは、意味のあることであって、色々な事を吟味して、正しい真理を受けていく態度が非常に大事。

「真実な方」とは「真理」

そして、「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」

閉じるとか開くとは、何を言っているのか。

これは、黙示録の封印とか、啓示に関しての門ではないか。

ダビデの鍵はまさに、

 

5:3しかし、天にも、地にも、地の下にも、だれひとりその巻き物を開くことのできる者はなく、見ることのできる者もいなかった。

5:4巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。

5:5すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」

 

と書かれている。 ここで、封印が開かれる事と、ダビデが関係している。

これは二重の意味合いがある。

ダビデの根。イエス・キリストご自身が、ユダ族の獅子、ダビデの根であられる。

つまり、キリストを通して開かれるというように理解するのが一面正しい。

しかしまた、未来の預言という事柄から読むと、我々の理解によるならば、ユダ族の獅子というのは、本当のユダヤ人の子孫、ダビデの根というのは、万世一系の、ダビデ以来の王朝を保っている、日本の王族、皇族、または日本の民族に関係していると理解している。

今、世界で言われているユダヤ人と呼ばれている人達は偽のユダヤ人。

だから、もしかすると、日本から黙示録の封印は開かれて行くのではないだろうか。

我田引水だが、レムナントでも、数多くの封印が開かれているので、この事は少なくともレムナントでは、預言は成就すると理解している。

黙示録の3章7節では、「ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」

鍵を持って、門を開く。宝箱や金庫も鍵で開ける。

そういう意味合いでは、ダビデの七つの封印が関係して来るので、明らかに終末の啓示とか、

封印、こういったものは、フィラデルフィヤの教会に対して開かれて行く。

フィラデルフィヤの教会は、この方が特別に、フィラデルフィヤに声をかけているという事は、啓示の開かれて行く教会であり、特に終末の啓示、終末の封印が開かれて行く教会ではないかと思う。

ダビデの根と言っているので、フィラデルフィアというのは、ある意味、日本と無関係ではないのではないか。  レムナントも関係あるかも知れない。希望が大いにあると思う。

ダビデの鍵を持っている方は、イエス・キリスト。

彼が開くと閉じる者は無いというように、封印とか、啓示に関して書かれているが、多くの人が、封印、啓示を開こうと思っている。  七つの封印。

勘違いしてはならない事は、封印を開く鍵は、主が個々の教会に開こうと思われたなら、開く。

キリストに、大いにかかっている。

 

3:8「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

 

「だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。」

これは、前の節に通じる。

フィラデルフィアこそ、門を開き、封印を開き、啓示を開く教会。

明らかにこの教会を通して啓示が開かれて行く。

さて、どうしてこの教会には開かれるのか、他の教会にはこんな約束は無いのに、えこひいきしているようにも見えるが、その理由が書いてある。

「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」

他の啓示が開かれない人達にもその理由がある。

キリストの言葉を否んで、祝福ばかり説いたりする。

我々が本当に、終末の啓示を求めて行きたいと、またはそれに関して恵みをいただきたいと思うなら、こういった歩みをする。

一つは、キリストの言葉を守る。 都合の悪いところを省いて、都合のいい事ばかり語るのは、キリストの言葉を守っていない。

自分の都合で、御言葉を盗む歩みに入ってしまう。 そこには祝福は無い。

啓示も全く開かれない。

今は、かなり的外れなとんちんかんか事を言っている牧師が多い。

もう一つは、「わたしの名を否まなかったからである。」

これが、これから大事な事になって来るので気を付ける。

今はそうでもないかも知れないが、これからそういう時代に入って行く。

キリストの名前を言いづらい時代になって行く。

キリストの名を言うだけで、「カルトだ」など、偏見な目で見られる。

しかしこれは、「試し」

世界中の誰にも来るテスト、試練の時。

試験は、全員に共通。  みんな同じ試験を受ける。

キリストの名を言いづらくなる時代が来るのは、平等。

その時、自分はどうするかという事はよくよく自己判断して行くのが大事。

日本でも嫌な雰囲気が出て来ている。

アメリカで同性愛に関連して次々にクリスチャンが逮捕されたり、懲役47年とか、同性愛に反対するデモをしただけで捕まったり・・・日本でも大分そういう気配が出て来ている。

渋谷区で条例が出て、同性のカップルを認める、これに反対する業者は名前を公表するとまで言って来ている。  この辺はアメリカと同じ、「同性婚のカップルにはウェディングケーキはクリスチャンとして作れない。」と言っただけで大きな問題になる。

