ヨハネの黙示録7章1~8         2016.1.3

 

 

 

7:1この後、私は見た。四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ、地にも海にもどんな木にも、吹きつけないようにしていた。

 

 

 

黙示録には、御使いがよく出て来る。

 

御使いはまさに、我々の信仰、教会の歩みに大いに影響を及ぼす。

 

黙示録の時代でなくてもそう。

 

御使いは、働きを担っている。

 

多くの事は、御使いによってなされている。

 

福音書でも、イエス様の父親のヨセフの夢に、御使いが現われた。

 

もう一つ知らなければならないのは、御使いは、人間にとって良い事ばかりするとも限らない。

 

ここでは、明らかに災いに関連している。

 

「風を押さえる」とは、良い意味ではない。

 

喩えの意味合いは、2節で、この四人の御使いは、「地をも海をもそこなう」、ようするに害する。そういう権威を持っている御使いなので、人間にとっては、悪い事、災いをもたらす。

 

起きて来る良い事も、災いも、御使いを通して下される。

 

1節のポイントは「四方の風を押さえる」という事。

 

「風」は喩え。   簡単に言うと、聖霊の働きをとどめていると理解出来る。

 

黙示録の時代の大きな特徴は、教会の背教のゆえに、聖霊の働きがとどめられる時代になる。

 

それはいろんな形で表現されているけれども、ここでは「風をとどめる」という表現。

 

他にも、黙示録の中ではいろんな形で表現されている。

 

テサロニケの手紙では、反キリストをとどめている者が、取り除かれるなど。

 

つまり、聖霊が、教会の中から取り除かれる。

 

そういった事は、世の終わりには頻繁に起きて来る事。

 

この事は、よくよく理解しなければならない。

 

世の終わりの一つの大きな特徴は、聖霊が枯渇して行ってしまったり、働かなくなってしまうという時代。  これは、教会の方で、花婿なるキリストと縁を切る、そんなニュアンスがある。

 

教会が背教して行く。

 

これは、盲目的な人々にとっては、増々、教会に、素晴らしい神の霊が働いて行くと見えてしまう。    ベニーヒンなどのおかしなリバイバル。

 

聖霊は、我々がどうしたら働かれるか。

 

我々が、本当に聖霊に触れるには、「水」を汲む必要がある。

 

「水」を汲むとは、ちゃんと祈りの時間をとって、地道に祈る事が正しい。

 

どこかの人の器の所へ行って「油注ぎ」をうけるというのは、間違った考え。

 

世の終わりの時は、聖霊の働きが枯渇して行く時代。

 

エリヤが喩え。エリヤが祈ると、三年半の間、雨が降らなかった。     

 

これがまさに、聖霊の働きが枯渇してしまうという事。

 

ただ、勘違いしている人がいる。「聖霊がいなくなってしまう」と。

 

飢饉でも、川の水が枯れた時でも、エリヤは、やもめを守った。

 

瓶の油は尽きなかった。  これが正しい。

 

だから、イスラエル全体が飢饉であっても、主につく預言者エリヤおよびやもめは守られた。

 

我々がやもめの歩みをして行くならば、また、仮庵の歩みをし、エリヤを助けるような歩みをして行くなら、心配することは無い。

 

たとえ艱難時代に入ろうとも、レムナントは少しも変わることは無い。

 

きちんと祈りの時間を持ち、聖書を読み込む。

 

 

 

7:2また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。

 

 

 

その後で、「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押され」ると書かれいてるが、2節で注目すべき事は、一つは、個々の部族も書かれているので、文字通りのイスラエル。

 

明らかに、旧約聖書にある十二部族。

 

それに関連して、「日の出るほう」と書かれている。

 

この部分をKJVで見ると、「日の出るほう」とは書かれていない。

 

簡単に「東」と書かれている。

 

ここは、大事なポイントなので、注目したい。

 

新改訳はなぜか、大事なポイントは変な訳になっている。

 

