ヨブ記2章 2012.6.24

 

終末に関連してヨブ記は書かれている

 

2:1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。

2:2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」

サタンの居場所:

サタンと地上は密接に関係がある、この地上はサタンの支配下だとか、サタンの王国があるなど

だから、クリスチャンは、この地から離れる、地上の寄留者、旅人として歩む

寄留者の反対→この地に住む(英語):この世に定住する→御心は無い

 

参照 黙示録6:9,10

6:9 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

 

10節に書かれているように、地に着く人々、これは、クリスチャン(この世の考え方をするクリスチャン)のことを言われていますが、こういう人たちは、黙示録の日に災いとなる

「血の復讐をなさらないのですか」と書かれているように、神のことばに着いた人を死に至らせるようなクリスチャンのこと

 

参照 マタイ10:21

10:21 兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。

 

このことは、アメリカで実現しつつある

Ex:同性愛に関して異を唱えた人たちや路傍伝道をしていた牧師が逮捕されるなど

こういうことに同意する人たちは、まさに、「地に住む者」である

地に住む人たちが訴える日が来る、すなわち、この世の価値観で動いているクリスチャンは災い、そして、サタン的な惑わしに入っていく

神は、こういうクリスチャンを憎んでいて、徹底的に区分する

Ex:パリサイ人、律法学者

これから、この世の教えに着いたクリスチャンや牧師が、さばかれるときがくる

そういった中にあって、正しくキリストに着いていきたい

 

2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」

ヨブの苦難の理由:御言葉に書かれているように、彼の側には苦難を受ける何の理由も無い

これは艱難時代の予表

神の前に良いことをしているにもかかわらず・・・そのことで、自問自答したり自制したりする必要は無い

サタンのとんでもない申し出が神にゆるされるのが艱難時代

しかし、正しく教理を見て、御言葉にとどまる

人は周りから言われると、聞いていないようで、聞いてしまう

正しく行っているにもかかわらず、自分が間違えているのでは?と、思うときがある

しかし、自問自答したりせずに、主の言われたことに堅くとどまる

Ex:同性愛がNGなら、はっきりとNGとする

天地(教会)は変わっても、御言葉が変わることは無い

 

参照 マタイ24:35

24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません

 

その立場にとどまる、そうでないとズレる

艱難時代は正しいクリスチャンを根絶やしにするとき

実際に、そういう法律が出てくる、それで、ひっくり返されるかどうか、厳しく区分されてしまう

永遠の命を得るかどうかの大変なより分けが来るということは、正しく理解しておく

 

2:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。

2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」

サタンの第二段階の試みがゆるされた

第一は、持ち物を失った→お金、信者、名声、教会など

それらを失っても主に着いていくのか?

第二は肉体のこと

痛みや命を取られても、それでも、主に従っていくか?

艱難時代に関しては、命とか肉体の痛みの試みが、ゆるされる

2面の試みがある、そして、両面を満たして完成者となる

イエス様も名声、人々を失い、鞭打たれた、これも揺るがし

最後の最後まで、試みであるということを、正しくとらえておく、ゆえに、永遠の命を得るというのとは、とても狭い道であることが理解できる、そして、思いがけないことが来てひっくり返されないように、くれぐれも気をつけていきたい

 

参照 マタイ16:24-26

16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

16:26 人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。

 

主に従っていくときに、小手先だけではなく、永遠の命を得るか失うかが、かかわってくる、すなわち、永遠の命を得ることと、大いに関係する

もし、肉体の命を失って、永遠の命を得るなら成功

究極の選択に迫られたとき、惑わされないように気をつける

1つ得れば良し!とする

肉体の命を求めていくときに、永遠の命は危ない

これは、志の問題、そうは書いていても、いざ、そうなると間違えてしまうクリスチャンが多いので、このようなことが言われている

どちらかしか取れないのなら、永遠の命を選択していきたい

こういうことに関しての惑わしがある

 

2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」

2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。

2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。

2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」

もっとも身近な夫婦関係でも、理解されなかった、ヨブの奥さんは何もされていない

どっちがまともな信仰なのか?→奥さんではなく、ヨブのほう

ヨブは神から選ばれている

神が「この人には!」という人には、神が試練を与え、そこを経て、神の栄光を見る

悪いことをして悪いことが起きるのは、ある意味、当たり前といえば、そうかも知れない

しかし、神に見初められて、こういう類の試練があるということは正しくとらえておく

そういう試練が来たときに勘違いしないこと

神が見越していることなので、それで、神が栄光をあらわす

苦難に遭うということに関して、神からのものか、そうでないのかは、聖霊が教えてくださる

 

2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。

2:12 彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。

2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。

3章以降は、ヨブと友達の議論、それを通して、ヨブの苦難を見ていく