ヨハネの黙示録4章             2015.11.22

 

4:1その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

 

門。例

3:7また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」

3:8「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

 

いろんな啓示とか、働きに関しての「門」が開かれる。

天において、これらの門は開いているので、我々も天的な歩みをしていく事が大事。

「先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声」と書いてあるように、

黙示録のラッパというのは、旧約聖書でいう角笛のこと。

角笛というのは、我々も、「警告の角笛」というホームページに書いてあるように、警告の時に鳴らす。今で言うサイレンみたいなもの。

そういう意味では、黙示録全体がそう。何かというとラッパとか、角笛など色んなものが出て来るが、警告という意味合いがある。

黙示録を読んで、我々が警告を受けるなら、正しい事。

「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

「上れ」というのは、何か意味がある。

2節で、「たちまち私は御霊に感じた。」とあるので、上るという時に、御霊に感じる。

前の方でも、「主の日に御霊に感じた」と黙示録の初めの方にある。

御霊に感じる事が、天に通じるように読める。

ポイントはやはり、御霊に感じる、御霊に触れて行くことが他でもない天に上って行ったりする事と大いに通じると思われるので、そちらの方に重点を置く。

「この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

ここも、非常に象徴的。

黙示録の出来事は、(黙示録だけではないが 聖書の出来事というのは、いったん神が書いたら、取り消しは不能。偏向不可能。

我々が出来る事と言うのは、主によって封印を開いていただき、何が起きるのかを示していただくくらい。 この事は、正しく理解して行きたい。

書かれた事は、必ず起きて来る。

なので、我々においても、イエス・キリストにおいても同じ。

イエス様は、エルサレムの崩壊の事をご存じであった。

御自分が十字架につけられた数十年後に、エルサレムがローマによって滅ぼされ、崩壊していった。

これは、主にあっては、見えるような事柄だった。

だから、都を見て、涙を流された。

同じように、終末の事柄というのは、変えようがないという事柄。

イエス様でさえ、エルサレムの崩壊をとどめる事が出来なかったように、定まっている事は、変える事が出来ない。

だから、我々に出来る事は、せめて、啓示を正しく受け、それを警告して行くということ。

我々はそういった事柄を、正しく主によって啓示され、知らせて行きたい。

アメリカが獣の国だと我々は確信しているけれども、アメリカは、今でもすでに横暴だが、もっと横暴になって、全世界を掌握し、世界帝国になる。

アメリカは、ダニエル書によれば、4番目の国だが、その以前の3つの国は、バビロン、メディアペルシャ、ギリシャであったが、いずれも世界帝国だった。

だからアメリカも必ず、世界を征服する。

なのでイスラム国などは、やらせ。

みんなそれを通して、アメリカが世界支配の方向に行くという理解が正しいが、これは、「獣の国」として書かれている事なので、変えようがない。

これは、ある意味では今のクリスチャンへの裁きとして、教会がアメリカによって背教して行くという事も、変えられない。

我々が精々できる事は、正しく見、正しく警告して行くという事だけ。

皆が脳天気なのは、見ていないので、安穏としているから。

都を見て、主が涙を流したが、弟子たちは「見ていないので」気楽だった。

しかし、我々はやはり、見えて来ているので、語って行くのが正しい。

 

4:2たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、

4:3その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。

 

天に一つの御座がある。 御座というのは王の座る所。

「御座」というのは、どういう言葉かと言うと、日本語ではあまり出てこないが、「神の国」という言葉と関係する。

神の国というのは、教会の事だが、英語では、Kingdom of  Godといって、「神の王国」という意味。「神の国」よりも「神の王国」と訳した方が正しい。

王国とは何か。王が治めている国を、王国という。そして、新約聖書の中で、神の国は、「三サトンの粉に女がパン種を・・」とあるが、色々書いてあるが、神の国は何かというと、はっきり言うと「教会」の事。

「神の国」は教会の別名。  なので、我々は教会という事を考える時に、これは、神の王国なのだという意味。

日本は王国とは言えない。

王国とは、王が治める国。大臣を任命したり、裁判官を任命したり、刑を宣告したりする。

今の日本の天皇は、そういう事をしておられない。

だから、そういう意味では、正確な王国ではない。

戦前はそうだったかもしれないが。天皇陛下が任命していた。

王国というのは、王がみんな治めている国。

そうであるが故に、ここに、4章には「御座」とある。これは、真の教会の王が、天の御座に座っておられるという事。

この事は、昔からそう。

王国と関連して理解しなければいけないという事は、我々は王国の住民なので、そういう意味では、基本的には、王のしもべ(王はイエス・キリスト)は主の言われている事に従って行くというのが正しい。