ここに書いてある教え、メッセージは非常に簡単。

 

聖書でいう世界の東はどこかというと、(世界の中心は、イスラエルであり、エルサレム)

 

エルサレムから東はアジア地方。

 

言わんとしている事は、イスラエル十二部族は、明らかに世界の東であるアジアとか、日本。

 

日が昇る東と言えば、基本的な概念だが、「東の方から来る」

 

そういう意味では、今、地理的には、世界の中心であるイスラエルの人達というのは、本物のユダヤ人ではないし、イスラエル人でもない。

 

しかも、ユダ族が東で印を押されるとはどういう事なのか。

 

それは、本物のユダ族が、東で印を押されるという事。

 

今、中東で、パレスチナ人を虐殺したり、高い塀を建てたりしている人達というのは、本物ではないという事を、御言葉は語っていると理解出来る。

 

御言葉は大事な事を語っている。

 

多くのクリスチャンは、自分の現在の状況と御言葉を照らし合わせて、今の時代のクリスチャンの常識、考え方を優先してしまい、御言葉を優先することに弱い。

 

だから混乱してわけが分からなくなる。

 

しかし、御言葉を優先して行くなら、明らかに東。

 

だから、東で印を押されるひとがいるという事。アジアにいる。

 

日本は東だが、ダビデ王朝の真の子孫は、日本の皇族であり、他の日本の人々はまさに、ユダの末裔だという事になるが、この御言葉とまさに一致している。

 

そういう意味では、まさに御言葉が語っている事なので、こういった事が、今のクリスチャンこそ、分からない。  盲目になっているが、御言葉が全て正しいので、こちらの方をみていきたい。

 

 

 

7:3「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。」

 

 

 

この時に印を押される。

 

額に印を押されるという事は、

 

 

 

申命記

 

6:6私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。

 

6:7これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

 

6:8これをしるしとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。

 

 

 

「記章として額の上に置きなさい。」ということ。

 

「記章」こそまさに「印」

 

額の上の印とはどういう事かというと、我々を区分する。

 

そういう意味では、クリスチャンを区分して行くという意味合いがある。

 

額の印というのは、黙示録13章で、反キリストが、人々の右手と額に印を押すと書いてあるように、反キリストの印もある。この印を受ければ滅びに入るが、ここでは神の印によって、

 

我々が入るべき天の御国に入って行くという事柄があるので、神の印を受ける事は、大いに求めて行くべき。

 

「額の印」に関連して、

 

 

 

エゼキエル書

 

9:4主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

 

9:5また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。

 

9:6年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」そこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。

 

9:7ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。

 

 

 

ここに、「額に印をつけられる」という事が書いてある。

 

まさに黙示録に書いてある「額の印」と同じ事が語られているので、明言はされていないが、

 

世の終わりにこういった事が再現される可能性がある。

 

黙示録は色々な事柄が、封印されている書物であり、そういう意味では親切な本ではない。

 

旧約を引用して、初めて意味が分かるところがある。

 

額に印をつけられるという事は、裁きを免れるという事。

 

エゼキエル書を通して語っている事は、我々が今、町で行われている

 

「エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる」、そういう人は、額に印を押される。

 

逆にエルサレムの中で行われているあらゆる災いを「全然大丈夫」とか「これはいいんじゃないか」などと言っていると、印はつけられない。逆に裁きの対象になったり、滅ぼされたり、

 

殺されてしまう事の対象になる。

 

エゼキエル書のこれらのみ言葉が、黙示録に引用されているという事は、これは再現される可能性がある。

 

聖書に書かれている範囲の警告は、受けなければならない。

 

今で言えば、教会で、同性愛が受け入れられている。

 

そういう時に我々がどの様に受けとり、感じるか、結構分かれ目になる。

 

「まあいいわ」とか「時代の流れだ」、「教会もそういうトレンドに合わせるべきだ」というように、全く悲しんでいなかったりすると、神の印が額につけられない可能性がある。