ケーキ屋は潰され、喫茶店も非難された。

そういう予兆が日本でも感じる。

なので、段々と、キリストの名を言いづらい時代が来る。

「わたしの名を否まなかった」これから段々と大事になって来る。

二つ良いことは無い。

啓示を受けたいけれども、キリストの名を否定する、そういうわけにはいかない。

キリストの言葉を守ったり、キリストの名を否まなかった時に、やはり主が、啓示の門とか、

封印の門を開いて下さる。

エリヤが来たら、主の日が近い。

終末でもエリヤが来るのは明確であり、預言されている

黙示録11章の二人の預言者。明らかにエリヤのしるし。天を閉じて雨を降らせない。

いろんな啓示が開かれている。

他の教会では全く誰も見ていないが、「獣の国」はアメリカ。

これは、明確な事柄であるし、「終末の日に宮が崩壊する」とあるが、エルサレムではない。

そもそもエルサレムに宮は無い。イスラム教の黄金ドームがあるので、そこに宮が建つわけがない。

これは明らかに、物理的な宮ではなくて、神の宮としての「教会」が崩壊していく。

根本的な教会の土台である教理が、使徒、預言者、イエス・キリスト。

根本的な、使徒、預言者、キリストの教えさえ、崩されて行くという預言。

これはみんな啓示されてきた。

やはりキリストの言葉や名前を否まなかったから。

キリストの言葉を選ぶ事が出来たので、そういう祝福が来た。

なので、神の言葉、キリストの言葉は本当に真実であるという事をよく覚えておく。

キリストの言葉を守って行ったら祝福、啓示、封印が解かれるとかが来る。

フィラデルフィヤは、そういう教会。

 

3:9見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。

 

ここでまた、「ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たち」が出て来ている。  それと関係するかというように、10節では艱難時代について書いてある。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

全世界が艱難時代に入る。

七つの教会の中で、教会の中に正しい真理が広まらない、また、クリスチャンが、永遠のいのちを得るのを失敗するため、間違った教理を掴むために、ユダヤ人だと嘘をついている者たちが、関係しているように思われる。  それだけでなく、艱難時代の画策も、こういった人たちが関係しているように思われる。 聖書はそれを語っている。

なので「ユダヤ人を憎んでいる」と言われるかもしれないが、我々は良くも悪くも、御言葉が語っている事に留まりたい。

やはり、キリスト教会の中にも、ユダヤ人だと嘘をついている者たちが、結構紛れ込んできていると思う。

ピーターワグナー、キャサリンクールマンは、ユダヤっぽい事を言って来る。

ピーターワグナーは聖霊の第三の波を提唱して色々なリバイバル運動を起こした人だが、彼の記述を見ていると、タルムードの考えではないかという事が結構ある。そういった偽ユダヤ人が入って来ている可能性が大いにある。

「聖霊の第三の波」はそもそも、悪霊であるし、しかも「霊の戦い」などというものは、権威ある御使いに戦いを挑んで、災いに遭うような教え。

騙されている人は結構いる。

聖書の警告は大事な事が書いてある。我々が真面目に読んでいないから結構分からない。

色々なインチキな教えに偽ユダヤ人が絡んでいる。

ビリーグラハムも偽ユダヤ人ぽい。彼の息子の国籍はイスラエル。なので偽ユダヤ。

ビリーグラハムのしている事を調べると結構怪しい事が多い。

彼が、「カトリックには何の問題も無い」と言ったために、福音派の人達がどどっとカトリックに流れて行って、誰も批判する人がいなくなってしまった。

キリスト教書店に行っても、カトリックの問題を指摘する本は無い。

だから我々がやっている。

そういう、巧妙な方法で、正しい道が、偽ユダヤ人にやられているようである。

インチキを持ってくる人達も、フィラデルフィヤで真理が開かれて行く時に、真理に勝つことは出来ない。

「見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。」

ひれ伏すのだから、負けるという事。

なので、フィラデルフィヤで示される真理というのは、偽りを砕いて行く。

JNダービーもどうも偽ユダヤっぽい人。

艱難前携挙など、結構インチキな教えが彼を通して入って来ている。

しかしそれも、フィラデルフィヤの中でひっくり返されて行くのではないか。

 

3:10あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

一つは、全世界に、試練の時がこれから来るという事。

これから来る全世界のクリスチャンに対して、試みの時が来る。  誘惑の時が来る。

聖書に書いてあったら、とりあえず「そうなんだ」と、全世界に来ると思うべき。

自分には来ないだとか、まして、艱難前に挙げられるから艱難に遭わないなどというのは、全くの間違い。

艱難時代が具体的にどの様にして来るかは、ダニエル書にある、かねてから言われているように、終末の日に獣の国が全世界を支配する様になるという事になる。まさにダニエル書が預言している事。