逆に、敵のいう事を掴んでしまったり、キリスト以外の王である反キリストなどを掴んでいく時に、災いに遭うという、そういう事柄はよく覚えておく。

不思議な事だが、教会というのは、信仰で歩んでいる筈であるが、クリスチャンは、そのあたり、信仰を持っていそうで、全く信仰を持っていない。

ローマ・カトリックの人は特にそう。

教会の「御座」に、ローマ法王を座らせている。   本来、御座に座るのは唯一の王キリスト。

肉眼で「見える」王ばかりに目が行っている。  ローマ法王は本当の王ではない。

「聖書にも間違いがある」と言ったり、「キリストよりマリア」等を信じ、災いに入って行く。

御座は、王が座る場所。

我々が再度理解しなければならない事は、真の王は、昔からイエス・キリストただお一人。

なので、レムナントは、たった一人しか王様はおられないので、この方の言われる事を正しく聞き、行なって行くなら、後に誉を受ける。

しかし、違う者に従ったり、(プロテスタントにも色々王がいる。ベニーヒンなど)いう事を聞いたり、「ビリーグラハムのいう事は正しい」とか、そうすると災いに入ってしまう。

ここでは、どなたが王なのかという事をはっきりする事が、大いに大事な事柄。

この事は、是非覚えておく。「御座」とは、王が座る場所であり、教会は、「神の王国」

そして、唯一の王は「イエス・キリスト」のみ。

この方に従って、正しく行なって、間違えても、この方に従って行こうと決意する時に、大いに祝福を受ける。

しかし、多くのクリスチャンの問題は、結局は人を見てしまい、人を王としてしまうという事。

そういう大きな間違いが、どこの教団でもどのクリスチャンでもある。

そういった事に入る事が無いように、正しく見て行きたい。

「緑玉のように見える虹があった。」と書いてある。

「虹」というのは、ノアの洪水の時のように、H2Oの水で滅ぼされることは無いという契約。

しかし、ニュアンスがある。

「世の終わりの時はノアの時ようである」と主は言われた。

H2Oの水で滅ぼされることは無いが、霊による洪水で滅ぼされる事はある。

それは、祝福に見えるけれども、洪水の合図。

世の終わりには、霊的な洪水が必ず来る。

そういう意味では、虹は、警告の一端を握っていると思われる。

 

4:4また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。

 

24人の長老。何故24人なのか。

旧約のイスラエルは12部族。

主は、「あなた達は私と共に座に座って、イスラエルの十二の部族をさばくことになる」と言われた。

12使徒は、12人の長老になって行く可能性がある。

12使徒の中のヨハネも長老。

24人なので、これは、旧約、新約、両方のイスラエルを合わせて、24人。

旧約の長老、新約の長老、どちらに対しても、イエス・キリストは王。

「金の冠」・・・これは「信仰」

 

4:5御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。

 

「いなずまと声と雷鳴」とは、雨であるが、怖い雨。

どう見ても、これは裁きの事を暗示している。

「御座」という事柄、天に「御座」があるという事柄から見て行きたい。

天の御座の箇所は、エゼキエル書に出て来る。

黙示録だけ見ていると、全ては理解できない謎や封印がある。

黙示録の記述はあらゆる旧約聖書からの引用がなされている。 創世記も、エゼキエル書も。

引用箇所を見て行く時に、本来、神様が黙示録で語っているメッセージが段々見えて来る。

なので、「聖書は私的解釈をしてはいけない」とあるが、「その箇所のみから解釈してはいけない」という意味もある。 つまり他の箇所を参照していく時に、見えて来るという事なので、是非、参照すべき。

黙示録の中で、4章の中に、「生き物」とかいろいろ出て来る。

エゼキエル書の15節に、「その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。

これは、先ほどの黙示録4章に出て来る。

そして、エゼキエル書の110節には「彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」

黙示録4章にまさにこういう生き物が出て来る。

黙示録4章は、明らかにこのエゼキエル書の中から引用されている。

そして、このエゼキエル書の中に、「御座」も出て来る。

 