 

我々が、堅く御言葉に立って、やはり「主が同性愛はダメだとはっきり言ったのに、そういう事が守られていない、これは憂えるべき事だ」というように、我々が聖霊にあって思うようになって行ったら、やはり額に印がつけられて行く。

 

なので今の時代、特にアメリカでは、教会は変わって行くが、その時、どの様に歩むかどうかで、神の印が関わる。

 

そういう意味では、これから起きて来る、いろんな教会の変質が明らかにアメリカを起点に起きて来る。

 

それはクリスチャンに対して試験の時になる。

 

黙示録に書いてある試練とはね試験というニュアンスがある。

 

その時の試験の一つは、背教を悲しむかどうか。

 

背教のトレンドに同調しない人は少ないような気がする。

 

それは大事な額の印が押されるかどうか、分かれ目になって来る。

 

これは前もって言われているので、今からでも心に銘じておく。

 

もう一つは、黙示録73節で書かれているように、私たちが「神のしもべ達の額に」と書いてあるように、「しもべ」が印を押される。

 

これは覚えておくべき。

 

レムナントは神の憐れみにより、しもべとして歩んで行った時に、大事な事を教えられた。

 

その時に、往々にして自分の考えを優先させてしまうかも知れないが、やはり、主の御言葉を優先して行った時に、見えて来るものがある。

 

我々が、自分が王様になってしまい、自分の考えを優先するのではなく、神のしもべとして、

 

神の言葉を優先した結果、あらゆる大事な事が見えて来た。

 

ちょっとした差が大きな差になって行くので、しもべとしての歩みに大きなポイントがある。

 

 

 

黙示録

 

7:4それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 

 

 

ここに書いてある通り、世の終わりに言える事は、それまではっきりしていなかったイスラエルの民が、神の印を押されて、神の前にリバイバルされたり、神の働きを担って行くという事がある。

 

世の終わりの時の一つの大きな特徴は、今まで、いるのかいないのか分からなかった、イスラエルの子孫、日本人はユダ族の子孫だと思うが、これは、新聞でもテレビでも言われない。

 

公には認知されていない。

 

しかし、聖書に書いてある事は実現する。

 

「イスラエルの子孫のあらゆる部族が印を押されていて」と書いてある以上、一つはっきりすることは、イスラエルは、どの部族とかそういう事も含めて、どの国が、どの部族の子孫だという事が、はっきり分かって来るのではないか。

 

そうでなければこの言葉は、成就しないのではないか。

 

世の終わりの時に、イスラエルが回復し、神を、キリストを受け入れるようになるという事は、

 

聖書の中に、明確に預言されている。

 

 

 

ローマ書

 

11:23彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。

 

11:24もしあなたが、野生種であるオリーブの木から切り取られ、もとの性質に反して、栽培されたオリーブの木につがれたのであれば、これらの栽培種のものは、もっとたやすく自分の台木につがれるはずです。

 

 

 

これはイスラエルの事を言っている。

 

イスラエルは、もっとたやすく、神、聖書、キリストにくっつく様になる。

 

だから、いったん日本が、イスラエルの十二部族の子孫の一つであるとするならば、これは結構速やかに来るのではないか。  我々にとってはあり得ない事に感じる。

 

その日は早いのではないか。

 

 

 

11:25兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

 

11:26こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。

 

11:27これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

 

11:28彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。

 

11:29神の賜物と召命とは変わることがありません。

 

 

 

ここにはっきり書いてあるように、イスラエルは皆救われるという事。

 

「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時まで」という事。

 

だから異邦人の完成とは、そろそろ起きるのではないか。

 

異邦人の完成が終わって、イスラエルがみな救われる時が来る。ここは確か。

 

しかし、はっきり言って、中東のイスラエルは、偽ユダヤ人なので、その事を言っているのではない。  本物のユダヤ人の事を言っている。

 

