ヨハネの黙示録5章8~14         2015.12.6

 

5:8彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。

 

「香のいっぱい入った金の鉢」

黙示録は、7つの封印で封じられているので、はっきり言って親切な書ではない。

全部は説明していない。

黙示録だけ読んで、全てが分かるというのは難しい。

しかし、手を惜しまず、主の知恵を借りて、色々と参照して行くと、見えてくることがある。

ペテロの手紙の中で、「私的解釈をするな」いう事は、そのテキストからだけではなく、きちんと参照せよというニュアンスなので、参照したり、他の関連個所を見て行くというのがまさに、正しく預言を解釈する方法。

「金の鉢」という事を見たい。

金の鉢の中に「香」が入っている。

聖徒たちの祈りが、どのように用いられるかというと、

 

8:3また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。

8:4香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。

8:5それから、御使いは、その香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

 

「香」は、聖徒たちの祈り。祈りを捧げたら、「雷鳴と声といなずまと地震が起こった。」

ここで黙示録が言わんとしている事は、「聖徒たちの祈り」は、どういう祈りかというと、これは明らかに、祝福を求めた祈りではない。逆に、自分を破壊する者たちに対して、「主が正しく裁いて下さるように」という祈りであると理解出来る。

 

6:9小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

6:10彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

これが、「聖徒の祈り」

「聖徒たちの祈り」は穏やかなものではなかったり、切実なものだったりする。

神の言葉に固く立ったゆえに艱難に遭う。自分たちが建てた証のゆえに。

他の人が、「イエス・キリストはインチキだった」とか、「結婚して子供まで生んでいるくせに、十字架にかかったとか勝手に話を作っている。復活などもインチキだ」とか言ってきた時に、「我々はそうは思わない。キリストこそ、真の神から遣わされた方だ。御言葉の通り、十字架にかかり、我々の罪を贖った。」とかを証した為に、カルト扱いをうけ、いのちを失った、こういった人たちの祈りが、実は、黙示録の時代に、主が祈りに答えられ、災いを起こす。

それが、黙示録の時代に起きて来る、災いの理由。

そして「金の鉢」が、他にも出て来る。

 

15:7また、四つの生き物の一つが、永遠に生きておられる神の御怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使いに渡した。

15:8聖所は神の栄光と神の大能から立ち上る煙で満たされ、七人の御使いたちの七つの災害が終わるまでは、だれもその聖所に、はいることができなかった。

 

と書いてあるように、「神の御怒りの満ちた七つの金の鉢」

この鉢は、聖徒たちの祈りの香に満ちた、「金の鉢」に通じる。

そういう意味で、一か所だけでは分からず、あちらこちらを参照して、ストーリーが見えて来る。

金の鉢とは、「聖徒たち」、正しく主の御言葉に従って、それゆえに艱難に遭う聖徒たちの祈りに答えて、神が、地に、背教の教会に災いを下すというのが黙示録の大きなストーリー。

基本である。  この辺りはよくよく見ておく。

見事に今のキリスト教会は、真理から外れている。

基本の基本が分からない。全く他人事だと思っている。艱難の前に教会は天に上げられると思っている。

我々は、これから起きて来ることで知らなければならない事は、やはり、正しい聖徒は、これから艱難に入って行く。

その祈りに答えて、主は、黙って見ているわけではなく、災いを下したり、最後には主ご自身が、天から下って、救いに来られる。

 

ルカ

18:3その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

18:4彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

18:5どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

18:6主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

18:7まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

18:8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

 

これは再臨と関係している事。

「やもめ」は喩え。

「やもめ」というのは、地上には夫がいない女という意味。

黙示録のバビロンは違う。

「やもめではないから、悲しみを知らない」  だからダメ。

ローマ法王を、夫としてしまったりしないで、聖書にどこまでも忠実に、地上にいない夫、しかしまた、天から戻って来られる夫に忠実な女の事を「やもめ」という。

なので、正しくキリストの御言葉に留まっている人達の事。

その人達は、艱難に遭う。

艱難時代には、「私の相手をさばいて、私を守ってください。」

こう言う祈りをする時が来る。

「私の相手」というのは、例えば、ローマ・カトリック。

「イスラム教徒もヒンズー教徒も、仏教徒も手を結び、キリストのみが救いだと言わないのが正しい」

こういうのに賛成しないために、我々は艱難に遭うかも知れないが、そういう相手を「裁いて」

と、求めて祈って行く。

しかし、いきなり祈りが聞かれ無いかもしれないが、あまりにも祈りがしつこいので、不正な裁判官が、裁きをしたように、再臨されたイエス・キリストが裁きをする。

その時、地上のあらゆる種族はキリストの再臨の時に、悲しみつつその再臨を見るのは、結局は、御言葉に従わずに、正しい人を迫害したりするから、再臨が災いになるという事。