エゼキエル書

1:26彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。

 

ここに王座(御座)があって、人の子が・・・とあるので、これは他でもない主ご自身が、ここに座っておられる。

真の神の国、教会の王は、イエス・キリスト。

この1章を読んでいく時に、メッセージが分かって来る。

エゼキエルに対して、書いてある言葉を見て行く時に、それはそのまま黙示録へのメッセージ。

 

2:1その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」

2:2その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちにはいり、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた

 

ここでエゼキエルはメッセージを、主ご自身から聞く。

ここから語られるメッセージは、黙示録の中で、主が言いたいメッセージ。

この辺りは、黙示録に引用されていない。

この辺りは「察せよ」、暗示されている。

黙示録はそのあたりで、封印が封じられているので、そういう意味では親切な書ではない。

すべて至れり尽くせり一目瞭然という事は無い。

しかし、封印の鍵は与えられている感じがする。

黙示録の中で、御座とか、4つの生き物が黙示録の4章で出て来るが、それらを通して、この箇所を「見よ」という事。  エゼキエル書の御座の箇所を。そうすると、何故黙示録で、「御座」とか「四つの生き物」が出て来るとかが分かって来る。

 

2:3その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。

 

この時は、旧約のイスラエルだが、捕囚の民とか、そういう民に関して、エゼキエルが遣わされた時に語られた言葉。

その時に「あなたはイスラエルの民」と書いてあるが「祝福あふれて、従順なイスラエルの民」とは書いていない。

そうでなく、「私に背いた反逆の国民」とある。「今日もそうである。」と書いてあるように、

旧約のイスラエルに関して、主は明確にそのメッセージを語っている。

それは、もし、エゼキエル書のみで終わっているならば、それは旧約だけの事。

しかし、黙示録は、未来に関して語られていることであり、終末に関して語られている事であり、今の時代のさらに先の時代に関して語っている。

そこでまさにこの事が、エゼキエル書のこの箇所で「御座」、「4つの生き物」が出て来るのは何かというと、今の新約のイスラエルである教会も、全く反逆の国民だという事。          「彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。」             

今も背いている。 だから、正しいメッセージは、新約のイスラエルである教会、クリスチャンは、神に背いているというのが、まさに黙示録4章で語られているメッセージ。

ここを外してしまったら、メッセンジャーとして0点。

最も大事なポイントを見て行かなければならない。

残念だが、今明らかに、教会で語られている黙示録、終末論は、最も大事なポイントが語られていない。  それでは警告にならず、読んだ事にもならない。

ここは覚えておきたい。

ここで、エゼキエルに語られているメッセージはまた、レムナントがもし、この時代のメッセンジャーとして立つならば、我々に対しても語られていると理解出来る。

 

2:4彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。

 

なので、もし何かを語るときには、その様に語らなければならない。

 

2:5彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

2:6人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから、そのことばを恐れるな。彼らの顔にひるむな。

 

こういう心構えを持たなければならない。

反逆者というのは、素直に聞かないから反逆者であるのであって、「なんだこの野郎」と言われても、気にしない。

 

2:7彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。

2:8人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」

 

我々がこの働きをして行くという時に、まず食べなければならない。なぜなら「食べよ」と書いてあるから。

 

2:9そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。

2:10それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。

 

この一つの巻き物とは、聖書と言えば聖書。

黙示録と言えば黙示録。

同じような巻き物が、黙示録にも出て来る。

7つの封印がされた巻き物、表にも裏にも字が書いてある。

それがまさにこの巻き物。

巻き物の基本は、「哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。」

非常に残念だが、やはり黙示録のメッセージなどは、普通に、神が語られたように読んでいく時に、それは哀歌になる。嘆きと、悲しみになる。

イエス様が都を見て、泣いて言われた・・というように、滅びなので、嬉しい話ではない。

誰かがこの奉仕にあたらなければならないので、レムナントがこういう召しにあたったら、自分の感情を交えず、淡々とこれを語って行かなければならない。

それは覚えておく。

なので我々はこの巻き物に関してのメッセンジャーとして成していくなら、哀歌と、嘆きと、悲しみがある。  クリスチャンにとって、滅びとか、背教とか、反キリストが教会を席巻する