黙示録では「東」とはっきり書いてあるので、東方のアジアに散らばっているイスラエル十二部族が、みな神の印を受けて、救われたり、キリストを知るようになるという事は、明らかに聖書は預言している。

 

日本の天皇家こそ、神が、万世一系を約束したダビデ王朝の末裔であると思っているが、必然的に、日本人は、ユダ族の末裔だという事になる。

 

もしそうであるならば、日本は、単独で一つの民族で、唯一無比の民族として、東の日本にいるわけではない。

 

具体的に言うと、韓国の人、台湾の人、中国の人は、あまり日本人と顔が変わらない。

 

区別が難しい。イスラエルは、ユダ族一つではなくて、十二部族ある。

 

ユダ族は十二部族の一つに過ぎないから、他の部族は、韓国や台湾にいそうな感じがする。

 

日本にも、韓国系の人は多い。と、いう事は兄弟である。

 

なので十二部族の一人だという可能性は大いにある。だから、そういう意味で、東の方で起きて来るという事は、信憑性が高い。

 

日本人は、個々の記憶として、自分のルーツを忘れてしまっているが、例えば大國魂神社の神輿などは、契約の箱とそっくりであるし、そもそも日本人は、何故正月に初詣でに行くのか。

 

これは聖書的なルーツとしか思えない。

 

日本の正月はまさに「過ぎ越しの祭」。 過ぎ越しの祭が行なわれるのが大晦日。寝ないで、主の為に番をすると聖書に書いてあるので、大晦日は寝ない。 日本でもそういう習慣がある。

 

ルーツは聖書にある。

 

神社の鳥居は、門柱と鴨居を組み合わせたものだから、そういう意味では、大いに、日本にそういったルーツが関係していると思う。

 

他にも、ナマハゲの祭があるが、秋田の方。そこでは包丁を持った鬼みたいな人が、子供を脅かすが、毎年行われるのをテレビで見たりして、変な祭りだと思ったが、これも聖書的にぴったりなルーツがある。

 

過ぎ越しの祭の時に、エジプトの家に、死の使いが入って行き、初子を全て打ち殺した。

 

ナマハゲが出て来るのも大晦日の夜。  過ぎ越しの夜の事。

 

そう言った意味合いでは、まさに、東の方でイスラエルの十二部族が、印を押されるというのは、日本の現状を見て見てもあり得る事なので、これから、そういう時が来る。

 

なので我々は、聖書的な対応を取って行かなければならない。

 

常識期には、日本人は、さっぱり福音には触れようとしないし、頑なな民だと正直思う。

 

しかし、聖書に書いてあるならば、そういう時が来るという事。

 

まだそれが来てないだけで、主の時には、あっさりと十四万四千人が印を押されると思う。

 

十四万四千人とはずいぶん少ないと思うが、これは象徴だと思う。

 

 

 

黙示録

 

7:5ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、

 

7:6アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、

 

7:7シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、7:8ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフの部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。

 

 

 

ここで、個々のイスラエル人が印を押されると思うので、明らかに、新約のクリスチャンの事ではなくて、旧約の個々の十二部族が、「神の約束と、召命は変わる事が無い」という事なので、たとえ遅くなったとしても、神の約束通り、イスラエルの人々は、神に立ち返る時が来るという事。 これは、我々の学びでは、出エジプト記で、ヨセフと、ヨセフを売った兄たちが会う、一つの予表ではないかと思う。

 

兄たちも悔い改めてヨセフに会う。

 

要は、尊いイエス・キリストに出会う、イスラエルの十二部族の一つの喩えではないかと思う。そして、この十二部族の中で、ユダの部族で印を押された者が一万二千人と書いてある様に、印を押される時に、ユダが筆頭の部族として、印を押される。  この事に何か意味がある。

 