我々は、心を定めるべき。 二つ良い事はない。

風見鶏のようではダメ。

主は、速やかに裁いて下さるというのが、聖書の結論。

ルカの188節で、「あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

なので、キリストの裁きは速やか。

「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

速やかにキリストが裁きに来たはずであるが、クリスチャンの信仰が無くなるのはもっと早いと取れる。

なので我々は、「留まる」という事を、肝に銘じておく。

結構、みんな日和見。

福音書を見ても、昨日まで弟子だった人たちが、どんどん豹変し、最後には12人しか残らなかった。

そういう意味では、信仰者はどんどん減って行くという事。

我々は動揺しない。肝を固めて「そんなものだ」という、覚悟を持って歩んで行きたい。

アメリカはもちろん、日本でもどんどん状況が変わってきている。

ある議員がツイッターで、「同性愛は異常」と言ったら、あっという間にインターネットで袋叩きに遭った。

しかし聖書の言葉は変わらない。

同性愛が罪だと言われている事も変えようがないので、我々は御言葉のしもべなので、それを変えようがない。  主張を変えるつもりもない。

そういう意味では、トレンドにさといというのは必ずしもいい事ではない。

 

黙示録

5:9彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、

 

封印を解くのにふさわしい方として、「ほふられた小羊」という表現で、キリストが語っているという事は、意味のある事。

キリストに関しての称号は色々ある。

「王」「祭司であり、預言者」「人の子」とも言われている。

ここでは、「ほふられたまいし小羊」というように、ほふられるとは、いのちを失うという事。

単に小羊ではなく、ほふられた小羊すなわち、いのちを失った小羊、その事が言われている。

イエス・キリストがほふられた小羊であるが、黙示録も他の聖書も、表にも裏にも文字が書いてあるので、裏の意味合いがある。その裏の意味合いというのが、我々クリスチャンも小羊なので、そういう意味では、クリスチャンの中でも、どんどん反キリストにすり寄って行く小羊とか、そういう人には封印は開かれない。

「ほふられた」とは、明らかに殉教。

黙示録を我々が開けたらいいのだが、開かれるクリスチャンというのは、基本的にはやはり、

殉教をもいとわない歩みをして行くクリスチャン。

または、12弟子のヨハネの様に、御言葉のゆえに、パトモスに流されたという様に、御言葉のゆえに、苦難をいとわないクリスチャンには、黙示録が開かれて来る可能性がある。

逆に「キリストの為の苦難はまっぴらだ」とか「何が何でも艱難前」とか、そういうのはダメ。

そんな事を言いきってしまうと封印は開かれない。

キリストのゆえに、苦難、殉教も辞さないという歩みをしていく時に、見えて来る。

エレミヤ牧師も、御言葉のゆえに少しだが苦難に遭った。

「キリストが2回来る」という前の教団の公式教理に従わず、結果、御言葉のゆえに苦難を受けた。

すると、開かれてきた。

封印が開かれるのにふさわしい人というのは、御言葉のゆえに苦難に遭うつもりのある人。

または、少しでも受けている人は、開かれて来る。

勉強したからとか、神学に詳しいからとかではない。

 

5:10私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」

 

王国というのは、注釈では「王」と書いてある。

「王」が正しいと思う。王国ではなく「王」だから、彼らは地上を治める。

我々は、正しく歩んでいくなら、後の世で「王」となる約束がある。

主に最後まで従った11弟子もそう。

約束が与えられているという事は覚えておく。

王として大事な事は、町とか、村とか、治めるけれど、その時に大事な事柄という事を見たい。

 

ルカ

19:12それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

19:13彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

 

「王位を受けて帰るためであった。」

これは、再臨のキリスト。

その時にしもべは十ミナを一人一ミナずつ与えられた。みんな頑張るという事。

その結果、我々は王になる。

 

19:16さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』

19:17主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

 

町を支配するのだから、これは「王」

我々は、忠実に一ミナを儲けて、働きをなす時に、後の世で、王となって十の町を支配する。

我々が、小さな事にも忠実だったので、後には王となる。

これは大きい事。

我々の今の働きは、後の日に影響する。

ある人は五ミナ儲けて、五つの町を治める。

最後の人は一ミナから何も儲けなかったから、酷い目にあっている。

なので、クリスチャン生活で、我々は、お気楽な隠居生活に入るためにクリスチャンになったわけではない。

後の日に後悔しないためのおすすめは、やはり、クリスチャンになったからこそ、一生懸命働いて、何とか増やすように、頑張る。

たとえ利息1%でも頑張る。

23節にある、銀行にも預けない人はダメ。

 