など、良いニュースが一つもない。

主が召したことを語って行かなければならない。

 

3:1その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」

3:2そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、

3:3そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。

3:4その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。

 

エゼキエルはここでメッセンジャーとして召されているが、その前に一つなすべき事がある。

それは、巻き物を食べて腹ごしらえをする。

ここで言わんとしている事は、我々がもし、神の民に語る、終末の御言葉を語る奉仕に与る時、まずしなければいけない事は、やはり「巻き物を食べる」という事を覚えておく。

腹ごしらえをしないと、奉仕にならない。

食べて、それが血となり肉となっていく。

それがちゃんと我々の実になって行くと、奉仕になって行く。

レムナントのやっている事が、まさにそう。

はっきり分かる事は、我々が、これを聞いて、食べていく時に、その時我々は語る事が出来て来る。一回きりではなく、ある程度食べて行かなければならない。

そうすれば、語るべき事が出て来る。

この事は、覚えておく。

聖書の読み込み、弟子の歩みで、聞く事。 そういった事が、巻き物を食べる事に通じる。

実際にこの事を繰り返すと、確かに、人に語る言葉が出て来る。

ちゃんと食べていく事が、語る事の前提。

食べずに、いきなりというのは難しい。  語る前に食べる。

 

黙示録

4:6御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。

4:7第一の生き物は、ししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶわしのようであった。

4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

 

「昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」   これは、主ご自身。

この方こそ、教会の王であり、また、神ご自身。だからキリストこそ神ご自身。

「四つの生き物」の事を見たいと思う。

ここで突然、四つの生き物が出て来る。

これは何かというと、

 

エゼキエル書

1:5その中に何か四つの生きもののようなものが現われ、その姿はこうであった。彼らは何か人間のような姿をしていた。

1:6彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。

1:7その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、みがかれた青銅のように輝いていた。

1:8その翼の下から人間の手が四方に出ていた。そして、その四つのものの顔と翼は次のようであった。

1:9彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。

1:10彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。

1:11これが彼らの顔であった。彼らの翼は上方に広げられ、それぞれ、二つは互いに連なり、他の二つはおのおののからだをおおっていた。

1:12彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。

 

一つは、「生き物」と書いてあるので、「罪に死んだ」とか、そのような人ではないという事。

聖霊にあった、生きた歩みをしている人。  正しい聖徒、主にあって、聖霊にあって生きている聖徒であると思う。

結論として、これは、弟子の歩みをしている人ではないかと思う。

こういう人たちに大きなポイントがある。

黙示録の4章でも「四つの生き物」が出て来る。

「四つの生き物」とは、四つの生き物で、それぞれ6つの翼があると書いてあるから、もしかすると、24人の長老を表している表現ではないか。

長老になるような人とか、主の御心を担い、御座に、主と共に入る歩みをしている人、そういう弟子の歩みの人達に関しての説明が、まさにエゼキエル1章に書かれていると思う。

もう一つは、5節で「彼らは何か人間のような姿をしていた。」とあるから、やはりこれは人間であり、弟子の歩みをしているクリスチャンであると思う。

7節、「その足はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏のようであり、」と書いてあるように、

牛は、ひずめが分かれている。つまり、この世と分離している。罪、汚れから分離している歩み。そこに大きなポイントがある。

それが、弟子として神に喜ばれる歩みである事を覚えておく。

9節、「彼らの翼は互いに連なり、彼らが進むときには向きを変えず、おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。」

「向きを変えない」という事。  真っ直ぐ歩む。 単刀直入に従って行く。

「おのおの正面に向かってまっすぐ進んだ。」 これが正しい。

10節、「彼らの顔かたちは、人間の顔であり、四つとも、右側に獅子の顔があり、四つとも、左側に牛の顔があり、四つとも、うしろに鷲の顔があった。」

聖徒の4つの特性を表すと言われている。

人間の顔は、知性とか。 右側に獅子の顔。獅子は百獣の王なので、勇士としての歩みだと思う。「牛の顔があり」牛はきよい動物。反芻をする。御言葉を反芻したり、世と分離する。