第四の獣と書いてあるが、第一の獣、第二の獣、第三の獣はそれぞれ、当時の世界大国。

バビロンと言い、メディアペルシャといい、ギリシャと言い、世界を支配した国。

第四の獣も当然、世界支配の国になる。  アメリカはまさにその国だと理解出来るけれども、

日本もすでにアメリカに支配されていると言う人も多い。

今回の戦争法案も、アメリカの言いなり。

一つは試練の時が来るという事。

一つは、津波のような日が来る、しかもこれから先の事。

我々は、その日のために、備えをしなければならないという事。

だからそういう意味で、聖書の中で、賢い人、愚かな人。 砂の上に家を建てる愚かな人。

岩の上に家を建てる賢い人。  我々は、今だけを見ていても分からない。

艱難の日を想定して備えをするのが正しい。

主の日の戦いはこれから来るわけだから、備えるのが正しい。

我々はその為に、サービスとして、レムナントメンバーを募集している。

単に聞くだけでなく、その日を想定して、留まれるような歩みをして行こうというのが、主旨。

10節で、フィラデルフィヤに関しては、主の特別な守りがある。

「試練の時には、あなたを守ろう」

テアテラとはえらい違い。

理由なきえこひいきは無い。

「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」

やはり、言葉を守る事が大事。

なので、我々は、今は、言葉を守らない時代だという事を言える。

他の人にこういう約束は無いという事は、みんな、神の言葉に関して不忠実だったり、いい加減だったりする。だから、忠実に神の言葉を守り、小さなことに忠実な歩みをしていく事が、

その日に守られるという事は覚えておく。

他のみ言葉にも、「小さなことに忠実な者は、大きな事にも忠実だ」

聖書の中にはかなり、忠実な歩みという事が言われている。

忠実な歩みとは、一回二回やったところでやめないという事。

艱難の時に、転ぶとか立つというのは、結局キリストが守るかどうか。

みんな自分次第だと思うかもしれないが、違う。

キリストは本気を出したら守られる。

たとえ転んでも守られる。

どんなに能力があっても、キリストが守らなければ、惑わされたり、試練の中でずっこけてしまう。

主が、その人に対してどの様に思われるかが、一番大事な事。

言葉を守れば、守られる。

主は、そういう方。

 

3:11わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。

 

このフィラデルフィヤは、既にいのちの冠を持っている。

フィラデルフィヤのポイントは、既にあるべき所に来ているから、そこから惑わされて冠を取られないようにということ。

また、「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」

なので、教えられたことをずっと継続していく。  最後の最後で、放棄しない、惑わされたりしない、そこがポイント。

レムナントも、主の憐れみで、かなり大事な啓示や必要な事を教えられて来た。

終末の獣の国も分かった。  弟子の歩みが大事だとか、など。

あとは、最後までしっかりと保つこと。

最後まで守れば大丈夫。    問題は途中でずっこけて、違うものを掴んでしまうとか、変な事を書いたり、不信仰になってやめてしまったりすると、危ない。

最後の最後に引っかかって、変なものを掴んでしまう事も結構あるので、どうぞ最後まで持って行く、また、「選民をも惑わす」という言葉が聖書にある。

選ばれている歩みをしている人をも惑わそうとする惑わしも来るので、持つべきものをしっかり持っていること。

 

3:12勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

 

この節で気になるのは、「彼はもはや決して外に出て行くことはない。」

これは、教会から追い出されるような感じがする。

イエス・キリストもある意味追い出された方。

イエス・キリストが十字架につけられた時に、暗示的だが、都の外で、十字架につけられた。

我々も、主の後を追って、陣営から出て行こうではないかという。

そういう意味でレムナントも、どこから追い出されるか分からないけれども、追い出される事を気にしてはいけない。

「彼はもはや決して外に出て行くことはない。」という事は、地上においては結構仲間外れにされた感じがする。しかし、二つ良いことは無い。今の地上の教会で、クリスチャンにチヤホヤされて、大人気で、どんどん献金が来て、後の世においても、天国の一番いいところに場所があるなどという事はあり得ない。

イエス・キリストでさえ、そんなことは達成していない。

キリストに似た歩みが出来れば良しとせよ。大体同じような歩みに入れば、ショックも無い。

ショックを受ける人は勘違いしている。

ショックを受けずとも、後の世では入るべき所に入るので、今の世で追い出されても、後の世で入れば良い。

 

3:13耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 

是非、主が言われる事を聞いて行きたい。