19:23だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』

 

銀行に預ける事すら怠ったらやはり怒られてしまう。

銀行は、教会。

なので、働かなければいけない。

世の中で「怠け者」と言われようが、大したことではない。

しかし、後の世は永遠に続くので、一ミナを十ミナにするなどの仕事をしなければいけない。

それは、やった方がいい。

今の世の中では、食えるほどにさぼってもいいが、後の世のための働きはなしていった方がいい。

 

19:20もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。

19:21あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』19:22主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。 

19:23だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』

 

しかも、「一ミナを取り上げよ」と書いてある。

 

19:24そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』

 

さぼっていると、ろくでもない事になる。

なので、働いた方がベター。

一ミナは最低ゲットしたい。

月刊バイブルを配布したり、伝道したり、最低一人は救われるようにやっていきたい。

他の所では、5タラント持っていた者は、もう5タラントとあるように、5タラントあずかった人は、結構責任が重い。

タラントが多い人。能力が高い。

一つは、救われたら、あとは、「何もしなくていい」とかは、後の世では、その人の働きによって、受ける待遇が変わって来る。

しかもさぼり過ぎて、銀行にも預けないのは、何もしない人。

人から聞かれた時にも、何も言わない人。

思わぬところで一ミナの道が開かれるかも知れないので、ずっと隠してしまうのは、さぼっているだけ。

我々は、何とか、教会員としても、一ミナをゲットするように、出来れば十ミナくらい取れるように、あわよくば、という方向で行きたい。

最低一ミナはゲットしないとまずい。

そうすれば、我々は、主に会った時に、叱責されずに済む。

個々のクリスチャンの歩み次第で、良い報いがあったりする。

しかし、まったく口をつぐんで、しまっておくと、ろくなことにならないので、方向を転換しなければならない。

どんどん語って行く、一ミナをどんどんゲットして行く、そういう方向で行きたいと思う。

 

黙示録

5:11また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。

5:12彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 

「ほふられた小羊」と書かれている。

天において、一番栄光、力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、賛美を受けるのは、ほふられた小羊。

それぞれの世界で、褒められる人がいる。

例えばサッカーで、褒められる人は、点を入れる人。

後の世では、スケーターとか、サッカー選手よりも、ほふられた小羊に大いに栄光がある。

ほふられた小羊は、基本的に、イエス・キリストの事。

しかし、聖書には、表にも裏にも文字が書いてある。

裏の意味合いがある。 それは、小羊はキリストのみではなく、我々クリスチャンもみんな、羊。牛とか羊は、蹄が分かれ、反芻もするので聖い動物、これはクリスチャンの喩え。

その中でも、ただの羊とか、遊びまわっている羊とか、ゲームばかりやっている羊とか、酔っ払っている羊は、褒められない。

ほふられた小羊にポイントがある。 ほふられるとは、命を失う事。

明らかにこれは殉教。

「何が何でも殉教」というつもりは全くない。

個々の人の命というのは、個々の人のもの。

イエス様も、強制されて命を失ったわけではない。

御自分の意志で命を捨てられた。

ただ、後の世で受ける栄光は違うから、この事が書いてある。

表の文字ではなく裏の文字で書いてある。

そういう事を選ぶか、選ばないかは別として、知識として知っておかなければならない。

何故なら明らかに、殉教という事に、特別な誉れがある。

聖書はそういう事を語っている。

もう一つの事を語りたい。

主が言われた。「一粒の種が、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だけどもし死ねば、多くの実を結ぶようになる。」

我々の今の肉体の命は、我々はこれしか持っていないので、どう見ても、これが一番。

肉体のいのちは基本だが、聖書的に考えると、我々の命というのは、一粒の麦、一粒の種に過ぎない。

種は蒔いてなんぼ。

我々の肉体の命も、主が言われたように、種。

肉体のいのちは大事だが、聖書的な考え方をしなければならない。

肉体の命を失う。神の為に失う、種を失う。これも、失ってなんぼ。

そういったものであるという概念は覚えておく。

この世的には、また、この世についたクリスチャンには全く受け入れられない。

 

5:13また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」

5:14また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

 

御座にいます小羊に、誉れと栄光がある。