また、鷲は天高く上るので、御霊によって、高く上がるようなクリスチャンの歩み。

こういった人たちにポイントがある。

この様な人達が、主の御座の近くで仕えて行く。

12節、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」

御霊の声に聞き従って行く。七つの教会に関して、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

「真っ直ぐ行き・・・向きを変えなかった」

結構、教会とかクリスチャンが向きを変えて違う方向に行ってしまうという事があるが、真っ直ぐ主の言われた方向に歩んで行くという、そういうクリスチャンを表している。

こういった人たちが、御座の近くで主に仕える、長老の歩みに入って行く。

この辺りは、我々の信仰の模範。

 

黙示録

4:8この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

4:9また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、

4:10二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

4:11「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

万物は、主によって創られる。

我々も、信仰的に言うならば、「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく創られたもの」我々も、元はダメな者だったかも知れないが、主によって、新創造された。

それは、主の御心を行なえるように、主によって創り変えられた。

万物はキリストによって創造された。

「六つの翼があり」という所に注目したい。

この箇所も、聖書の中に出て来る。

 

イザヤ書

6:1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、

6:2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、

6:3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

 

これはまさに、先程の黙示録4章に書いてある「六つの翼」の事が出て来る。

「六つの翼」の事が、まさにイザヤ書に出て来るという事は、要は、黙示録のこの箇所は、イザヤ書からの引用。

本当に黙示録4章に書いてある事柄を理解するつもりがあるなら、イザヤ書の6章の方に戻らなければならない。

ここにもまた、御座、王座 と書いてある。 

ここに座っておられる方は、他でもないイエス・キリスト。

主のキリストのあるべき姿。

尊い姿をしておられ、卑しい人の姿を取り、人の間に宿られた。

元は、主はこういう尊い姿だった。

「聖なるかな」とは、黙示録にも書かれている。

やはりここでも、イザヤが遣わされている。

 

6:8私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

6:9すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

 

ここでまた、イザヤが遣わされて行くが、その時のメッセージは、「この民に言え」という。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』

そういう意味では、イザヤが遣わされた、イスラエルの民には、こういうメッセージが働いた。しかし、同じこの箇所、イザヤ書のこの箇所、「六つの翼」の箇所が、終末に関しての黙示録4章に出て来るという事は、新約のイスラエルである、今の終末の時代のクリスチャン、教会に対しても、同じメッセージが語られている。

黙示録には記述は無いが、そのあたりは我々は、理解し、悟り、封印を開いて行かなければならない。

黙示録は親切な書ではない。 7つの封印で封じられており、放っておいたら何も分からない。なので、このメッセージは、今の教会に対するメッセージだと理解すること。

旧約のイザヤ書で終わる事ではない。

新約の中でもの言葉は何度も引用されている。

「聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。」

 

6:10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

 

自分の目で見ない。

自分の耳で聞かない。

自分の心で悟らない。

 

要するに、他人任せ。 なので、教会の牧師や教師が言ったり、また、キリスト教書店にある本に書いてある事を、すっかり鵜呑みにしてしまう。   これは問題。

今のキリスト教会もしかり。

艱難前携挙説を、本当にそうなのか、突き付けで考える人はあまりいない。

しかし、教会では牧師がそう言うし、尊敬している牧師がそう言うのだから、「腑に落ちないけれども、そうしておきましょう」とか、それが問題だという事。

今はまさに、牧師や教師が惑わされる時代なので、正しく自分の目で見て行かない限り、見るつもりが無い限りは、真実は見えてこないというのが、ここで語られているメッセージ。

その事は、見ておく。

我々レムナントがまさに直面している事。

10年以上我々は、警告をして来たが、正直、案外悟る人は少ない。

逆に、自分が、教会で聞いて来た、定番のメッセージとか、定番の教理に固執して、「レムナントはおかしい」とか、そういう反応。

しかしこれは、イザヤの時代から預言された事。   ビックリするに値しない。

しかし、そうであってもイザヤが語り続けたように、レムナントも語って行く。

その中で、僅かではあっても見る人は見るし、また、レムナントメンバーの働きに入って来る人は入って来る。 殆ど全ての人が分からなくても、僅かでも分かる人がいれば、この働きを続けて行きたい。そういうところに大きなポイントがある。

そういう意味ではまさに、「成就」している。

「自分の目で見ない」とか、「自分の耳で聞かない」という事が。