十二部族の一番最後にユダが書いてあったら、韓国や台湾などにどんどんリバイバルが起きてそのおこぼれに日本が与るという感じになるが、聖書には、筆頭部族として、最初にユダが出て来る。 ここに、その日の働きを暗示しているようなものがある。

 

この日の神の働きが、アジアで現われて来ると思うが、その働きの筆頭、リーダー的な働きを日本はなすのではないかというように思う。

 

人間的な目では、今のキリスト教会の現状とか、キリストを信じないとかの状況を見ていたら、あり得ないが、神の言葉がそういう事を暗示していると思う。

 

旧約で、イスラエルが戦いに行くという時に、十二部族でどこが先頭に立つかと言えば、ユダ。注意深く旧約の読み込みを続けていれば、そういう事に気づく。

 

なのでこの時もきっとそう。 また、今までもそう。 アジアが、色々な白人の植民地だったインド、シンガポールなど、フィリピン。 けれども、日本が大戦を起こして、大東亜共和圏という事で、アジアの人達と団結して戦おうという事で、先の大戦が行なわれたが、その結果、かつての植民地支配が一掃され、アジアのあらゆる国が独立するようになった。

 

これも日本が先頭に立っている。 これは、後に起きて来る、信仰的な事柄の型ではないかと思われる。  経済的にも、日本がまずあらゆる、自動車でも、コンピューターでも、トップを取って、技術を吸収して行った。 それは、韓国や中国に広がって行ったと理解出来る。

 

そういう意味合いでは、信仰的な事柄も、起き得ると思う。

 

御言葉もそれを語っているように思うが、

 

ここでヤコブは、後の日に起こる事を語っているが、

 

 

 

創世記

 

49:1ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。

 

 

 

ここに書いてあるのは、終末の日にユダがどの様な働きをするか。

 

 

 

49:9ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。

 

 

 

と書いてあるように、「獅子」の働きをする。

 

 

 

49:10王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。

 

 

 

「王権はユダを離れず」という事なので、十二部族の中の王を持っている部族は、ユダのみ。

 

ダビデ王朝の事。    天皇家がその子孫という事があるが、単に、人間的な王がいる、という事ではないというように思う。

 

王というのは、統治したり、リードしたりする。

 

これからアジアで、イスラエル十二部族に神の働きが始まるという時に、そういった事を治めたり、リードしたりする王的な働きを、ユダがしていく可能性が大いにあるかと思う。

 

「統治者の杖はその足の間を離れることはない。」

 

統治者、杖とは、教師とかそういった事を例えると思うが、これがユダにはある。

 

「ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」

 

シロはメシヤの事。

 

メシヤをアジアの人々が受け入れる。そういった事の、働きの助けを、ユダはメインに行なって行く事が出来る。

 

 

 

49:11彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。

 

 

 

ぶどうの木とか、ろばとか雌ろばとか、ぶどう酒とか、これらはみな、聖霊の喩え。

 

神の印は、聖霊の印。

 

聖霊の働きに関連して、ユダが大活躍するという事。

 

神の働き。 十二部族が印を受けるという事に関して、明らかにユダ、日本が大きな働きをなすという事が、理解出来る。

 

 

 

49:12その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。

 

 

 

目も、葡萄酒によって見えるようになり、歯も、乳(御言葉)によって白くなる。

 

なので御言葉においても聖霊の働きと、こう言う事を見ても、ユダ=日本が筆頭、リーダー的な働きをなすという事が理解出来る。

 

このように言っていても、具体的に、どのようにして起きるのか、見当もつかない。

 

日本の、そして世界のキリスト教会の現状を見れば見るほど、「あり得ない」というように思われないでもない。

 

しかし、御言葉がそう語っていたらそうなる。

 

なので、こういった事を念頭に置いておいて、働きを続けて行きたいと思う。

 

今の現状だけを見てはいけない。

 

信仰を持って働きを進めて行きたい。

 

そういう意味では、我々レムナントも、大事な働きを担わせていただきたいと思う。